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2025-11-24 46:51

#71 『激動の昭和を見る』ーー hello, again 夜の間でさえ季節は巡っていく | ゲスト・タレント / 池城優美子さん

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前回に引き続き、タレントの池城優美子さんをお迎えして、“読みかけの本”について語り合います。
 
【今回のゲスト】

タレント / 池城優美子さん
沖縄県那覇市在住。青山学院大学卒業後、2017年に故郷沖縄へ戻り、司会業を中心に役者・モデルとしても活動。2019年よりFM那覇にてラジオ番組「Morning78」の金曜パーソナリティを務める。

琉球五大姓・池城家の長女として生まれ、「首里王府阿波連路次楽御座楽保存会」の一員として、琉球王朝時代の宮廷音楽「路次楽」「御座楽」の保存活動にも携わる。

現在はエンターテイメントチーム「多感エンターテイメント」にて、現代演劇・琉球舞踊・琉球料理を融合したイマーシブ作品「ジュリの部屋を覗き見」シリーズや、舞台「THE FINAL SECOND 〜永遠の一秒〜」などに出演している。

SNS・活動情報:https://lit.link/YuumiiiOkinawa
 
【登場した本】
『激動の昭和を見る』

サマリー

このエピソードでは、池城優美子さんがエイサーやオラガイといった伝統文化との関わりについて語り、昭和や大正の時代感について思索を深めています。彼女は、時代の移り変わりの中での自身の経験とその影響について考察しています。また、昭和時代の変動を通じて、人々がどのように生活や文化を築いてきたかを掘り下げています。特に、沖縄のエーサー文化や仏教の変遷に焦点を当て、伝統と現代の関係性を探求しています。このエピソードでは、昭和の文化や時代の進化について語り合い、人間の記憶や思考、歴史の記録について深く考察しています。また、手塚治虫の作品やジブリ映画などを通じて文明の興亡について触れ、その影響を受けた現代の価値観を探っています。池城優美子さんは昭和の激動を振り返り、自己解放のポイントについて語り、特に時代の流れに対する理解を深めることや自分を許すことの重要性に焦点を当てています。

エイサーとシシマイの思い出
その頃って、そういった自治公民館で、そういった日々を送っている子ども会で、いろんな年上の、年の近い人たちとも、子どもたちとも関わり、大人とも関わったりしている中で、
それこそ、なんかその時に、さっき漢字は好きで、みたいなのを言ってくれましたけれども、そういった人と関わるということとはまた別で、
その時期に何かすごくやっていたこととか、好きだったりとかしてたこと、どんなものがあったりしたの?
あー、熱中してたのはエイサーかもしれない。
あー、そうなんだ、その時期もあんだ。
2歳から12歳くらいまでは、地元でずっとエイサーをしてて、そのエイサーもお祭りごとにエイサーの練習をしたりするし、
そうじゃなくても、たぶん週1くらいで練習をしてて、パーランクっていう小さな太鼓から、
あとちょっと大きくなると大太鼓っていうのを任されるようになるんだけど、
その大太鼓と、で、そのセットでシシマイをさせてもらったりして、
シシマイでこう一生懸命ね、右手で前の人の腰をつかみ、左手で尻尾の動きをしながらとか、
そういうのに熱中して、自分シシマイ好きだなーとか、そういうエイサー好きだ、シシマイ好きだ、みたいなのを思ってたのは覚えてます。
なるほどね、子供たちのエイサーって、給本の近くになって練習するとかじゃなくて、年頃年中やるんだ。
年中やってるところもあるし、そういう団体もあるし、エイサー愛好会っていう小学校のサークル的なものに入ってたのもあって、
それプラスで自治会での子供会のエイサーもやる。
そうか、だから別に給本でやることだからやるとか、そういう話ではなく、なんか部活動というかサークル活動というか、
そういう感じの習い事っぽいような感じもあります。
そうそう、そんな感じで、それこそさっきヒタムがお話ししてくれた琉球王朝祭りシュリも、その頃はシュリ文化祭っていう名前だったんだけど、
それに小学生のうちは、小学生途中までかな、はエイサーで出てました、自治会で。
山川町の出身なんだけど、山川町、那覇市シュリ山川町の自治会の皆さんです、みたいな感じでパレードでエイサーをして。
途中から小学校4年生くらいから兄と一緒に、この留字学に出させていただいて、それにそこから兄は卒業、部活とかが忙しくなってそのまま卒業していったんだけど、私はそのまま残って高校生くらいまでやってた。
オラガイの経験
そうなんだ、もう小学校くらいからその音楽の方にも入っていたんだ、なるほどなるほど。
ありがたいことに、多分学校でトランペットを吹いてたのもあって、それこそクラブ活動、4年生くらいからクラブ活動が始まってトランペット吹いてたんで、
ちょっとあの吹奏楽器が留字学の中にはあるから、管楽器ということで似たようなところがあるからっていうので。
なるほどね。
自治会の行事と、それこそ那覇市の行事、那覇祭りの行事とかでオラガイ吹いたり。
オラガイ吹いたらめっちゃいいな。
それはたぶん小児とかだったかな、オラガイ。
それもうそのオラガイに関しては当日まで吹けなくて。
え、どういうこと?
吹けないから吹き真似でもいいよみたいな感じで、2人選ばれてて2人とも吹けなくて、吹き真似でもいいよという感じで、
綺麗なね、格好をしてお化粧もしてもらって参加してて、オラガイ。でも吹きたくって練習してたらなんか当日吹けるようになっちゃうみたいな。
自治会でそれでオラガイ吹けるようになった。
それから何年か後に学校のクラブでトランペット。
まあ似たようなところがあるので、吹奏楽器なので吹けるようになって。
でまたそのトランペットが吹けるからまた自治会に、自治会というか地元に戻ってきて、ルジ楽も吹くようになった。
なるほどね。
時代の流れと自己の位置づけ
いやもうなんか今の気ぃして、すごいなんか興味がそられてしまったのがオラガイなんだけど。
僕いつかな、今年どっかのタイミングでマイオラガイが欲しいなと思って。
マイオラガイ?
ちょっと買えないかな、調べたことがあった。
内地の方だと、戦国時代とかのさ、なんかその戦が始まるときにオラガイでうーんみたいなやつあるよね。
あれ、海に向かってやりたいなって。
それその後何か始まる?
始まるかわかんないけど。
なんかいいなと思って、見た記憶を今思い出し。
あーそうか、オラガイを小さい頃から練習してるっていう人たちもいるんだ。
そのイベント、中祭りとか、中祭りに向けてだったかな。
各自治会が持ち回りで、各町内会が持ち回りで、この年はこの自治会が出るみたいなのがあって。
そういう繋がりが深い地域ではあるかなと思います。
なるほどね。
今の話を聞いているだけだと、激動の昭和を見るにすごい心惹かれる小学生とあんまりまだ姿が繋がらなくて。
激動の昭和を見るということにその時も意識が向いちゃうし、
今思い出せるくらい記憶してるってことは何かしらすごい強烈なんだろうなーみたいなことを思ったりもしたんだけど、
それ何なんだろうなーって今ずっと知りたいが、しかし何なんだろうみたいな。
でも周りの人はそれこそ自分の同級生とか以外はそれこそみんな昭和生まれだった。
あーなるほどね。
お兄さんもアニメの時期に昭和なので。
あー確かになるほど。
あるのかもしれないし、なんか本の中に出てくるような、自分にとって教科書の中みたいな感覚に感じるその世界を生きてた人たちが周りにいるっていうこの不思議な感覚。
今みたいにこう、一億総発信社会じゃなかったじゃない?
あの頃って本ってすごく、なんだろう、とっても自分の中でちゃんとしたものっていうイメージがあって、
そういう本とか教科書とかに書かれているようなことを体験した人たちがいるんだなーとか。
あーなるほどね。
おばあちゃんって大正生まれなの?みたいな。
大正時代っていつ?みたいな。
あー確かにね。本当そうだよね。教科書になんかすごいずっと前の方に出てくる人たちみたいな感じだもんね。
うんそうそう。
なるほどね。
そう、なんか自分の今見てる世界が本編だとするとか、そのなんだろう、前書きとか後書き?
うんうんうん。
エピローグとか感じだったのかな。
たぶんその時代のつながりみたいなのの感覚がまだできる前の素直な感想だったのかも。
今でもでもすごいなって思う。
なんか大正、今昭和、昭和生まれの方とかってもう昭和、平成、令和、令和3つ時代をまたいで生きていらっしゃる。
まあ確かに確かに。
なんかとってもすごいことだなーって思ってて。
あーまあ確かにね。
そういう人たちってどういう風に時代を表現するんだろう。昭和はこういう時代だった、平成はこうだった、もう全部を知り尽くしてる。
はいはいはい。
平成なんか丸々知り尽くしてるわけだから。
あーまあ確かになー、なるほどねー。
ちなみに結構今最近もうそういう時代みたいなもの、時代っていうもの自体に何かすごく興味が向いたり考えちゃうことってのは最近でも結構あったりするの?
そうだな、最近は時代、大きい流れだとするとそのなんか俯瞰してみることをちょっと大人になって身につけようって思っていて、
俯瞰してみるってこう、自分の目先のことだけじゃなくてもっと大きいマックロ的な視点とか、マックロミクロとかってあるけど、大きい視点で自分を見るって考えた時に、この自分が今いっぱいいっぱいしてることもその10年20年の流れの中で見たら本当にそれこそ教科書の片隅に注釈で載ってるような、この時代何々をした人がいました、何々を楽しんだ人々がいましたとか、
その中の一つでしかないんだなって思って気持ちが楽になったりとか、壮大な気分になってみたりとか、よく星空を見て自分ってちっぽけなんだって思うって言うじゃん?
これをなんか時代で感じることがある。昭和、平成、令和っていうこの時代の中で私が生きているこの何十年は本当にちっちゃいことだけど、そのなんか一歩一歩がその文化をつくっていくし、すべてではなくてもその中のどこかの色をつけてるんだろうなって思うと、
なんかね、それこそ平成だとギャルサーというサークルがありまして、ギャルがこういうパラパラという踊りを踊って楽しんでいましたとか言うのがきっとあるわけじゃん?
そうそう、とか平成ポップと言われ、ポップなグッズが流行ってとか、こういう戦隊ものがこういうのがトレンドでとかそういうのって教科書の中に書かれる。
で、その中で自分はじゃあ平成の中でそれどういうところに分類されるんだろうって、どこに自分が教科書で書かれるとしたらどんな描写をされるのかなってたまに今でもねちょっとねその時代感で言うと考えることが。
面白い。
そうそう、一日一日がこの令和の時代を刻んでるって思うと、歌詞で昔からある場所っていう曲あるよね、ハローアゲインかな、昔からある場所っていう曲で、あれの中の歌詞で衝撃だった一文があって、
それが夜の間でさえ季節は変わっていくっていうフレーズがあるんだけど、夜の間でさえ季節はってやつ、変わっていく。
サビで前のやつね。
なんかそうだよね、夜って割と一日が終わってリラックスして、あとは流れていくだけっていう感覚だけど、その時もそれこそ11月1日から2日に迫っていく、ちょっとずつ季節は変わっていくんだな、刻一刻一日一日変わっていくんだなってすごく衝撃を受けたんだけど、
全て時代にも当てはめられると思ってて、今の1日1日も令和の1日1日として刻んで刻んで、刻一刻と大きいうねりに変わっていくんだなって思ったときに、なんかすごく不思議な気持ちになったりする。
ちなみになんか今の聞いてて、それこそその、さっき自分が教科書に書かれるとしたらどんな描写がされるのかっていうことを言ってくれていたけれども、なんかこういう描写はされたくないとか、こういう描写になったらいいなみたいなものってあったりする?描写に対しての希望みたいな。
私はここがいいです、みたいなね。
なんかでも、私よりずっと後の世代の人が読むから、なんかそんなに自分が絶対これは嫌だっていうのはないんだけど、大きい流れの一つの歯車として自分もどこかにいたらいいなっていうのはすごく。
なんかこう、それこそ今何か作ったらさ、今創作したものがもしかしたらこう、ね、陶器とか作ったとするじゃん。それはほんの令和流のさ、陶器を作って、そしたらそれが1000年後にもしかしたら出土したりするのかなとか。
なるほどね。
だからその、その当時の人々の暮らしみたいな、なんで述べたかな。
はいはいはいはい。
あー面白い、確かに。
それはなんだろう。
そうだよね。
文化としてというか、あとは少しちょっと違う観点で見ると、もしかしたらちょっと悪い面に乗るかもしれないじゃん、なんか。
あーまあもちろんもちろん、それはそうだよね。
それこそ、なんかこう、まあその時の良い悪いがさ、今の良い悪いと違うかもしれないけど、
まあでもなんかその生き物として、人間という行動として、こういう、こうやる人もいました。こういう人もいましたっていうので、なんかそれが善か悪かというものじゃなくて、なんかこう、こういう生き物だよねっていう、ちょっと難しいんだけど。
アリさんがさ、アリさんが一列で列を作ってて、で、2、3匹ちょっとはぐれちゃったとして、なんかそのアリのことを悪いアリだと私たちは思わない。
あー。
あー、はぐれちゃうこともあるよねって。
はいはいはい。
アリさんあるあるだよね、みたいな感じで思うじゃない。
それは多分人も、人ってこういうとこあるよねって、なんか私が何かやらかしたとしても、なんかそういうこともやらかしちゃう生き物だよね、みたいな感じで、こう生き物論にもこう。
へー、なるほどな。
こういう生き物が時代を彩りました、みたいな。
はいはいはい。
もう全部アップのあれが、もちろん今の時代において、正当でいたい、良い道を前行していたいっていう感覚はあるんだけれど、その全部が変わっていく中で、なんかこう全部が人としての、生き物としての活動なんだなって思う瞬間があります。
なるほどねー。
なんかさっき言ってくれてた、大きい流れの一つの歯車としてどこかに入れたらいいなって言ってくれてたのを聞いて、確かにそういう考え方もあるよなと思いながら聞いていて、ていうのも、いわゆる大きい流れの中の一つの歯車にはなりたくないっていう、なりたくないっていう文脈の方が結構、世の中としては結構声がでかくなりやすいなみたいなことを思っていて。
確かに。
昭和の文化と個人の感覚
時代としてもその歯車みたいなものに、例えば組織の中で社員として働いている歯車になりたくないとか、それは嫌じゃないみたいな。
それってどっちかというと歯車に対してのネガティブというか、印象みたいなものって社会的にあったりするのかなーみたいなことをなんとなく今聞きながら思ったけど、今言ってくれた通り、確かに大きい流れの一つの歯車としてどこかに入れたらいいなっていう、それがいいなっていうふうに今思ってるっていうのが、なんかすごく面白いなみたいなことをすごく思っていて。
なんか極論さ、歯車になってならないぜみたいな言う人がいるのもそれはそれなのかわかる?
うんうん。
それってえびこ的にはなんでそういうふうな感覚を持っているのか、どういうところからそれを感じてるんだろうなーみたいなのは、なんか今すごい興味津々な感じが。
なんかそう言われてハッとしたかも。確かにそうだよね、なんか歯車になりたくないみたいなのもあるし、全然その気持ちもわかる。
そう思っていろいろ頑張って自分で人生を輝かしたのも、その人の人生もその大きい時代のたくさん寄られていった糸の一本でしかないなってすごく思ってて。
なんかそういう人がいましたっていう、なんだろう、もちろん教科書でさ名前を残すみたいな、後世に名を残すみたいなのはあるし、
それが、そうだな、おうちの繁栄としてはやっぱり名誉なことっていう文化、そういう生き物じゃんって考える。
そういうのがいいとされる生き物だよねって感覚。
例えばライオンとかの群れでさ、群れで狩りをするのがいいとする生き物だよねって。
でも私たち人間からしたら別にライオンがさ、群れで狩りをしようがさ、一人で狩りをしてようがさ、もう別にどっちかが悪いとか思わないし、どっちかがより輝いて見えるってことはないじゃん。
だから、なんだろう、あんまり、もちろん自分のおうち、結構伝統行事とか残ってるおうちなので、自分のおうちをしっかり残していきたいとか、そういうのはある。
個人的には歯車になりたくないじゃなくて、そのおうちが受け継がれてきたものを次の世代にバトンタッチしたいっていう気持ちはある。
なんか難しいときっての。生けしろいっ子じゃなくてもいいけど、生けしろ家は残していきたいみたいな、そういうのもある。
なるほどね。
エーサーと伝統の変遷
だから、完全に無我の境地っていうわけではメッシュ暴行みたいな感じではない。
そうなんだ、そうなんだ。でも面白いね。
聞いてる中でさ、さっきまたもう一つ歯車話の後とかに言ってくれた気がするんだけど、今創作したものが1000年後に出土したりするみたいな話をしてくれて、今ちょっと思い出していて。
確かに今、例えばこの生けしろ家としての何かしら伝統行事を一つ取り上げたときに、なんか昔のままこの行事をやるべきであるみたいな話と、でもとはいえ時代に合わせてちょっと変化してもいいんじゃないみたいな話とか、多分どっちともの話ってどんな時代も常にあり続けるような気がしていて、
それを何か変えたときに、それが良いか悪いかはようわからないというか、むしろ良いも悪いもないのかもしれなくて、意外とそこの今変えたこと、創り上げたことが何かしら数百年後、千年後とかの良い行事になっているみたいな。
たぶんエーサーとかもさ、もちろん琉球が始まった当初からあるわけじゃないじゃない。ものとして。なんか前調べてたのが、言ったっけな、何年だか忘れてたけど、エーサーも、もともとは浄土宗だから浄土神宗のお坊さんが内地から布教に来て、お盆のお祭り。
盆踊り的なものだよね。
盆踊りみたいなものがある意味、琉球、沖縄に定着していった結果、すごいそれが琉球バージョンになっていったみたいな。確かにそうだよね、そういうふうに何かしら創作したからこそ、今みんなが楽しんだり大事にしながらやってるよね、みたいなことはエーサーのことを知られるときもすごく思ったんだけど。
そうだよね、変わっていくこともそれは文化なのかなって。教科書にはこういうこうこうこうして琉球に伝わっていって、変遷していった、みたいなこの変遷していったっていう一行が加えられる。
それはもしかしたらね、100年後にはもっと継承すべき伝統禁止になっているかもしれないもんね。
確かに、やっぱり今創作したいと本当に心の底から願うことを創作できているということ自体がやっぱりもしかしたら大事なのかもなーみたいなのを聞きながら思ったかもね。
今の時代は生きてる人が作りたいものというか作り出す。だからなんか、それはどっちか一つがいいっていうわけではなくて、どっちもすごく尊いものだと思っていて、
たとえば1000年前から同じように伝わってきたっていうことのすごさも私はすごく愛しているし、そしてでもそれを少し進化させてちょっと冷房ポップしてみましたっていうのも尊いことだと私は思っていて、
どっちか一つに統合するというよりはどっちの流れもあってもいいなーっていうのはすごく思うかな。
そうかそうか、確かになるほどねー。
なんか今の聞きながら、いつだか知って面白って思ったの思い出したんだけど、仏教ってそれこそ最初お釈迦様が言ったことが悪いに原点になっていたりはするんだけど、
とはいえそれ以降の世代の人たちがガンガン変えまくってるっていう話、内容がすごい面白いなーって思いながら今すごく記憶していて、
例えばインドのお釈迦様がいた場所での、こうしたらある意味より良いですよみたいなものって、その場所っていういろんな影響を受けながら、
それを形作ってるわけだけど、例えば上半身裸でこの何日間瞑想しましょうみたいなものがあるとするんだよ。
それがある意味そのお釈迦様がいた場所ではできたかもしれないけど、インドのすごい北の方とかもはや国変わったりした時に、
いやそもそも上半身裸で数日間瞑想できるかっていうと寒すぎてできないみたいな、途中で死ぬみたいな時に、
仏教は結構そういったローカライズというか、土地だったり時代だったりとかに合わせてめっちゃ変えるっていうのがやっぱり宗教としての仏教の特徴としてあるよねと。
例えばキリスト教だと全然そういうのないから、もともとはやっぱり聖書が大事。
聖書を1本か、聖書の解釈がちょっと変わるくらい。
イエスキリストの内容がそのまま、もちろん解釈論はあるけど、やっぱりそれは仏教とは全然違うみたいな話で、
そういった仏教の適合し続けるみたいなものは今の話がすごく通ずるな。
確かにそういうふうなものが、もしかしたらこういった日本だったり、またまた沖縄みたいな場所には確かに適合しやすかったりするのかなーみたいなことはちょっと思ったりだかもしれない。
なんかその交わっていく、交わってちょっと変わっていく、なんかそれが文化っていうのはあるかもしれない。
食文化とか日本はすごく顕著だなって思うのが、なんかそれこそ発烈とかが養殖として入ってきた時に、
そしたらとんかつに行くこのワインドというか、かつれつもかつれつで尊いし、でもとんかつもとんかつで日本人に合った味って言って、
日本人に合った揚げ方でいいよね、それが日本の文化になっていく。
どっちの流派、流派というかどっちの流れもあっていいよねって、
まあ多分それってもしかしたら本当に細かく細かく分かれて、まあそれこそとんかつを受けて別の国ではとんかつが別のね、食べ物になっていくかもしれないし、
なんかそれ自体がなんか流れなのかなっていうのはすごく思ってて、
いろいろあるけど、なんかちょっと振り返れば、この道を生きてきたんだなっていう和立ち、車輪の跡ができる、それが時代かなって、
ただその時代をただ生きてきたわけではなくて、本人はねただ生きてると思っていても、それがもうこの本人の意思とか関係なくその時代の一端を作る存在だったんだよっていう感覚が最近はすごくあるなって。
なるほど。
だから自分が意図せず、それこそ今私とキタムが喋ってることも今こういうこと、まあ昔人それこそ30年前だったら考えられないことじゃんこれ。
そんな風に離れた土地でお話を。
確かに本当そうだよね。
リアルタイムでこんなことってできなかったから。
確かに。
だからその、何だろう瞬時にリアルタイムにお話ができるようになったみたいな感じで教科書にはきっと書かれる。
なるほどね、面白い。
確かに30年前オンライン通話なく電話はあっただろうが、ただやっぱり電話代とかえぐい高い時代じゃないですか。
確かに一般の人には現実的ではない。
雑談なんかで使いたいみたいなそういう。
そうだよね、だってそれこそちょっと進んで私たちの時代でも公衆電話でさ、この10円をさ大事に大事に入れてさ。
あとあれだよね。
携帯電話にかけるときは100円くらいないとダメだなとか、なんかそういう違う文化がまたこう色づいていって、それはなんか尊いなって。
確かに、だってそうだよね、我々が中高生の時とかってお互い2人で携帯が持っていても携帯の電話で話すってすごい月額費用いったじゃない、あの時代って。
そうだね、重量課金制。
そうそう、だからそれで何か数万とかになって親に怒られるみたいにずっと付出したりとか。
でもそういう時代に、これ本当に世代の人しかわかんないかもしれないけど、ウィルコムとかが登場してきたのはやっぱりそういう風な時代だから無料でできるみたいな。
そうだね、掛け放題みたいな。
掛け放題みたいなね。
それがまた今のサブスクに繋がったりとか。
ねえ、今となったらもう無料で電話するなんてLINEとかあるから普通だし。
そうだよね、なんかそこに何だろう、価値というか、価値はもちろんあるんだけど、なんか当たり前になってきた?
音楽もそうだけど、昔は音楽もすごい、なんだろう、CDを買ってないとダメだし。
本当だよね。
だしもっともっと遡ったら、なんか生演奏が史上のご褒美だったわけじゃん。
確かに確かに。
私たちの理事学、理学とかもそうだけど、奏でるということがとっても貴重なものだった。
で、それがまあ時代を変えて変わってきて、受け入れられたとか変わってきて。
だからまあこの、そうだな、人々が刻々と変わりゆくシステムを取り入れたり取り入れなかったりしながら楽しいんだ。
取り入れなかったっていうのもいいこと、いいことっていうか、それはそれで、そういう生き方っていうふうにだと思ってて。
だからその取り入れなかった人が後にコン負けして取り入れるとかもそれも文化だと思ってる。
そうだね。
LINEとかさ、最初やっぱり堅くなりにLINEをしない人とかもいて、絶対iPhoneにしない人とか。
いたいた。
私も結構ギリギリまでガラケーだった人ではあるんだけど、だけど今コン負けしてiPhoneを多かしてて。
そういうのもすごく人と、生き物として愛おしいなって思う瞬間が。
なるほどね。
でもやっぱそういうのを話してると思うね。
やっぱ改めて自分としても、もちろん好き勝手やっていいってわけじゃないけど、
それこそ例えば法律を犯すなり、人にすごく害を与えるとかはあれだけど、
そういうのはなかったときにやっぱり一人一人が本当に自分の心の底から好きだとか楽しいとか思えるものに邁進するなり作っていくみたいなことが、
なんかやり続けられることで作られていくのが文化なんだろうなみたいなことはなんかすごく文化時代なんだろうなみたいなことを思ってて。
最近読んだ本で書いてあって面白かったんだけど、
日本だと桜の花が、ちょっと沖縄の桜と若干違う桜だけど、
桜の花が咲いたということは1200年間毎年確実に記録が残ってるんだって。
あるよね。私その話好き。
それがなんかすごいいいなと思って。
でもそれと別に1200年前からだから別に何かどっかの情報機関とかシンクタンクが情報を残したわけじゃなくて、
結局日本のどっかの誰かが自分の日記とかメモとかに咲いたって書いてるみたいな。
だから1200年間咲き続けたってことがわかっているみたいな話。
それって別に、私からしたら残したいって思った人もいるかもしれないけど、数百年先とかに。
周りにもいるかもしれないけど、たぶんそういう人ばっかじゃなくて、
単に何かちょっと書いておきたかったとか、単に好きで何かちょっと振り返って、
今度また数ヶ月してから読み返そうみたいなことを持って書いてるだけかもしれない。
昭和と文化の進化
もしかしたら別に日記でもなくて、誰かに対しての手紙、恋組とかかもしれないけど、
なんかそういうので作られていってんだろうな、時代みたいなことはなんかちょっと、
すごく今改めてじんわり思う。
そうだね、まさにそうだなって思う。
その日記とか和歌に読んだとか、そういう残していった一つ一つの糸が、木糸が寄られて、
くるくるくるって寄られて、一本の糸になって、またそれがもっともっと積み重なって、
綱になって、太くなって、文化、世界に変わっていくんだなっていうのはすごく思うし、
なんかそれを覚えてられるのが、きっと人の嬉しいところかなって。
いいところかどうかわかんないけど、なんか嬉しいなって思う。
なんか大学の時に、時代って進んでると思いますか?って教授に問いかけられたことがある。
めっちゃ面白いね、何それすごいね。
そう、私たちは進化していると思いますか?って。
はーっと思って。進化するってなんだろう、進むって何?っていう。
なるほどね。
だから何をもって私たちは進んでいると思うのか、それが錯覚かもしれないし。
何をもって進んでいると思う?
そうそう、なんか時代は進んでいると思いますか?って言われた時、すっごいドキッとして。
でも一応その残せるということが私たち覚えてられるっていうことは、
何だろう、昔の人はこうだったらしい、だから自分はちょっとこれにプラスしてこうしようっていう、
プラスプラスプラスってできる。
プラス、時にはもしかしたら状況を考えてマイナスするとか思考錯誤を残せることを、
昔得たHに。
それがまあもしかしたら人たるゆえんなのかなーとも思うし、
人じゃなくても生き物はそれを本能でやっているのかなって。
なんかその進化していくっていうのは。
それを人はなんか割と、何だろう、手をかけて苦労しながらやっているのかもしれない。
ただそれのおかげで早いのかもね。
早いって言うか進化してないのかな、難しい。
でもそれも100年単位なのか1000年単位なのかで変わってくるし。
でもなんかその時としてその一言を今でもたまに思い出す。
すごいね、そういうの覚えてるのすごいな。
もう大学の時の先生のことは一個も覚えてないんだよな。
でも普段は忘れてるよ、私も。
そうやってこうやって今年期タイムが引き出してくれたからパッて思い出す。
なるほどね。
それとかたまに不意に思い出す。
確かに進んでいるか。
いやでもそうではない。
年数は確かに進んでいる。
でも年数は増してはいるけど進んでいるのかって言うとちょっとね、
そういうのかわかんないよね。
なんかよくあるお話で、
昔は高度な文明が発展していたがみたいな、
今は農耕生活を送っている。
そういう小説もあったりするじゃない。
それは退化したということではなくて、
人々がその時代に合わせてそれを選んだのか、
もしくは創世だろう得なかったのか、
過去に何かとても大きな事件があったとか。
ああ、そうだよね。
私たちは流れていくだけなのかな。
進む概念にすごく心を揺さぶられたことがあります。
なるほど。
ジブリのナウシカとかもそうだよね。
漫画とか映画もほらよくいろんなシーンで、
手塚治虫と文明の興亡
昔高度な文明があってそれが滅びたみたいな。
ところが結構ナウシカの時代、
その中で結構描かれるようなことが思うし、
そこで最近まさに沖縄でいる時にすごく読んでたんだけど、
手塚治虫さんの木の鳥を結構読んでたのよ。
でも沖縄県立図書館で読んでて、
ちなみに持ち出し禁止でさ、
その場で読むんですね。
手塚治虫さんの本は今、
結構倫理上今に適合しない発言が多すぎて、
持ち出し禁止になってて、
それで木の鳥すごい長いからさ、
これ借りてけないの大変みたいなことを見ながら読みに行ったんだけど、
木の鳥の中、木の鳥って読んだことある?
ある。でもちっちゃい頃だな、それこそ読みかけくらいの感じ。
小学校の図書館とかにもあったかなみたいな気はしたりするんだけど、
家にあった。
あったそうそう、あれって霊名編とか未来編みたいな、
大体何個か編が6つあって、
全部過去から未来行ったり来たりするような、
どのシーンにも木の鳥が出てくるんだけど、
その木の鳥読んでてすごくなんか、
僕も小学校の時に読んだかなって気がして、
それ以来全然読んだことなくて、
内容はそんなにもう記憶しなかったんだけど、
同じ感じだ。
見てみた時にすごい衝撃を受けて、
みんな売ってる本だし見れるから言ってもいいと思うんだけど、
霊名編で過去に行って未来編で2つ目、未来に行って、
それが終わるとまた次、過去に行くの。
要するにそれって、
一回本当に文明が高度になりきった時に、
全部文明が終了して、
また原始時代みたいに戻るのよ。
それを繰り返してるみたいなものが、
ひなとび物語の大きなフレームの一つとしてあって、
見てみた時には確かに、
ナウシカとかでもあったけども、
一回文明が高度になりすぎた結果、
それが全部崩壊して、
すべてが原初に戻るみたいなことが起きるかもしれないな、
みたいなことをすごく思いながらそれを読んでいて、
今の話とすごい感覚的につながってさ、
確かにそれが進んでるかどうかというと、
進んでるような気もするし退化してるような気もするし、
でもそれどっちでもない、
どっちともんみたいな感じ。
そうだね、
なんだろう、進んでる戻る、進む戻るって、
それこそ、
昔たぶんりんりんの授業とかでやった、
この万物は留天する。
はいはいはい。
ギリシアあたりの哲学者の方、ヘラクエティスト。
そうだね、万物留天するっていう、
なんかこう、
だからなんか進むとか戻るっていう概念はもはや、
みたいな。
確かに。
あるかもしれない。
ふんふんふんふん。
我々は同じ川に2度入ることはできない、
みたいな。
そうだよね、川って流れてくから、
そうか、今入ったとしてももう、
それこそ刻一刻と、
新しい水が来て、
うんうんうん。
なんかそれを考えると、
なんかちょっと壮大になっちゃったけど、
でもそれを個人に収束させるとすると、
なんか私ってもっと自由に動いていいんだって、
ははははは。
だからもうなんか私がここでなんか、
右手を挙げようが、
左手を挙げようが、
なんかそれはその時代の中の一項であって、
右手を挙げたから、
松田山で避難されるわけじゃない。
ははははは、確かに。
もっとなんか、自由に動いていいんだっていう、
免罪婦にしてることがある。
あー、なるほど。
いやでもまあ、そう思うな。
そうだよね。
なるほどね。
これ僕好きな話なんだけど、
ダーウィンの進化論ってあるじゃない。
はいはいはい。
ダーウィンさんが書いた本、
論文だけども、
あれって日本語訳で進化論って言われてる。
けれども、
でもあれって要するに、
どんどんどんどん人間は、
人間動物は、
進化し続ける。それはより良くなり続けているんだ。
みたいな風に結構見られがちだと。
でもダーウィンさんの本来の意図、
趣旨としては、
別に、
どんどんより良くなってるとかじゃなくて、
ただ変わってるだけである。
だから本人としては、
進化じゃなくて進歩。
ただ歩いてるだけであるっていう、
ことを言いたかったのに、
それがやっぱ時代の、
結構戦争とかでいろんなものに紐付けられてさ、
それこそ、
より良い人種は何か、
みたいな話とかに。
プロパタンダにね。
紐付けられちゃって、
完全に進化という文脈になりきっちゃったんだけど、
本人としては、
そういう話じゃなくて、
ただただ変わっているだけである。
良いとか悪いとかっていうことは、
本人として意図としなかったらしくて、
そこまでそういう時代によって、
そういう話になってしまった。
みたいな話があって、
確かにそれって、
現代の価値観と進化論
変わってるから全部より良くなってるとか、
より、
今みたいに、
良くなってるというわけじゃなくて、
ただ変化が起きているだけであり、
それ以上でも以下でもないみたいな、
感じだよな、
みたいなのは、
今の話から想起するね。
そうだよね。
海にいるから泳げるようになっただけで、
陸にいるから歩けるようにしただけ、
みたいな。
それがどっちが優位とか、
どっちが進んでるとか、
そんな重要なことではない。
というか、
中学校くらいで、
淘汰されるみたいな、
自然淘汰みたいな、
概念を学んで、
それも、
生き物として、
本能で淘汰して、
適応しないものが排除されていくとか、
自然に消滅していく、
それは、
それで流れ、
敵者生存で、
生存できなかった個体も、
きっとね、いるんだよね。
そのままその台で捨てた人たち。
だから、
空を飛べるようになって、
餌を食べれるようになった、
鳥たちと、
空は飛べなくて、
そのままその台は終わった人たち。
だけど次の台、足が生えて、
陸で早く走れるようになった。
本当に、ただ変化っていうのはすごく、
多いな。
めっちゃ壮大な話になっちゃった。
すごいね。
こんな話すると思ったかったけど。
この前会った時とか、
本当にどっちかっていうと、
こういう話をしないわけじゃないけど、
どっちかっていうと、
このアイスめっちゃうまいね、
みたいな話ばっかしてた。
繰り幅?
このバナナケーキ、
今度お店行くわ、
あの後行ったんだけどさ。
ちなみに、
もう結構いい時間になっちゃったな、
みたいなことを思っているんだけども、
さっき出してくれていた、
自分が教科書に書かれるとしたら、
どんな描写されるのかっていう、
問い、テーマ、
話し出してくれたけども、
今改めて感じてみると、
どんな風に描写されそうな気がする?
そうだな。
話してて思ったのが、
さっきの口から出たフレーズで、
刻々と変わりゆくシステムを
取り入れたり取り入れなかったり
っていう話をしたけど、
今の時代っていうなら、
私はきっと、
あれだな、
ラジオでお話ししてる写真を
切り抜いてもらって、
それで、
人々は電波やインターネットを使った
相互的な交流を楽しんだ、
みたいな。
その辺に載せてもらえたらいいな、
その辺に載せてもらえたらいいな、
って思いました。
面白い。
そのまたチョイスも面白い。
なるほどね。
それが載れたら嬉しいなってちょっと
思いました。
嬉しいんだね。
確かに嬉しいってなんか不思議だね。
なんで嬉しいかちょっと分かんないけど。
めっちゃいいね。
それが載るかなって思うのも
そうだなって思ったけど、
それが嬉しいっていう感情に至るっていうのは
確かに。
そうだね。
ありがとうございます。
そんなこんなに1時間ちょっとぐらい
お話をさせてもらって
おりまして、いい時間なのでそろそろ
昭和の激動と自己解放
終わりに向かっていこうかなと思っている
んだけれども、
毎度この番組
やって終わるタイミングで、
過去回
聞いてくれてたので、
もしかしたらもう聞いていたかもしれないけども、
最後ちょっとゲストの方に
今日の内容を
踏まえてでも踏まえなくてもいいんだけれども、
何か改めて今ちょっと考えてみたい
問いみたいなものを
一つ言葉にしてもらって終わっていく。
さっきの問いとかもちろんいいんだけれども、
何か一つ置いて終わっていくってことを
毎回しておりますと。
リスターの方々が何かしら
自分の中で考える持ち帰る
材料になっても面白いなと思うし、
またまたこの内容を
半年とか1年後ぐらいに
また自分自身で考えるみたいな
きっかけになるかもしれないし、
同時にしても面白いなと思っていて、
毎回やってるんだけど、
何か今ご自身の中で出てくる、
湧いてくる問いみたいなのはありますか?
2つあるかもしれない。
1つは
今お話ししてきた
時代の
話で、
自分が今いる時代に
キャッチフレーズをつけるなら
なんていうかなって。
最初のね、
最初の話から
っていうのと、
もう1つはお話ししていく中で、
今度たくさんね、
時代の流れがとかうねりがとか
お話ししてきたけど、
それを自分と対比して
考えた時に
こんなに
たくさんの流れの中で、
私がちょっとヘマをしても大丈夫だ!
私がちょっとくらい悩んでても
ちょっと休んでも大丈夫だ!
安心できるポイントをすごく
見つけてるなっていうのがあったから。
だから皆さんと
一緒に考えたいとか問いかけ
あなたが
あなたを解放できるポイントは?
っていう。
なるほど。
自分がこれでいいんだって思える
ポイント。
どんなところが
上がってくるのかなっていうのをちょっと思いました。
なるほど。
自分自身を許せるポイント。
私ここに存在してもいいんだ。
私これでいいんだって思える
ポイントを見つけたいなって。
いっぱい。
いっぱい1個じゃないかもしれない。
ありがとうございます。
2つ言ってください。
改めて言ってみると、
1つ目が自分が今いる時代に
キャッチフレーズをつけるならなんでつける?
っていう話。
もう1つというのか、もう2つというのかは
あなたが
あなたを解放できるポイントは
および自分自身を許せるポイントって
なんだろうみたいな話。
非日常的な空間での対話
そっか。
ありがとうございます。
そんなこんなで1時間
今日話してきましたけど、今日はいかがでしたか?
とっても
シャボン玉の中に
いるみたいだった。
スパンっていったら切り離された
非日常な空間で
なかなか
普段いっぱいいっぱいで洗い物しなきゃとか
あの作業しなきゃ
目の前のことをこなすじゃん。
それから一旦離れて
何も気にせず
自分が思っていることをポロポロっと
ツラツラ話せるっていうのが
自分の中でも
癒しでした。
そうでしたか。ありがとうございます。
ありがとうございます。
シャボン玉ってのは初めての
感覚だし
今フィーリングがね
頭にあかんじゃった。
させますよ。
ありがとうございます。
ちょっとそんなこんなで
今日も終わっていこうかなと思っております。
今日もリスナーの皆さんお聞きいただきまして
ありがとうございました。
読みかけの一冊から少しだけ人生の
中身詰める時間になっていたら嬉しいです。
ではまた次のマニマニで
お読みにかかりましょう。
では今回ですね、読書のマニマニの
ゲストはタレントの
池城ゆみ子さんでした。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
46:51

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