1. 一戸信哉の新潟のへラジオ
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はい、おはようございます。新潟のへラジオ、一戸信哉です。
今日はちょっとスタート遅くなってしまいましたけども、昨日ちょっとお話ししたとおりで、ナンバーで言うと今日はですね、100ということですね。
100回目なんか特別なことをやるかどうかっていうことを考えていたんですけど、まあ考えるだけでそのまま100回目に突入したという感じなんですが、
今日はですね、昨日もちょっとテーマにした鴨の森高校に行ってきまして、公演があったんですけど、行ってみたらですね、いろんなことがわかりまして、意外と奥が深かったというので、
少しお話ししてみようということです。写真に入れましたこの銅像の方ですね、この銅像の方はですね、赤星と持っているという人で、もちろんこれ人も行ってみて発見した銅像、そして銅像の裏側に書いている文字を見ても全然わからなかったんですけど、
ちょっとこの辺の話をしてみようと思います。昨日お話しした通りで、鴨の森の高校の門ですね。
今、車の出入りするところがメインになっちゃっているので、なんというかちょっとシンボリックなものなんですよね、この門というのも。その人が出入りする幅としては狭い門なので、
生徒の出入りには使われているみたいですけど、そういう感じの少し狭めの門なのが一つと、それからランプ室でしたかね、寄宿舎時代に寮で夜使っていたランプを昼間閉まっておくところなんですかね。
火を扱うので、そういうものをしまっておく場所として使われているのが、使っていたレンガ作りの建物というのと、この2つですね、この2つが歴史的建造物として有権文化財として登録されているということで、
ただならぬ、ただならぬ、要するに新潟県にある普通の農業系の実業高校というふうに捉えていいのかな、ちょっとなんかいろいろ伝統がありそうだなと思って行ってきましたが、
学校に入って行ったところ、この背景に入れました銅像が立っていました。いかにもちょっと威厳のありそうな形の銅像、表像ですよね。でもこれ、何とか先生みたいな解説がいろいろ書いてあるわけでもなく、よくわからないですね。
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裏側に回って、裏側にも、ひご人でどうのこうのみたいなのが書いてあったんですけど、ちょっともう学校に行く直前に寄っただけなので、よくわからなかったんですけど、
農学博士の安藤光太郎さんが書いたと思われる昭和10年の文字ですね、赤星さんの経歴についていろいろ書いているんですけど、漢文体で書いてあるのでパッと読み取れなくて、
帰ってきてから調べました。ということなんですが、学校に入っていくとですね、学校のしゃべる前にプロジェクターのセッティングとかに先に体育館に入ったんですよ。
体育館に入ったら、こうか、よく貼ってありますよね体育館に。こうかが貼ってあって、おおーと思って見るんですけど、見るとですね、一見して漢字が多く拡張高い。漢文調っていうのかな。
えちごのわがごをてんぷのふげん、大空ひたして、よくどのたいやをつらぬくみずや、われらはつどいておしえのにわに、ふとめんのりんがくのみちを。
この後もずっと続くんですけど、5番まであって、なんかすごい一見して漢字が多い。そしてちょっと古文調の歌詞だなーと思って、昔からある高校ではこういうもんかなと思ったんですけど、
作詞ドイヴァンスイって書いてあるんですね。ドイヴァンスイについて私も詳しくは知らないけど、いやいやいや、ドイヴァンスイといえば明治時代の著名な作詞家ですか。
ですよね、と思って、ちょっと校長先生にも聞いたら、いやいやそうなんだと。歌詞は1、3、5とあって、2と4は飛ばすんだって。なんで飛ばさないの?多分覚えられないのかな。なんでしょう、2と4は飛ばしているっていう風に言ってましたし、あとなんかちょっとずつ詞が変わっているという風に言っていました。
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なるほど、ランプ室しかり、門外しかり、この赤星さんしかりですね、なかなか伝統ある学校だなという風に思いまして、ちょっと校長先生にもお話を聞いて伺いました。
どうやら新潟県では高田農業の次に古いという風におっしゃってたかな。これ帰ってきて赤星さんのことを調べてみると、赤星とモテルさんはやっぱり熊本藩の家系の人で、みたいなことがウェブを検索すると出てくるんですよね。
どういう人かというと、東京定大の農学部出身で新潟県の農事試験場長というのをやっていて、農事講習場長の歴にしている。
世代的には20代から30代にかけてすでに新潟県の農業のリーダーとして東京からというか東大出身でやってきたという人がいます。
この人が1903年ですので30代半ばで農林学校、新潟県立農林学校の初代校長になる。
この学校が1906年に鴨農林学校となります。いずれもこの赤星さんが校長として指導に当たるということです。
今の人事異動でいろんなところを移っていって校長先生になるという感じの校長とは多分違うんですよね。きっと。
ものすごく一択みたいな、赤星さんじゃないとできないみたいな感じで、赤星さん一人が学校の石杖を作っていくところに力を発揮したということですよね。
その後赤星さん自身は1912年、9年ほど鴨で校長された後で千葉県立園芸専門学校に転じて千葉でまたしばらくやっていくんですが
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1932年にまた鴨農林学校に戻ってくるということですね。鴨農林学校の石杖を築いた人としてこの赤星さんがいるのがわかったということなんですが、さらに読み進めていくと
先ほどのランプを使った寮生活みたいなのもどうも赤星さんがいる時代に確立していったもので、全寮制で寄宿舎訓練を重視したということも書かれています。
という教育スタイルを確立した人でもあるということなんですね。だから門を作った時代もこの赤星さんであり、ランプを作ったのも赤星さんでありということでしょうかね。
ということなんだと思います。その後鴨農林は静岡の農学校、愛知の農学校と共に三大農学校と呼ばれ、全国から生徒が集まった
というぐらい評判が高い農学校であった。こういう時に札幌農学校というのはどういうポジションなのか。まあまあ北海道大学にもなっているのか。いずれにせよ農学校としての地位を鴨農林学校は確立していく
その後この学校を農戦農林専門学校に昇格させる。この辺の背景ちょっとよくわかんないんですけど農林専門学校に昇格させようという運動が始まり
そして戦争末期に農林専門学校の設立が認可される。1945年の2月にですからね。それだけ農林専門学校を作るということは国の政策にも合致しているということだったのかもしれないですね。
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1945年に農林専門学校になります。その段階では名前が新潟県立農林専門学校に昇格するということになったということですね。
その後、うよ曲折を経て、高校も申請になり、学生が変わっていくんですけど、この時に農林学校がこの後どうなっていくか、この辺の経緯がちょっとはっきりわかんないんですけど
鴨農林学校のもともとの鴨農林学校もそのまま戦後残り、鴨農林高校として今の場所に残るということになりまして、
そして同時に新潟県立農林専門学校というのが国立大学に引き取られる形で新潟大学の農学部になっていくということで、
だから新潟大学農学部が、ここの今私が読んでいる記事では母体というふうに書いていますけど、多分直接的には連続性はないんだと思うんですね。
形式的には連続性はないのかなと思いますけど、多分元となるところは戦前に、戦中最後に認可された農林専門学校というのが母体となって新潟大学の農学部になっていくということですよね。
多分そういう流れなんだと思います。というわけで、実は鴨農林というぐらいなので、普通のいろんな地域にある農業高校の一つというのではひょっとしたらないのかもなと思って
行ったのですが、いろいろ見てみると、どうやらそういう新潟県を代表する、新潟県も農業系の高校がたくさんあって、一つ一つ調べていくといろんな歴史があるのかもしれませんが、鴨農林学校はどうやらそういう意味では
歴史ある新潟の農業教育、農業教育、林業教育のパイオニアとしての存在であるということがわかりました。
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昨日は農業高校、ランプ室を見に行く時間はなくて、学校の中にあるんだそうですが、ほとんど使われていないというか、普段何かを展示していつでも見られるようになっているとか、そういうことでもなさそうでしたね。
また次機会があれば見せていただければなと思いますけど、ということでした。鴨市内には昨日ほとんど入らずに帰ってきまして、どうだったっけ、鯉のぼりあったと思うんですけど見ないで帰ってきちゃいました。
田上の道の駅っていつできたんですか、すごく新しいのができていて、道も新しく通ったんですね、きっとね。しばらく行ってなかったのでだいぶ風景が変わったなというふうに思いましたけど、またあの界隈のこともそのうちまたお話ししてみたいと思います。
今日もここまでにしたいと思います。どうもありがとうございました。
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