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相手が遠く感じるたったひとつの理由|共感とは、体験の共有である。
2026-06-22 35:07

相手が遠く感じるたったひとつの理由|共感とは、体験の共有である。

「わかるよ」と言いながら、本当に伝わっているのかなと不安になることはないでしょうか。自分には共感力がないのかも、と感じている方もいるかもしれません。
でも共感は、相手をよく観察する技術ではなくて、自分の中に眠っていた似た体験が呼び起こされる「体験の共有」なんです。だとすると、鍵は相手ではなく、自分の体のほうにあります。
コミュニケーション三部作の第2回。共感とは何かを、身体の視点からゆっくり話しています。

【チャプター】
「わかるよ」が起きるとき、体では何が起きているのか
共感は「相手に集中すること」だと思われている
「わかる」のは、自分の中に同じものがあるから
共感は、自分を通っていく
世間が消えて、共感を経ずに大人になる
共感とは、体験の共有である
自分の体験が、共感の幅を作る
共感は、特別な才能ではない

【参考】
・タニア・ジンガーら:他者の痛みを見ると、痛みの情動成分が働く(Singer et al., 2004, Science)
・カール・ロジャーズ:共感的理解の「あたかも」
・メルロ=ポンティ:間身体性(体と体の響き合い)
・sympathy(共に+感じること)/empathy(中へ感じ入る)
・内受容感覚(自分の体内状態を感じる力)

【コミュニケーション三部作】
第1回 会話で大事なのは、何があったかじゃない
第2回 共感とは、体験の共有である(本編)
第3回 繊細だから疲れるんじゃない(来週)

話している人について
https://www.somaticstudiojapan.com/tatsuyaonuma

お手紙・ハガキ募集中です。
〒981-0811
宮城県仙台市青葉区一番町一丁目12-39-503
大沼鍼灸 宛

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サマリー

本エピソードでは、「共感」とは何かを身体的な視点から深く掘り下げています。共感は相手に集中することではなく、自分自身の体験を呼び覚まし、それを共有することであると説明されています。相手の痛みに触れたとき、自分の過去の似た体験が体の感覚として再現されることで、私たちは共感します。これは、相手の感情をコピーするのではなく、自分自身の体験を通して相手を理解するプロセスです。カール・ロジャーズの「あたかも相手であるかのように感じるが、その『あたかも』を手放さない」という言葉は、共感が自分自身を介して行われることを示唆しています。 共感の幅は、自身の体験の豊かさによって作られます。悲しみや喜びといった感情を十分に味わい、乗り越えてきた経験が多いほど、他者の様々な感情に響きやすくなります。逆に、自身の体験に蓋をしてしまったり、トラウマによって感じることができなくなったりすると、共感は難しくなります。現代社会では、忙しさや人間関係の希薄化により、自身の感情を感じる機会が減少し、共感力が低下する傾向にあると指摘されています。共感は特別な才能ではなく、自身の身体感覚に気づき、体験を豊かにすることで誰でも育むことができる能力であると結論づけています。

「わかる」が起きるとき、体では何が起きているのか
分かるが起きるとき、何が起きているのかという話を今日はやっていきたいと思います。
こんにちは、大沼竜也です。
僕が住んでいる宮城県も、無事、梅雨切りを果たしました。
ずーっと雨がシュトシュト降ってて、
毎年、レインブーツ買おうとか、傘買おうとか、カッパ買おうって思うんですけど、
これだ!みたいなのがなかなか見つからなくて、
今年も結局、レインブーツも傘もレインコートも買えずに梅雨を迎えてしまったので、
なんとか今のもので乗り越えようと思っています。
みなさんどうですか?お気に入りの雨具とかってありますかね?
こういうのオススメだよとか、あったらぜひ教えていただきたいなと思うんですけど、
あんまり雨具共有することってないよね。
友達とちょっと話が逸れちゃったんですけどね。
今日は共感についてのお話をしていこうと思います。
共感は相手に集中することではなく、体験の共有である
人と話してたりとか、対人支援の現場、
普通にこう、接客業とかもそうですね。
の中で、プライベートの中でも、
分かるよっていう風に誰かに言うことあると思います。
分かるよ、すごい気持ち分かるな、あれね、みたいな。
もしくは言われる場合もありますよね。
分かるよ、君の気持ち、あなたの気持ち、こういうことあるよね、みたいなね。
あの分かるっていうのが起きているとき、
僕らの心の奥底では、つまり体の方では、何が起きているのか。
先週あげたコミュニケーション特集の1話目ですね。
のところでは、会話で大事なのは、何があったかっていう事実だけじゃなくて、
どう感じたか、つまり体験の方を、
事実も同じくらい大切だけれども、
より重要になってくるよっていう話をしました。
事実も大事なんだけど、何があったかを整理するっていうことは、
日常の中でも、特に医療とか大臣支援の現場っていうところでは非常に重要になってきます。
だけど、むしろその心を取り扱うっていう意味では、
体験の方っていうのが事実と同じかそれ以上に大事にしていいんじゃないか、
大事にした方が良いのではないかっていう話をしたんですね。
相手の話を受け止めて、自分の体験を介して、
相手の体験を掘り下げて聞いていくと。
会話の中でお互いに渡し合っているもの、交換しているものっていうのは、
何も出来事の情報だけではなくて、体験なんだよっていう話をしました。
今週はその続きです。
今日は共感という言葉をキーワードに掘り下げていきたいと思います。
共感って良い言葉ですよね。
良い言葉として使われることが多いです。
あの人は共感力があるなぁとか、
もっと相手に共感をした方がいいよとかってよく言われます。
多分、相手の気持ちに寄り添うこととか、
相手の立場に立って考える想像力を膨らませて、
そういうイメージがあるんじゃないかなと思います。
想像力とかね。
ホスピタリティみたいな。
どれだけ相手をよく観察できるかっていうイメージもあったりするかもね。
でも本当のところは、
共感っていうものが起きている時、
実は僕らの体の中で、
ちょっと違うことが起きている気がしているんですね。
共感っていうのは、
相手に集中することではなくて、
体験の共有であると思うわけです。
しかもその共有っていうのは、
一旦自分の体を通っていきます。
どういうことかと。
共感しようとする時、
僕らっていうのは大抵相手の方を向きますよね。
仕事の中でこの人の話を聞くぞ、
親身に聞いてあげよう。
この人のために聞いてあげたいと思います。
相手の表情を見て、
声を聞いて、
この人は今どんな気持ちなんだろうっていう風に
一生懸命汲み取ろうとしますよね。
相手に集中すればするほど、
共感できるんだとそういう風に思っている。
もちろん相手を見ることは大事なんですよ。
ところが相手にグーッと集中して、
分かってあげなきゃ。分かってあげよう。
前のめりになればなるほど、
前のめりになればなるほど。
先週の話と繋がるんですけど、
体が困っていきます。
固まると感じられなくなっていくんです。
分かろうとするほど、
かえって分かんなくなっちゃうんですよね。
それに、もし共感っていうのが
相手に集中することだけであれば、
相手の情報をたくさん集めるほど、
深く共感できるっていうことになりますよね、
ロジックとしては。
でも実際はそうじゃないでしょう。
ねほりはほり聞いたとしても、
ちっとも心が動かないっていうこともあれば、
一言ぽつりとお話を聞いただけで、
グッとくることもあるわけです。
昔からの付き合いがある友達とか家族とかのさ、
話を聞いたりするとき、
それで共感するっていうことももちろんあれば、
SNSでさ、たかだか30秒とか90秒とかの
ショート動画見て、
深くジーンとするみたいなことっていうのも
人はありますよね。
経験したことあるんじゃないかなと思います、
誰しも。
情報の量と共感の深さってのは、
っていうのはどうも比例しなさそうですよね、
こうやって見ると。
「わかる」のは、自分の中に同じものがあるから
分かるっていうのは、
自分の中に同じものがあるから。
じゃあ共感っていうものが起きるとき、
何が起きているのかっていうこと、
悲しい映画を見て涙が出ると。
あれってよく考えると不思議なんですよね。
スクリーンの中の、
もしくはデバイスの画面の中の、
会ったこともない人の話なのに、
自分が泣いてる。
うー、なんて悲しいんだ、
うー、なんて感動の話なんだ、
ってありますよね。
あれは、その人の悲しさが、
悲しみが伝わってきたっていうよりも、
自分の中にある悲しみっていう感覚、
感情っていうものが、
呼び起こされているっていう風にも
捉えられると思うんです。
自分が昔、悲しかったときの体の感じっていうのが、
ふっと立ち上がってくるんですよね。
友達が失恋の話をしていて、
ああ、わかるよっていう風に言えるのは、
自分にも失恋した経験があって、
あの時の、その時の胸の苦しさとか、
体を、それを体が覚えているからなわけです。
子供が転んで泣いているのを見て、
こっちまで、うー、痛かったねーっていう風になりますよね。
顔もね、うーって。
あれは自分も転んだことがあって、
あの痛みを体が知っているからとも言えるわけです。
これは脳を調べた研究の中でも
似たことが言われています。
誰かが痛い思いをするのを見ているときに、
自分が痛みを受けたときと同じ、
その痛みの嫌な感じの方の場所が、
見ている側の脳でも働くそうなんです。
発火するそうなんですね。
ただ、実際にどこがどう痛いか、
という感覚そのものは働きません。
これ、タニア・ジンガーという研究者の方が
こういう実験を報告しています。
相手の痛みが電気みたいに流れ込んでくるわけじゃなくて、
自分の中の痛みの嫌な感じ
というのが呼び起こされていると。
で、僕はこれを、
これも追体験の一つだと思っているんですね。
つまり、相手の体験を感じられるのは、
自分の中に似た経験が、
似た体験が眠っているからと言えるわけです。
その眠っていた体験というものが
相手との話をきっかけに、
もう一度体で再現されると。
先週これを追体験という風に言いました。
共感というのは、この追体験のことと
ほぼ同じことを言っているのかもしれませんね。
共感というのは、相手の中にある気持ちを
そのままコピーしてくることではありません。
相手の体験が、自分の中の似た体験というものを呼び起こして、
その人間、その自分の体験を通して相手を感じると。
つまり共感というのは、一旦自分を通っていくわけです。
共感は、自分を通っていく
これ、カウンセリングの祖と言われている
父と言われているカール・ロジャーズという人がいます。
この人がね、共感について
すごい素敵な言い方をしているんですね。
あたかも相手であるかのように感じる。
でも、そのあたかもを決して手放さない。
もし、あたかもがなくなって
相手と完全に一つになってしまったら、
これはもう共感ではなくて
ただ飲み込まれているだけになってしまうという風に言うんですよ。
自分を通るというのは多分こういうことなんですよね。
相手の体験に自分の体験を重ねる。
でも自分が消えてはしまわないわけです。
あくまで相手の体験というのは
自分の体験で言うとこれに似てるかもな。
でも同じなはずはない。
自分がこう感じているけど
相手はどうなっただろうという
そこで想像力が初めて働いてくるんですよね。
この感覚だな。
相手も同じ体験をしていたはずだとか。
そういう風に自分の体験だけを
その材料に使ってしまう。
そこしか見えてこないような状況になると
相手のことは見えてきません。
なんだそのくらいだったらもっとこうすればいいじゃないかとか
もしくはそういう風に心ない言葉を
投げちゃうということにもなりかねないし
もしくは
こんなに辛かったのか
そんな風に相手の体験を
こうなんだろうな
過度に大きく受け取ってしまうということにも
なりかねないわけです。
共通しているのはコミュニケーションが
破綻しているということですね。
だからこそ相手の体験に
自分の体験を重ねていくということ
それですり合わせていくということが
必要になってくるわけです。
世間が消えて、共感を経ずに大人になる
つまり自分の体験というところに
蓋をしてしまっている人というのは
共感しにくくなるんですよね。
自分が悲しかった時
その悲しみに
飲み込まれた経験があるとか
それで怖くて
その体験に触れたくないという時
これはつまりトラウマのことですね。
そうなってくると無理やり
明るく外には振る舞って
全然気になってないよというような言葉も出てきちゃうかもしれない。
ただその体験には触れられないですよ。
だからしまいこんじゃうんですね。
そういうことが重なっていくと
もしかしたらドカンと来ることもあるかもしれないし
小さい頃に少しずつそういう体験を積み重ねてきた
自分の感覚に蓋を閉じてきたというのが
重なってきてしまうと
相手の悲しみというのを聞いたとしても
これは呼び起こしていけないというふうに
無意識に働くわけです。
だからピンと来ないということが起きてきたりする。
冷たいわけじゃないんですよ、全く。
ただ自分のその体験というものを
トラウマによって塞いでしまっている
ということもあったりするわけです。
今までの心理療法の中だと
おそらく蓋をしているんだろうという考え方になってきていたんだけど
これが近年になってくると
どうしてもやっぱりテクノロジーの発達だったりとか
そもそも
世間というものが消えてきたりとかね
つまり社会が大きくなって世間が消えて
人との繋がりというものが気迫化してきてしまうと
そもそもこういう経験を経ずに
大人になってしまうということが
出てきていたりもするんですよね。
だからその体験というものが
自分が体験しえない体験というのがある
という想像が働かないということも起きてくるわけです。
だから心ない言葉が出てきちゃったりとか
SNS上とかでね
見たことあると思います、みんなも。
そういうことが出てきてしまうわけです。
だからその人が悪いかというと
たまたまそういう風に環境が
なんだろうな、そういう環境に恵まれなかった。
恵まれる、恵まれないというとちょっと嫌な言い方になるかな。
たまたまそういう機会がなかったという
見方もできるわけですよね。
共感の幅を作る自分の体験
逆に自分の喜びとか悲しみ
それから痛みとか悲しみ
苦しみというものを
ちゃんと体で体験してきて
それを乗り越えてきた。
つまり解いてきたということです。
それに飲み込まれずに俯瞰できるくらい解けるようになってきた。
緩めるようになってきた。
そういう方は共感の窓というのがたくさん開いています。
だから
いろんな人のいろんな体験に響くことができる。
なおかつ飲み込まれずに
適度な距離
飲み込まれずに
存分にその人に向け合うことができるということになるわけなんです。
ちょうどいい距離感ではなくて
ああそうか
自分で言うとああいう体験に似ている体験を
この人はしたのかな
辛かったろうな
俺だったら辛かったな
君はどうだったというふうに問いかけることができるんですよね。
これが本当の意味でのコミュニケーションだと思うんです。
微妙に話を聞いていればね
実際にやっぱり違うところがたくさんあるんですよ。
同じ答えじゃないし
同じ環境の中に全く住んでいるわけじゃないからね。
微妙な違いというものがあって
それを尊重できるというか
ああなるほど君はこういう体験があったんだねっていうような
想像力を働かせていく
つまりリスペクトを持ってコミュニケートをしていく
ということができるんだと思うんです。
英語に非常に近い言葉で
シンパシーというのがあります。
シンパシーって聞いたことありますね。
シンパシーを感じるというものですね。
これアルファベットに直すと
SYMというのは共にという意味で
パソス、シンパシーのパシーの方は
感じること、苦しみという風に
言うらしいんですよ、語源としては。
共に感じること
語源からするとこれは
相手を分析すること、相手を知ることではなくて
共に感じることなんですね。
共感というのはまさに日本語でもそうですよね。
共に感じるということだ。
もう一つ共感というのは英語で
エンパシーという風にも言うそうです。
この言葉はもともとドイツ語の
中へ感じ入る、中へ感じ入る
という風に意味らしいんですね。
これ美術の文脈での言葉なんだそうです。
美術ね。アート。
絵や彫刻を見る時に
自分をその中に感じ入れて
内側から味わう
その働きをティチェナっていう
心理学者が100年ちょっと前に
エンパシーという言葉にしたそうです。
だからエンパシーというものは
もともと自分を相手の中に
感じ入れるということなんですね。
相手を外から分析するのではなくて
自分の方を差し入れて
内側から感じる
さっきから言っている自分を通っていく
自分の体験をかえり見ていく
っていうのと
言葉の成り立ちから見ていくと
同じことを言っているようなんです。
共感とは、体験の共有である
これらを踏まえて
僕は共感というのは
体験の共有だと思っています。
相手の体験と
それに呼び起こされた自分の体験というものが
同じ部屋に並んで響き合うと
ただこれ響き合って完全に同じものを
感じるわけではなくて
それぞれ違うものを感じているんですよね。
お互いに感じているものを
共有するということなわけです。
完全に同じものにはならない。
あなたの悲しみと私の悲しみは
似ているようだけど全く別のもの
でも似ている。
その震えが2つの体の間で起きている。
この響き合いというものが共感だ
ということなんですね。
哲学者のメロロポンティという方は
こういう体と体の響き合いというものを
感心体制という風に言いました。
体の間
という風に書いて感心体制ですね。
向かい合って話していると
相手の身振りにつられて
自分も動いたりとか
息のリズムが知らないうちに揃ってきたりすると
こういうことがありますよね。
私の体というのは
自分の中だけで閉じているのではなくて
他の人と他の人の体と
響き合う場でもあるという風に言うわけです。
だからこそ
言葉って実はいらないことも多いんですよね。
何にも言わずにただ隣にいてくれるとか
ただ一緒に体を動かして遊んでいるとか
それだけでも仲良くなったり
楽になったりということが出てくるわけだ。
子供とか見ているとまさにそうですよね。
子供はほぼ話せませんよ。
2歳とか3歳だったらもうなおさら。
だけれど
体と通じてコミュニケーションして
いつの間にか2人で遊んでいたり
何だろう、群れを成して遊んでいるということも出てくるわけです。
大人になった僕らにも
その能力とか体験というものは
おそらく生きているはずなんですよね。
どれだけ話が上手い、どれだけ情報をたくさん持っている
どれだけ
導くのが上手いとかという方よりも
どれだけ正しいことを言う人よりも
なんとなくこの人が好きだな
なんとなくこの人を信用したいな
そういう自分の
意志みたいなものを引き出してくれる人
こういう人の方が実は
信頼できるということになってきたりもするんですよね。
何も僕らの合理的な判断というのは
経済的な合理性とか
社会的な合理性とか
そういうところだけでは決まらない合理性というのを
持っているようなんですよね。
自分の体験が、共感の幅を作る
自分の体験が共感の幅を作ると
そう考えると
共感を深めるために必要なのは
相手の情報を集める技術ではなくて
自分の体験をちゃんと感じられる
体のほうなわけです。
嬉しい時に目いっぱい嬉しがって
悲しい時に目いっぱい悲しんで
悔しい時にちゃんと悔しがると
一つ一つの体験というものを
体で存分に味わっていける
そうすると自分の中に
体験の引き出しがたくさんできてきます。
その引き出しが多いほど
いろんな人のいろんな気持ちに響けるようになる
ということなんですね。
もっと言うと、この体験というのは
いろんなパターンを増やす
ということではないんだと思うんですね。
僕らが悲しいなあと思った時
有名な話で
悲しいから泣くのではなく
泣くから悲しいのだという言葉があったりします。
僕らの感情
その前空になる
その前段階にあたる浄土
というものは
僕らの体の反応なわけなんですよね。
もう無意識に体が反応しているわけなんです。
この体の反応というものが
存分に発動する。
なおかつ
その存分に発動したものを
それに飲み込まれずに悲しくて
何でもかんでも見たら泣いちゃう
みたいな状態だと
もう泣くのも嫌になるじゃないですか。
疲れちゃいますよね。
もしくはそれが人前で泣くことを恥ずかしいことだとか
変な人って思われたらどうしようみたいな
理性が邪魔をして
この泣くというものを
自分で蓋をしてしまうということが
起きてきたりもしちゃいますよね。
でもそうではなくて、それに飲み込まれずに
ああ私すごい悲しんでいるなというのを
感じて認識できるということ
それが非常に重要なんだと
思っています。
自分の体の内側を感じ取る力というのを
無い需要感覚という風に言ったりします。
無い需要感覚。
内側を感じる力ですね。
胸がキューッとなる
あの苦しい悲しい感じ
お腹が重いドシーンと
がっかりした感じ
もしくは腹が座るという感覚もあるかもしれない。
全く別のものですよね。同じお腹だ。重いだけど。
肩が上がっているとか
そういう自分の中に
その自分の中の感じに気づく力です。
この力と人への共感というものが
関係しているらしいという研究も
あります。
共感は特別な才能ではない
ただこれははっきり証明されたわけではなくて
まだよく分かっていないところも多いんですよね。
それでも僕が臨床したりとか
オンラインでセッションとかしているとね
自分の感じにやっぱりちゃんと気づける人ほど
変化に敏感な方ほど
人の感じにも気づきやすいというものは
あるんじゃないかなと思います。
ところが今の社会というのは
この感じることというのを後回しに
させることがやっぱり多いんですよね。
どうしても忙しいから
悲しんでいる暇はない。
怒っても仕方がないから飲み込む。
いちいち感じていたら仕事が終わらないんですよ。
家事が終わらないんですよね。
子供にいちいち怒っていたら。
そうやって自分の体験を感じきらないまま
認識しているんだけど
こんなの感じていられないという風に
そのままやり過ごしていくということが
出てくるわけです。
気づくとこの共感の窓というものが
少しずつ閉じていきます。
共感しにくくなるのは
あなたの心が冷たくなっているからではなくて
感じることを許されない。
感じることを
その時間を与えられないという毎日の中で
体がだんだん固まってきている
からだと思うんですね。
だから共感というのは特別な才能では
ないということなんです。
もちろん天才的にそういうのが上手な方もいると思います。
僕すごく苦手だなというのを
臨床とかやりながらね
改めて思うことが多いので
上手だなという人が主塾生の方とかに
たくさんいらっしゃると
もっと自分も頑張らないとなという風に思っちゃったり
するんですけどね。
ただ
完全に持っている人と完全に持っていない人がいるかというと
全くそうではないと思うんです。
どんな状態からでも
その能力を高めていけるというか
成長していけるものだと思っているんです。
自分の体が解けていって
自分の体験というものを
体の感じというものを感じられるようになっていけば
そしてその経験というものをたくさん増やしていけば
いくほど共感というものが自然に起きてきます。
誰かの話を聞いて
自分の中の何かがふっと
動いてくると
その動きに素直になるだけでいいと思うんですね。
頭こねくり回しても分からなかったりするんですよ。
僕も自分自身の人生の中で
何か大きいことがあったかと言われると
多分人並みのものしかないと思うんですよ。
ただね、
そんな人並みの人生の中でも
やっぱり自分の子供が生まれたとか
家族が死んだとか
当時20歳くらいの時に
東日本大震災被災して
いろんなニュースを家中で聞いていたとかね
自分の家の周りでまさにそういうことが起きていたという
その体験のことを
今になってですよ。もう15年くらい前だよね。
15年以上前の話だけど
今体を解いていく
そして何かに触れた時に
ふわっとあの時のことを思い出したり
っていうことが出てきたりするんですよ。
人の話を聞いていても
もしかして自分のあの時のあの体験と似ている
ような体験をこの人は今しているのかもしれない
そうなった時に
相手の体験と自分の体験というものを
お互いに差し出してね
私はこういう感じが昔あったんですよね
こういう時にとか
何々さんはこういう体験だったんだ
それってこの部分がすごく似てるかもね
違うけれど同じものかもね
そういう会話が生まれてくるんですよね
これこそがまさにこう体で生きている
体を持っている僕らならではの
コミュニケーション
僕らならではの合理的なコミュニケーションなのかなとも
思うわけなんです
だからね、今これを聞いてくださってて
あんまり共感できなかったりもするんだよね
とかいう方は
体が解けていくと
こんなに自分はいろんな体験をしてきたんだっていうのを
どんどん思い出せていくことが
あると思います
僕がまさにそうだったので
怖いものじゃないですから
すごくフラットに味わうように
その自分を愛しく思えるようになると思うので
ぜひ体から取り組んでいただけると
面白いかなと思います
共感疲労と向き合う
ちょうどですね6月末から
間もなくですね
27日かな26日かな
ごめんなさい
今週末から大沼達也の
始塾の応募が始まります
この始塾では
まず自分の体を把握していく
そして解いていくということから
始めていきます
自分の体験を感じられるようにしていくということ
それが人に共感できる体の
土台になるからなんですね
セラピストも例えばヨガの先生とか
インストラクターみたいなのも
看護の方だったり医療医師の方だったり
もしくはコーチングとかね
そういうのに関わる方とか
職業が違ってもここは同じところだと思うんです
つまり人と関わる仕事っていうのは
広い意味で言うと全部対人支援だと
僕は思っているんですね
つまり人と関わらない仕事ってほぼないですよね
そういうところに興味を持ってくださっている
ぜひ大沼のところで一緒に大沼と学びたいと思っていただける方は
ぜひ僕ともコミュニケーションしながら
楽しく学んでいければなと思っています
ぜひ応募をお待ちしています
出会えるのを楽しみにしています
ここまでねその共感とか体験を
学校を思い出されるよとか
そういう体験が大事だよっていう話をしてきました
一つ気になることが出てきますね
共感しやすい人
共感しすぎてしまう人
こういう方もおそらくいると思います
自分の体験が呼び起こされやすい人ほど
人と関わるとドッと疲れちゃう
っていうことがあったりするんですよね
これを心理学の言葉で臨床心理の言葉で
共感疲労っていう風に言ったりします
もしくはもらい疲れとかね
よく僕もいただく質問として
私感受性が強すぎて困ってるんですよ
っていう話を聞くこともあります
対人支援の道を志す方っていうのは
割とこういうね特徴を持ってる方って
すごく多かったりするんですね
僕の方は多分気象少ないと思うんです
気象ってなんかいい言い方したけど
全然よくはないですからね
絶対に共感疲労とか
に悩んでる方の方が
より深いところにいるっていう気が
僕はします羨ましいなって思ったりする
でもそんなこと言われても
家中にいる人からしたら
適度な距離感で人と
人のための仕事を続けたいなっていう風に
悩んでる方ってすごくいらっしゃるんですよね
だからここまでにしよう
これ以上は立ち入らせないし
立ち入らないようにしようみたいに
線引きっていうところを頑張って引こうとして
なかなかうまくいかなかったりっていう風に
苦しんでる人もいるんですよね
来週はその共感疲労っていうものについての
話をしていこうと思います
共感疲労に悩んでる方も
今日の話を聞いてね
そうか共感するっていうのは別に悪いことじゃないんだ
っていうのは分かっていただけだと思うんです
とはいえ自分の体験を感じるっていうところに
恐怖心があると思うんです
それに飲まれてしまうような
その感覚が自分の中で起きてくるような
大きくなっていくような怖い感じがあると思うんです
それとそれをどういう風に
捉えていけばいいのか
それとどう向き合っていけばいいのかっていう話を
していこうと思います
ぜひまた来週聞いていただければと思います
じゃあ今日も
この辺で終わりにしましょうか
大沼達也の身体の教養ラジオ
今日ものんびりといきましょう
また来週のんべんならりといきましょう
35:07

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