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2025-05-25 15:30

#239 AIの情報整理 vs 仏教の智慧:本当に賢くなるってどういうこと?

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【仏教とAIによるメンタルケア】シリーズ
▼第1回「AIは「駆け込み寺"風"」!?」
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▼第2回「AIの慰めと仏教の慈悲」
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久々の「仏教とAIによるメンタルケア」シリーズ第3弾! 今回は「AIによる思考整理と仏教の正見:情報と智慧のギャップ」というテーマでお届けします。

AIは情報を整理し、複雑なことを分かりやすく説明してくれる素晴らしい能力を持っています。 一方、仏教で大切にする「正見(物事をありのままに見る力)」や「智慧(体験を通じて身につく深い理解)」とは、どのような違いがあるのでしょうか?

AIが提供してくれる便利な「情報」と、私たち自身が実践を通して得るべき「智慧」。 自転車の乗り方を例えに、頭で知っていることと、心と体で本当に理解することのギャップについて考えます。

情報があふれる現代だからこそ、AIとの賢い付き合い方、そして真の智慧を育むことの大切さをお伝えします。
次回はいよいよ最終回、「どこまでが方便か?AIメンタルケアと仏教の譲れない一線」について深掘りします。

ぜひお聴きください!

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サマリー

本エピソードでは、AIの情報整理能力と仏教の知恵について考察しています。AIは私たちの思考や理解を助ける一方で、仏教の教えに根差した証見や知恵には異なる側面があることが明らかになります。AIは情報整理の強力なツールであり、仏教の教えを分かりやすく伝えることができますが、知恵を得るためには内面的な実践が不可欠です。情報と知恵の違いを理解し、真の知恵を求める姿勢を大切にすることが重要です。

AIのメンタルケアと心の救い
どうも、コウブンです。 栃木県の片田川にある蓮城院というお寺で副住職をしております。
今日はですね、久々に 仏教とAIによるメンタルケアシリーズをお送りしたいと思います。
だいぶ時間が空いてしまいました。 言い訳をしますと、
このシリーズは難しいんですよね。 特に皆さんに分かりやすく伝えるために、私はいろいろ勉強するんですけれども、
なかなか言葉というのはうまく出てこなくて、 時間がかかってしまったというような言い訳をするんですが、
考えることをちょっと面倒臭がって、先延ばしにしたというわけでございます。 そんな言い訳はさておき、
今回で第3回目ですね。 前回、第2回目は、AIがくれる慰めの言葉、そして仏教の慈悲の心との違いというものについてのお話でした。
AIは私たちの感情に寄り添うことができる素晴らしい 補助ツールなんだけれども、人間の心の深い部分での救い、
あとは温かい繋がりというそのものには なれないのではないかというようなことを確認をしましたよね。
詳しくは前回の放送を聴いていただきたいと思います。 概要欄の方に貼っておきます。
さて今回は私たちの知的な側面、つまり 考える力、そして理解をする力というものに焦点を当ててみたいというふうに思います。
AIは皆さんもご存知の通り、情報を整理したり、あるいは 複雑なことを分かりやすく説明したりすることが本当に得意なんですよね。
ではそのAIの素晴らしい能力というものは 仏教でとても大切にしている知恵、
あとは物事のありのままに大切に見る証見というものと 同じものなのかという部分ですね。
なので今日のテーマというものは AIによる思考整理と仏教の証見、
情報と知恵のギャップについてなんです。 AIは私たちを本当に賢くしてくれるのかという部分を身近な例えば話を交えて皆さんと考えていきたいというふうに思っております。
ではAIが私たちの思考をどのように助けてくれるのか、 その得意なところを見ていきたいと思います。
AIはまるでものすごく賢くて仕事の早い秘書さん。
今言葉が出なくて時間がかかっちゃいましたけど、秘書さんね。 私みたいなある程度年齢がいくと言葉がパッと出てこないんですけど、こういうことがAIはないですよね。すぐ出てきます。
しかも最近のAIというものは私のスケジュールとかメールとかそういったものにつながってますから、
どことこの誰が誰から来たメールって何だっけとか、
何月何日の日にちのスケジュールってどうなってたっけみたいな雑な質問をしてもきちんと丁寧に分かりやすく答えてくれますね。
AIというものは
情報を集めて整理をして、そして分かりやすく説明するという点においては、
人間が何時間もかかるような作業であったりとか、 面倒くさがってなかなかやらない作業とかというのをほんの数分でやってのけるんですよね。
これは私たちの仕事とか学びを手伝ってくれる 素晴らしい情報整理ツールであったりとか、知識の提供者であるということは間違いないんですよね。
これがAIの得意なところですよね。 そのAIが素晴らしい情報整理ツールであるということはよくわかったんですが、
その次に仏教で大切にしている証言、そして知恵というのは一体どのようなものかというところを確認をしたいと思います。
まずは証言。これはね、正しく見ると書きます。
ただいるなら、どのあった眼鏡をかけることに似ているかもしれませんね。
今まで世の中がぼんやりとしか見えなかった人が、自分にぴったりとあった眼鏡をかけた瞬間に急に世界がクリアに見え始める、そんなイメージでしょうかね。
仏教で言う証言というものは、私たちの過去の経験による思い込み、偏見、
あとは一時的な感情、そういったことに邪魔されることなく、
物事のありのままの姿、真実の姿をはっきりと見ること、それを証言と言うんですよね。
例えば、私たちにとって身近な大切な人、ご両親ご友人、
恋人、奥さん、自分のお子さん、そういったものがね、
いつまでも元気で仲良くいるんだというように思ってしまうんですけども、しかしながら、
いつか必ずお別れが来る、いつか命を失う、病気になってしまう、怪我をしてしまう、そういったことってあるんですよね。
でも、実際にね、そういった場面にあった時に、例えばお葬式、自分の大切な人のお葬式にあった時に、
悲しくてお別れをしたくない、そういう気持ちで心がいっぱいになりますよね。
でも本来であればですよ、本来でありのままを正しく見るんであれば、
その大切な人が命を全うして、その生命活動を終えた、それだけなんですよね。
でも、私たちはいろんな過去の経験によって、思い込みといえば思い込みなんですが、
大事なもの、自分の何かを失ったかというような錯覚をしてしまうということがあるんですよね。
これは何も悪いことではないんですが、ただ、そういった私たちの過去の経験とか感情によって、
真実の姿というものを見えなくなってしまうことってあるんですよね。
だけどそうではないこと、正しくありのままを見るということが、それは正見であると仏教では言っているんですね。
何も過去の経験を否定しているというわけではないんです。
過去の経験があるからこそ私たちは人生を生きる上で、生きやすくなっているという部分は確かにあるんですが、
同時に過去の経験が邪魔をして物事をうまく捉えることができない、あるいは固執してしまって、
いつまでもその考えを得ることから離れることができないということがあるんですよね。
そういったことはない状態、これを正見ということなんですよね。
次に知恵なんですけれども、これは私たちが普段使っている知恵とはちょっと違いますね。
あちらの知恵というのは知識というようなニュアンスの方が強いかな、知恵というと。
だけどその知識だけではない、もうちょっと大きな概念というのが仏教でいう知恵なんですよね。
例えるなら自転車が乗れるようになることみたいなところを想像してもらうとわかりやすいかもしれませんね。
初めて自転車を乗るときに、まず誰かから乗り方を教わって、あるいは本を読んだりとかそういうことをして知識を入れますよね。
これは聞いて学ぶような段階ということですね。
次にこうやってバランスをとって高ペダルをこぐんだなというふうに頭の中で考えてイメージをする、イメトレをするというところですね。
これは考えて理解を深めるというような段階。
そしてその次に実際に自転車にまたがって何度も転んで起き上がって、そして練習を重ねながらやっと体がバランスを覚えて乗れるようになるというようなこと。
この乗れるようになったというような体で覚えた感覚、これが実践して体得をする段階、仏教の知恵というものに近い概念なんですよね。
知恵というものは単に乗り方を知っている、情報を持っているだけではなくて、実際に自転車を自在に乗りこなせる、体得をしている状態ということなんですよね。
つまり体験を通じて身についたということ、これが仏教でいうところの知恵なんですよね。
AIと仏教のギャップ
ここまでAIの情報整理能力と仏教の知恵についてお話をしてきました。
この2つの間には大きいキャップというのがあるのかなと思います。
それは頭で知っていること、つまり情報と心と体で本当に分かっていること、体験を通じて分かったこと、つまり知恵の違いと言えるのではないでしょうか。
AIは先ほどの自転車の例えで言えば、完璧なマニュアル、自転車の乗り方を1から10まで書いた完璧なマニュアルを渡してくれたり、あるいはコツを教えてくれたりするということができるんです。
それはそれで素晴らしい情報なんですが、ただそのマニュアルあるいはコツを暗記しただけでは自転車を乗れるようになるわけではないですよね。
実際に乗ってみて、転んでまた挑戦してというサイクル、その繰り返しの中で、そういった体験の中でやっと体がバランスを取り方を覚え、そして乗れるようになるということなんですよね。
これと同じように仏教においても、AIというものは仏教の教えをとってもわかりやすく説明をしてくれるということは得意です。
諸行無常とはこういうことだ、慈悲とはこういうことだ、そういったことを教えてくれる、こういう意味なんだということはわかるんです。
ただ、その情報をしただけでは、その諸行無常を本当に心の底から実感をして、そして日々の生活の中で一休しなくなるということ、そういうわけではないですよね。
AIが提供するのはあくまでも情報であって、知識なんだということ、それは素晴らしいきっかけやヒントにはなるんですが、それを自分自身のものとして体得をして、そして知恵、仏教でいう知恵に深めていくためには、私たち自身の内面での気づき、あとは日々の生活の中での地道な実践が不可欠ということなんですよね。
ということで、AIによる思考整理と仏教の証言、情報と知恵のギャップというテーマでお話をさせていただきました。
AIは情報を集め、そして整理をして私たちにわかりやすく提示をしてくれる、本当に強力な思考の補助ツールなんですよね。
その恩恵は図り知れないというところです。
しかし、それは仏教が目指す知恵、つまり、物事の本質をありのままに見つめて体験を通じて人格そのものを豊かに変容させていく力というものとは質の異なるものだということを、今日はこのお話を通じて少しでも感じていただけたならば、お話をした甲斐があったらというところです。
仏教の智慧の重要性
現代の情報が溢れている時代だからこそ、手軽に手に入る情報とか知識と、それと時間と手間をかけて事故の内面をじっくりと育んでいくべき知恵というものを決して混同しないようにしたいというふうに思います。
そして、真の知恵とは何かを問い続けて、そしてそれを求める謙虚な姿勢を大切に持ち続けていきたいというふうに私自身も改めて感じました。
さて、次回はいよいよこのシリーズの最終回なんですよね。
テーマはどこまでが方便か。AI、メンタルケアと仏教の譲れない一戦というようなことでお話をしたいと思います。
AIを仏教でいうところの方便、つまり人々を真に導くための一つの巧みな手段としてどのように捉えて、どのように賢く付き合っていくべきなのか。
その際の倫理的な注意点、あとは仏教がどうしても譲ることのできない確信部分について皆さんと一緒に考えていきたいというふうに思っております。
ぜひとも最終回をお楽しみしてお待ちくださいますようよろしくお願いいたします。
それでは今日のお話はここで終わりたいと思います。
今日のお話を聞いていいねと思った方どうぞいいねボタンよろしくお願いいたします。
それと人生相談、あとはお悩み相談、そしてリクエストなどあれば人生相談お悩み相談リクエストボックスというものを概要欄の方にリンクが貼ってあります。
どうぞそちらをご利用してくださいますようよろしくお願いいたします。
もちろんコメント欄の方にご意見をお寄せいただいても結構です。よろしくお願いいたします。
では蓮城院副住職の幸文でした。ではではまたね。
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