喪失感の探求
喪失感は、突然に、第30回目の配信です。
今回は、隣にひっつく空いた穴、ということについて、お話ししていきたいと思います。
というか、ここ数日、ものすごい雨が降ってから、とても過ごしやすい気温で、
このまま続けばいいなーって思うけど、またすぐに暑くなってしまうから、
本当に皆様もご自愛の方をしていただければと思います。
夏バテとかしやすくなるし、あと熱中症が本当に危険だから、
うちの親とか、クーラーとか全然つけなかった人なんだけども、
去年、今年にかけて、やっとね、ちゃんとクーラーつけてくれるようになって、一安心っていうところです。
ということで、今日は、隣にひっつく空いた穴、大切な人、ペットだったりとか、
そういった人たち、ペットたち、こういうとき、本当に難しいなと思うと話が変わりますけど、
人っていうふうに言いがちなんだけども、別に人だけじゃないじゃないですか。
一緒に住んでたペットも、やはり、亡くなった時の喪失感とかすごいたくさんあるし、
人やペットって言い方って、ものすごい急に何だろう、わざわざ言った感があって、
本当は一つに網羅した言葉があるといいなって思うんですよね。
大切な、物っていうと、そこには生命がない感じだし、
でも、物だって亡くなったら悲しいしとか、難しいですよね。
人間とペットを総称して何か数えられる値というか、
あればいいなといつも思っています。
人って言ってしまいがちなんですけども、もちろんそれは人じゃなくても、
ペットだったりとかするとか、物だったりするのもあるので、
そういうふうに聞いていただければなというふうに思っています。
比喩の形
ということで、この空いた穴、まさに喪失感というものにもなるんですけども、
どうしてもね、この穴を埋めがちになるんですよね。
どうしてもね、この穴を埋めがちになってしまうというか、
でも、絶対埋まらないだろうという気持ちもありながら、
この穴と一緒にくっつき合っていくわけですけども、
今回この話をしようと思ったのは、
まず穴からちょっと置いておいて、
私が今まで使いがちだった言葉の代わりとして、
この穴が話せるかなと思ったんですね。
使いがちだった言葉というのは、地雷という言葉でした。
父が亡くなってから過ごしてきた日々の中で、
いつどこでつらい思いが出てくるかわからないことがたくさんあって、
それを、地雷がどこに埋まっているかわからないというような表現を
わりとしていた気がするんですね。
自分でも踏んでしまうとか、相手にも踏まれてしまうというか、
どこに埋まっているかわからないから、
だから以前フォトキャストでもお話ししたことがあって、
世界が一変する言葉っていうのも、
その時にお話ししたんですけども、あるセミナーに出てて、
そしたら神殿図の話になって、
神殿図の話に何があって、
比喩だったんですけど、アクセス解析の比喩で、
ピーッと神殿図に一直線になったみたいな話を、
要はアクセスがなくなったっていうことを言いたかったんですけど、
実際、私は父が亡くなった時に、
ピーッて音を聞いてるし、一直線になったのも見てるんです。
だからそのセミナーを聞いてたけど、
もう一瞬で、その時点で、
この悲しみみたいなのがブワーッと出てきてしまって、
それはオンラインだったから、もうすぐに画面消して、
もう違うことをし始めた、というようなことがあって、
だからこれも、どこに地雷が埋まっているかわからないの一つの例で、
私もわからないわけなんですよ。
この時点で、
いきなり悲しみとか辛さがブワーッと出てくるし、
どんな言葉で自分が反応するかもわからないし、
その比喩として地雷というのを使ってしまっていて、
でも実際に、さっきの話のように、
比喩で使ってしまってるけども、
世界各国で地雷の比喩というのを、
たくさん出てる。
私も20歳ぐらいの時に、
20歳ちょっと過ぎてから、カンボジアに行く機会があって、
それでやっぱりいろんな歴史を読んだりとかすると、
今でも埋まっているということで、
私が行った時も、ある遺跡見に行く時、
兵士の人が一緒について、
この先はもう地雷だという看板があったりとか、
感情の変化
知っている道を通ったりとかしたわけですね。
やはりそう思うと、
自分も安易に比喩を使っているというか、
すごい的確な比喩でもあって、
でも実際の地雷というのは、
全然違うものだから、
どういうふうに表現するのが適切なんだろうかというふうに、
一時期考えたことがあって、
あんまり答えが出なかったから、
だから地雷という言葉を使うのをやめようと思って、
どこで地雷を使うのかというと、
どこでつらい思いをするかわからないという表現だったりする言い方に変えたんですね。
そういうことをしていた時に、
ふと誰かとお話ししている時に、
地雷を踏むのではなくて、
穴がいつも横にあるというようなイメージが私の中で、
今までは穴を見つめているという感じだったんです。
亡くなった人が本当はいたのに、
ぼっかり穴が開いてしまって、
その穴が埋まらなくてつらいとかだったんだけども、
話している時に、自分の真横にいつも、
地雷を踏むのではなくて、
ぼっかりとした穴がひっついている感じ。
私が歩けば、その穴も一緒についてきて、
ずっと横に並んでいるイメージ。
そういったイメージが出てきたのも、
以前読んだあらゆることが今起こるという本。
これはADHDと診断された作家の方が書いた本のエッセイなんだけども、
そこでいろんな時間が流れているという話をされていて、
自分も何かあった時に、
過去に戻されてつらくなるという感じだったんだけども、
いつも横につらいことがあって、
その瞬時に横にあるから、
巻き戻るという感じがあって、
つらさもいつも横にあるから、
いつもひっついている感じ。
だから、瞬時に今生きている時間軸と
つらい時間軸が一瞬で変わるというか、
というふうにイメージするようになったんですね。
私は視覚優位な感じがあって、
視覚優位な感じがあって、
音楽も歌詞を読んで、
いろんな映像が出てきた方が好きになる割合が多いとか、
いろいろあるんですけど、
そこで穴はいつも横にあって、
ひっついてはいるものの距離感は
一瞬で変わるというか、
自分の周りの環境が変わったことによって、
例えば雨が降るとか風が吹くとかということで、
たぶん突風が吹いた。
突風が吹いて私はその穴に落ちちゃったというようなイメージ。
だから、それで急につらくなった。
そういうふうに考えたら、
あ、そっかそっか、自分が急につらくなることっていうのは、
雨が降ったり風が吹いたり土砂降りになったりしたときに、
その穴に落ちてしまう。
その落ちてしまう時も、いろいろ準備していれば、
落ちても登ってこれるとか。
映画とかで悲しい映画を見ますよってなった時には、
準備するわけじゃないですか。
今から悲しい映画を見に行くからみたいな。
だから、例えば自分の中に刺さる何かがあったとしても、
それは想定内というか、落ちちゃいはするけども、
登ってこれるとか。
そしたら、地雷っていう言葉は、
多分自分の中では使わなくてもいい言葉になって、
いつもどこでも隣に穴がある。
いつでも落ちるみたいな。
そうなってくると、
悲しみと空いた穴のイメージ
私が急につらくなったり悲しくなったり、
するのって、もうしょうがないというか。
だって近くに穴があるから、ちょっと踏み外したら落ちるよねっていう。
それは私の問題ではなくて、そこに穴があるんだからみたいな。
かといってね、
悲しみが軽くなるとか、
わけじゃないけども、
自分にとってイメージしやすい
理解の仕方っていうのを一つ手に入れることによって、
悲しみの耐性と準備ができるんじゃないかな。
でも、こんな風に
冷静に思えたのって、
ぼっかり空いた穴が隣にあるっていうのを持ったイメージを
自分にとって、
自分にとって最も
理解とか納得とか
自分にとって最も
自分にとって最も
自分にとって最も
理解とかできるものが見つかると
少し対処もしやすくなるのかなっていう風に思ってます。
私の場合は、横にずっと穴があるっていう風に思えたのは、
もちろん時間がかかっていますけども、
兄が亡くなった時に
私はそれまで
兄さんの死よりも悲しいことなんか絶対ない。
これは絶対って思うぐらいに思ってたんです。
あんな辛いことはないだろうって。
でも兄が亡くなって
絶対ないなんてないんだって思って
それで、それまでは
でも無理だよねとは思ってたんです。
でも、終わりがあることを少し期待したような感じで
いつ終わるんだろうかと思ってた気がするんですけど
兄が亡くなった後に
もうこれ終わらないんだなって思って
それで、終わらないならって
そういう覚悟が悲しみ続ける覚悟みたいなのが
沸き起こったら
悲しむことについて
いつまで続くんだろうというような気持ちはなくなって
もう悲しいから悲しいで仕方がない。
辛いから辛いみたいなので
先が不確かよりも
無期限って思う方が私にとって楽だった。
そういった流れの中で
横に穴がいつでもあるという風に行き着いたところではあるので
実際、本当はその穴が埋まればいいかなと思うんですよ。
喪失感と向き合う
もう二度と戻ってこない何かで埋めるのが
もうそれは無理かもしれないので
そうではなくて、他のもので埋められたという風に
理解できれば、それはそれでもう穴ではなくなるだろうし
なんかこの穴が
だいぶ深くなくなっているような感覚もあるんですね。
特に父は31年経っているので
兄と比べた時に
その辛さというのが来るのがだいぶ少なくなっていて
その中に
小さい頃から大事なものを入れとくケースというものがあって
それをふと開いて見ていたんですね。
そしたら父の写真が入っていて
これは私が全然生まれる前の若い頃の写真なんですけれども
写真の裏に文字が書いてあって
以前見た時この文字見なかった気がするんですけど
そこには記憶のためには忘却が必要であること
人は涙を流して忘却するって書いてあって
これは本の一節だと思うんです。
この本の一節で
忘却とか涙を流すということに対して
すごく興味を持った本の一節なんですけど
その後が自分の中でグッときてしまった
何かの引用なのか自分で作ったのかわからないんですけど
あなたの唐突なそして永遠の不在を
悲しめばそれはあなたを責めることになるのでしょうか
って書いてあって
あなたの唐突なで少しのスペースがあって
そして永遠の不在をの間も少しスペースがあって
悲しめばって書いてあって
これ何かの上が本の引用だから
これが本の一節だと思うんですけど
この本の一節は
本当にあまりにも
あまりにも
あまりにも
あまりにも
これはやっぱこの父を亡くしたことが悲しいっていうよりも 父を亡くした昔の私
のことを思って多分私が涙を流して今ね 流しているのかなぁと思ったりとかして
だからなんかこう 思いを馳せているのは父というよりも昔の自分
だからこうやってみるとまた本当頑張って生きてきたなぁとか ちょっと思えたりとかねするんですよね だからこう書いた言葉っていうのは結構残ったりとか私しているから
本当 よく頑張ったねっていうふうに
今はねこう思えたりします ということで
なんかまあその穴の話をしたんですけども
何が 良いのか
生まればいいのか 納得して一緒に歩けばいいのか
ちょっとわからないんですけども でも
そういった まあこのタイトルの喪失感が突然にっていうのはその穴に突風で自分が落ちちゃう時
というとこでもしその 落ちてしまって
こう疎くなってしまうこともきっとあるんじゃないかなぁと思うので なんかこう
そういう時にこのポッドキャストを 聞いて
なんかこう 一緒にはちょっといることはできませんけども
でも
その中にいるイメージ私は 少しはできると思うので
なんかほんのちょっとでもこう登る道具に なれたらいいなぁというふうに
思っています 今回はこのあたりで終わりにしたいと思います
またねー