ビンビサーラ王と仏教の初期
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、仏教初心者の方に向けて、インスタグラムのフォロワー3万人超えの総量、私、かんどう和尚が、見た的な視点から仏教を解説するプログラムとなっております。
みなさん、こんにちは。最初にお知らせと言いますか、アップルポッドキャストのランキングで、仏教のカテゴリーというのがあるんですけど、おかげさまで1位になりました。ありがとうございます。
仏教のカテゴリーの上に、上位カテゴリーで、宗教スピリチュアルカテゴリーがあります。そこでも1位になりました。ありがとうございます。
瞬間的にではありますが、1週間くらいでも1位キープしていたのかな。日本で一番聞かれている宗教系のポッドキャスト番組になっていたということですね。
順位は上下するものですから、そんなにこだわりないんですけど、みなさんのおかげで、そういうふうになりましたので、引き続き聞いていただければありがたいなと思います。
前回ですね、ウルベーラーカッサパが出家したことで、仏教組織サンガが1000人を超えたところまでお話ししましたね。今回はその続きです。
ウルベーラーの地を後にした仏陀は、ラージャ河下に到着します。この場所は仏陀が頻繁に滞在した場所の一つで、この地に領珠泉という場所があるんですけど、そこでお説法をしたという記録がたくさん残っています。
私もこの場所に一回行ったことがあるんですけど、領珠泉自体は思ったより狭いところなんですけど、夜になると盗賊が出るから、日が暮れる前に帰らないといけない。すごいガイドの人たちにせかされて。
車で分譲して行ったんですけど、ドライバーの人がめちゃくちゃ焦っている記憶がありますね。盗賊というのがピンと来なかったんですけど、当時そういう場所があるんやなぁと思いながら、ちょっと恐ろしさを感じながら過ごした経験があるんですけれども。
このラージャガハのラージャというのは王様という意味で、ガハというのは住居のことです。その名の通りこの場所というのはマガダ国の首都でビンビサーラ王が住んでいた場所なんです。
このビンビサーラ王はブッダが出家して間もない頃に出会ってまして、その時に出家して悟りに至ったらまた来てくださいねって約束してたんですよ。
それをここで果たした格好になります。
2人は会見やりとりを交わしまして、その結果ビンビサーラ王は仏教徒になりまして、仏教相談を支援することを約束してくれます。
この支援の一環として、王は仏教三神マガダ国における拠点を提供したいと申し上げます。
この拠点が仏教史上初めてのお寺になるチクリン精舎です。
以前、擬音精舎の話をちょっと余談でしたことがあるんですけど、あれは2番目の精舎なんですね。
精舎というのはビハーラという言葉の訳、僧院、お寺のことです。
お寺って日本で言うのは何でかというと、中国で仏教が伝わった時に初めてのお寺が役所だったんですよ。
役所のことを中国では寺って言ってたんですね。
そこから仏教のお寺も寺っていうようになったんですね。
だから、将者と寺というのは同じ意味になります。
このビンビサーラ王からすると、このように拠点を設けると、
ブッダがしばしば訪れて滞在してくれるようになりますよね。
そのことによってブッダの話、教えを受ける機会が増えることになるので、
お寺がこのように建てられるようになったこの由来、理由というのは、
現代で言う推し勝ちにわたるんですね。
自分の推し、推しっていうのはちょっと軽く感じますけども、
そういう自分が慕っている人が来てくれるように、快適な設備、装備を整えた別荘を用意してこしらえてあげるみたいな感じですかね。
これはですね、少し前までは日本でもこういうケースがあったんですよ。
あとは、現代ではほとんど見ないですけど、南方の仏教国、タイとかミャンマーとかスリランカでは今でもあるんですよ。
やっぱり熱心な仏教信者の方って向こうの方が多いんですね、仏教国なので。
だから仏教徒たちの信者の組織みたいなのがあって、
その仏教徒たちが、よしお寺を建てようって言って、すごく立派なお寺を建てて、
そこに、じゃあお坊さん住職は誰がいいだろうかって言って、いろんなところでですね、いいお坊さんいないか探して、
この人素晴らしいなって思う人に頭を下げて、ここの寺に入ってくださいって言って入ってもらうみたいな。
こういうケースが割と今でもあるみたいなんですね。
だからこのビンビサーラ王のケースも、そういうケースの一番最初、後史というふうに言えるんじゃないかなと思います。
今回ビンビサーラ王の話をしていますので、この話をしないわけにはいかないですね。
王者城の悲劇
王者城の悲劇と呼ばれる事件です。
これは浄土宗で重視される冠無量寿教というお経で説かれることで有名なんですけど、
実際に起こったことを元にしていると言われています。
この実際に起こった事件というのは、ビンビサーラ王の息子であるアジャータシャトルによる大井三奪事件です。
このアジャータシャトルというのは、王子の時代にチャンパーという場所に駐屯をしていたんですけど、
お父さんと対立をするんですね。
それを知った仏陀の弟子のデーヴァダッタという人が、アジャータシャトルに対して、
お父さんを亡き者にして、あなたが王位に就いたらどうですか?と恐させるんですね。そそのかすんです。
このデーヴァダッタも実は仏陀と反目している状態にありまして、
仏陀の弟子でありながらも、僧侶の運営をめぐって仏陀と対立をしていたんですね。
だからデーヴァダッタはアジャータシャトルに対して、ちょっとシンパシーを感じるような境遇にあったんです。
そういうふうにアジャータシャトルは外脳化されまして、それを真に受けてしまいまして、
お父さんは遊兵をしまして、餓死させてしまうんです。これが王者状の悲劇といわれる事件の内容です。
ただその後、アジャータシャトルはお父さんを殺してしまったことを大変悔いるようになります。
そして仏陀と交流して、彼は仏教徒になるんですね。
一方デーヴァダッタの方は仏教参加の分裂をその後企てるんですけど失敗をしまして、
生きたまま地獄に落ちたというふうにされています。
デーヴァダッタの教団の謎
ただ7世紀にインドを旅した玄奘三蔵はデーヴァダッタの教団、
デーヴァダッタのことを仏陀と同じように大事にする教団がベンガル地方に存在していたということを記録しているんですね。
そこのデーヴァダッタの教団のお寺では仏教よりもストイックな生活されていたという、
そういうところもあって、
デーヴァダッタが教団運営をめくって仏陀と対立した時も、
デーヴァダッタはもっと厳しくした方がいいって言ったんですよ。
そういうところで仏陀はいやいやそれは厳しすぎるって言って受け入れなかったんですけども、
この後の仏教で言われるようなデーヴァダッタは悪人じゃなかったんじゃないかって最近言われています。
歴史っていうのは常に勝者の歴史ですよね。
だから悪者に仕立て上げられてしまったっていう可能性はやっぱり捨てきれないなと思いますね。
そうじゃないとね、やっぱりデーヴァダッタの教団がその後7世紀ってことは、
現状3造がですね。
仏陀の時代が紀元前5世紀ですから、
1200年ですよ。もうインドに残ってたってことですよ。
王の悲劇
そんな悪い人の相談が1200年も残るかなっていうことですよね。
だからやっぱり単純に意見が合わなくって離脱したっていうのが、
史実というかですね、実際だったんじゃないかなってことを思ったりしますね。
次回はですね、仏陀の二代弟子とされるサリブッダ尊者とモッカラーヌ尊者と出会う場面についてお話ししたいと思います。
この二人大変良いお坊さんですからね。私大好きなんですよ。
ぜひお聞きいただければと思います。
ここからはアフタートークです。
今回のリスナーの皆さんからのご質問にお答えしたいと思います。
今回いただいたご質問は、ラジオネームトモさんからいただいたご質問です。
未練と執着を手放すには、自分とどう向き合えばいいでしょう?
不調した瞬間に寂しさ・悲しさが込み上げてきます。
ありがとうございます。
ご質問を読む限りですね、大切な方との別れがあられたんですかね。
そんなふうにお見受けします。
そのように仮定してお話をさせていただきますね。
仏教の出家者の中には、大切な人との別れによって出家したという人が少なくなかったんですよ。
特に女性の出家者はそのパターンが多かったようで、そういう記録が残っているんですね。
ある女性のお坊さんは、ジーバーという娘さんを亡くしまして、
仮想場で娘の名前を泣きながら叫んでいると、
そこに居合わせた仏陀から、この仮想場ではこれまで数え切れないほどのジーバーという娘がダビに伏された。
あなたはどのジーバーを痛むのかと尋ねられた。
それを尋ねられて、お坊さんになった人はハッとするんですね。
ほぼ失ったのは自分だけじゃないと。
そして人は必ず亡くなるんだということをハッとするんですね。
こう言われて執着が消えたと後で語っています。
執着する原因について仏陀はいろいろなところで語られているんですけど、
それはかつ愛、好ましいものに対する強烈な欲求ですね。
これがあるから執着するんだと。
なぜ我々はそうやって強烈な欲求を抱くかというと、
まるですごく良いものかのように対象を味わっているからだと仏陀は言われるんです。
双望仏経典、三悠太仁伽耶と言うんですけど、初期の経典ですね。
この中で執着について仏陀が語っておられるお経がありまして、
そこで仏陀はこんなふうに言われています。
焚火をした時に燃料を注ぐと、その度に火は大きく燃え下がる。
そして燃料を注ぐ限り火が消えることはない。
それと同じで執着する対象も、いいな、素敵だなって味わいながら見ていると、
その人には愛着の思いが生じて、それが執着につながる。
反対に執着する対象を、これはいけないぞと思いながら見ていると、愛着の思いは消える。
これは焚火に燃料を注がないようなもの。
それにより焚火は消えるだろうと。
我々が欲望の対象とか怒りの対象をどういうふうに見ているかということがよくわかるんですね。
私たちは欲望の対象の良い面しか見ていないということなんです。
でも決して良い面だけじゃないよって言われるんですね。
必ず欲望の対象には機難があるんだと。
機難というのは危ない、危険の機に難しいと書いてある機難ですね。
欲望の対象というものは必ず失われる苦しみがあるんだって言うんですね。
だから出家者に対してはその機難を見てとって、欲望の対象に執着するなって言うんです。
でも一般の生活を送る人々にはそれはなかなか難しいですよね。
ここからは私の見解なんですけど、
それができない人は大切な人を失った悲しみに目を向けるんじゃなくて、
悲しいと思うくらい大切な人ができたこと、
そういう日々があったこと、そういう関係性を結べた素晴らしさ、
ここに目を向けるといいんじゃないかと思うんです。
世の中にはですね、たとえ親とか子であっても、
良い関係を結べないってことはたくさんありますよね。
でも寂しさや悲しみを込み上げるほど、
そういう思いがあるってことはそういう関係ではなくて、
大変素晴らしい思い出、大変素晴らしい関係が築けたからそういうものがあるんですよね。
これは当たり前じゃないと思うんですよ。
この時点で私は素晴らしい、旧なことだって思うんですね。
だからそういうものを大事にして歩んでいくといいんじゃないかなと思うんですね。
これがですね、ちょっと皆さんのいただいたご質問の解答としてね、
ご納得いただけるかはちょっとわからないんですけれどもね、
これが私のちょっと思うところでございます。
引き続き番組についてのご質問を受け付けておりますので、
概要欄の質問フォームよりご質問いただければと思います。
フォロー、レビューもよろしくお願いします。
また新井氏お会いしましょう。