1. 喪失感は、突然に
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2025-07-22 18:22

#31 これがいわゆるスティグマ

先日亡くなられた方のご家族が発した「故人の名誉」という言葉について、真意は不明ながらも発した側・受け取った側についてできる限り配慮した発言を心がけながら思うことをお話いたしました。

故人の名誉ため事実を話すと「自死ではなく事故死」という言葉についての違和感 /「自死は不名誉」という偏見があるのでは /WHOも厚生労働省もスティグマに言及 /スティグマは遺族を苦しめる /多くの方へ発信をすることについて /「自殺対策基本法」が浸透していない

サマリー

第31回のエピソードでは、スティグマ(偏見)について深く考察されています。特に、芸能人の死に関連する報道における名誉の概念と、それが遺族に与える影響が掘り下げられています。スティグマや偏見が、特に自死や関連する人々にどのように影響を与えるかについても考察されています。また、ディザス対策基本法の重要性やその後の進展についても触れられ、社会全体の問題としての理解が深められています。

スティグマの導入
喪失感は突然に、第31回目の配信です。
今回は、これがいわゆるスティクマということについて、お話ししたいと思います。
いやー、というか、暑いですね。
今日、スカイツリーに行ってきたんですよ、友人、家族と。
いやー、そしたら人が多いし、暑いし、
スカイツリーって、ちょっと外に出たりとかしなきゃいけなくて、
スミダ水族館に行ったんですけど、
途中、ほんの数分歩いただけで、すっごい暑くて、山込んでるしね。
でも、初めてチンアナゴとか見て、
なんかずっと、なんだっけ、クラゲがすっごい綺麗で、
ちょっとテンション上がって、なんか写真撮ったら、
120枚とかになってて、割と撮ったんだな、みたいな感じの3連休最後でした。
報道と名誉の問題
皆様はどんな感じでお過ごしになったでしょうか。
今回のテーマ、スティクマということなんですけども、
ちょっと前にね、芸能人の方がお亡くなりになられて、
そこでご家族の方が発した言葉を見て、
あー、なんかこう、小骨がチクチクって刺さるような感じで、
このことについてお話ししたいなと思って、
すぐに収録をしようかと思ったんだけど、
ちょっと少し考えてからにしようかなと思って、
いろいろ調べたりとかしてて、
それでね、読んだ方はどのように思われたかって、
人それぞれだと思うんですけども、
やはり私がモヤモヤってしたのと同じように、
モヤモヤってした方がSNSにいたりとかして、
うんうん、わかるわかる、みたいな感じで読んでたんです。
その言葉っていうのが、
個人の名誉のために申し上げます、みたいな感じから始まり、
自施ではなく自己死です、っていうようなコメントだったんですね。
これを読んだ時に、
こう、いろいろなことが思い浮かんだわけです。
個人の名誉っていうのは、どこにかかってくるのかっていうことなんですけども、
おそらく亡くなった報道から、
そのコメントが出るまで数日あったことで、
多分いろんな憶測が飛び交ってしまったと思うんです。
その報道の時も、やはりそのご自宅で亡くなられたっていうことから、
誰々と見られる、みたいな言い方とかがされてたから、
それでいろんな憶測が飛び交い、
それに関して、勝手なことを言わないでほしい、ということの意味で、
名誉のためっていうふうに言ったのか、
猫ちゃんがいたらしくて、その猫ちゃんを置いていったわけじゃない、みたいなことの意味、
出会ってもちょっとモヤモヤするんですけど、
いろんなことがあっての言葉だと思うんですけど、
その事実を述べるときに、
名誉って言葉を使う必要があったかどうか、というところだと思うんです。
発信された方々たちは、おそらくそう思ったんだと思うんです。
それも仕方ないと思うんですね。
それぞれ思うことは違いますし、
何を名誉で何を不名誉だって思うのも、それぞれ違うわけですから。
しかしながら、あの言葉をパッと読んだときに、
自私で身近な人、大切な人を亡くされた方からしたら、
自私は不名誉なのか、というところに結びつくと思うんですね。
同じ言葉を聞いても、結びつかない人たちがいる、
それも身近に自私で、どなたかを亡くされた方がいない場合だと、
いろんな憶測が飛び交っている中、
その方のことを好きだった人たちというのは、
勝手なことを言うなよという気持ちに、おそらくなるんじゃないかなと、
そのときに事実をきちんと伝えたことによって、
安心したというふうに思うと思うんですね。
ただそこに対して、名誉というところはどこに一番結びつくか、
というところになるかなと。
なので、難しいなぁとは思うんですが、
私自身は思うことは自由だと思うんです。
自私が不名誉だって思う方もいる。
私は思わないけど。
けれども思ったことを発したことで、
それはもういわゆるステグマ、偏見なんですよね。
それはもうWHOだって言っているし、
厚生労働省の有識者会議でさえもステグマで、
遺族は苦しめられるというふうに、
皆さん述べられているわけなんですね。
なので、やはり責められることではないかもしれないけど、
無知による発言ではないかというふうに私は思いました。
やはり何かを公に発するということに対しては、
全ての人に届く言葉ってないとは思うのですが、
不要意に傷つくような言葉、分断するような言葉は、
控えるべきだと私は思っていて、
あの事実を述べるということに対しては、
もちろん良いというか、するべきなのかなと思うんですが、
名誉か名誉じゃないかというところというのは、
本当習慣でしかないし、
ちょっと強い言葉になってしまうかもしれませんが、
個人の名誉、個人はもう亡くなられているわけで、
その方の名誉が不名誉かどうかって、
残された方たちが考えられることではないと私は思うんです。
なのであの言葉を読んだ時に、個人の名誉ではなくて、
残された方たちの名誉だったのではないかなというふうに思いました。
個人の視点と思索
本当に自分は芸能人でもないし、
ものすごいいろんなことに巻き込まれてしまう状況になるわけですから、
通常の感覚とか思いとかって難しいのかもしれないなと思ったりもするんですね。
例えば自分でも、普通の時は全然問題なく考えられることが、
焦ってたりとか怒ってたりとか悲しんでたりとか、
一部の感情が強い時に同じことを考えられるかというと、
多分それはまた難しい話なので、
本当に大変な状況の中で、
あのコメントを出されているということも思うので、
ただひたすら言葉の解像度が低すぎるなっていうのが私の感想です。
それでもね、小骨がずっと喉に引っかかっている感じはずっとありますよね。
このステグマ、偏見、ステレオタイプ的な考え方というか、
そういうのがやはり根付いている社会でもあるんだなというふうに思ったんですよね。
自分自身としては誰かから、
そういった偏見みたいなことを言われたことはなくて、
一番身近に感じるのは、
妊娠事故があった時ですかね。
ああいう時は、
SNS見ちゃうとモヤって感じはするコメントはいくつかありますよね。
あれはずっと慣れないっていうか、
もちろん自分が乗る路線で起こることもあるので、
そういう時は帰れないなぐらいで、
どっかで時間潰そうかなぐらいで留まりますけども、
早く帰りたかったなっていう気持ちは少しどうしてもあってしまうし、
それと同時に何があったのかなとか、
どんな人なんだろうとか、
そんな深くはないですけども、
少し浅めにはなりますけども、
ちょっと思いを馳せるような気持ちになったりしますし、
そういう時に強い言葉を見てしまうと、
自分のことじゃないのに、
自分が言われたわけでもないのに、
もう見なかったことにしようみたいなので離れるとかありますし、
そういうのを思い出すような感じでしたね。
今回のこの発言っていうのは。
名誉とか調べちゃいましたよね。
名誉って何だろう。
読めば読むほど、
あのコメントが不適切ではないかっていう風に思わざるを得ないというか、
名誉って何だろうとか、だんだんこう分かんなくなってきてしまって、
でも、その方が今どういう状況に置かれてるかって私はやっぱり分からないので、
その方が本当そう思ったのであれば、
スティグマと偏見の考察
それで何かこう少し救われるっていうのであれば、
その方たちにとったらいいのかもしれないけど、
多くの人が見る、
インターネットって今ね、やっぱこう、
昔よりも全然いろんな人に届くツールなので、
どこまでの範囲を考慮して発言すればいいかって考えると、
本当難しいとは思うんです。
だからこの偏見っていうところっていうのは、
そういうとこに出てしまうものなのかなというふうに思うんですよね。
あと、こうやって発言した方は、
それで個人の名誉が守られたっていうふうに思って、
少しは安堵というか、思えるのかもしれない。
それを向けられた数々の方たち、
その人たちは不名誉だったのかとか、
例えばさっきそのね、
猫ちゃんたちを置いて死んでたわけじゃないっていう意味で、
仮にね、
そういう意味で言ったとしたら、
じゃあ家族を残していった人とか、
最愛の人を残していった人とか、
動物を置いていった人とかっていう人も、
亡くなった人たくさんいると思うんですけど、
その人たちは本当に置いていきたかったのかっていうところまで、
考えついてない発言にもなるんですよね。
みんなこう、
好きで死んでいったわけじゃないっていうふうに、
法律でもそれは言われているわけですよ。
その個人の問題ではなく、
ディザス対策基本法の意義
社会全体の問題で、
追い込まれた死だというふうに言われているわけです。
20年前に日本では、
ディザス対策基本法というものができまして、
それっていうのは、
発端というか始まったきっかけっていうのは、
親を亡くした子どもたちが声を上げて、
そこから運動が始まり、
基本法、法律が出来上がったという歴史があるんですけども、
なんか、
20年経っていても、
こういった無知による偏見、
スティグマがある、
不名誉だっていうふうに言われてしまうのは、
法律の敗北だなというのをね、
ちょっと思った次第でしたね、あの発言は。
令和4年の厚生労働省の有識者会議の中で、
スティグマの解消というふうなのが挙げられていて、
ちょっと読むと、
現在のディザス対策対抗において、
ここにおいて、
自殺はその多くが追い込まれた末の死であるとされている。
引き続き、自殺を社会の問題として捉え、
広く関係者が連携して、
ディザス対策を推進していく必要がある。
そこで、自殺はその多くが追い込まれた末の死である、
ということを浸透させるため、
自殺予防習慣やディザス対策強化月間、
ゲートキーパー普及時などの機会を活用し、
普及啓発していくべきである。
って書いてあるんだよね。
このディザス対策基本法ができた2005年、2006年くらいって、
ちょっとどういう状況だったか、
でも私その時もうお父さん死んでたか。
とはいえ、
SNS、Twitterがね、
バーってやり始めたのが2007年だから、
とはいえそんな多くの意見見ないし、
周りの人にそんなに話をしてたわけでも、
事実として何人かは知ってたと思うけど、
そんな話すこともなかったから、
今回もね、
全然知らない人だし、
そういった偏見があるのはいたしかないにしても、
多くの人に目が止まるようなところでの言葉、
まあでもそれ偏見って言えば、
自分でもどれが偏見だかって、
分かんない部分もたくさんあると思うんですよ。
言われてみてこれ偏見だなって言われることもあるかもしれないし、
だから本当偏見に気づくっていうこと自体がそもそも難しいなあって、
本当あの発言だけでいろんなこと考えたなあっていうか、
それと、
あの人、
方たちは自私が不名誉だって思っていても、
それは私たちというか、
悲しんでしまった人たちの真実とは絶対違うと思うんです。
私たちは私たち、
ごめんなさい連帯しちゃった。
すみません勝手に仲間感出しちゃって申し訳ないんですけども、
あなたが不名誉だって思っても、
私は父や兄が自私で亡くなったことを不名誉だと思わないし、
そもそも名誉ってなんだよって思ったぐらいだし、
あとSNSでまさにと思ったコメントが、
自私と自個私がどっちが名誉で不名誉なんだろうみたいなことを書いている人もいて、
本当私もそれはすごく思った。
なので、
本当はあなたはあなた、私は私ということで、
発言をこう切り分けられるといいんだなあって、
まあそうじゃない時もたくさんあるんだけども、
私の大切な人は私自身しかわからないことだから、
あんまり振り回されずに日々を過ごしていけたらいいなというふうに思いました。
今回はこのあたりで終わりにしたいと思います。
またねー。
18:22

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