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2025-11-05 12:50

#317 禅に学ぶ今を真剣に生きる心構え:行雲流水(こううんりゅうすい)

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今回は、みなさんにぜひ覚えていただきたい「禅語」シリーズとして、「行雲流水(ぎょううんりゅうすい)」という言葉をご紹介します 。

「行雲流水」は、禅宗の修行僧を指す「雲水(うんすい)」の語源ともなった言葉です 。 雲のように行き、水のように流れるとは、どういうことか。

何事にもとらわれない心、絶えず変化するものを受け入れる心という基本的な意味合いから一歩踏み込み、大本山永平寺の「雲堂」のお話なども交えながら解説します 。

そして、この言葉を「限りある命を真剣に使い切るための心構え」と捉え、過去や未来にとらわれることなく、「今、目の前のこと」に集中して生きることの大切さをお伝えします 。

人生は一度きり。お守りのように心に置いておきたい禅語です 。 仏教の言葉や人生相談などもお待ちしています 。

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サマリー

禅語「幸運流水」は、心にとらわれず流れ、変化を受け入れることの重要性を説いています。この教えを通じて、限りある命を真剣に生きるための心構えについても深く考察しています。

00:05
どうも、コウブンです。
栃木県の片田川にある蓮城院というお寺で福住職をしております。
禅語の紹介と意義
今日はですね、皆さんにぜひとも覚えていただきたい
禅語のシリーズをお送りしたいと思います。
この禅語というのは、座禅の禅に言語の語と書いて禅語ですね。
要するに禅の言葉という意味なんですけども、
この禅語の特徴としましては、その禅語の言葉自体に答えが書いてあるというよりかは、
どちらかというとヒントになるような方向性を導くような、正しい方向性を導くような、
そういったものが多いのが特徴です。
なのでこの言葉をですね、まるでお守りのように心に大切にしまっておいていただいて、
いざ自分がちょっと苦しいとか迷った時とか、そういった時にぜひとも活用していただければなというようなことで、
このような取り組みもしているというわけでございます。
はい、というわけで今日ご紹介する禅語は幸運流水ですね。
幸運流水、聞いたことあるでしょうか。
幸運流水、ちょっとどちらかというとマイナーかな。
あまり詳しいことは私もよくわかってないんですけど、幸運流水という言葉があります。
どういう字を書くかというと、幸というのは行く、行くですね、行く。
行うとも言いますよね、行う。
幸運の運は雲ですね、雲。
そして流水は流れる、流が流れるですね。
水は水。
雲のように、雲が行くように、水が流れるようにというようなね、呼んでみるとそのような意味です。
この言葉から連想されるのは、何にもとらわれないように、流れていく、とらわれない心というようなね、
そんな風なニュアンスを感じるかなと思います。
実際に意味合いとしてはそのようなもの、とらわれない心というのが大事だよと。
あとはちょっとイメージするのは絶えず変化するというところでしょうか。
雲も絶えず変化しております。
そして水も流れるときに絶えず変化しております。形が変化しておりますね。
そのような形で私たちの人生を生き抜く上で大事なのは常にとらわれない心であると同時に、そういった変化を受け入れる心というものが大事だよというようなね、これが幸運流水なんですが。
そこのままで受け止めるのはもちろん十分ではあるんですけども、
もう少しもう一歩踏み込んで理解するとさらに良いのかなと私なんかは思ったりしております。
どういうことかと言うと、幸運流水とはつまり人生を、私たちの生きている命というものを真剣に生きるための心得というふうに私は捉えています。
修行僧の心得
なんかすごく難しくて壮大な感じになってますけども、その辺はゆっくりと説明していきたいなと思います。
ちなみにですけども、総統集の場合ですね。人材集もそうかな。
全集のお坊さんはね、修行僧のことを修行しているお坊さんのことを雲水って呼ぶんですね。雲水、雲の水と書いてる雲水。
これが幸運流水から来ております。修行僧の心得としては幸運流水のような心構えが大事だよというところから来たんじゃないかなと思うんですね。
とどまることなく絶えず変化を受ける。そしてどんなことでもきちんと授業する。そういった心が大事だよというのが修行としては大事だということなんだと思います。
実際に昔のお坊さんはね、全集のお坊さんっていうのは修行するお寺っていうのをね、てんてんと回ったそうです。
まるは一定の期間だけとどまって、そしてまた別のお寺で修行に行く。そうやって自分を見つめ直すと同時に正しい意思を見つけたというふうに言われております。
正しい意思っていうのは自分にとってとても目標となるような師匠のことですね。それぞれ人には相性というんでしょうかね、ありますから。
立派のお坊さんと言われるような人が必ずしも相性がいいとは限りません。
だからいろんな人と出会って、自分にとって素晴らしいし、自分にとってとても尊敬できる、そういった師に出会うためにいろんなお寺に修行に行ったんだというふうに言われております。
その姿こそ幸運流水、まさに運水だというようなところであったというふうにも聞いております。
そしてさらに言うと、昔は曹洞宗とか隣在宗という区別というのはあんまりなくて、いろんなお寺、禅宗のお寺に限るとは思うんですが、回ったそうですね、昔のお坊さんは。
だから今みたいにガチガチに宗派が決まっているという、じゃなくて極めて曖昧というか暮れというか、いうような状況が多かったそうです。
そうやって自分の正しい、自分の思う仏法というもの、自分の思う師、理想の師というものを探し歩いたというふうに伝えられております。
命の有限性と心構え
もう一つ、ちょっとくどいですけど、もう一つ言うと、大本山永平寺という総統州の福井県にある大本山なんですけども、そちらのお寺には曹洞と呼ばれる座禅をするお堂があるんです。
座禅専用の建物ですね。
その建物の外側に掲げられている額、わかるかな、額。
よくイメージすると、お寺なんか行くと門のところに四角い板が掲げられていますよね、外側の方に。
何かそこの文字が書いてあって、例えばお寺の名前が書いてあったりとか、あるいは地名が書いてあったりとかしますよね。
あれを額って言うんですね。お寺の場合だと地豪額って言いますね。
お寺の豪っていうのは1豪2豪の豪ですね。そこに額って書いて地豪額って言うんですが、地豪額っていうのが掲げられております。
そして大本山永平寺の曹洞には地豪額っていうのかな、ちょっと正確な名前はわかりませんが、その額が掲げられておりまして、そこには雲堂、雲のお堂の堂ですね。
雲堂と書かれております。雲水のためのお堂ですよ、雲水のための建物ですよっていうそういう意味ですね。
そういった形で、幸運流水っていう言葉が修行僧とすごく密接しているというお話でした。
そしてちょっと話が横に添えてしまったので元に戻しますと、幸運流水とはつまり限りのある命を使い切るための心構えだと、そんなふうに私申し上げました。
ちょっとさっきと違うかな。ちょっとさっき言ったことと若干違ったらすみません。
つまり私たちの命というのは限りがありますよね。今人生100年時代というふうにも言われておりますけども、いつかは死ぬわけです。
ということは命は有限である。時間は有限であるということですよね。
また私たちというのは肉体を有してますから、体がありますから必ず疲労というのがあるんですね。
つまり24時間ずっと動き続けるということはできない。私たちの命というのは活動できる時間というのは限られているんです。
その限られている時間をしっかり使うために幸運流水という考え方は大事だよというふうに私は捉えております。
どういうことかと言いますと、私たちは過去とか未来というものに対してそこに意識が向くあまりうまく行動ができないことってありますよね。
例えば過去で言えば過去の栄光、部活動とか会社とかでもいいと思います。
何かすごく素晴らしい実績を挙げたとして、そこに慢心をしてしまって物事を真剣に捉えられなくなってしまったりとか、
あるいは失敗、大きな失敗をしてやっぱり物事を進めるのが怖くなってしまって前に進めなくなったりしまったりとか。
あとは未来に対して言えば先ほどの失敗でもそうですけど、恐怖のあまり未来が怖いから進めないとか、また知らないから自分が知らないこと未知のことだから進めないとか、
そういった過去とか未来というものに対して意識が向きがちな部分ってありますよね。
でも私たちの命というのは限りがあるわけですから、自分の人生をより良い方に変えていきたいとそういうふうに願うんであれば、
過去とか未来を見るよりも今目の前のことをしっかりと真剣に行ったほうが未来というのは確実に変わっていく。
より良い方向に変わっていくというところですよね。
どういうことかというと、要するに過去とか未来とかそういったものにとられず、今目の前のところに、今自分の目の前のやるべきことに集中をする。
そのための教えというのが幸運流水であるというところだというふうに思っています。
限りあるリソースを最大限に使い切るためにメリハリをつけるとかそういうふうに言ってもわかりやすいかな。
ともかく自分の命というものをきちんと使い切る。
そんな生き方をしたいであれば幸運流水という教えというのはとても大事だよというふうに私は捉えております。
皆さんはどういうふうに受け止めたでしょうか。
皆さんも自分の人生一回しかないですから。
テイク2はありませんから。
だから自分が今まさに命を失う瞬間、もう死ぬんだと思ったときに、いい人生だったなと少しでも思いたい。
そんなふうに願うんであれば幸運流水の心、捉われない心、そして自分の生き方につながる。
目の前のことを真剣に行う限りある命を真剣に使い切るという心をどうか思い出していただければと思います。
というわけでちょっと最後は理屈っぽくなりましたが、そのようなふうに捉えて幸運流水という字を改めてどこかで見かけたら、
そういえば和尚がこんなこと言ってたなと思い出していただければと思います。
というわけで今日のお話はここで終わりたいと思います。
今日のようなお話、仏教の言葉、禅の言葉、こういったことを聞きたいよということがあれば、
ぜひともコメント欄あるいは概要欄の方にあるフォームの方からお送りいただければ必ずお答えします。
また人生相談、お悩み相談なども送っていただいても結構です。どうぞよろしくお願いいたします。
というわけで連常院副住職の幸文でした。ではまたね。
12:50

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