うーん。
いいなぁ。
なんか、
ふるさとがあるって、いいっていう、なんだろうな、
価値観があったとして、
僕は実家が関西なのでふるさとがあって、
でも他にいくつか、
友達が住んでる場所に訪ねていくみたいなふるさとがいくつかあるんですけど、
それってすごく僕の中で、僕の価値観の中ではすごく良かったなとかいいことだなと思っていて、
ヒグマとかクジラじゃないけど、
地方だったりとか地元とかに暮らしてる友達があって、
例えば農業やってる人だったら自然の中で暮らしていてみたいなのが、
なんかふっと思い出されると、
なんか少し我に変える感じっていうか、何をそんな悪せくやってんだろうみたいな。
はいはいはい。
そうそうそうそうそうそう。
やっぱりそこのなんか、
余白?
そう、心の余白を本を読むことで取り戻したいのかな?
なるほどな、余白。
なんかそれがスイッチみたいに、読むと取り戻せるっていうのがちょっと分かってて、
初めて出会う本だったらそれはどっちかっていうとどんな本なんだろうっていう読書体験なんだけど、
読み返す本ってもう話が分かってるから、
なんかそう、スイッチみたいなイメージで、
この本を読むとちょっと余白が取り戻せるようみたいな。
そういうのもいるんじゃないかな。
今の聞きながらその余白を取り戻すってすごく分かるなと思ってて、
きっと僕の中にもそういうものってありそうだなって今感じていたんですけど、
今その余白を取り戻すっていう表現についてなんかもうちょっと聞いてみたいなと思っていて、
取り戻すということは土屋さんの中にもともと余白はあったみたいなニュアンスがあるなみたいなことを思いながら聞いていたんですよ。
余白みたいなものがきっと何かによってなんかちょっとなくなっちゃうみたいな。
それは日々の忙しさだったりとか、いろんなことによってそれが起きてるんだと思うんですけど、
取り戻すというふうに思うと、もともと土屋さんの中に、
人の中にある余白っていうのは一体何なんだろうかみたいなことを今聞きながら思ったんですよね。
土屋さんもしかしたら生まれつき持っている余白なのかもしれないし、
小さい頃使われた余白なのかもしれないけど、
余白って何かどんなもののイメージがあるのかもうちょっと聞いてみたいなとか思ったんですよ。
何だろう。
そうだな。
なんかまあ、
それは僕に限らずだとは思うんだけど、
忙しい忙しいって、本当よくある話で心をなくすで忙しいなのでって話で、
忙しくなっちゃうと余裕が生まれなかったり、思いやりも含めて人への、
自分への思いやりもそうだし、失われちゃうんだなって思って、
でもさっき北部がフィンランドへ行くときに、
そういうデジタル系をシャットアウトしていったっていう、
そういうことをしないと情報が次々に入ってきてしまう感じ?
通知がポンポンポンポン来て、
そこに意識向けられて時間が奪われていくっていう、
マジでモモの世界が実現したような感じで。
思ってる感じなんだけど、
そこに意識を向けないと本当に忙しい忙しいっていうだけで日々が過ぎていっちゃうな、
人生が過ぎていっちゃうなって思ってて、
でも多分その気持ちに気づけたりとか、
余白は本当に大事だよなって思えるのって、
子どもと関わってるからかもしれないと思っていて、
子どもたちって何もないところから遊びを作り出したりとか、
ただただ本当にぼーっとするっていうか、
無意な時間を過ごすっていうのかな。
そういうのがすごく得意だなと思ってみてて、
無意な時間。
そこから生み出されるものがたくさんあるなって子どもたちの姿を見てて、
これって大人も絶対同じだよなって思って、
だから意識的に余白を作り出したいのかもっていう感じかな。
で、記憶を紐解くと、なんか教育のなんか破壊的イノベーションみたいな本があって、要はその今の教育ぶっ壊せみたいな。
なんかそういう海外の本を読んで、そうか、今からの時代はプロジェクトベースのラーニングなんだとか、なんかアクティブラーニングの時代が来るぞ、探究学習だみたいなとか、なんかそういう本をたくさん読んで実践しようみたいな。
あー、なんか確かに今の辻さんとムーブが全然違いますよね。
うーん、そうね、そういうのをたくさん読んでた。
はいはいはい。
なるほどね。
その、なんかよく考えてなんか気になったんですけど、そういうふうに子どもたちのっていうふうな場所を作るっていうのを、もともとのSEだったりコンサルみたいなところから移ってきたのってどんな流れなんでしょうか。
えーと、僕は大学でドボクのことを学んでたんですけど、大学1年の最初前期ぐらいで違うなって思って、早すぎる。
なんかあんまり考えてなかったら進路選択のことを。
で、大学のその学びにあまり興味を持てない一方で、バイトを始めて、それが塾の講師だったんですけど、もうそこに本当にドハマリをしてしまって。
個別指導の塾だったので、本当に小学校の低学年から高校3年生までがいるようなところに、で、自分は理系でセンター試験とかも受けてたので、重宝されて。
はいはいはい。
なんでも教えれるぞ、こいつみたいな話。
なるほどね。
で、週に本当6日、月曜から土曜までそのバイトをしてて。
本当に?はい。
で、なんかその子どもと関わるのって楽しいなとか、そのバイトの中で中心でやっていく経験もできたので、なんかそういう子どもと関わる仕事をやりたいなって、もうその時にも思ってて。
はいはいはい。
で、児童館のボランティアとかもやったりとか、だからそういうことをしてたんだけど、いざ就職になった時に、なんかこう、まあいろんな人に反対されて。
うんうんうん。
まあよくある。親からすると、いやいや、あんた建築とか土木とかのために入ったんでしょうみたいな。
まあ確かに。
そうそうそうそう。で、ね、就職は起業にしなさいみたいな感じで。
うんうん。
あんまりそこにこうすごく抵抗もすることもなく就職をしてしまったけど、やっぱりなんか違ったなっていう感覚があって。
だから子どもに関わる仕事はずっとしたいなって思っていた。
まあそれがその2012年に実現できたってところかな。
そうか。今その流れ聞いてみたときに、さっきほら、最初の頃は余白ということを意識してなかったって話されてましたけど、
とはいえ続けられている中で、その部分が確かに変わっているかもしれないけど、その当初から変わっていない富士山としての願いとでもいうのか、
大切にしていることみたいなものも根底にずっと流れているものはあるんだろうなって思いながら今聞いていたんですけど、それってどんなものだったんですか。
えーと、そうだな。
自分の中では、最初30歳でこの仕事を始めたときに、40だったら現役じゃなくなるんじゃないかと思っていた。
もうちょっと言うと、管理者とかマネージャーみたいになっていくつも教室を持って、それを統括するようなポジションになるんだろうなって思ってて、
それは40とか過ぎると子供との年齢差が大きくなるから、現場でやったときに子供にとってもあまり良くないんじゃないかなとか、そういうこともちょっと思ってて、
じゃあ最初の10年間は現場でがっつりやって、その先はマネジメントの方に入るんだって思って始めた。
だけど、10年経って全然現場続けてるし、この先も多分マネジメントみたいな方になることはない。
それって根底に流れてるものは何かっていうと、子供という存在を面白いなって思ってる自分が多分ずっと続いてる。
なんかシンプルに子供が好きでみたいな、そういう話じゃなくて、よく話をするんだけど、こういう仕事をしてると子供好きなんですねって言われるけど、
決して僕は子供がすごく好きかっていうと、いや自分の時間の方が好きだなって思う方で、
1対1で例えば将棋するとか遊ぶのがあんまり好きじゃない。
子供がわらわらしてて何が起きるかわかんないっていうちょっとカオスみたいな空間の中にいるのが好きなんですよね、自分は。
それって何かっていうと多分子供がいろんな言葉もそうだし行動もそうだし、予測不可能だったりとか、
予期せずに成長の瞬間を見せてくれたりとか、子供っていう存在は本当に面白いなって、面白がってる12年って感じなのかな。
だから飽きない、子供と関わることに飽きてないっていうのが、自分の中でもこんな続くんだっていう感覚で。
なんかいいな、いいこと聞いたな。
あとはずじに引っ越してきて、40代でも50代でも元気な人たちめっちゃ多くて。
確かにここら辺そうですよね。
いや本当に走ってる人もそうだけど、肉体的に体力的に元気な人も多いけど、それよりも気持ちが若い人が多いっていうか。
まあでも確かにそれちょっと感じるな。
便宜感のある人が多いっていうのかな。
はいはいはい。
なんかそれはすごく、なんだろうな、嬉しい誤算っていうか、自分も40過ぎて。
誤算なんだ。
うん、誤算誤算。全然なんかね、よく言われる不悪みたいな、40に不悪みたいな。
でもなんか子供と全然今も鬼ごっことかもするし、なんかそれは体力的なものもあるけど気持ちが全然いけるなっていう感じはあるから。