ブッダの悟りの前段階
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、これから仏教を学んでみたいという方に向けて、インスタグラムでフォロワー2万人超えの臨済集の総理、私、かんどう和尚が、仏教の基本を一からお話ししていく、そんなプログラムとなっております。
みなさん、こんにちは。今日は、いよいよ、ブッダが悟りに至る場面を、ブッダの前期、二代目方に基づいてお話ししたいと思います。
ブッダという故象は、悟りに至ったものという意味なので、悟りを開く前のブッダは、修行中の人を察、菩薩という故象で進めていきます。
前回のシリーズでは、その菩薩が、過酷な苦行を意に放棄をしたというところまでお話しします。
苦行をやめた菩薩は、ふと子供の頃のことを思い出すんですね。覚えておられますか?
菩薩がまだ小さいときに、金巻祭りだったかな。
この出身のシャーキャ族の大族の人たちで、お祭りがあったときに、一人になる時間があって、そこで一人で涼しい木陰で瞑想をしたときに、諸禅に入ったというお話をしましたよね。
そのときのことを、菩薩は思い出されるんです。
どう思われたか、あのときはよく収集できたな、ぐらいの気持ちだったんだろうと思うんですけれども、
それがヒントになりまして、菩薩は改めて、落ち着いて座れる木がないかというのを探されるんですね。
そして、その木の下で静かに瞑想を始められます。
その瞑想のときに、心の中でいろんな葛藤があったというのが伝わっているんですけれども、その努力がついに実を結ぶんですね。
そう、菩薩はここで悟りに至られるんです。
この瞬間に菩薩は、目覚めた人、ブッダになられるんですね。
輪廻の苦しみと盲臭
このときの感動を、ブッダはこういうふうに語っています。
言葉が残っているんですね。
私は知恵を見出すことなく、家屋を作るものを求めて、多くの生涯を渡って輪廻を経て巡ってきた。
幾度も生まれ変わるのは苦しいことである。
家屋を作る者よ、汝は見られてしまった。
もはや汝は家屋を作らぬであろう。
汝の針はすべて折れ。
胸は壊れてしまった。
私の心は形成作用を離れて、盲臭の滅人に到達した。
さて、この言葉だけ聞いてもちょっと難しいですね、何を言っているか。
少し解説をここで挟みます。
まず、前回も言いました、これ再三申し上げていますけれども、
インドの思想では、輪廻という考え方があるというのをご紹介していますよね。
生き物というのは、生まれ変わり、死に変わりをずっと繰り返すということです。
この生まれ変わって生存すること、これをここでは家屋、家ということですね、このように表現しています。
でも、生まれてくると必ず老い、そして病、この世を去れということがセットになっている。
だから、輪廻というそのものが苦しみなんですね。
では、どうすれば輪廻を止められるのか。
ブッダはその原因を盲臭だというふうにここで言われているんです。
盲臭というのは、盲は洗盲状態とかの盲ですね。
臭というのは執着の臭、これで盲臭。
これは、数ある煩悩の中でも、すごく主要な、主な煩悩の一つなんですね。
中身としては、好ましいものを手に入れようとする強烈な欲求のことです。
これ、インドの言語ではタンハーというんですけども、この盲臭という言葉以外にもいろんな訳され方がするんですね。
この欲求の種類として、まるで砂漠で、喉が渇いた時に水を求めるかのような、そういう強烈な欲求ということで、渇愛というふうに訳されたりもします。
渇愛の渇というのは、喉が渇くというのが渇。
そして、愛というのは、愛情の愛です。これで渇愛。
あとはね、貪欲。貪欲ってね、普通の日本語では、二語って貪欲って言いますね。
貪欲に何かを求めるって言いますよね。
これ、もともと貪欲っていうふうに仏教では言うんですけども、これもタンハーの訳語、翻訳された言葉の一つなんですね。
行いと煩悩の関係
ちょっと渇愛って言ったり、盲求って言ったり、貪欲って言ったり、貪欲って言ったり、バラバラになるので、言語のタンハーでちょっと説明していきたいんですけども、
このタンハーこそが、家屋を作るもの、つまり、私たちを倫理させる力の源なんだということなんです。
でも具体的に、タンハーがどういうふうに倫理に繋がっていくのか。
ここで鍵になるのが、行為、行いですね。
についてのインド人の考え方です。
インドでは、我々の行いには、必ず果報、つまり好ましい結果、好ましくない結果をもたらすエネルギーがあるんだって考えるんです。
日本ではそんなこと考えないですよね、基本的に。
行いっていうのは、その場限りのことを指すんですけども、
インドでは、行いには結果をもたらすエネルギーがくっついてきて、そういうエネルギーも含めて行いって言うんですね。
このインド的な行いのことを、ゴーって言うんです。
良い行いをすれば、好ましい結果、そして悪い行いをすれば、好ましくない結果がもたらされる。
こういう法則があるんだって考えられてて、この法則のことを、自業自得って言うんです。
自らの行いの結果は、自らが受けるっていうこと。
日本だとこの自業自得って、悪い行いの時だけを指しますけど、本来はそうじゃなくて、良い行いで好ましい結果をもたらされることも自業自得って言うんですよ。
法則性のことをそう言うんですね。
そして、その行いによるエネルギーっていうのは、短波を含む煩悩によって発生するんだ。
良くない心の働きによって、そういうエネルギーが発生するって言うんですね。
そう、悪い行いだけじゃないんです。
良い行いも煩悩に基づいてるって考えるんですよ。
これちょっと不思議に思われませんか?
そんなことないやろうと。
ちょっとここ、理解しづらいと思うんですよね。
悪い行いだけじゃなくて、良い行いも煩悩に基づいてるっていう。
そんなことないだろうと、多分思われると思うんですよ。
でも、ちょっと考えてもらいたいんです。我が身に置き換えて。
良い行いをした時って、純粋に良い行いをされてますか?
どこかに、良いことしたなっていう気持ちがあったりとか。
それによって、自分に何か利得、有利になることが生じるんじゃないかって期待したりとか、そういうことないですか?
本当に真っさらな、純粋な気持ちで良い行いがされるっていうことは、あまりないんじゃないかと思うんですよ。
だから、行いは煩悩に根差しているんだっていうふうに、仏教は考えたんですね。
そして、このような煩悩の主要なものである短波を断つことで、行いにエネルギーが発生しないようになって、輪廻が駆動されないようになる。
このように、輪廻が停止した状態を悟りって言って、下脱って言って、涅槃というふうに言うんですね。
ちょっと今、バラバラに言ったので、わかりづらいかもしれませんが、この煩悩によって、最終的には苦しみが生じるっていうのは、公式が仏教ではあって、これを枠ごっくっていうふうに言います。
枠っていうのは魔道具っていうこと。魔道具っていうのは、枠は煩悩の別の呼び方なんですね。
そして、この枠煩悩によって、業、行いが生じて、そしてその結果、輪廻という苦、苦しみ、これが生じる。これが枠ごっくですね。
これをね、この枠ごっくのことを私は今、いろんな言い方で説明をしたんですけれども、そういうふうな流れがあるんだっていうことですね。
これは余談になるんですけど、この業っていうもの、これは枕行っていう習慣に結びついています。
今ね、都市部ではもうほとんどこの枕行やらないかなと思うんですけど、今でも地方の方ではこの枕行ってやるんですね。
どういう風習かというと、亡くなってすぐにお坊さんを呼んで、お経を枕元であげてもらうっていうのを、これ枕行って言うんです。
ブッダの悟りのプロセス
これなんでそういうことをやるかっていうと、ちょっと最初から話すと、良いことをすれば好ましい加法、そして悪いことをすれば好ましくない加法がもたらされるって言いましたけど、
この業の行いの影響力っていうのは、小さいものもあるんですけれども、大きいものになると、来世どのようなところに生まれ変わるかっていう、そういう境遇まで決めてしまうっていうふうに考えるんですね。
じゃあ、この来世の境遇を決めてしまうような大きな結果をもたらす業っていうのは、どのようなタイミングの行いなのか。私たちは生まれてから死ぬまで絶えず行いをしていきますから、どのタイミングの行いが、そんな大きな来世の境遇を決めてしまうような結果をもたらすのか。
これがですね、クシャロンっていう有名な仏教の公用書テキストがあるんですけど、その中で、命が尽きる直前の行い、業、これが来世に影響を与えるっていうふうな記述があるんですね。
これに基づいて、個人が亡くなってすぐに行われる度胸、枕行っていう習慣ができてるんです。
もともとはですね、亡くなる間際に行われてたんです。それがね、こういうふうに亡くなる直前って書いてますから。
でも、そういうタイミングに間に合わないことってやっぱりたくさんありますよね。人が亡くなるのって予期できないほどたくさんあるじゃないですか。
そういうことを踏まえて、亡くなる間際だったものが亡くなった直後っていうタイミングがスライドされてるんですね。
いずれにしても、その人の来世の幸せっていうものを願う、それが枕行なんですね。
さて、ここで一つちょっと考えたいところがあるんですけれども、何が菩薩をブッダにさせたのかっていうところです。
だって苦行もダメだったわけじゃないですか。
で、瞑想だって今始めたわけじゃなくって、何々ずっとやってたことですよね。
それがなぜここで悟れたのか、悟りに至れたのか。その答えは知恵なんです。
前回も申しましたけども、仏教でいう知恵っていうのは、物事の良し悪しを見極めて正しいものを選び取る判断力のこと、洞察力って言ってもいいですね。
これは私たちみんなが持っている力ですけども、磨かないとダメなんです。そんなに当てにならないんです。
実際、ご自身のこれまでの決断を振り返ってみてください。結構間違ったことあるんじゃないですか。
これはちょっと非禁な例になりますけども、買い物とかでもそうですよね。
買う時にはこれが必要だと思って判断して購入したけど、後になったらこれそんなにいらなかったなって思うものありませんか。
ありません。私はやっぱりありますよ。これは正しく選び取ってないんです。
だから知恵はあったんでしょうけど、その知恵はあんまり良くない知恵というか、当てにならなかった知恵だっていうことですね。
ブッダはこの知恵を徹底的に磨いて体系化していったんですね。それが後に仏道修行って呼ばれるようになっているんですね。
ということで、今回は菩薩が悟りに至ってブッダとなられた瞬間についてお話をしました。
次回の予告とアフタートーク
次回は具体的に何によって悟りに至ったのかという、伝統的に2つの説があるんです。これを順番にご紹介していきたいと思います。
ここからはアフタートークです。
今日のお話いかがだったでしょうか。ちょっと頭使いましたよね。
気軽に聞き流せるようなのがいいなと思って一応心がけてはいるんですけれども、なかなかそういかないんですね。
今回の話でもわかるように、ブッダという方は、情緒的に物を語る人ではなくて、
今日話したように、一つの現象に対して、なぜそうだったのか、なんでそうなるのかという原因をとことんと突き詰めて分析をする方だったんですね。
すごく理性的な方だったんです。
そういう一面がこれからもたくさん出てきますので、これまで皆さんが抱かれていたブッダ感、そういうものが覆える日がだんだん近づいてきたんじゃないかなというふうに思います。
また聞きたいなと思っていただけたら、ぜひフォローをお願いします。
またサポーター制度も始めましたので、そういうものも考えてご加入いただければなというふうに思います。
そういう皆さんの一つ一つの行いが番組を続けていく上で大きな励みになりますので、ぜひよろしくお願いします。
また来週お会いしましょう。