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こんにちは、お酒を辞めて人生変わった元ノンベライフコーチのキリンです。
このチャンネルでは、会社員として働きながら、ライフコーチとしての企業独立を目指している私の日々の気づきや取り組みなどをアウトプットしていきます。
おかめいんこが我が家に来て、4日?5日目?なんですけど、もう可愛すぎて、みんな家族、メロメロな感じで、もうみんなそこに全集中している感じになってるんですが、娘もようやく手に乗せられるようになって、嬉しそうです。
という感じなんですが、今日はですね、自己基盤講座というコーチングプレイスの応用講座の中で、自己基盤講座というのを先月から受講を始めたんですけれども、講座自体は月に1回なんですけど、
その合間にですね、また講座を終わって、次の1ヶ月後の講座までの間に、宿題というかワークですね。2人1組でペアでセッションするっていうのがあるんですが、それを昨日夜話したので、そこでちょっとまた自分の気持ちとか考えとかが整理できたので、
ちょっとそれを改めて話して原稿化してみたいなと思って、今日はそちらの放送にしたいと思います。まず今受講している自己基盤の講座ですね。
自己基盤というのが10個の柱で成り立っているという、この人生をより良く生きるための法則というか、ある意味システマチックな、これをやれば人生良くなりますよっていうものが、
もともとアメリカかな、コーチングはアメリカから来ていますが、アメリカのトマス・レナードさんだったかなっていう方が、何て言うんですか、開発っていうのかな、そうしたプログラムというか、これをこういうことをやると人生良くなりますよという法則的なものですね。
だからある意味再現性があって、これをやれば誰でも人生良くなりますよという、ある意味学術的なものになります。
決してただの精神論とかではなくて、再現性のある原理原則というものになっていますが、その中の一つである基準を引き上げるという講座に今参加をしています。
基準というのは、基準を引き上げるを英語で言うと、ライズアップ、スタンダーズだったかな、ちょっと記憶が曖昧なんですけど、スタンダードが基準なんですが、スタンダーズでS、複数形になっているので基準は複数ありますというところと、それを引き上げるということなので、
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まず一つ最初のステップとしては、自分の基準をしっかり持つというところ、さらにそれを引き上げていくというものになります。
じゃあ基準って何なのかというところなんですが、自分がどう生きるかという、自分の中でのものさしという基準ですけれども、になります。
基準がないとどうなるかというと、他人の基準で生きる、人のものさしで生きる、価値観で生きるということになるので、自分がどうしたいかじゃなくて、相手がというか、家族が、社会が、学校が、会社がという主語が自分以外になってしまうと、自分は振り回されてしまって、
コーチ、近藤真樹さんというコーチの方が講師なんですけど、土俵という表現、お相撲の土俵という表現を使っていましたが、自分の基準、土俵というものがきちんとないと、そこに人がずかずかと土足で入り込んでくるから、自分の人生ではなくなってしまう。
というところで、自分の基準を持っている。基準のことを、自分を好きになる約束ごとというような表現を使われておりましたが、約束ごとかな、自分との約束ですよね。
自分との約束があまりないと、自分はこういう時こうするという基準があって、約束ごとがあって、それがないと、なんとなく流されて嫌だなとか思いつつ相手に合わせるとかいうことがあると、どんどんまた自己肯定感みたいなものが下がっていって、自尊心とか失われていって、なんで自分はこうダメなんだみたいな。
そのノーと言えないとかですね、そういうのもあると思います。そういうので、そこの基準がしっかりないと、自分の好きになる約束がきちんと守られていないと、どんどん自分を嫌いになってしまう。自己肯定感があってしまう。
というものになるので、まずはしっかり自分の基準、自分との約束ごとを決めて、それを守る。守ることでまた自分が好きになっていく、というものになります。と私は解釈しています。
これは多分子供の頃から割とそうなんですけど、あんまり人に流される方ではないなと思っていて、これは本当にもともとの性格なのかなと思うんですが、
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ストレングスファインダーでも個別化とかが高いので、割とどっちかというと人と一緒の方が嫌だっていうところがあるので、みんなと一緒じゃなきゃ、みんなと合わせなきゃみたいなところよりも、みんなと一緒だと嫌だなみたいなところがあるので、
例えばみんながあれを持っているから欲しいとか、そういうのもあんまりなかったし、私の子供の頃だとたまごっちとかめっちゃ流行ってましたけど、別に周りがいくらそれで盛り上がろうが欲しいともみじんも思わなかったし、
流行り物は基本的にあんまり興味がなかったので、ちょっとクラスの友達の中ではどっちかというと異質というか浮いているような存在だった、ちょっと冷めたね、どっか冷めた子供だったところがあるので、そういう意味では同調圧力みたいなものにはむしろ強い方だったのかなというふうには思っています。
だからなんとなく自分の基準みたいなものはきっと子供ながらに、意識はもちろんしていないですけれどもあったように思います。
自分の基準というかそこが揺らいだ、揺らぐようになったかなっていうきっかけはやっぱり子供が生まれてからかなっていうふうに思っていまして、まず子供生まれる前、結婚してからも別に夫もわりと一人でいるのが好き、もともと独身も長かった。
あんまりそこでお互いの時間を、一緒にいるべきだよねみたいな感じでもなかったし、お互い遊びに行くときは遊びに行ったりとかしてましたし、
なんかその辺はあんまり家庭に合わせすぎるみたいな、結婚したからといって家庭最優先みたいな、そういう感じではなかったかなとは思っているんですけど、やっぱり子供が生まれて見てそこの初めてというか自分より優先する存在というのかな。
それでいうと、ちょっと独身時代とか子供生まれる前も仕事優先しすぎてて、ちょっとメンタル的にやられたところもあったので、そこはある意味基準がなかったんだろうなと今話して思いました。
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自分の基準がないから仕事において自己犠牲みたいなところをしすぎていたんだな、それは今気づきましたっていうのがあるんですけど、今回この自己基盤講座の中では子供の話を先月もセッションでもしていました。
やっぱりこう、自分の時間と子供の時間っていうのを、子供との時間っていうのをどっちを優先したらいいかみたいなところで、私はいつも罪悪感みたいなところがあって子供と見き合えてないなっていう、その時間を作れていないなっていう物理的な時間もそうですし、
一緒にいる時であっても気持ちが子供の方に向いていない時があるっていうところにこう、罪悪感というか、なんかこう心がチクチクしているみたいなところがあって、という話をしました。
こっちからもいろいろフィードバック、結構バシッとこう、ケツを叩いてくれるような感じでフィードバックをいただけるので、なんかもう決めたらうじうじしないの?みたいな感じで言っていただいたんですけれども、
それをこう、やっぱり母親が、母親がというか、まあ親が自分で決めたことなのに、それを大事、なんかこれでよかったのかなとかっていうふうにうじうじしていることの方がよっぽど子供のためにならないよっていう、だからもう仕事を取るっていうふうに決めたんだったらもう、
もうそれで、私は今仕事を楽しくてやってるんだからごめんねって、今は一緒に遊べないよとか、一緒にお風呂入れないよとかごめんねっていうのを言えばいいんじゃないっていう話で、だからそこをもうあとは自分がうじうじしないっていうところですね。
そう、そうなんですよね。
なんか子供生まれてからも、なんか初めてその、自分が、自分との時間じゃなくなるっていうのが、発生したのが保育園に、8ヶ月で保育園に入ったときなんですけど。
最初は、かわいそうって言ったら語弊があるけど、でもよく言われるじゃないですか。そういうふうに。で、なんか辛い思いさせるんじゃないかなとか思ってましたけれども、でも実際保育園に預けてみて思ったのは、
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よかったっていうか、むしろ私といること、私と2人でいたら絶対に経験できないことを保育園で経験できてるっていうふうに思える出来事というか、それが本当に毎日のようにあったので、
あ、これって親族を娘のためになってるなっていうふうに。保育園にいる時間っていうのが、一緒に、私とは一緒にいれない時間になるけれども、それは娘にとってプラスになるなっていうのは、それは親族腹落ちをしたので、そこは全くかわいそうとかっていうふうに思わなくなりました。
先生と一緒に遊んでる時とか、他の友達と遊んでる時の表情とかを見てると、やっぱり家で見せる顔とはまた違う顔をしているので、あ、こんな顔するんだみたいないうところがたくさん見れて、なんか正直負けたって思ったんですよね。保育園での娘の様子を見てたときに。
だから、そこはもう自分の中では、保育園にいれる時間みたいなものは一切なくなりました。
ただ、家にいるとき、私も仕事をしていて、保育園時代はほとんど年中までは時短では働いてましたけれども、やっぱり帰ってきてからそれなりに忙しかったりするので、毎日絵本を読んであげられるわけでもなく、ご飯お風呂に寝るみたいなバタバタのオペレーションの中で、今もそれはあまり変わらないんですが。
一緒にお風呂に入りたいとか、今言われても、ごめんね一人でちょっと今日入ってとかっていうふうに、いることに罪悪感を持っていたりするんですけど、
そこも先週のセッションだったり、前回のマキさんとのセッションだったりとか、昨日のペアセッションの中でも改めてお話をして、完璧を目指さなくていいやっていうふうに思いました。
なんか別にやっぱり母親も完全じゃないし、別にいつでも子供を最優先するべきともやっぱり思わないし、逆に常に子供を最優先にする母親である。
私がそういう母親であるとすると、娘も母親とはそういうものであるというふうにある意味すり込まれてしまうところがあると思っていて、
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というのは、私の母は専業主婦だったので、それこそ自分のことは二の次で、家族のため、子供のため、お父さん、夫のためっていうのに優先というか、尽くしているというか、そういう生き方だったんじゃないかなというふうに思います。
でもそれがきっと私の中でベースにあるから、母親っていうのは常に子供を優先せねばならぬ。
いやでもそういってもうちのお母さん一緒にお風呂入ってくれなかったけど、まあいいや。
でもなんかベースとしては、子供に常に優先するというか、いう感じだった気がします。
なんか私が習い事を、小学生の高学年ぐらいになって、もう一人で電車で行けるでしょうって言われたんですけど、私は嫌だって言ったら、送り迎えしてくれてたんで、そこをたぶん突っ跳ねるっていうことはしなかった。
私だったらなんかもう突っ跳ねちゃいそうですけど、いや行けるじゃんって。今はもう一人で風呂入れるじゃんって言って、突っ跳ねちゃってますけれども。
それはやっぱりベースにあるのかなっていうふうに思います。娘のリクエストに答えられてない。それは仕事を優先しているからとか、自分のことを優先しているから、娘のリクエストに答えられないことがある。
っていうところになんとなくチクチクと罪悪感を持っていたんですが、なんかそれも昨日話してて、いいやっていうふうに思いました。
全部答えるのが母親でもないし、母親もそもそも完璧な人でもないし、それは娘にも一緒で、娘に対しても対等というか、娘も完璧じゃないし、
どっちもリクエストは別にしてもいいけど、答えるかどうかは相手次第っていうところがあるので、娘もリクエストは事前にしていただいていいし、でも私も断るときは断るし、受けるときは受けるよっていうところで、
ベストエフォートというんでしょうか、そのときできるベストを尽くしつつ、今日はごめん、今日はOKっていう、そのときの状況とか、もちろん子どもの様子とかもちゃんと見つつ、
自分の状態っていうのもそのときもあるだろうし、だからそのときのお互いの状態、状況の中でベストな選択をするっていうところを自分の基準にするっていうことを考えました。
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それがこう自分の中に出てきた答えですね。だからその基準っていうのも、こういうときはこうするっていう具体的なアクションをいつも決める、なんかAだからB、AのときはB、CのときはDみたいな具体的なアクションを常に決めるっていうことではなくて、
そのときにどう決めるかを決めるっていう、どうやって何に従って決めるかっていうことの基準を持つっていうこと、だからいつもその結果として起こるアクションが同じであるっていうことが基準を決めるということではなくて、
自分がいいなって思ったらやるし、嫌だなって思ったらやらないっていうそこの自分の感情、価値判断に沿って決めるんだっていう、自分の心に嘘をつかないっていうところですね。そこを基準にするっていうことなんだっていうふうに自分の中でもこの基準というものがある意味原打ちをしたので、
だから寄り添ってあげられるとき、あげられる状況、自分のメンタル状態、仕事の状況を含めて総合的に判断をしてOKをする、NGを出すっていうことを決めようっていうふうに思いました。
それが昨日のセッションの中で言語化できたところだったので、そう思っていると、ただ今のは決めたことにはもううじうじはしないんだけれども、じゃあそのときベストの判断できているのかなっていうことは引き続き問い続けるというか、開き直るのとはちょっと違うのかなと思っていて、決めたらもううじうじはしないんだけれども、
本当に今日からでよかったのかなっていう自問自答はきっと続けるだろうなというふうに思うし、常にベストを追い求める。でもベストは求めるんだけど、100点は求めないみたいな感じで、自分の中ではイメージでいます。
そのときにベストを尽くせたのであれば、そういうものじゃないですかね、人生でも。
常に100点満点を基準にすると、あまり100点のつく状況ってないと思うんですけど、でもそのときの自分でできるベストはこれだったよねっていうふうに思えれば、結果が100点じゃなかったとしても納得がいくと思うんですよ。
だからそこで妥協しないというか、そういうふうにいられたら、それができる自分であれば自分のことも好きでいられるし、自分のことが好きである母親でいることが結果的に娘にとってもいい影響、ポジティブな影響を与えられる親になるんじゃないかなと思うし、
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娘が大人になったときってもしかしたら母親になるっていうことがあるかもしれないですけれども、そのときにまた自分のまま子だったなっていうふうに思い出してもらえるところにもなると思うので。
よくも悪くも自分の母親がしてくれたこととかしてくれなかったことって、いっぱいそれがベースになって、今自己基盤の中で別の講座未完了っていうものがありますけれども、やっぱり親から受ける影響ってすごく大きいので、よくも悪くもたくさん影響を刷り込んでしまうっていうところにはなるんですけど、
それが少しでもいいものとして思い出される親でありたいなというふうに思います。
はい、今日はまとまらない話になりましたが、自分の昨日の話したこと、またこうセッションの中で話したこととは違うところも出てきたので、やっぱりこうやって実際に口に出して言語化をするっていうのが自分の思考を整理するっていうのは本当に大事だなと改めて思います。
まずセッションを自分が受けるときも、逆に提供するときもやっぱり自分の考えていることってわかんないんですね、話してみないと。自分ってこう思っているんだとか、やっぱり話しているうちに記憶が蘇ってくるので、話すのがいいタイプの人とブログとかノートとかに書くのがいい人とそれぞれだと思うんですけど、
私の場合は結構話すといろいろ出てくるなっていうところが感じていますので、こうやって話をする場をこのスタンドFMでも作ってですね、今後も自分のためにも続けていきたいなというふうに思っています。
はい、実は以上で終わりたいと思います。お聞きいただきましてありがとうございました。