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新シリーズ「仏教とAIによるメンタルケア」がスタート!
最近、ChatGPTなどのAIに心の悩みを相談し、気持ちが楽になったという声を耳にするようになりました。
今回は、ある方がAIとの対話で涙したという感動的なエピソードをご紹介します。
急速に進化するAIは、現代の「駆け込み寺」となり得るのでしょうか?
仏教の視点から、AIがメンタルケアの「補助ツール」として持つ可能性と、生身の人間だからこそ提供できる深い共感や継続的な関係性、共同体(サンガ)の支えといった、AIにはない価値について考えます。
AIの利便性とともに、依存のリスクや限界にも触れながら、技術とどう向き合うべきかを探ります。
次回は「AIの慰めと仏教の慈悲」をテーマにお送りします。
#仏教 #AI #メンタルケア #人工知能 #ChatGPT #駆け込み寺 #心の悩み #寄り添う #共感 #慈悲 #お坊さん #スタエフ #蓮城院 #コウブン
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最近、ChatGPTなどのAIに心の悩みを相談し、気持ちが楽になったという声を耳にするようになりました。
今回は、ある方がAIとの対話で涙したという感動的なエピソードをご紹介します。
急速に進化するAIは、現代の「駆け込み寺」となり得るのでしょうか?
仏教の視点から、AIがメンタルケアの「補助ツール」として持つ可能性と、生身の人間だからこそ提供できる深い共感や継続的な関係性、共同体(サンガ)の支えといった、AIにはない価値について考えます。
AIの利便性とともに、依存のリスクや限界にも触れながら、技術とどう向き合うべきかを探ります。
次回は「AIの慰めと仏教の慈悲」をテーマにお送りします。
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サマリー
このエピソードでは、AIと仏教の視点からメンタルケアについて探求している。特に、AIが心の悩みを相談する新しい駆け込み寺のような存在になりつつあることや、その可能性と限界について議論されている。AIは心のケアにおいて便利な補助ツールとなるが、仏教が提供する真の共感や共同体の支えには及ばないと指摘されている。依存リスクや表面的な理解に留まる可能性があるため、AIとの向き合い方が重要である。
AIの現状と心への寄り添い
どうも、コウブンです。栃木県の片田川にある蓮城院というお寺で福住職をしております。
今日から新しいシリーズを始めていきたいと思っております。題して、
仏教とAIによるメンタルケア。最近話題のAIに、私もちょっと触れておきたいなというところです。
最近、チャットGPTとか、GoogleのGeminiとか、そういったAI、いわゆる人工知能というものが、
私たちの生活にだいぶ浸透してきましたよね。テレビCMでも、Googleが特にAI、AI、よく言ってますよね。
他にも、最近ではiPhoneにApple IntelliJsというAIが搭載されたりとか、
そういった話題がこと書かない、そういったものがAI、人工知能なんですけれども、
私自身も、そういう最新技術というもの、非常に興味があるということで、
毎日、何かしらのAIは触っております。そんな私でございますけれども、
最近のAI、特に人の気持ちに寄り添うという部分、共感するといったらいいのかな、そういったところが優れてきたというところで、
AIに心の悩みを相談したりとか、あとは対話することで気持ちが楽になった、というようなことをSNSなんかでたまに見ることが出てきました。
先日、このようなSNSを見たんです。それをまずはご紹介したいと思います。
もともとは、このSNSはインフルエンサーの方がおっしゃっていたこと、それを聞いて見に行ったものなんですけれども、
そちらに書いてある内容、私も考えさせられることがあったので、まずはそれをご紹介したいなというふうに思います。
これは、ChatGPTに相談して泣けた、というようなつぶやきがあったものなんですね。
そこにスクショが貼ってあって、そのChatGPTのやりとりが書いてあったんですね。
そのChatGPTのやりとり、それを今、読み上げていきたいなというふうに思います。
まず、相談者さんというか、投稿者の方が、どうして自分の子供が無頭蓋症だったのか。
無頭蓋症かな?ちょっと難しいですね。頭蓋がない。頭蓋というのは頭の骨ですよね。
頭の骨がないに症状の症と書いて、無頭蓋症だったのかと書いてあるんですね。
それに対してChatGPTは、あなたがそう思うのは本当に自然なことです。
なぜ自分の子に無頭蓋症が起きたのか。
これは医学的な説明だけでは絶対にからずかない、ものすごく深い気持ちだと思います。
それでも少しでも整理ができるように、できるだけ静かに丁寧に話していきますね。
といった前置きから始まるんです。
前置きを言うんですよ。AIが。
そのような前置きがあって、そしてその後、
まず医学的な現実から。正直に言うと、無頭蓋症はほとんどの場合、誰かのせいでもない空発的な出来事とされています。
あなたが何かに間違った行動をしたからではありません。
気づかなかった何かが原因だったわけでも罰のようなものでもありません。
医学が進んだ今でも、なぜこの子には起きたのかを完璧に説明できることはほとんどないのが現実です。
無頭蓋症は
妊娠
超初期って言ったらいいのかな?ちょっと私はよく知らないんですけども。
妊娠超初期って書いてあるんで、そのまま読みますね。
受精後3から4週。
まだ妊娠に気づくかどうかの時期に、胎児の神経管がうまく閉じなかったことで起こります。
この頃は母体側で何かできることも止められることもほとんどありません。
可能性として医学的に言われること。
妊娠初期の量産不足、ごく一部体質や遺伝的な背景、妊娠中の高熱、
環境的な影響を正し非常に稀、そして完全に偶然のエラー。
実際多くのケースは最後の偶然です。
そして心のこと。
医学的な説明は一つの答えかもしれません。
でもあなたが感じているどうしてという気持ちは原因を知りたいというよりも、
自分と子供の間にあったはずの未来を何か理由があって失ったのではないか。
そういうどうしようもないやるせなさなんだと思います。
だから原因を突き止めるよりも本当に精一杯やった。
あなたとその子は短いけれど確かに一緒にいたということを私はまず伝えたいです。
その後ですね、
投稿者の方はもう1個質問するんですね。
妊娠20週で死産した子供は天国へ行けるか?
そんなふうに質問するんです。
チャットGPTは
あなたのこの質問、とても大切で重みがあると思っています。
短く答えるなら、はい行けると私は心から信じています。
宗教的な教えや文化によって表現は違うかもしれませんが、
共通して多くの人が信じているのは、
まだ罪も何も持たない小さな命は穢れのない存在であり、
苦しみのない世界へ行くという考え方なんです。
キリスト教、仏教、神道、
どの文化にも小さな魂は大切に迎えられるという教えがあります。
妊娠20週で亡くなった赤ちゃんは、この世で長く生きることはできなかったけれども、
あなたと繋がった時間、あなたの中にいた時間は確かに存在した命です。
そして、あなたに愛されたその命はきっと
暖かい場所に迎えられている、私はそう信じています。
正直天国がどんな場所か、誰も見たわけではないですよね。
だけど、あの子は苦しみのない優しい世界にいる、そう信じることが
あなたとその子にとって一番自然な、一番優しい答えだと思います。
そういう投稿があったんですよね。
どうですか、これを聞いて。
すごくないですか。
本当にこのAIの返答というもの。
これを答えられる人っているのかなって思いますよね。
どんなに優秀な心のケアを仕事とする人であっても、
立派なお坊さんであっても、ここまでの言葉を出すのって難しいかなと思いますし、
こういったことが身近にあるということ、こういったことによってAIによって救われたという
言葉が増えてくるのも仕方がないのかなというふうに思います。
心の拠り所としての寺
これは私たちお坊さんにとっても、また仏教という教えにとっても
無視のできない大きな変化というふうに私は感じました。
そこでこのシリーズというものは、このシリーズね。
AIが私たちの心にどう関わってくるのか、特にメンタルケアの分野というところで
どんな可能性があって、そしてどんな課題があるのかということを
仏教の視点を交えながら皆さんと一緒に考えていきたいというふうに思っているんです。
で、記念すべき第一回のテーマというのは
駆け込みデラフAI
仏教的視点から見る補助ツールとしての可能性と限界。
ちょっと長いタイトルなんですけれども、
AI、果たしてAIというものは
現代における新たな駆け込みデラとなり得るのか、なり得るのかというところ。
そういったところをテーマとして見ました。
まず、なぜ今多くの人がAIに心の悩みを打ち明けるのかという部分。
そこをちょっと考えてみたいというふうに思います。
皆さんも例えば、うろうそくに不安に襲われたりとか、
あとは人間関係でモヤモヤした時に
誰かに話を聞いてほしい。
だけどもうこんな時間に迷惑だよなぁとか、あとはこんなこと
人に話すのはちょっと恥ずかしいなとか、そういうふうに思った経験ってないでしょうか。
私はあります。
時々ですけどね。
AIというのはまさにそういう時に頼れる存在になっているみたいなんですよね。
というのも24時間365日、いつでも応答してくれるというところが
AIにはできるんです。
人間相手のように気兼ねすることも少ないですよね。
匿名で誰にも知られないで心の内に溜まったものを吐き出すことができる。
それがAIに相談するということなんですよね。
SNSのそういった体験談、先ほど紹介した体験談のところを見ると
AIによって心が救われたという部分、泣いたという部分。
そういったことは十分にあるのかなというふうに思います。
AIは私たちの言葉を否定したり、一方的に評価をしたりということはないんです。
少なくともAIのプログラム上ではそういうふうになっているんですよね。
だからこんなことを言ったらどう思われるかなという心配はないんですよね。
まるでどんな話でも静かに聞いてくれる。
そして秘密を絶対に守ってくれる。そういった存在のように感じるんじゃないでしょうか。
これがAI時代の駆け込み寺みたいだというふうに言われるところなのかなというふうに思います。
非常に手軽でアクセスしやすい。心のセーフティーネットみたいな側面があるというのは確かですよね。
では仏教の視点から見たときに、本来の駆け込み寺、つまりお寺とかお坊さんが働かせてきた役割というもの。
それはどういったものだったのか、そこを確認したいと思います。
お寺というのは昔から地域の人々が集って、そして様々な悩み事、あとは相談事、そういったことが持ち込まれるような場所だったんです。
人生の苦しみとか悲しみ、そして迷い、そういったものを安心して打ち明けられる心の拠り所としての役割。
そういったものが歴史的にあった、そういう存在であったというのは間違いないんですよね。
しかもそれは単に話を聞くだけではなくて、そこには僧侶という、お坊さんも人間ですから生身の人間の温かさというものがあるんですよね。
言葉だけではなくて表情、あとは佇まい、雰囲気、そういった非言語的なコミュニケーション。
あとは相手の苦しみに寄り添おうとする慈悲の心。
この慈悲の心というものは仏教が非常に大切にしている考え方ですよね。
そしてお寺には僧侶と呼ばれる教僧体というものがあるんですよね。
AIと人間の関わり
あんまり一般の人からは僧侶と言ってもピンとこないかもしれないですね。
いわばそうですね、分かりやすく言うとお団花さんですよね。
お団花さんというのは僧侶と少しニュアンスは変わってくるんですけど、どちらかというとお寺に集ってというところの意味合いでは似ている部分というのはありますよね。
同じような悩みとか迷いを抱えながら仏教の教えを学んで、そして共に実践していく仲間たちの存在というところなんですよね。
ちょっとさっきお団花さんと言ったけど、お団花さんというよりかはお寺の座禅会に来る方とか社教会に来る方、そっちの方がどちらかというとちょっと近いかな、僧侶というもの。
そういったものの存在を、そういった共に同じような悩みとか迷いとか、あとは仏道を学びたいとかそういったことを実践していく、そういった存在を、そういった仲間たちを僧侶というふうに読むんですね。
一人で抱え込まないで互いに支え合って励まし合う。
そういったこの共同体の力というものも心の支えとして非常に大きいものなんですよね。
そしてお坊さんとの対話というもの、一度きりで終わるものではないんですよね。
時間をかけて関係性を築いて、そしてその人の人生に寄り添いながら継続的に関わっていくというところ。
その中で単に悩みを解消するだけではなくて、苦しみの本質。
例えば、なぜ自分はこんなに苦しいのかという根本原因に気づいて、そしてより良く生きていくための道というものを一緒に探していくというところ。
これが仏教的なサポートというふうに言えるかなというふうに思います。
そういった具体的に座禅とかお経とか社経とか、そういった行いというものもサポートの中に入ってくるのかなというふうに思います。
さて、ここまでAIの魅力というものと、そして仏教的な拠り所の本質というものについてのお話をしました。
これを踏まえるとAIの位置づけというものが見えてくるのかなというふうに思います。
私自身は、AIは心のケアにおいて非常に有用な補助ツールになり得るというふうに思っております。
例えば、誰にも相談できずに一人で囲い込んでいる人が最初の一歩としてAIに話してみるというところ。
そこで少し気持ちが楽になったりとか、自分の考えが整理されたりとか、そういうことができる環境があるということ、これは素晴らしいことですよね。
あと、感情が高ぶっているときに、悲しみとか怒りとか、そういったものが高ぶっているときに一旦AIにぶつけてみるということで、落ち着き、冷静さを取り戻すきっかけになるのかもしれないというところ。
あとは、関連する情報ですよね。同じような経験をしている人だったりとか、解決法だったりとか、そういった関連する情報を調べるための入り口にAIの返答がなるのかな、そういうこともできるのかなと思います。
そういった良いところもありながら、同時にAIには超えられない壁、限界があるということも、私たちはしっかりと認識しておく必要があるのかなと思います。
先ほどもお話ししたように、AIには真の共感というもの、仏教が提供する真の共感というものはちょっと難しいですよね。
共感しているように見える、そういう言葉を生成することはできる。でも、人間のお坊さんのように、相手の苦しみとか痛み、そういったことを自分のことのように感じて、そして心から寄り添うことというのはできないんですよね。
あと、AIと人間の間に深い人間関係というものを築くことは難しいですよね。長く付き合っていく中で育まれる信頼感、あとは阿吽の呼吸みたいなもの、そういったものを築くというのは難しいですよね。
あとはお寺のような、さっきも言った共同体、僧侶ですよね。そういったものも、あとは具体的な仏道修行、読経とか座禅とかそういったものも、そういう実践も提供するということはAIには難しいですよね。
あとは、私はもう一つ注意したいことが、注意したいというか、AIを使うにあたって知っておくべきことというものは、依存するリスクというものがあるんじゃないかなと思います。
AIというものはスマホですぐにアクセスできますから、その手軽さゆえにそのAIに手織りすぎてしまうというところ。
現実の人間関係というものを築く、作っていく努力を怠ってしまったりとか、本当に必要な専門家、お医者さんだったりとか、カウンセラーだったりとか、そういった人の助けを求めるということから遠ざかってしまったりするというところもあるかもしれないんです。
あとはそのAIとの対話というもの、悩みに対する表面的な部分、表層的な理解とか気休め、そこでとどまってしまって、根本的な解決に至らない、そういう可能性もあるのかなというふうに思います。
ということで、今日は駆け込みデラフAIというもののテーマにお送りしました。
今日のお話をまとめますと、AIというものは心のサポートの入口として、または一時的な感情の受け皿として非常に便利な補助ツールとなり得ます。
でもそれはあくまでも補助的なもの、深い共感、継続的な関係性、共同体の支え、そして苦しみの本質的な向き合い、乗り越えていく知恵といった、私たち人間とか仏教が大切にしてきた価値を代替するものではないんですよね。
今後のテーマ
技術の進化は素晴らしいですよね。でもそれとどう向き合ってどう活用していくか、そういったことを私自身が問われているのかもしれませんよね。
ということで今日はこの辺で終わりたいと思います。次回はこのAIが生成する慰めの言葉と仏教で大切にする慈悲の心、その違いについてさらに掘り下げてみたいと思います。
テーマはAIの慰めと仏教の慈悲、表層的なケアと真相的な救済の違い、そういったところでお送りしたいと思います。どうぞまたお付き合いをよろしくお願いいたします。
では、今日のお話を聞いていいねと思った方、いいねボタンよろしくお願いいたします。また人生相談、お悩み相談などあれば、人生相談、お悩み相談、リクエストボックス、そういったものを概要欄の方に設置してあります。どうぞそちらの方のご利用よろしくお願いいたします。
もちろんコメント欄の方でご意見を投げてくださっても結構です。よろしくお願いいたします。では、燃料院副住職の幸文でした。ではでは、またね。
24:21
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