むずい。
重いな、これ。
バニラの毎日って本自体は、すごく軽くて、いい意味で軽くて、軽快で、わかりやすくて、けっこうかわいらしい本なんですけど、みんなね、バニラの毎日の本を読んで、自分で食べたいと思ったケーキを買って食べて、スラックにあげるってところまでやって、そのくらいかわいい本なんだけど、実はね、そういうことを考える余地もあったりしてね。
なんかでも、話聞いてて思ったんですけど、子育てって難しいっていう気づきだけど、子育てっていう言葉、そもそも実体を表してないんじゃないかと思ったりするんですよ。
ちょっとポップに聞こえすぎるというか。
というか、子育てにおいて、育たなければいけないのは親のほうじゃね?って思ってるんですよ。
そうね。間違いない。
子供ってだって、勝手に育ってくるじゃないですか、言うたら。
他結構、親の影響はあるけど、子供の性格とか性質っていうのは、遺伝のほうが大きいっていう説をしてる派なんですよ。
かつ、親とか環境の影響を受けるのも、ある年齢まで。
で、そっから先は、自分の親というよりは自分の友達とか、周りにいることな、親以外の、の影響のほうが大きいんじゃね?っていうのを思っているんですよ。
で、一方で、子供が生まれた後の人生って、ネクストフェーズじゃないですか、明らかに。
そうね。
うん。箇所分時間は増えないのに、責任は増える。
だから、一日の時間の使い方を全く変えていかなければいけないと。
じゃなければ、しわ寄せとしてどっかに行っちゃうっていうね。
例えば、家庭を帰りみずに仕事を猛烈にやって、金を稼いでくるタイプの男親っていうのが、日本にたくさんいましたけど、今もいますけど。
それによってやっぱ、パートナー側の人生はだいぶ違う様相を呈してるわけじゃないですか。
そうね。
うん。だから、それって家族トータルで見たら、めちゃくちゃしわ寄せを一方に作っている生き方なので、そういう意味では、そうじゃなくてありたいのであれば、
自分も一定以上の時間を割いて、パワーを割いて、マインドシェアも割いて、生きていかなければいけないと。
そういう意味では、子育てに挑むにあたって、親が育たなきゃいけないっていう。
うん。そうですね。
で、その前提なしに子育てを語ると、たぶん難しいもののままであり続けるんだろうね。
そうだと思う。そう。なんか、まざまざと自分と向き合わなきゃいけない瞬間ってあるじゃないですか。
自分の限界を思い知らされるというか。
そうそうそうそう。
なんか、この時にこの反応しちゃった私、みたいな感じとか、この時にこの声かけしかできなかった私、未熟とか、めっちゃあるし、
たぶんこれって、年齢を追えば追うごとに複雑になっていくじゃないですか。
子供がね、成長すればするほど。
彼らの中の内側もより複雑になるから。
だから、ほんとに子供が20歳まで育つって、それを育むって、とんでもないことだし、
なんかね、それをね、私、親だけ、さっき二重さんもちょっとおっしゃってたけど、
親だけが、その子の性格とか人格形成とかに関わっているっていう、
なんか、トゥーマッチな責任感を、実はなんか親自身も手放してもいいのかなっていう気がしたんですよ。
その読書会の時も話してたんですけど。
ノータブルラジオ。
なんか、私たちが親としてできることは、その子供、自分の我が子に対する安全基地であるということですよね。
愛着を持てる、愛情を感じられる場所であるっていうことは、まず大前提ですけど、
私の、どうしてもね、安倉紗友子は変えられないんですよ。
もう、私は私の考えとか、私の価値観とか美学とかっていうのがあるから、
そこで、ある程度柔軟にはしたいけど、すべてのことを変えることは多分できないんですよね。
息子のために。
だから、私は私である形で息子と向き合って、でもそれでも例えば息子が助けを必要にした時とか、
他の価値観に触れたいって思った時に、私ができることって、他の大人を紹介してあげることとか、
他の大人と私がいい関係性を持っているから、じゃあ行ってきなよってやってあげられることだったりするのかなっていうのをね、考えてたんです。
だから、たとえば、うちの息子が10何歳になって、思春期で難しいなって思った時に、
じゃあ、リチャさん家行ってきなよって言って、あそこ男2人、お兄ちゃんたちいるし、リチャさんと話してきなよって言って、
行かせられるとかね、そういう安心して任せてあげられる場所とか、
全く違う生活をしている人のところに、見せてあげられる世界があるっていうのが、
大人側の資産にもなるし、今、私ができることなのかなって考えたりしたんですよね。
すてきだな、それ。いくつかポイントありましたよね。
まず、トゥーマッチな責任感を手放すっていう話。
親自身がね。
親自身がね。
全て自分の関わり方、自分のやってあげることによって、子供の性格形成とか、人生の価値観が形作られてしまうみたいな、過剰な責任感ですよね。
これを手放してみて。
ちょっと脅迫観念と。
脅迫観念って言って差し支えないと思う。そういうものを手放してみるっていうのが1個。
もう一つが、役割を少し解釈を変えてみるっていう。
自分自身が自分自身のままで、子供に対してできることっていうのがいろいろあるよね。
例えば、人をつなぐことだったりとか。
それっていうのは、自分が今持っている人間関係とか、今までに育んできた人間関係を引き続き大切にすることで、やってあげられることになるっていうことですよね。
今の例え、10年後とかに息子さんをリチャードのところに送り込むみたいなことっていうのは、この関係性が形を変えながら、質も変わりながら、10年後も、今より固いのか緩いのかわからないけど、続いてないとできないことではあるから。
そのためにやることって、たぶん子育てに向き合うっていうことの、アッシュだ、アッシュというか。
一般的に子育て、面白いですね。
一般的に子育てって言ったときに、子供と毎日30分喋るとか、お風呂に一緒に入って話を聞くとか、宿題手伝うとかに志向って、僕はそういう風に行きがちなんだけれども。
それよりも、いつか彼の助けになるからっていう理由も置いといて、自分が自分として今持っている人間関係とかを広げていく、育んでいくっていうことが、最終的に子供の役に立つ可能性もあるし、っていうのは発想の転換としてすごい素敵だなと思いましたよ。
嬉しい。そうなったらいいなって思ったり。
そう思ったきっかけっていうか、理由が、うちの母の妹、私にとってのおばさんがいるんですけど、おばさんは結婚してなくて、子供もいないんですよね。
すごく私と兄をすごくかわいがってくれて、よくご飯に連れてってくれたり、遊んでくれたりとか、大人になってから、織田一馬さんのライブに私2人で行ったことがあったりするんですけど、そういう関係のおばがいて、すごいよかったんですよ。
うちの母とおばは、もちろん姉妹だから、似てる部分もあるんだけど、でも全然違う人生を送ってきているし、彼女の美学とか、彼女の価値観、考え方みたいなところで、私に質問してくれたりとか、共感をしてくれたりとかするんですよね。
それは、うちの母とか父が、親としてかけてくれる言葉とはまた違った愛情があって、角度があったなって思って、そういう大人との関わりが、私はすごくありがたかったなっていうのを思い出したから。
話を聞きながらさ、勝手ながら、頭の中で小説みたいだなって思ったんですよ。親の兄弟と同居するみたいなシチュエーションのアニメ映画とかよくあるじゃない?
あるかな、あるかも。
なんかあるじゃないですか、うちの繋がっていない親代わりのおばさんみたいな。
最近のディズニーのベイマックスとかそうじゃない?
ああ、そうか。
両親が事故で亡くなっていて、お母さんの妹に育ててもらったとか、育ての親がいるとかね。
育ての親系の話ってあんまりこうか不幸か、不幸ってことはないと思う。幸いなことに自分はそういう経験ないけど、親代わりの人との絆を描くとかね。
結構そういう小説とか映画とかの典型だと思うんだけど。
あとサマーウォーズみたいな。
ああ、はいはいはい。
あれひとんちの大家族に議事的に言い名付けみたいな感じで、婚約者ですって言って混ざっていくみたいな話だったけど。
主題歌は織田一雅だったけどたまたまね。
そういうものみたいなことをちょっと頭に浮かんだよって話だけなんですけど。
でもなんだろうな。
子育て、子供とまっすぐ膝つきで向き合うことだけが子育てじゃないってなると、そもそも子育てという言葉が指しているものが実はもっと広くて、もっとバリエーションがあって、もっと自由でクリエイティブでっていうことになんのかもしんねえなって。
なってもいいのかもしれないって私も思ったんですよね。
なるほどな。
そういう意味でいくとさ、日々の仕事をするとか、会社の仕事でもね、僕らみたいなフリーランスの仕事でもどちらにせよ、世の中と関わっていくっていうのは自分なりの関わり方があってとか、なんだろうな、そういう子供に見せるみたいな話とか、あるいはなんだろうな、子供に見せなくてもいいけど、
何かこう、将来の自分たちを助けるようなネットワークを作っていくみたいな観点で取り組めたら、なんかすごい素敵だなと思ったし。
うん、本当にそう思う。だからなんか、仲良くしてくださいみんな。私と仲良くしてください。
本当そうですよね。人と人つなぐとか、つながっていることとか、なんだろうな、コネクションが大事だぜみたいな話をしてるわけじゃないじゃないですか、ここって。
そう、コネクションを持って、そこからなんかこう、ビジネスが発展するか、お金が稼げるかなとか、何かの機会のためにとか、なんかそういうちょっとガツガツしたことっていうよりも、なんかよりなんだろうな、緩やかで、人間と人間としてのつながりという意味でのコネクションなのかなって思ったり。
うん、つながりだね、つながりがあって、なんかそういうものが、豊かな人とのつながりを持ってるっていうことが、巡り巡って親子の関係っていうのを深めていくことになるかもしれないし、つながり方っていろいろあるし、なんか聞いてる人もね、例えばなかなか子供が離乳食食わないとか、夕飯作っても好き嫌いして食わないとか、宿題はない、風呂入らないとかね、いろいろね、あ、俺の悩みかとかね、いろいろある。
あるかもしれないけど、なんだろうな、別になかなか風呂入らないのって、あなたのせいだけではないと思うし、風呂にね、すぐ入ってもらうためにできることって、なんかその場で風呂入れって大きい声で言うというよりは、なんかそういう環境を整えることだったりするかもしれないし。
あとはなんか、甘えてもいいのかもしれないですよね、その周りに甘えて甘えられる他人がいるんだったら。
そうね。
私、シンガポールのコンドミニアムに住んでて、なんかけっこうね、他のおうちのこと遊んだりとかするんですけど、全然もうなんか来てほしい、逆に。
子供同士で一緒にお風呂に入るとか、子供同士で遊びながらなんかご飯を食べるとかも、それもなんかすごくいい教育だと思うんですよね。
うん、確かにね。
うん、なんかそれは今の環境だからこそできること。東京のときはちょっとできなかったから、私の環境的に。
だからなんか全然してほしいし、なんか任せたいし、任せてほしいしって思っているから、だからなんか逆に、なんかそういう環境があったりとか、そういう関係性があっても遠慮して頼めないとか、
なんか子供、私がやんなきゃいけないってお母さんとかお父さんが思いすぎると、なんかね、見逃しているチャンスがもしかしたらあったりするのかなと。
いや、そうかもしれない。今バーッとフラッシュバックした思い出としてさ、小学生のときに参加してた野球チーム、で、コーチとか監督は選手のお父さんお母さん、お父さんのね、お父さんたちが。
でさ、やっぱこう、めちゃくちゃ好きだったわ。コーチ監督からいろいろ褒めてもらって、こういうところがうまいからこういう才能を伸ばしていこうみたいなさ、なんかそういう関わりをしてくれる大人、友達のお父さんと関わること、自分にとって身近な大人、でも親じゃない、先生でもない、
そういう人たちとの関わりって、僕の自身の人格形成にすごく影響してるなっていうのを今思ったっすな。
してますよね。
だからそういう関わりを自分の息子たちはまあ直接の親だからなんだけど、息子たちがそういう経験を得られるようになんだろう、今長生サッカーを地元チームでやってるんだけど、そういうところにもっと顔出して、いろいろ話ができるような関係性とかね、子供がなんか友達家に呼びたいって言ったらいつでも連れてきていいよって感じでね、家を片付けておくとかね、そういうことやらなきゃなっていうふうに思いましたよ。