こんにちは、ダルマー競馬場です。
いやーもうね、秋の足音が、全くしてこないっすね。なんかね、もう全然してこないっすね。
なんだろうね、結構ね、ここまで秋な感じが来ないと、いよいよ結構楽しみになってくるんですよね。
結構好きっすけどね、秋ってね。
でね、秋になるとね、結構ね、もうね、やりたいことっていうのがいっぱいあるんですよ。
まあね、読書の秋田の、食欲の秋田とか、いろいろあるじゃないですか。
秋になると、やっぱね、読みたくなるのは夜のピクニックですし、秋になると食べたくなるのはやっぱりサンマスよね。
で、秋になるとね、思い出すのは、ファインモーションかな。
で、秋になると、エモくなるのは金木犀の香りですね。
で、秋になると聞きたくなるのがジミートワールドのムービーライクっていうことですね。
今日はですね、阪神競馬場の歴史をね、話したいというふうに思っております。
えー、今の秋になるとシリーズ、全然関係なくないですか?
え、なんで?え、なんで行ったんすか?みたいな感じなんですけどね。
冒頭ってなんかね、ちょっとね、それっぽいことを言ってみたいんですよ。
それだけなんですけども、ということでね、この番組への感想・質問などありましたら、メールフォームからご連絡いただくかコメントもお待ちしております。
そしてこの番組がいいなと思っていただけたら、ぜひ番組のフォローもよろしくお願いいたします。
ってな感じで、競馬場の歴史シリーズ阪神競馬場編でございます。
もうぐっちゃぐちゃだな。
はい、えーとですね、さてさて始まりました。
阪神競馬場編でございます。
まずは、始まりはですね、1907年。
舞台は兵庫県の成男でございます。
この年に関西競馬クラブというところがですね、競馬場を作るんですよ。
で、この競馬場が成男競馬場という名前になるんですけども、
面白いのがこの1907年、1907年に作ったっていうことなんですよ。
この1907年何があったかっていうと、
阪急電鉄の前身、美濃有馬電気軌道っていうところも一緒に産声を上げてるんですよ。
梅田から宝塚方面に路線を伸ばして、
沿線にいろいろとね、温泉だったり歌劇場だったりとか、
いろんなものを整備するっていう、
電車に乗って郊外に遊びに行くっていうスタイルがね、ここで始まるんですけども、
これが後の阪神競馬場の人気につながっていくんですよ。
まあね、町づくりしないとダメじゃないですか、こういう鉄道会社って。
その沿線に人がいっぱいいることによって、この電車をいっぱい利用してもらうっていう風にしていくんで、
まあ町づくりをしていくんですよね、人を呼ぶために。
その1個の中に競馬場があった。
これがナルオのスタートという感じでございますね。
で翌年、ナルオ競馬場がですね、ちょっと変わったことをしていくんですよ。
競馬速報競争っていうのご存知ですかね。
馬が2輪馬車を引いて引っ張るレースなんですけども、
イギリスとかアイルランドとかカナダとかアメリカもやってたかな、
あとオーストラリアとかはまだやっていますし、
あと盛んなところで言うとイタリアとかスウェーデンとか、
結構ヨーロッパの北の方とかでは、
もちろん平地の競馬よりかはこっちの方が人気あるみたいな感じのことを読んだことがありますね。
でも日本で言うとKがKが言ったりするんですけども、
トロッターとかあとフェーサーとかっていう名前で言ったりとかもしますね。
トロッターっていうのは車逮捕、フェーサーっていうのは即逮捕になるんですけども、
簡単に言うと飛んじゃいけないんで、
競馬がマラソンだったらこのKがは強歩みたいな感じですよね。
飛んじゃダメなんて、常に歩くみたいな、早歩きみたいなイメージですかね。
話は戻りまして、そのKがを日本でやってるところがなかったから、
当時はですね、
欧米のスポーツを輸入することがかっこいいみたいな感じの雰囲気があったんですよね。
野球であったりサッカーだったりゴルフだったりとか、
いろいろなのがこの時代に輸入されているわけなんですけども、
そういう雰囲気があって、
欧米のスポーツやりたーい、やりたい、やりたい、やりたーいっていうのがこの時代でございます。
全部この時代かどうかちょっとごめんなさいね、ふんわっとしましたけど。
なんですけども、
これって新しいお客さん来てほしいじゃんっていうので入れるんですけど、
全く受け入れてもらえないんですよね。
あれっつって、
おい、ケイがやってますよ、ケイがやってますよ、見ていけません、みたいなね、
ケイが何知らない、みたいな感じで全然受け入れてもらえないんですよ。
で、もうすでに始まって2年後ぐらいにはもう、
ナルオに吸収されちゃうっていうね。
えーって普通の競馬やりましょう、みたいな。
は、は、はーいっていう感じでケイが終わっていくんですけども、
ナルオでのケイが終わるんですけども、
日本としては、その競馬っていうのは、
軍事目的の側面あるので、
日本でのこの競馬速報競争っていうのは、
まあそれなりにやってるんですよね。
馬車を引く馬の能力を知りたいわけ。
ね。
で、JRAで最後に馬券発売してたのはたぶん中共だったと思います。
で、日本最後で馬券発売したのは確か森岡だったような記憶があります。
で、まあその馬券発売っていうのはそれ以降されてないんですけども、
ただ今、北海道のね、えーとね、
室蘭だか根室だかちょっとわかん、あのー、
ふわっとしちゃったんですけど、
アマチュアスポーツとしてはまだね、やってるみたいですね。
なので、ぜひね、近くにやっている方いらっしゃったらね、
応援していただきたい。
お、やってんすね!みたいな感じでございますけどね。
で、えー、まあ話は戻って、
ナルオの話なんですけども、
まあやっぱりね、競馬だけじゃ厳しいんですよね。
いろいろこうやって吸収していくスケーガーもね、終わっていきますし、
あれなかなかちょっと根付かないねっていうところでどうやっていこうかっていうので、
まあちょっと競馬だけじゃ難しいみたいな感じになっていくんですよ、このナルオ競馬場。
そこで思いついたのは、1912年。
オートバイレースやっちゃおうと。
で、その2年後にはゴールフ場作っちゃおうと。
またその2年後には野球や陸上競技場もやっちゃおうと。
要は、あのー、このナルオ競馬場、
競馬やってない日、暇じゃね?みたいな感じになって、
競馬だけだとさ、すげー人気もあるわけじゃないから、
こうやって空いてる日にもさ、稼いでいかないとさ、
ちょっと維持費が保てませんということで、
もう空いてる日にも人呼んでこうよ、みたいな感じなんですよね。
まあ、今でいうところのイベント会場の多目的利用みたいな感じですかね。
球場でコンサートやるとかっていう感じなんで、
ナルオ競馬場はですね、いろんなことをやる。
東京ドームとか国立競技場みたいな感じになってたんですよ。
で、そうやっていろいろなものをこうやって入れ込んでいって、
時代は進むわけですよ。
ナルオ競馬ってなんかいろんなことやってるよね、みたいな感じになって、
で、1930年代、時代はもう昭和に変わってます。
で、なぜか、ナルオ競馬場、競馬で全国トップクラスの売り上げ叩き出すんですよ。
おえー!って頑張って人集めた結果じゃん!っていうふうになるんですけども、
いやちょっと待ってよ、なんでそれだけじゃなくないか、みたいな。
競馬だけで全国トップクラスの売り上げなわけでしょ?
なんでそんな人気出たの?って。
言うとですね、これね、最初に言った、
これね、阪急が関わってくるんですよね。
阪急じゃないの?阪急だっけ?
阪急って言ったっけ?
阪急だよね、そうだよね。
阪急が関わってくるんですよ。
で、この阪急がですね、阪神館をレジャーエリアとして発展させていったんですよ。
で、宝塚には温泉があったりとか歌劇場があったりとか、
甲子園とかね、遊園地とかっていうのも整備していって、
レジャーというか、週末遊びに行くならこの阪神館、電車で行くよね、
みたいな感じの一個にNARUOが組み込まれてたんですよね。
なので、いろんな遊び行って競馬もできるし、
アクセスもいいから競馬場もすぐ行けるよね、みたいな感じになって、
これがNARUOが人気になった一つの要因なんですよね。
なので、最初に同じタイミングで、この阪急と同じタイミングで産声を上げたっていうのは、
すげえいい流れだったんですよね。
ただ、そのいい流れもですね、1937年で止まっちゃうんですよ。
この競馬場シリーズ、大体、大体というか全ての競馬場をぶち当たるんですけども、戦争なんですよね。
この戦争になる、第二次世界大戦になる前、その前ですね、戦前はですね、
もう最後の方も混沌としてるんですよね。日清戦争、日露戦争があったりとか、
第一次世界大戦とか、いろいろな戦争があった混沌とした時代に競馬もですね、
全国に散り散りになってた競馬クラブっていうのは、日本競馬会っていうのに統合されていくんですよ。
で、このタイミングで、この鳴尾競馬場がですね、正式に阪神競馬場っていう名前になるんです。
で、阪神競馬場になったのもいいんですけども、ここから戦争が激化していって、
鳴尾の土地がですね、軍に取られちゃって、航空機の工場に変えられちゃうんですね。
なんで、鳴尾競馬場、阪神競馬場ですけども、旧鳴尾競馬場の歴史っていうのはここでストップしちゃうんです。
ただ、戦後になると、もう一回競馬をやろうっていう流れ、やっぱり出てくるんですよね。
人がいっぱい集まって、復興財源にするっていうのも一つありますけども、
本当に競馬を楽しんで、じゃあ何か応援してね、日本を元気づけていこうっていう意味合いもあって競馬って始まっていくんですけども、
ただ、この鳴尾競馬場、元鳴尾競馬場の跡地っていうのはもう工場とか住宅で埋まって使えないんですよ。
どうする?ってなって、代わりに選ばれたのが宝塚市にある三河なんですよね。
ここは川西航空機の工場の跡地で、もう広大な土地が空いてたんですよ。
こんなに広い土地が空いてるんだったらここ良くないって。
しかもすぐそばには阪急今津線の三河駅あるじゃん。
広さとアクセスの良さっていう条件が揃って、じゃあここに決めたと。
君に決めた!行け阪神競馬場!パーンってパッカーンってモンスターボールがパーンって割れるみたいな感じで、
1949年に現在の阪神競馬場が三河に誕生するんですよ。
そこから1954年、JRAが発足して競馬が国営的に運営されるようになっていくにつれて、
ちょっと阪神競馬場でもなんか大きいレース、頑張って行っていただかないといけないっすね、みたいな感じになって、
1958年に阪神ヒンバステイクスが始まり、
1960年には春のグランプリ、宝塚記念が始まっていくんですよ。
この頃は高度経済成長期なので、よかにお金をかけられるっていう時代なんですよ。
なので、年末はヒンバの阪神、春のグランプリは阪神みたいな感じで、
この阪神ブランドっていうのが一気に定着していくんです。
そこから時代を重ねていって、1995年の阪神淡路大震災を乗り越えて、
ぐらっと阪神が変わったのは2006年。
大規模なコース改修が行われるんですよ。
このコース改修によって外回りコースが新設されて、
ダート2000mは整備されるんですよ。
この外回りコースって確かね、
右回りの競馬場だと日本で一番距離が取れるというか、
一番広い競馬場がこの阪神競馬場ですね。
この大規模改修によって直線が長くなる。
外回りからの直線が長くなったり、
この外回りコースはスパイラルカーブも導入されて、
レースの質がガラッと変わるんですよ。
なので、阪神外回りイコール差しっていうのは、
この2006年の大規模改修後なんですよ。
意外と最近感じでございますけどもね。
そして今ですよ。
豪華賞があったりとか、
あとは春のグランプリ、宝塚記念があったりとか、
もう日菜のトップオブトップを決めますと。
阪神ジュベナイルフィリーズと
朝日ハイフューチャリティステイクス。
こういったレースがですね、日本を代表する、
こういったレースをする舞台になってるのが、
もう今の阪神競馬場なんです。
その背景には、
ナルオからニガーへ行ったっていう、
移転のこの歴史であったりとか、
一番は多分このね、
鉄道と街の発展に乗っかれた競馬場っていうのが、
一番じゃないですかね。
そういうのはあったりとか、
戦争とね、あと震災からの復興とか、
あとは改修。
全てが絡み合って、この日本を代表する、
中央四大競馬場の一つとして、
ちゃんとある阪神競馬場になったと、
いうことでございましてね。
神戸新聞配と名称変更されたのが1970年。
菊花賞とライアルに指定されたのが1995年なんですけども、
このレース、ステップ競争にも指定されておりまして、
菊花賞へ出走したい地方所属馬っていうのは、
先週のセントライト記念もステップ競争なんですけども、
このセントライト記念か、今週の神戸新聞配がですね、
優先的に出走できるようなレースとなっておりますね。
でもね、2000年代以降のボバ、クラシック、三冠馬はすべてこのレースを勝ってる。
三冠馬になるためにはこのレース出ますね。感じの雰囲気。
まあ雰囲気だけですけどね。そんなわけではないんですけども、
90年代より前、例えば成田ブライアンだったり、
シンボリルドール、あとはミスターセンターバック。
ミスターセンターバックとか、新山セントライトとかっていうのはですね、
神戸新聞配ではなく、他のレースを前哨戦として参加に挑んでおりますね。
例えば成田ブライアンですと、阪神で行われた京都新聞配であったりとか、
あと皇帝はですね、セントライト記念を前哨戦としていたりとか、
あとはミスターセンターバックは京都新聞配。
これね、今は春に行われていますけど、昔はですね、京都新聞配、秋に行われていたので、
本番キッカーショーが京都競馬場で行われますから、
同じ舞台での前哨戦というのが一番いいですよねというところで、
このセンターバックと新山はですね、
京都新聞配を前哨戦としていたわけでございます。
セントライトはですね、ダービーから5戦してキッカーショーに臨んでおります。
もはや前哨戦を戦って本番ですみたいな概念すらもなかったような時代ですからね。
もはや前哨戦、今行われているレースはほとんどやっていなかったような時代ですので、
これはしょうがないかなというふうには思いますけども、
それだけ有力場たちが出てくるようなレースでございますけども、
神戸市の場合はですね、阪神の外回り、芝2400mで行われますので、
出走投数が最近はあんまりね、直行組とかも多くいらっしゃいますし、
前哨戦を使って1回叩いて本番へという概念がそもそもね、
そろそろ破綻しつつあるような感じでございますね。
あんまり出走投数は揃わなかったりするんですけども、
あんまり多くない出走投数だと、やっぱり全体的には2400mですから、
ゆっくり流れて上がり勝負、スローペースからの上がり勝負なんですけども、
あんまり小細工ができるような逃げとか先行がね、
逃げ切れるような感じで後ろに足を使わせますみたいな感じの、
逃げができるような感じのコースじゃないのかなというふうには思いますので、
だとするとスローペースで流れて、じゃあ同じだけね、
後ろの馬も前の馬も同じだけ足残してますというような感じで、
じゃあそこから用意ドンって言って上がり勝負したりすると、
そりゃもう世界陸上の陸上競技みたいな感じなわけではないですから、
そのまま前に行く馬のほうが強いみたいな感じではない、
ちょっと早いというかね、先にゴールにたどり着いちゃうみたいな感じにはあったりしますかねと、
ということは内訳のほうがいいんじゃないみたいな感じのふうにね、
いろいろと考えられたりはしますけども、
これは競馬なので絶対ないとは言い切れません。
外枠の追い込み馬が勝ったりする場合もあったりするので、
そこはしっかり枠順確定してから想像してね、
予想していくのがいいんじゃないかなというふうには思うんですけども、
これちょっと難しいなと私個人的には思っておりますということでね、