新潟の開港と教育の始まり
- こんにちは。今回はですね、開港したばかりの新潟にやってきた2人のアメリカ人教育者、サミュエル・ブラウンとメアリー・キダ、この2人に焦点を当てて、当時の教育とか文化にどんな影響があったのか、一緒に見ていきたいと思います。
- はい。今回の話は、主に敬和学園大学の元学長でいらっしゃった山田幸太さんへのインタビューが元になっています。新潟の歴史と、それからキリスト教系の大学という背景からの視点が、なかなか興味深いんですよ。
- そうなんですね。彼らの新潟での滞在って聞くと、たった1年くらいだったとか。
- そうなんです。短いんです。
- でもその短さの割にはいろいろあったみたいで、一体何があったのか、そしてどんなものを残していったのか、そのあたりを掘り下げていきましょうか。
まずちょっと意外だったのが、新潟の開港、約束された5つの港の一番遅かった、1869年。
- そうですね。
- これ、戊辰戦争の直後っていうのはありますけど、なんでまたこんなに遅れちゃったんですかね。
- それがですね、理由は大きく2つありまして、1つはおっしゃる通り戊辰戦争。特に新潟周辺は北越戦争が激しかった。
新政府軍と旧幕府軍の戦いですね。その影響が大きい。
- なるほど。
- もう1つは、新潟港って川の港、品の川の河口にあるので、どうしても土砂がたまって浅くなっちゃうんですね。
- あー、港自体の問題も。
- 当時の大きな外国船、西洋の船が入るには、大規模な巡舌工事、つまり土砂を取り除く工事が必要だったんです。
- なるほど。この遅れが、結果的に日本の経済の中心が、太平洋側に移っていく1つのきっかけになったとも言われてますね。
- あー、そういう背景があったんですね。
- で、そんなタイミングでブラウンとキダがやってくるわけですね。
- しかも、船教師としてじゃなくて、管理図新潟英学校の先生として、これはどういう学校だったんですか?
- これがですね、まだ近代的な学校生徒ができる前でして、学校といっても風呂町のお寺を借りてやっていたような形で、結構自由な学びの場だったみたいです。
- 年齢も、それこそ10代前半から大人まで、結構バラバラで、身分とかも関係なく、これからはオランダ語じゃない、英語だっていう、熱意のある人たちが集まってた。
- 面白いですね。
- それで、ブラウンが呼ばれた背景には、実は彼の娘さんが、当時新潟にいた英語領事の奥さんだったという。
- あー、そうなんですか?
- そういう縁もあったみたいですね。
- へー、じゃあコネクションもあったわけですね。
- まあ、そういうことになりますね。
- でも、それで順調にいったかと思いきや、翌年にはブラウンは解雇されてしまう。
- そうなんです。
- ここで一体何があったんでしょう?
- これは、当時の日本の状況をよく表していると思うんですが、生徒たちに頼まれて聖書を教えたり、日曜日に礼拝を行ったりしたことが問題になっちゃったんですね。
- あー、やっぱり宗教が。
- えー、当時はまだキリスト教は禁止されていましたから、明治6年、1873年まで禁教は解かれません。
- そうか、まだダメだったんですね。
- はい。ですから公立の学校の教師が、その禁じられた宗教活動をしたということで。
- なるほど、それで解雇に。
- えー、それでキダもそれに伴って新潟を去ることになったというわけです。
ブラウンとキダの活動
- うーん、時代の壁というか厳しいですね。
- えー。
- ただその短い新潟滞在の間にも、キダはシュワレを愛す、あの、Jesus loves me ですか、これを教えていたそうですね。
- そうなんですよ。
- これあのホイトニーヒューストンが歌ったのでも有名ですよね。
- えー。
- それがこの時代に新潟で教えられていたっていうのはちょっと驚きです。
- ね。当時アメリカのまあ日曜学校とかで流行っていた歌だったようで。
- はい。
- それをキダが新潟の生徒たちにも紹介したと。
- はい。
- 歌詞と、あと覚えやすいメロディーがこうセットになった歌というのは、当時の日本にはまだかなり珍しかったはずです。
- 確かにそうかもしれないですね。
- ある意味新潟に西洋音楽の紹介された最初の事例の一つと言えるかもしれませんね。
- 文化の伝わり方って本当に面白い。
- いやー本当にそうですね。でも結局2人は新潟を去ってしまった。
- はい。
- 新潟からすると、もしかしたらキリスト教系の学校ができる、そういうチャンスを見逃したとも言えそうで、ちょっともったいない気もしますけど。
- まさにそうなんですよね。で、皮肉なことにというか、彼らの本当の力が発揮されたのはその金教が解かれた後の横浜なんですよ。
- 横浜ですか?
- 横浜でそれぞれブラウン塾、キダー塾というのを開いて、これが後の明治学院大学とかフェリス女学院大学の基礎になっていくんです。
- へー、それはすごいですね。後の有名校につながる。
- そうなんです。特にブラウンの方は聖書の翻訳、今読んでも格調高いと言われる文語訳聖書ですね、その翻訳の中心メンバーになったり、
あと日本で最初の賛美歌集の編参、これも手掛けたり、日本のキリスト教会だけじゃなくて、文化全体にすごく大きな影響を与えた人物です。
- 新潟ではかなわなかったことが横浜で花開いたわけですね。
横浜での影響
- そういうことになりますね。さらにちょっと面白い視点としては、その賛美歌のような西洋音楽のメロディーとかリズムの構造、
これが私たちがよく知っている故郷とか春の尾川みたいな日本の小学校、小課。
- あー、小学校ですか。
- へー、これらの成立にもしかしたら影響を与えているんじゃないかという指摘もあるんです。
- へー。
- あの小課を作った岡野寺一さんなんかも教会でオルガンを弾いたりしていたそうですから、その流れをどこかで組んでいる可能性はあるわけです。
- なるほど。文化のつながりってそういうところにも現れるんですね。
- へー、意外なところでつながっているんですよね。
- 木田さんの方も新潟を去る前に新潟の大地主さん、白石家というのを訪ねたなんて話もあるんですね。
- そうなんです。記録が残っていて、この白石家というのが非常に西洋文化への関心が高かった家だったようで。
- はい。
- で、木田がその当主の息子さん、和一郎さんという方にもしかしたら英語を教えたんじゃないかとも言われています。
まあこれは推測の域を出ませんが。
- なるほど。
- ただ面白いのは、この和一郎さんという方が後にその地域の果樹栽培、特にサクランボとか桃ですね。
その導入にすごく尽力された方なんです。
- へー、じゃあ文化的な関心が地域の産業にも。
- ええ、そういう形で具体的な地域貢献につながっていったいい例かもしれないですね。
- いやー、なんか短期滞在でしたけど、いろんな話がつながってきますね。
- そうですね。
- ちょっとまとめると、まず開校自体が南高下大新潟。
そこにブラウンと木田が短期間だけ滞在した。
英語教育とか西洋音楽の種みたいなものはまかれたけれども。
- ええ、まかれはしたんですが。
- 大きな影響を学校設立みたいなことは皮肉にも横浜で実現したということですね。
- そうなんです。まさにこう西洋の新しい知識、英語を学びたいっていうそういう渇望と、
でも、皇の制度、キリスト教はまだダメだっていうその間のジレンマ。
それがなんか、この時代の日本のある種の姿を象徴しているようにも見えますね。
教育者としては期待されたけど、宗教が足枷になってしまった。
- なるほどな。
では最後に、これを聞いているあなたにもちょっと考えてみてほしいんです。
もしブラウンと木田があの時、新潟で活動を続けられていたら、
もし彼らが横浜でやったみたいに新潟で学校を設立することができていたら、
その後の新潟の文化とか教育の風景って今とはどう違っていた可能性がでしょうか。
歴史のもしもですけど、ちょっと想像してみるのも面白いかもしれませんね。