いやもうなんか今の気ぃして、すごいなんか興味がそられてしまったのがオラガイなんだけど。
僕いつかな、今年どっかのタイミングでマイオラガイが欲しいなと思って。
マイオラガイ?
ちょっと買えないかな、調べたことがあった。
内地の方だと、戦国時代とかのさ、なんかその戦が始まるときにオラガイでうーんみたいなやつあるよね。
あれ、海に向かってやりたいなって。
それその後何か始まる?
始まるかわかんないけど。
なんかいいなと思って、見た記憶を今思い出し。
あーそうか、オラガイを小さい頃から練習してるっていう人たちもいるんだ。
そのイベント、中祭りとか、中祭りに向けてだったかな。
各自治会が持ち回りで、各町内会が持ち回りで、この年はこの自治会が出るみたいなのがあって。
そういう繋がりが深い地域ではあるかなと思います。
なるほどね。
今の話を聞いているだけだと、激動の昭和を見るにすごい心惹かれる小学生とあんまりまだ姿が繋がらなくて。
激動の昭和を見るということにその時も意識が向いちゃうし、
今思い出せるくらい記憶してるってことは何かしらすごい強烈なんだろうなーみたいなことを思ったりもしたんだけど、
それ何なんだろうなーって今ずっと知りたいが、しかし何なんだろうみたいな。
でも周りの人はそれこそ自分の同級生とか以外はそれこそみんな昭和生まれだった。
あーなるほどね。
お兄さんもアニメの時期に昭和なので。
あー確かになるほど。
あるのかもしれないし、なんか本の中に出てくるような、自分にとって教科書の中みたいな感覚に感じるその世界を生きてた人たちが周りにいるっていうこの不思議な感覚。
今みたいにこう、一億総発信社会じゃなかったじゃない?
あの頃って本ってすごく、なんだろう、とっても自分の中でちゃんとしたものっていうイメージがあって、
そういう本とか教科書とかに書かれているようなことを体験した人たちがいるんだなーとか。
あーなるほどね。
おばあちゃんって大正生まれなの?みたいな。
大正時代っていつ?みたいな。
あー確かにね。本当そうだよね。教科書になんかすごいずっと前の方に出てくる人たちみたいな感じだもんね。
うんそうそう。
なるほどね。
そう、なんか自分の今見てる世界が本編だとするとか、そのなんだろう、前書きとか後書き?
うんうんうん。
エピローグとか感じだったのかな。
たぶんその時代のつながりみたいなのの感覚がまだできる前の素直な感想だったのかも。
今でもでもすごいなって思う。
なんか大正、今昭和、昭和生まれの方とかってもう昭和、平成、令和、令和3つ時代をまたいで生きていらっしゃる。
まあ確かに確かに。
なんかとってもすごいことだなーって思ってて。
あーまあ確かにね。
そういう人たちってどういう風に時代を表現するんだろう。昭和はこういう時代だった、平成はこうだった、もう全部を知り尽くしてる。
はいはいはい。
平成なんか丸々知り尽くしてるわけだから。
あーまあ確かになー、なるほどねー。
ちなみに結構今最近もうそういう時代みたいなもの、時代っていうもの自体に何かすごく興味が向いたり考えちゃうことってのは最近でも結構あったりするの?
そうだな、最近は時代、大きい流れだとするとそのなんか俯瞰してみることをちょっと大人になって身につけようって思っていて、
俯瞰してみるってこう、自分の目先のことだけじゃなくてもっと大きいマックロ的な視点とか、マックロミクロとかってあるけど、大きい視点で自分を見るって考えた時に、この自分が今いっぱいいっぱいしてることもその10年20年の流れの中で見たら本当にそれこそ教科書の片隅に注釈で載ってるような、この時代何々をした人がいました、何々を楽しんだ人々がいましたとか、
その中の一つでしかないんだなって思って気持ちが楽になったりとか、壮大な気分になってみたりとか、よく星空を見て自分ってちっぽけなんだって思うって言うじゃん?
これをなんか時代で感じることがある。昭和、平成、令和っていうこの時代の中で私が生きているこの何十年は本当にちっちゃいことだけど、そのなんか一歩一歩がその文化をつくっていくし、すべてではなくてもその中のどこかの色をつけてるんだろうなって思うと、
なんかね、それこそ平成だとギャルサーというサークルがありまして、ギャルがこういうパラパラという踊りを踊って楽しんでいましたとか言うのがきっとあるわけじゃん?
そうそう、とか平成ポップと言われ、ポップなグッズが流行ってとか、こういう戦隊ものがこういうのがトレンドでとかそういうのって教科書の中に書かれる。
で、その中で自分はじゃあ平成の中でそれどういうところに分類されるんだろうって、どこに自分が教科書で書かれるとしたらどんな描写をされるのかなってたまに今でもねちょっとねその時代感で言うと考えることが。
面白い。
そうそう、一日一日がこの令和の時代を刻んでるって思うと、歌詞で昔からある場所っていう曲あるよね、ハローアゲインかな、昔からある場所っていう曲で、あれの中の歌詞で衝撃だった一文があって、
それが夜の間でさえ季節は変わっていくっていうフレーズがあるんだけど、夜の間でさえ季節はってやつ、変わっていく。
サビで前のやつね。
なんかそうだよね、夜って割と一日が終わってリラックスして、あとは流れていくだけっていう感覚だけど、その時もそれこそ11月1日から2日に迫っていく、ちょっとずつ季節は変わっていくんだな、刻一刻一日一日変わっていくんだなってすごく衝撃を受けたんだけど、
全て時代にも当てはめられると思ってて、今の1日1日も令和の1日1日として刻んで刻んで、刻一刻と大きいうねりに変わっていくんだなって思ったときに、なんかすごく不思議な気持ちになったりする。
ちなみになんか今の聞いてて、それこそその、さっき自分が教科書に書かれるとしたらどんな描写がされるのかっていうことを言ってくれていたけれども、なんかこういう描写はされたくないとか、こういう描写になったらいいなみたいなものってあったりする?描写に対しての希望みたいな。
私はここがいいです、みたいなね。
なんかでも、私よりずっと後の世代の人が読むから、なんかそんなに自分が絶対これは嫌だっていうのはないんだけど、大きい流れの一つの歯車として自分もどこかにいたらいいなっていうのはすごく。
なんかこう、それこそ今何か作ったらさ、今創作したものがもしかしたらこう、ね、陶器とか作ったとするじゃん。それはほんの令和流のさ、陶器を作って、そしたらそれが1000年後にもしかしたら出土したりするのかなとか。
なるほどね。
だからその、その当時の人々の暮らしみたいな、なんで述べたかな。
はいはいはいはい。
あー面白い、確かに。
それはなんだろう。
そうだよね。
文化としてというか、あとは少しちょっと違う観点で見ると、もしかしたらちょっと悪い面に乗るかもしれないじゃん、なんか。
あーまあもちろんもちろん、それはそうだよね。
それこそ、なんかこう、まあその時の良い悪いがさ、今の良い悪いと違うかもしれないけど、
まあでもなんかその生き物として、人間という行動として、こういう、こうやる人もいました。こういう人もいましたっていうので、なんかそれが善か悪かというものじゃなくて、なんかこう、こういう生き物だよねっていう、ちょっと難しいんだけど。
アリさんがさ、アリさんが一列で列を作ってて、で、2、3匹ちょっとはぐれちゃったとして、なんかそのアリのことを悪いアリだと私たちは思わない。
あー。
あー、はぐれちゃうこともあるよねって。
はいはいはい。
アリさんあるあるだよね、みたいな感じで思うじゃない。
それは多分人も、人ってこういうとこあるよねって、なんか私が何かやらかしたとしても、なんかそういうこともやらかしちゃう生き物だよね、みたいな感じで、こう生き物論にもこう。
へー、なるほどな。
こういう生き物が時代を彩りました、みたいな。
はいはいはい。
もう全部アップのあれが、もちろん今の時代において、正当でいたい、良い道を前行していたいっていう感覚はあるんだけれど、その全部が変わっていく中で、なんかこう全部が人としての、生き物としての活動なんだなって思う瞬間があります。
なるほどねー。
なんかさっき言ってくれてた、大きい流れの一つの歯車としてどこかに入れたらいいなって言ってくれてたのを聞いて、確かにそういう考え方もあるよなと思いながら聞いていて、ていうのも、いわゆる大きい流れの中の一つの歯車にはなりたくないっていう、なりたくないっていう文脈の方が結構、世の中としては結構声がでかくなりやすいなみたいなことを思っていて。
確かに。
だから、完全に無我の境地っていうわけではメッシュ暴行みたいな感じではない。
そうなんだ、そうなんだ。でも面白いね。
聞いてる中でさ、さっきまたもう一つ歯車話の後とかに言ってくれた気がするんだけど、今創作したものが1000年後に出土したりするみたいな話をしてくれて、今ちょっと思い出していて。
確かに今、例えばこの生けしろ家としての何かしら伝統行事を一つ取り上げたときに、なんか昔のままこの行事をやるべきであるみたいな話と、でもとはいえ時代に合わせてちょっと変化してもいいんじゃないみたいな話とか、多分どっちともの話ってどんな時代も常にあり続けるような気がしていて、
それを何か変えたときに、それが良いか悪いかはようわからないというか、むしろ良いも悪いもないのかもしれなくて、意外とそこの今変えたこと、創り上げたことが何かしら数百年後、千年後とかの良い行事になっているみたいな。
たぶんエーサーとかもさ、もちろん琉球が始まった当初からあるわけじゃないじゃない。ものとして。なんか前調べてたのが、言ったっけな、何年だか忘れてたけど、エーサーも、もともとは浄土宗だから浄土神宗のお坊さんが内地から布教に来て、お盆のお祭り。
盆踊り的なものだよね。
盆踊りみたいなものがある意味、琉球、沖縄に定着していった結果、すごいそれが琉球バージョンになっていったみたいな。確かにそうだよね、そういうふうに何かしら創作したからこそ、今みんなが楽しんだり大事にしながらやってるよね、みたいなことはエーサーのことを知られるときもすごく思ったんだけど。
そうだよね、変わっていくこともそれは文化なのかなって。教科書にはこういうこうこうこうして琉球に伝わっていって、変遷していった、みたいなこの変遷していったっていう一行が加えられる。
それはもしかしたらね、100年後にはもっと継承すべき伝統禁止になっているかもしれないもんね。
確かに、やっぱり今創作したいと本当に心の底から願うことを創作できているということ自体がやっぱりもしかしたら大事なのかもなーみたいなのを聞きながら思ったかもね。
今の時代は生きてる人が作りたいものというか作り出す。だからなんか、それはどっちか一つがいいっていうわけではなくて、どっちもすごく尊いものだと思っていて、
たとえば1000年前から同じように伝わってきたっていうことのすごさも私はすごく愛しているし、そしてでもそれを少し進化させてちょっと冷房ポップしてみましたっていうのも尊いことだと私は思っていて、
どっちか一つに統合するというよりはどっちの流れもあってもいいなーっていうのはすごく思うかな。
そうかそうか、確かになるほどねー。
なんか今の聞きながら、いつだか知って面白って思ったの思い出したんだけど、仏教ってそれこそ最初お釈迦様が言ったことが悪いに原点になっていたりはするんだけど、
とはいえそれ以降の世代の人たちがガンガン変えまくってるっていう話、内容がすごい面白いなーって思いながら今すごく記憶していて、
例えばインドのお釈迦様がいた場所での、こうしたらある意味より良いですよみたいなものって、その場所っていういろんな影響を受けながら、
それを形作ってるわけだけど、例えば上半身裸でこの何日間瞑想しましょうみたいなものがあるとするんだよ。
それがある意味そのお釈迦様がいた場所ではできたかもしれないけど、インドのすごい北の方とかもはや国変わったりした時に、
いやそもそも上半身裸で数日間瞑想できるかっていうと寒すぎてできないみたいな、途中で死ぬみたいな時に、
仏教は結構そういったローカライズというか、土地だったり時代だったりとかに合わせてめっちゃ変えるっていうのがやっぱり宗教としての仏教の特徴としてあるよねと。
例えばキリスト教だと全然そういうのないから、もともとはやっぱり聖書が大事。
聖書を1本か、聖書の解釈がちょっと変わるくらい。
イエスキリストの内容がそのまま、もちろん解釈論はあるけど、やっぱりそれは仏教とは全然違うみたいな話で、
そういった仏教の適合し続けるみたいなものは今の話がすごく通ずるな。
確かにそういうふうなものが、もしかしたらこういった日本だったり、またまた沖縄みたいな場所には確かに適合しやすかったりするのかなーみたいなことはちょっと思ったりだかもしれない。
なんかその交わっていく、交わってちょっと変わっていく、なんかそれが文化っていうのはあるかもしれない。
食文化とか日本はすごく顕著だなって思うのが、なんかそれこそ発烈とかが養殖として入ってきた時に、
そしたらとんかつに行くこのワインドというか、かつれつもかつれつで尊いし、でもとんかつもとんかつで日本人に合った味って言って、
日本人に合った揚げ方でいいよね、それが日本の文化になっていく。
どっちの流派、流派というかどっちの流れもあっていいよねって、
まあ多分それってもしかしたら本当に細かく細かく分かれて、まあそれこそとんかつを受けて別の国ではとんかつが別のね、食べ物になっていくかもしれないし、
なんかそれ自体がなんか流れなのかなっていうのはすごく思ってて、
いろいろあるけど、なんかちょっと振り返れば、この道を生きてきたんだなっていう和立ち、車輪の跡ができる、それが時代かなって、
ただその時代をただ生きてきたわけではなくて、本人はねただ生きてると思っていても、それがもうこの本人の意思とか関係なくその時代の一端を作る存在だったんだよっていう感覚が最近はすごくあるなって。
なるほど。
だから自分が意図せず、それこそ今私とキタムが喋ってることも今こういうこと、まあ昔人それこそ30年前だったら考えられないことじゃんこれ。
そんな風に離れた土地でお話を。
確かに本当そうだよね。
リアルタイムでこんなことってできなかったから。
確かに。
だからその、何だろう瞬時にリアルタイムにお話ができるようになったみたいな感じで教科書にはきっと書かれる。
なるほどね、面白い。
確かに30年前オンライン通話なく電話はあっただろうが、ただやっぱり電話代とかえぐい高い時代じゃないですか。
確かに一般の人には現実的ではない。
雑談なんかで使いたいみたいなそういう。
そうだよね、だってそれこそちょっと進んで私たちの時代でも公衆電話でさ、この10円をさ大事に大事に入れてさ。
あとあれだよね。
携帯電話にかけるときは100円くらいないとダメだなとか、なんかそういう違う文化がまたこう色づいていって、それはなんか尊いなって。
確かに、だってそうだよね、我々が中高生の時とかってお互い2人で携帯が持っていても携帯の電話で話すってすごい月額費用いったじゃない、あの時代って。
そうだね、重量課金制。
そうそう、だからそれで何か数万とかになって親に怒られるみたいにずっと付出したりとか。
でもそういう時代に、これ本当に世代の人しかわかんないかもしれないけど、ウィルコムとかが登場してきたのはやっぱりそういう風な時代だから無料でできるみたいな。
そうだね、掛け放題みたいな。
掛け放題みたいなね。
それがまた今のサブスクに繋がったりとか。
ねえ、今となったらもう無料で電話するなんてLINEとかあるから普通だし。
そうだよね、なんかそこに何だろう、価値というか、価値はもちろんあるんだけど、なんか当たり前になってきた?
音楽もそうだけど、昔は音楽もすごい、なんだろう、CDを買ってないとダメだし。
本当だよね。
だしもっともっと遡ったら、なんか生演奏が史上のご褒美だったわけじゃん。
確かに確かに。
私たちの理事学、理学とかもそうだけど、奏でるということがとっても貴重なものだった。
で、それがまあ時代を変えて変わってきて、受け入れられたとか変わってきて。
だからまあこの、そうだな、人々が刻々と変わりゆくシステムを取り入れたり取り入れなかったりしながら楽しいんだ。
取り入れなかったっていうのもいいこと、いいことっていうか、それはそれで、そういう生き方っていうふうにだと思ってて。
だからその取り入れなかった人が後にコン負けして取り入れるとかもそれも文化だと思ってる。
そうだね。
LINEとかさ、最初やっぱり堅くなりにLINEをしない人とかもいて、絶対iPhoneにしない人とか。
いたいた。
私も結構ギリギリまでガラケーだった人ではあるんだけど、だけど今コン負けしてiPhoneを多かしてて。
そういうのもすごく人と、生き物として愛おしいなって思う瞬間が。
なるほどね。
でもやっぱそういうのを話してると思うね。
やっぱ改めて自分としても、もちろん好き勝手やっていいってわけじゃないけど、
それこそ例えば法律を犯すなり、人にすごく害を与えるとかはあれだけど、
そういうのはなかったときにやっぱり一人一人が本当に自分の心の底から好きだとか楽しいとか思えるものに邁進するなり作っていくみたいなことが、
なんかやり続けられることで作られていくのが文化なんだろうなみたいなことはなんかすごく文化時代なんだろうなみたいなことを思ってて。
最近読んだ本で書いてあって面白かったんだけど、
日本だと桜の花が、ちょっと沖縄の桜と若干違う桜だけど、
桜の花が咲いたということは1200年間毎年確実に記録が残ってるんだって。
あるよね。私その話好き。
それがなんかすごいいいなと思って。
でもそれと別に1200年前からだから別に何かどっかの情報機関とかシンクタンクが情報を残したわけじゃなくて、
結局日本のどっかの誰かが自分の日記とかメモとかに咲いたって書いてるみたいな。
だから1200年間咲き続けたってことがわかっているみたいな話。
それって別に、私からしたら残したいって思った人もいるかもしれないけど、数百年先とかに。
周りにもいるかもしれないけど、たぶんそういう人ばっかじゃなくて、
単に何かちょっと書いておきたかったとか、単に好きで何かちょっと振り返って、
今度また数ヶ月してから読み返そうみたいなことを持って書いてるだけかもしれない。
もしかしたら別に日記でもなくて、誰かに対しての手紙、恋組とかかもしれないけど、
なんかそういうので作られていってんだろうな、時代みたいなことはなんかちょっと、
すごく今改めてじんわり思う。
そうだね、まさにそうだなって思う。
その日記とか和歌に読んだとか、そういう残していった一つ一つの糸が、木糸が寄られて、
くるくるくるって寄られて、一本の糸になって、またそれがもっともっと積み重なって、
綱になって、太くなって、文化、世界に変わっていくんだなっていうのはすごく思うし、
なんかそれを覚えてられるのが、きっと人の嬉しいところかなって。
いいところかどうかわかんないけど、なんか嬉しいなって思う。
なんか大学の時に、時代って進んでると思いますか?って教授に問いかけられたことがある。
めっちゃ面白いね、何それすごいね。
そう、私たちは進化していると思いますか?って。
はーっと思って。進化するってなんだろう、進むって何?っていう。
なるほどね。
だから何をもって私たちは進んでいると思うのか、それが錯覚かもしれないし。
何をもって進んでいると思う?
そうそう、なんか時代は進んでいると思いますか?って言われた時、すっごいドキッとして。
でも一応その残せるということが私たち覚えてられるっていうことは、
何だろう、昔の人はこうだったらしい、だから自分はちょっとこれにプラスしてこうしようっていう、
プラスプラスプラスってできる。
プラス、時にはもしかしたら状況を考えてマイナスするとか思考錯誤を残せることを、
昔得たHに。
それがまあもしかしたら人たるゆえんなのかなーとも思うし、
人じゃなくても生き物はそれを本能でやっているのかなって。
なんかその進化していくっていうのは。
それを人はなんか割と、何だろう、手をかけて苦労しながらやっているのかもしれない。
ただそれのおかげで早いのかもね。
早いって言うか進化してないのかな、難しい。
でもそれも100年単位なのか1000年単位なのかで変わってくるし。
でもなんかその時としてその一言を今でもたまに思い出す。
すごいね、そういうの覚えてるのすごいな。
もう大学の時の先生のことは一個も覚えてないんだよな。
でも普段は忘れてるよ、私も。
そうやってこうやって今年期タイムが引き出してくれたからパッて思い出す。
なるほどね。
それとかたまに不意に思い出す。
確かに進んでいるか。
いやでもそうではない。
年数は確かに進んでいる。
でも年数は増してはいるけど進んでいるのかって言うとちょっとね、
そういうのかわかんないよね。
なんかよくあるお話で、
昔は高度な文明が発展していたがみたいな、
今は農耕生活を送っている。
そういう小説もあったりするじゃない。
それは退化したということではなくて、
人々がその時代に合わせてそれを選んだのか、
もしくは創世だろう得なかったのか、
過去に何かとても大きな事件があったとか。
ああ、そうだよね。
私たちは流れていくだけなのかな。
進む概念にすごく心を揺さぶられたことがあります。
なるほど。
ジブリのナウシカとかもそうだよね。
漫画とか映画もほらよくいろんなシーンで、