1. 喪失感は、突然に
  2. #40 別れの準備なんてできる..
2025-09-30 18:58

#40 別れの準備なんてできるのだろうか

雑談タイム:角田光代さん「坂の途中の家」について / 内容が壮絶で気分がやや沈む / 安室さんのライブ映像を見て復活

『葬送のフリーレン』内で発せられる言葉(音声内でフェルンが言ったは間違いで「フリーレン」が発した言葉 / 9歳の子ができている「別れの準備」を私はできるのだろうか / 母との別れに備えるためには / すぐ元気になれるものを用意 / 久しぶりにダライ・ラマの本を読む / 死に関する本を読んでおくなど(チベット死者の書、死の瞬間)/ 多分看取りを初めての経験をする予定 / 知識を取り入れ準備していく

サマリー

今回のエピソードでは、別れに向けた心の準備を、特に『フリーレン』という作品のキャラクターの視点から考察しています。また、角田光雄の作品が引き起こす感情や、個々の経験の影響についても触れています。このエピソードでは、別れに対する準備や心の状態を掘り下げ、ダライ・ラマの教えや死に関する書籍の重要性が語られています。さらに、家族の死に対する心構えや、日々の生き方についても考察されています。

別れの準備の考察
喪失感は、突然に、第40回目の配信です。今回は、別れの準備なんてできるのだろうか、ということについてお話ししたいと思います。
今日の本題に入る前の雑談なんですけども、この間、角田光雄さんという作家の「坂の途中の家」という本を、小説を読んだんですよ。
ある心理師の方が、大傑作だというふうに書かれていたので、他人の心を想像するということはどういうことなのか、ということが書かれていたから、ちょっと気になって、
内容とか全く読まずに買ったんですよ、Kindleで。そしたら、乳幼児虐待死事件の裁判員裁判の補欠裁判員になってしまった主婦の方の話で、
私、絶対自分でこの本の内容だったら読まないだろうなというもので、ニュースでも聞くの、見るのつらいから、小説なんてもっとつらそうだし、というので買ってしまったし、読んでみたら、
何かこう、自分と全くかけ離れた、何か一つも環境的に同じものがないというか、女性というぐらい、主人公の人とね、女性というぐらいしか共通でないんじゃないかというぐらい。
で、それでも、こう、何か、主人公の人だったり、虐待死というか、虐待というか、何かもういろんなことを追い詰められて、それでこう、泣き止む、泣き止ませるために、水の中に、お風呂の中に沈めてしまったみたいな話で、
まあ全然その許される問題ではないんですけども、その人が、何だろうな、追い詰められたとは本人は全く言ってないんだけども、いろんな証言台に立つ人の話を、こう、淡々とこう、書かれていくわけなんですけど、
なんかこう、それを聞き読むだけで、とか、あと、裁判院、主婦の方っていうのが結構、ちょっと似てるんですよ、状況。状況というか、子どもも、多分同じぐらい年、ちょっと上だったのかな、いてえ、とか。
その人も、今まで問題なかった自分の日常の中で、いろんなことが疑心暗鬼になっていく状況が、淡々とまたそこにも描かれていくんです。
だからこう、被疑者になった気分とか、補欠裁判員に選ばれてしまった主婦の人の、なんか疑似体験ではないんだけどもしていくような感覚になっていってしまって、いつもこう電車の中で読んでたんですよ。
だから降りるとなんかすごいね、ずっとね、気持ちがドヨーンとしてて、最初は気づかなかったんです。その本のせいだって。でも仕事行く時とかの行き道でちょっとドヨーンとして、すぐに仕事始まるからそんな別に引きずらないけども、
帰りの電車が、毎回家に着く間とか、家にいても、なんか気持ちが優れないとか。ちょっとね、親にね、ちょっと強く当たってしまったのが、その本の影響のような気もしてきてしまって。
いやこれちょっと良くないなぁと思って。いやいやいやダメだと思って、なんか気持ち切り替えようと思って。何したかったら、アムロさんのライブ映像見に行ってるとかしてたら、なんかこうかわいいとかかっこいいとかニヤニヤとかして、なんかちょっとそれで普通に戻ったから、まあそれぐらいで良かったんだけど。
結構なんか、今までこういう壮絶な内容の本を読んだことがなかったので、すごいなんかこう揺さぶられた読書でっていう、もうすごい体験だった。
ずっとね、角田光雄さんの本読んでみたいなぁと思っていたので、まあ良い機会だなぁって。でもう一冊あって、なんかその本は女性同士の友情とかなんかそんな話だったから、まあその本しかなかったからなんだけど、まあそれは多分大丈夫だと思うんですけど、
もうすっごいなんかこう、一人一人の登場人物のセリフとかは、ほんとありきたりな、普通のどこにでも言いそうなっていうかあれなんだけど、なんか人とが言いそうな言葉だったりとかするんだけども、なんかそれがこう全部ね、押し寄せてくるのなんかこう自分に、すごい読書体験だったなぁと思って。
なのでちょっとなんかね、まあその本の中でも、なんかこう、本当は励ましで言った言葉だっただろう。旦那さん夫の言葉が、主婦の人にしとったら、すごいこう、いや実はこういう意味なんじゃないかみたいなことになっていく様が、私もそっち側だなぁみたいな思ったりとかして。
ほんとこう捉え方一つで、ガラッとこう変わってしまうというか、まあ最後ね、なんかこう、カラッとした感じではないけど、でもこう引きずんない感じで終わったから、まあそれはそれで良かったなぁと思って。
角田光雄の影響
ということで、話の本題に今度は入っていくんですけども、この別れの準備っていう言葉なんですけど、たびたび話をしている曹操のフリーレンの結構序盤で出てくるセリフで、その勇者一行、
ちょっと省きますよ、詳しい内容は、気になる方はちょっと検索していただければと思うんですけど、勇者一行の中にいたハイターという僧侶がいるんですけども、
その人が4歳から6歳ぐらいの女の子、千歳五十の子を引き取るんですけども、その引き取った後にフリーレンが遊びに来るわけで、そこでフリーレンがフェルンに魔法を教えていくわけなんですけども、
フェルンはそのハイターの側で解放するよりも、自分が一人で生きていける一人前の魔法使いになることの方が恩返しだというふうに思っているんですよ。
それを聞いたフリーレンが、もう自由に魔法の修行をすることを見届ける形になって、もう一人前だというふうにフリーレンが言ったときに、ハイターはもうこの家から旅立ってくださいというふうに、
自分の子を彼女に見せたくない、もう辛い別れをさせたくないというふうに言うんですけど、それを聞いたときに、いくら見ないからって、別れは別れだろうって思ったんですけどね、そこでフリーレンが、フェルンはもう別れの準備はとっくにできているというふうにこの言葉を言うわけですよ。
だからフリーレンはハイターに、お前がやるべきことは少しでも多くの思い出を作ってやることだというふうに言って、最後死を見届けて二人旅立っていくんですよ。
別れの準備ができているっていうのって、果たして自分はおそらく母の死を見とることになると思うんですけど、できるのかなって、結構何回もこのフリーレン見ているんですけど、この間見たときに初めてそれを思って、
9歳のフェルンができて、私ができないのはちょっととか思ったりとか、漫画なのでね、フィクションではあるんですけど、でもすごい説得力がその言葉にあったんですよ、フリーレンが言ったときに。
やっぱり4,5歳のときにフェルンはもう死んでしまおうって思って、そこでハイターの言葉に助けられて、それで一緒に暮らしていくっていうものをずっと受けながらフェルンは育っていっていくわけで、多分いろんなハイターからいろんなことを学んだりとか教わったりとかして、
ハイターもね、もっと褒めて導いてあげないといけないっていう風なのを言ったりとかしていたので、おそらくフェルンはすごい愛を感じて生きてきたんじゃないかなって思ってはいるって、
そんな人が自分よりも先に亡くなるっていうのを小さい体で受け止めて、死期を悟っているハイターのそばにいるよりも自分は修行をして、早く一人前になってその姿をハイターに見せるんだって思うのが強い。
感情の揺さぶり
私もなんかこう、その姿を見て、自分もそういう風にきっとなった方がいいんだろうっていう風に多分思ったんだと思うんですよ。
だから何十回も見ているのにその言葉、もちろん気にはなってたけども、今回見たときはすごいその言葉が目をとるぐらいに響いたから、なんか感じるものが。
まあちょっとね、最近こけたりとかしてしまったのもあって足が痛いって言ってるからなのかもしれないんですけど、だからなんかそういった準備、何ができるんだろうなというのをよく思っています。
まあその場にならないと、もちろんその悲しみだったりするのは想像できるけど、悲しいのは悲しいだろうけども、それでも私はおそらく生きていくだろうし。
なんだろうな、自分がこう、そのときに体調とか身体、あの心身ともにどういう状態になっているかが、もちろん未知数で、元気ならばまあなんかいろいろどうにかなるだろうけども、でも元気なかって、元気ないときにお母さんが死んじゃったらもっとやばいだろうな。
それはもうどうしようもないか。ただ、何かこう、こうしとこうとか、ああしとこうとかっていう準備はやっぱり必要だと思ったんですよ。
例えば、坂の途中の家を見て、めちゃくちゃこう、なんかわかんないけどモヤモヤしたものがずっと残っていて、言葉もなんかトゲトゲしている自分に気づいたときに、ああ、これはよくないよくないと思って、顔がすぐににやけられるものっていうのが、私にとったら、
アムロさんの曲だったり、ライブ映像だったりっていうのはもうずっと前にこう、意識的にこう気づいたというか、これ何かあったときに絶対ここにアクセスしようっていうふうに思ったんですよ。
だから、いつでも見れるようにしている。それはすごい小手先ではあるんですけども、小手先だからこそ、すごい早くこう接続できる。
そういったものを、この間のお守りの言葉とかじゃないですけど、お守りの曲もそうかもしれませんし、すぐにアクセスできる何かを手に入れておくことっていうのはすごく重要だなと思っていて。
ちょっと話が飛ぶようかもしれませんけども、私、以前とか今もですけど、チベットが好きなんですよ。
ダライラマが割と好きで、結構いろいろ本を読んでいて、友達にダライラマが好きだって話をしたんですよ。
教えというか、本から結構影響を受けているみたいな話をしたんですけど、具体的に何をどうっていうのがうまく言えなくて、
ダライラマの本とかチベットの興味からすごく離れていたなと思って、数十年。
それで久しぶりにダライラマの本を読んだりとかしていて、そうそうこうこうみたいな感じで。
以前友達にアドラ好きなのって言われたことがあって、アドラ名前は知ってるけど読んだことないみたいな話になって、
なんか考え方がアドラの本に書かれているようなことだとか言ってて。
そしたら自分が影響を受けたなと思っているのはダライラマだったり、あと星野道夫さんっていう写真家の方だったりとかしているんだけども、
それでその時は読み返すことはなかったんですけど、今回なんかもっとちゃんと思い出そうと思って、
いろいろダライラマの本を読んだり、それはチベット死者の章ってあったなと思って。
あれってすごい昔ブームになったのって知ってる方がいたら同世代じゃないかなと思って。
内容はその時私はあんまりわからなかったけど、亡くなってから49日の間、
肉体はもう停止はしているけども、魂がどこに行くかっていう、魂に話しかけるというか、導いていくための書なんですよ。
死難書というか。で、久しぶりに読んでみたら、ああそういえばこういうの読んだ読んだみたいな思い出して、
もしかしたらそういう死に関する本を読むことで落ち着けるかもしれない。
あとキューブラロスの死の瞬間っていう本も結局あれ途中までしか読まなかったんじゃないかなと思って。
なのでこう死に関する本をちょっと入れとくことで、まあ辛いのは辛いだろうけども、
準備というか、まあ今さ、結構ね、長生きをされる方も多いから、もしかしたらあと今82歳とかだから10年弱は生きていただけてほしいんだけど、
なんかこう、今まで父と兄が亡くなったのって、弟子だから突然亡くなっていて、
それはそれですごい辛かったし、なんかこう突然やってきて、なんかもうどうしようもなかった。
けども、お兄ちゃんの時は以前も歩んできた道みたいなのがあって、
自分がこうある程度どうなるかというか、どういう感じで辛くなるのかっていうのが、
まあその全然わかんないわけじゃなかったから、なんか全然良くないんですけど、
でも今回見とるっていうのがやっぱり初めてになるわけで、こう弱っていく母を見ていくのかもしれないし、
座ってくるとまた読む本が変わってくるのかもしれないけど、
ちょっとこう定期的に自分の中に取り込んでいっとこうというふうに思っているので、
これも一つの準備なのかなというふうに思っています。
死に関する書籍の役割
では今日はこのあたりで終わりにしたいと思います。またねー。
18:58

コメント

スクロール