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2025-08-08 27:19

第104回「中部日本の中心にあるから中京。その歴史と一緒に考えるエルムSとレパードSとCBC賞」

中京競馬場の歴史 / 会社で競走馬を持ってると / エルムS / レパードS / 獅子ってLIONじゃないの? / CBC賞⁠について話しました


BGM : MusMus

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サマリー

中京競馬場の歴史とその設立までの道のりを探るエピソードでは、名古屋に競馬場が誕生するまでの経緯や、戦争の影響、復興のための資金調達としての競馬の役割について語られています。名古屋市長の加藤十三郎による初期の試みや、競馬人気が高まった時代が振り返られ、中京地区に国営競馬を誘致するまでの複雑な背景が描かれています。また、中京が競馬の中心となることについての歴史が取り上げられ、名古屋競馬株式会社の設立や地方競馬と中央競馬の関係が語られます。さらに、エルムS、レパードS、CBC賞などのレースに関する情報も提供され、中京競馬場を舞台にしたCBC賞の歴史や特性について詳しく解説され、レースの特徴や予想のポイントについて考察しています。

名古屋競馬場の誕生の背景
こんにちは、ダルマー競馬場です。
いやぁ、暑いですね、マジでね。
なんかもう、「おはようございます、こんにちは、こんばんは」よりも、まず先に、「暑いですねー」っていうのが、もうもはやね、定番みたいになっちゃって。
暑いがもう、挨拶みたいな感じになってますよね、なんかね。
なんか去年もね、暑かったはずなんですけど、毎年毎年今年が一番暑いなーって思いながら、ここ最近は過ごしてるなというふうに思ってますね。
まあね、競馬の開催時間とかもね、いろいろ今言われてますけども、
まあこの時期はね、今年から新潟競馬場も熱湿対策時間に変更されましたし、
まあどうやって暑さ対策をしていくのか、みたいな具体的なアハンっていうのはすぐには出てこないような気がしますけどね。
じゃあ施設的な問題なのかとか、時間なのかとかね、いろいろあるとは思うんですけども。
まあね、やっぱり難しいですよね。
何やってもそうだと思いますけどね、室内でエアコン効いてるところで運動するっていうのが一番ですけども。
まあなんかね、それだけじゃないような気はしますし、絶対屋内にはできないですしね、というところで。
ということでね、前回新潟競馬場の歴史についてお話しさせてもらったんですけども、
じゃあ今開催している中共もやらなきゃいけないだろうということで、
今回はどうして中共競馬場ができたのかというお話でございますので、よろしくお願いいたします。
今や名古屋に競馬場があるっていうのも、結構ごく自然というか当たり前な感じになってきてはいるんですけども、
最初は明治の末期、名古屋市長の加藤十三郎さんという方が、
最近のはいからな近代都市にはもうだいたい競馬場があるから、名古屋にも競馬場が作りたいって言うんですけども、
1908年の競馬クラブ整理令っていうので、全国にある公認クラブが11箇所に絞られちゃって、
さらには1923年の新競馬法当時の新競馬法で、枠そのものが固定されちゃって、
新しく名古屋に競馬場が作りたいって言っても、ちょっとごめんなさい、できないんですよねっていうのがあったんですよ。
なんですけども、このはいからな近代都市に競馬場を作りたいっていう、競馬場を作るから競馬クラブ作るぞみたいな記録だけ残ってるんですよ。
作ろうとしたみたいな。
なので、名古屋競馬クラブっていうのが加藤十三郎さんが作ろうとしましたみたいな。
そういう記録だけ残ってるらしいです。
これが一番最初なんですけども、
でも明治の後半、大正、昭和の前半ぐらいまで、競馬の熱って日本全国すごかったんですよ。
これまでも結構何回もお話ししてますけども、この時代の競馬っていろいろな経済効果を生むので、
競馬をやりたい都市っていうのがいっぱいあるんですよね。
都市だったり地方自治体がめちゃくちゃあって、各地で競馬が行われていた時代です。
なんでそんな中、やっぱり名古屋も大都市になろうとしてるわけですから、競馬やりたい、競馬やりたいっていう地元の人たちの熱っていうのは全然消えなかったわけですよ。
そうやって、一応国に新しい競馬はごめんなさいみたいな感じになっちゃってはいるんですけども、
一応名古屋にも1912年に大有電気軌道っていうところが開いたレジャーパーク、矢言遊園地というところがありまして、
ここでちょっとしたミニ競馬場みたいなのをポンと設置して、ここでちょっと遊ぼうぜみたいな。
当然馬券発売とかはしないので、例えば池でボート乗る余興であったりとか、あと猿小屋とかと同じような感じで、アトラクションの一個みたいな感じですよね。
余興コーナーみたいな感じで馬が走ってる姿を見ているっていう記録もあるんですけども、
この矢言遊園地っていうのが1935年に東山公園がオープンしちゃうと、こっちに一気にガッてお客さん取られちゃって、1937年に亡くなってしまうんです。
亡くなってしまうので、このミニ競馬場っていうのも一緒に幕を閉じちゃうんですよね。
戦争と競馬の変遷
なんですけども、同じ頃ですね、豊橋とか岡崎とかで仮設の競馬のコースが次々と誕生して、週末ごとにいろんなところで競馬をやってたそうなんですよ。
テント張りのスタンドとかね、つけたりとかして、仮設競馬場みたいな感じで競馬をやってたらしいんです。
ここでは結構人も集まるだろうし、集めたいっていう意向もあって、鉄道が臨時便が出たりとかして、出張競馬みたいな感じでいろんなところでやって盛り上がってたらしいんですよ。
なんですけども、このぐらいの時代ってどんどん戦争に時代が向かっていってしまうので、
1937年以降、競馬は軍事鍛錬競争という名前で、訓練イベントみたいな感じになってっちゃって、馬の勝敗っていうよりかはどっちかっていうと、
軍馬の脚力テストみたいな感じになっていってしまうんで、結果的には競馬が市民の娯楽じゃなくて、
ちょっと軍人さんの軍馬がどいつがいいかみたいな、どいつが軍馬に適してるかみたいな脚力テストみたいな感じになっちゃって、娯楽としての意味がちょっとなくなってきちゃうんですよね。
なので競馬中競馬は徐々に徐々になくなってっちゃうんです。
ご時世的なところもありつつ。
で、無事に戦争が終わって、そのあと名古屋は復興資金を確保したい。
これはね、この前しゃべった新潟も一緒なんですけども、競馬ってやっぱり観光資源になるんで、競馬を使って復興資金を稼ぎたいというような形で、この名古屋は考えるわけです。
1948年の新競馬法は、災害都市なら競馬で財源確保していいよっていう条文を置いてくれたんで、
市は早速、愛知県とタッグを組んで、港区にあるどんご町っていうところに競馬場を新設するんですよ。
この競馬場がですね、1949年の6月に小ケラ落としがありまして、この小ケラ落としからの6日間で約4万人の人たちが来場して、馬券の売り上げもめちゃくちゃ上がって、当時の金額で390万ほど。
これはですね、当時の名古屋市の税収入を上回る金額が、この6日間の競馬で転がり込んできたというようなことで、これは復興資源としてはもったいないぐらいだね、みたいな感じになるんですよね。
で、こうやって名古屋競馬は、こうやって盛り上がりを見せていくわけです。
一方で、国の競馬場はもうこれだけですよっていうのが、枠組みが決められちゃっているときなんですけども、
国営競馬、中央競馬ですよね。が、東京と阪神の間ってちょっとぽっかり開いちゃって、輸送もちょっときついじゃん、これどうにかならないかなみたいな感じで農林省が悩んでたらしいんですよ。
で、そんなときに、名古屋も名古屋で、この名古屋の在会のお偉いさんたちが、どうにかして、この名古屋競馬もいいんだけど、国営競馬とかを呼んで、国営競馬がある都市ってやっぱり、東京もそうだし、中山もそうだし、阪神、京都、全部、なんかいい感じやっぱハイカラな都市だよね、みたいな感じなんですよ。
なので、中央競馬を誘致して、街の格を上げたいっていう名古屋の在会人たちと、どうにかしてぽっかり開いたところに競馬場とか作ったりしたいなと思っている、中央競馬の人たちとの思惑が一致して、じゃあ進めましょうかというところで、
1952年の12月の競馬法改定で、中京地区に国営競馬を作るっていうことが正式に決定したんですよ。ここから中京競馬場ができるまでことが進んでいくわけでございます。ようやくスタートラインに立ったみたいな感じですね。
やっぱね、法律まで動かさなきゃいけないとなると、相当な時間とね、体力というか、気力というか、いろんな人たちのね、強い思いがないとダメなんですよね。なんですけど、じゃあ、どこに作るよ、みたいな話になって、もうね、場所探しはもう大騒動なんですよ。
もういろんなところがやっぱり近くに、うちらの近くに競馬場を作ってくれ、いろんなところが、お、はいはいはいはい、はいはいはいはい、みたいな感じで手を挙げたらしいんですけど、じゃあダコがいいかなーって言って、この中央競馬の人たちね、競馬関係者の人たちが見てて、ここだったら名古屋から電車で一本も行けるし、農地の回収も楽そうだなというところで、
とよわけというところがね、選ばれたそうです。で、もうね、この辺にあった名鉄の既存駅の名前をもう既に中京競馬場前っていう風に解消しちゃって、じゃあここに競馬場を作ろうってなるんですけども、ちょっとね、後ろの方でね、数人もじもじしてるんですよ、その競馬会の人たち。
ここがいいじゃんって言って、よしよしよし、じゃあじゃあじゃあ、あとはね、ドコドコさんに頼んで競馬場を作るように手配しておいてよって言って、いや、すいません、それがー、みたいな。え、なになに、みたいな。どういうことどういうこと、なんでそんなにもじもじしてんだよ、今からやってこいって話してんじゃん、みたいな。
あの、非常に申し上げにくいんですけども、お金がなくて、みたいな感じで、えーーー、みたいな。嘘ー、みたいな。まあそれはそうですよね。
1950年とかだったら、もう戦後5年ですから、各地で復興はされているんですけども、まだまだ競馬会にとってもお金がない時期なんですよ。
復興と新しい競馬の始まり
いやどうしようかなーって思ってたら、それを聞きつけた、これまたすごい名古屋の在会の方々ですよ。
ビジネスチャンスって言って、スラスラスラスラって言って、さすがやっぱりね、日本が世界に誇る企業をお作りになった方々ですよ、もう経営者の人たち。
もうね、競馬なんて全く知らないのに、これはビジネスチャンスだと言って、名古屋の在会人を全員ちょっと集合って言って、呼んで会合を開いて、どうよ、こんなことあるけどって言って、
あ、それいいですね、じゃあやりましょうよって言って、どういうことを話したかっていうと、ここに競馬場を作るお金がないと、多くにはいってるらしいと。
だったら、我々がお金を出し合って、1個会社を作ろうじゃないかと。
ここで、この会社が競馬場建設のことを全てお金を出してあげたりとかして、競馬場は作ってあげよう。
で、中の競馬の運営は彼らにやってもらおう。
おー、ちょっと待って、それだったら全然、なんかただお金出して終わりじゃんみたいな。
これを貸してあげることにすれば、賃料として、例えば毎月であったり毎年であったり、お金が入ってくるよね。
これ、競馬っていうのは無くならない限り、一生入ってくるんじゃない?みたいな。
おー!
みたいな。
おー、それだ、それだ、それだ!ってなって、スッと。
いやいやいやいや、みなさん、作ろうって、競馬場作ろうって言って、せっかく盛り上がってる。
なかなかちょっと工事が進んでないようですけど、って言って、スルスルスルスルって言って、すり寄って行って、
せっかく作ってるって盛り上がってるんですから、僕ら作って、それ貸してあげますよって競馬関係者に提案するんですよ。
えー、マジですか?ええんすか?みたいな感じになって、
1952年8月に名古屋競馬株式会社っていうのが、今でもあるんですけど、これが設立されて、
1952年の10月、同年10月ですね、10月に着工。
結構ね、長めとかで遅れながらも、翌年の7月に竣工して、
1953年の8月22日に国営競馬が初めて開催されるということでね。
なので、もともと地方自治体でやってた名古屋競馬、
ドンゴにあった名古屋競馬っていうのはそのままありつつも、
中央競馬でやるのは東予明に作ったぜ、みたいな。
なので名古屋には2つ、競馬場、地方競馬とJRAの中央競馬ができたという、こういった経緯になりますね。
なので、平日はドンゴの県営のレースを観戦して、
週末になると東予明に行ってG1を見る。
こういう二刀流みたいな感じのが、名古屋ファンの日常になっていったと。
名古屋の競馬ファンの日常になっていったわけでございますね。
このドンゴはですね、2022年にお引越ししまして、今は別のところにあるんですけども、
この時、1952年に作られた名古屋競馬株式会社っていうのは今でもあって、
今でもJRAにこの競馬場を貸しているということでね。
すごいっすよね、ずっと。
ずっとその賃料だけでこの会社を賄えるっていうね、すごいっすよね。
名古屋競馬株式会社、なんと。
じゃあちょっと、私たちも馬持ってみますか。
ということでね、なんと。
馬主やっておりまして、冠名がですね、明慶という冠名を登録しております。
そう、明慶エールはですね、この名古屋競馬株式会社の持ち馬でございますので、
明慶エールだけじゃございません。明慶ベガスターとかね、いろんな馬いますけども。
こうやってね、会社で馬持ってるとあれどうするんですかね。
ローテーションとか誰が決めるんですかね。
馬のことの決定権ってどうするんだろう。
いや、そろそろ繁殖に挙げたほうが、とか引退させたほうが、みたいな。
そういう話ってどうするんですかね。会議とかで決めるんですかね。
社長の一存とかなんでしょうかね。どうするんでしょうね。
楽しいですよね。これは別のこと、普通に競馬とはまた別の仕事をしてて。
ちょっと業務外というか、業務っちゃ業務なんだけどさ、みたいな。
じゃあちょっと競馬会議始めようか、みたいなのでさ、始まったりすると。
競馬好きとしてはもうたまんないですよね、そんなのね。
本業というか、業務的にちょっとつまんないことがあっても、
この大好きな競馬のことを決められるのが、お金をもらいながらできるんだったら、
この会社入っちゃうかもしれないな。なんかね、すごいなっていうふうに思いましたね。
ま、まとめると、明治の最初の頃から競馬っていうのは名古屋でやりたいなと、
当時の市長が思っていたんですけども、空振り、遊園地で余興として競馬が行われてたんだけども、
戦後、復興資源の財源確保として競馬が行われるようになり、
財界の競馬誘致もあいまって、ここに競馬場が誕生しました。
中京競馬場が誕生しましたというお話でございました。
エルムステイクスの概要
いや、いいっすね、まじで。まじで名古屋競馬株式会社夢のような話だな。
うーん、まあまあまあそうですね。そんな夢のような話は置いといて、
夢を見るのはね、私たちは毎週夢を見ておりますからというところで、今週のJRAでございます。
今週も参上開催になっておりまして、2回新潟、3回中京、1回札幌でございます。
土曜日に札幌競馬場でG3エルムステイクスが行われ、
日曜日に新潟競馬場でG3レパードステイクスと、中京競馬場ではG3CBC賞が行われます。
いやー、週末に3つ優勝があるのって結構久々なんですよね。
調べてみたらね、宝塚記念以来7週間ぶりということでございます。
まずはエルムステイクスでございます。今年で30回目を迎えますG3競争でございます。
1996年に創設されたんですけども、第1回だけシーサイドステイクスという名前で函館競馬場で行われています。
この翌年から函館と札幌の開催時期が逆になりまして、
1997年からは札幌に開催場所が変更となり、名前もエルムステイクスへ名称が変更されております。
このエルムというのはガイロジュのハルニレを英語名で言うとエルムということからこの名前になりました。
そうでございます、なりました、そうでございます、なんて言っちゃいましたね。ごめんなさい。
まあ基本的にはね、コース的には逃げ先行が有利だと思いますね。
高低差も少ないし直線も短いし、ただね、皆さんそんなの知ってるでしょうから、
ペース見て向こう上面からポジションを上げていく方もいらっしゃるでしょうし。
前面にいて足が持つというか持続的な長い足を使える馬っていうのはやっぱり基本的には狙ってみてもいいんじゃないかなというふうには思っております。
本当にこの夏のね、北海道開催もそうですし、夏競馬ってその時の調子っていうのが非常に重要だなと毎年思わされているので、
まあ調子はいいんだけども客室的に後ろから行かなきゃいけないみたいな馬だったりするとちょっと狙ってみてもいいかもしれないですね。
お、お、おっていって向こう上面からスーッと上がっていって4コーナー先端に取り付いてるぐらいの感じだったりすると結構期待も出ちゃうかもしれないですね。
というところで、次はレパードステイクスでございます。
レパードステイクスの詳細
今年は17回目を迎えます。3歳限定のダート銃章でございますね。
まずね、このレパードステイクス、JRの公式、JRじゃない。電車になっちゃったね。
次は溝の口、溝の口、いやそれは東急みたいな。ごめんなさい。
JRAの公式で出ているレース名の由来なんですけど、このレパードステイクスね。
これがイギリスの国王の紋章で、右がユニコーン、左がシシ。
このシシのことをレパードっていうことからレパードステイクスというらしいんですけども、あれシシってライオンじゃね?と思って。
あれレパードってヒョウじゃね?みたいな感じで思って調べてみたんですよ。
そしたら書かれているの、このイギリス国王の紋章で書かれているのって、ライオンはライオンらしいんですよ。
なんですけども、紋章学的に言うと、そういう紋章、紋章ですよ。
紋章学的に言うと、ここをして、なおかつ正面を向いてるとレパードっていう表現をしていた時期があったそうで。
ユニコーンステイクスがあるんで、ユニコーンと対抗できるのがレパードっていう伝説も相まってレパードステイクスになったんじゃないかというふうに思ったんですけども。
見ていただくとわかると思うんですけど、イギリス国王の紋章って今別に歩いてもいないし、正面は向いてるんですけどもみたいな感じで。
まあ、ライオンじゃね?とは思うんですけども、レパードステイクスっていうのがレパードステイクスでございますね。
まあ、気を取り直して。
コース自体はですね、こちらもほぼ平坦で直線短めなので、逃げ先行が有利っていうのはあるとは思うんです。
四角十番手以内で回ってきそうな馬たちから考えるのがいいんじゃないかなというふうに思いますね。
追い込みが決まらないです、絶対みたいなことは絶対ないので。
ここはそのペースの判断と、自分の飼いたい馬の脚質と調子とっていうのを合わせて狙っていくのがいいんじゃないかなというふうに思ってますね。
CBC賞の歴史と特徴
そしてCBC賞でございます。今年で61回目を迎えますハンデキャップのG3競争でございます。
意外と長い。61回もやってるんですねっていう感じなんですけども。
このCBC賞もですね、長いは長いなりにやっぱりうよ曲折いろいろと変更されて、距離だったり条件だったりねっていうのがいろいろ変更されて今の形に落ち着いてるみたいな感じなんですけども。
開催場所が中京競馬場で、中京競馬場である程度回数を重ねている重症競争といえば初期は砂っていう。初期の場場は砂っていうのがありますからね。
中京競馬場って最初ね芝コースがなくて砂コースですよね。
だいたいその歴史を追っていくと、今のこのCBC賞もそうですけども芝って書かれている時からある時を境に昔に遡っていくとね。ある時を境に砂になるんですけども。
まあ10回もないですね。砂から芝に変更されてる。砂の回数というのは10回もないです。
スタートして100メートルぐらいで下り始めて残り300メートルぐらいまで下っていくっていう感じですよね。
ここの300メートルから一気に上がって最後ゴールみたいな感じになるんですけどもね。
まあやっぱりねイメージとしてはね逃げ馬が残る残る残るーって大残るーっていうイメージなんですけども。
まあなんでも私はもう逃げ馬は一応候補に入れちゃうみたいな。
まあもちろんそこから買う買わないは別ですよ。別ですけど一応候補にはもう先に入れちゃったりはしますけどね。
熱中症と競馬
そんな簡単じゃないっていうのはもちろんなので、皆様どういうデータを元に予想されるかっていうのが重要なんじゃないかなという風に思っております。
というとこで今週も皆様に、いや暑すぎて競馬どころじゃないよもう馬も人も熱中症になっちゃうよー。
いやこういう時こそ熱中しちゃうんだけど。
というぐらいの会心の的中があることをお祈りしております。
いや熱中してたら熱中症になっちゃうようにしますけどね。
そして会心の的中なのかというところもまた疑問ですけどね。
そして最後になりますけども、この番組への感想質問などありましたらメールフォームからご連絡いただくかコメントもお待ちしております。
そして番組がいいなと思っていただけたら是非番組のフォローもお願いいたします。
というところで今回も最後までご拝聴いただきありがとうございます。
また次回の競馬見聞録でお会いしましょう。
さようなら。
27:19

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