ブッダの誕生の伝説
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、これから仏教を学んでみたいという方に向けて、インスタグラムでフォロワー数2万人超えの臨済集の僧侶、私、かんどう和尚が、一から仏教を解説していく、そんなプログラムとなっております。
皆さんこんにちは。前回はですね、ブッダのお母さんが木の枝に捕まって、出産をしたところまでお話ししました。今回はその続きです。
例によって、ブッダはまだ、ブッダとなっておりません。悟っておりませんので、悟る前の段階なので、菩薩とお呼びをしたいと思います。
普通ですね、お母さんから生み落とされたばかりの赤ん坊っていうのは、お母さんの体内の残留物、血液だったりですね、そういうものが付着しますから、
現代でいうと、看護師さんがですね、それを拭くということをたれますけど、ブッダの場合は、既にですね、きれいになった状態で、なおかつ階段から降りてくるかのように生まれてきたというふうに記述されます。
そして空中からですね、二筋の水が流れてきて、そして菩薩と、そしてお母さんの体をきれいにしたんだと。
この古事にちなんでですね、ブッダを祝う、ブッダの誕生を祝う法要の際には、これ花祭りとかね、豪誕宴って言ったりしますけど、その時には赤ん坊の姿の仏像の頭からですね、甘茶をかけるということを行います。
このように頭から水をかける儀式っていうのが、これ感情って言うんですけど、もともとですね、インドにおいては、王の即位とか立体師の際に行われるっていう伝統があるんですね。
それに基づいていると言われています。
そして菩薩が出産される際にはですね、周囲には神々が祝福に訪れていたと似たような方には知りされている、仏殿に知りされているんですけども、菩薩はですね、この神々を含むその辺りをですね、辺り一面を見渡しまして7歩歩くんですね。
これですね、この生まれたばっかりの我が子がですね、立つだけでも驚きなのに7歩歩いて辺りを見渡しているっていう、その姿を目の当たりにしたこの菩薩のお母さんはね、これどんな心境やったんかなって私は思ったりするんですけども、それだけじゃね、とどまらないんですね。
次のような言葉を発したって書いてます。
私は世界の第一人者である。私は世界の最年長者である。私は世界の最優秀者である。これは最後の生存である。今や再び生存に入ることはないと。
どうですか。
菩薩のですね、周囲には神々がいたってさっき言いましたけど、これはですね、以前にお話ししたこのインドの主流派であったバラモン教の流れを組む宗教。この宗教ではですね、すごくあがめられてた神々が周りにいたっていうことなんです。
その神々はですね、これバラモン教の流れを組んでいる宗教のことを象徴させてるんですよ。そういう中で、私は世界の第一人者だ、私が一番優れてるっていう、語るってことは、これバラモン教とかね、いろんな宗教あるけど、その中で仏教が一番なんだよっていうことを言ってるんです。
だからこの仏教の多宗教に対して優位性を語るっていう言葉なんですね。これが後に中国に伝わって中国語に翻訳をされると、天上天下唯我独尊となるんですね。
もしかすると、この番組お聞きの方の中にはですね、天上天下唯我独尊を別の意味の言葉として覚えてる方いらっしゃるんじゃないかと思うんです。この世のすべての存在は私と同様に尊いとか、すべての存在は尊く、命はかけがえのないものであると、こういうふうに教えられたとか、そういうふうな解説を目にしたって方結構おられるんじゃないかなと思うんです。
これですね、現代の日本仏教では広くルフしてる解釈になるんですけども、こういうふうに解釈しているのはですね、実は日本だけなんです。私もこの該当歌手のですね、インド語の原文読みましたけど、残念なことにですね、どう翻訳してもそうはならないんですね。
じゃあなんでそうはならないのに、そういう解釈が日本でずっとされてきて、現代においても一部でされているのかというと、これ発端はですね、江戸時代まで遡ると言われています。
当時はですね、江戸時代では平田厚種とか、国学者って言われる人たちがいて、この人たちはですね、神道を教えてたんです。そして神道の中にごっちゃになってた仏教を取り除いて排除しようって考えてたんですね。
そういう彼らから天上天下唯我独尊という言葉、これ何事だというふうに槍玉に挙げられるんですね。自分だけが尊いとか、それどういうことなんだと。天皇が将軍は尊くないって言うのかと、こういうふうに責められて、仏教は自己中心的な宗教だと。
決しからんっていう批判をされたんですね。そのことに対する弁明として、先にですね、紹介したような解釈が生まれてきたんです。加えてですね、近代、また現代に至るとですね、人権の意識であったりとか、平等思想が根付いてくるので、この現代の価値観においてですね、自分が一番素晴らしいとか優れてるっていうのはすごく傲慢に聞こえますよね。
それで、現代においても命が平等に尊いと言ったんだとか、そういう解釈が引き継がれてるんですね。でも、やっぱり私たちが考えないといけないのが、菩薩は今から2500年前の古代インドの方なんですね。
仏教の優位性とその解釈
世界観も価値観も倫理観も、今とは全く異なる状況で生まれて生きておられたわけですから、その方に対して現代の価値観であれこれ言うってのはね、後出しじゃんけんみたいな、ちょっとね、フェアじゃないように私は思うんですよ。
で、なおかつ当時はですね、仏教以外にもたくさんのライバル宗教がある中で生きておられたんですね。初期の経典にボンモ教という有名の教があるんですけど、この教の中には仏教以外の思想っていうのがずっと列挙されてて、これ60にも挙げられてるんですよ。
で、そういうライバルがうじゃうじゃいる状況なんです。で、そのような中で仏教の優位性を仏教の階層が説くっていうのは、これすごく当然だと思うんですよね。仏教の相談っていうのは、この信者からのお伏せによって運営をされてきたので、やっぱり食べていくためには自分たちをブランディングしていくってことはこれ頻繁に行われるんですよ。
教典を見ていると、生まれた時だけじゃなくて、仏教が一番ですよとか、仏教が他より優れてますよってことを、仏陀は断ることに言われています。
これは現代でもそうですね、企業においてですね、企業が自社製品の優位性を主張していくっていうのは当たり前に行われますよね。
それと同じ原理なんですよ。仏念を正しく読むっていうのは、当時の時代背景とか習俗、古代インド人の思考方法、こういうのをしっかり踏まえた上で行われていかないとならないんですね。
だから私はですね、仏教以前のインドの歴史とか思想っていうのを、先に一番最初にお話をさせていただいたんです。
自分たちの価値観とか都合に引き寄せて読む、理解するっていうのは、やっぱり私はもったいないと思うんですよね。
そういうやり方をしていると、やっぱり世界が広がっていかないんですね。
世界が広がっていくのは、いろんな価値観とか世界観に触れるから世界が広がっていくんです。
だからそうじゃなくて、自分の中に全部持ち込んで引っ張って、そして理解してしまうと、やっぱりもうそういう魅力が失われてしまうんですね。
それはあまり良くないんじゃないかなということを思いますね。
今回ご紹介したこの天上天下優雅独尊の解釈、これについてはですね、もしより詳しく知りたいという方がおられましたら、
西吉印度という方がですね、近代に起きる天上天下優雅独尊の節字っていう論文に詳しくまとめられておりますので、
この詳細をですね、説明欄のリンクに添付しておきますので、よろしければそちらの方をご参照いただければなと思います。
次回はですね、菩薩がどのような青年期を送られたかをお話ししたいと思います。
これから仏教を学びたいと思う初心者の方に向けて仏教を解説するポッドキャスト、
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宗教の真理の違い
ここからはアフタートークです。本編で仏教が起こった当時に仏教以外に様々な思想があった、宗教があったということを言いましたけれども、
日本人はですね、様々な宗教をまとめるのに道のりは違えど頂きは同じという、こういうふうな考え方を結構しますよね。
それぞれの宗教で主張する真理というのは究極的には同じなんだと。その真理に至る方法が違うだけなんだということですね。
ただ、私はこの考え方はあまり賛同できないんですね。
なぜかというと、インド思想をちょっと外観するだけでも、真理が何を意味しているのかってバラバラなんですよ。
だからそういうのを見ていると、とても真理が同じとは当時の人々は考えていなかったというのはよくわかるんです。
ましてやですね、一神教、キリスト教とかイスラームありますけど、この一神教の真理って絶対違うんですよ。
一神教の場合はですね、唯一の神がいるんですよね。この神が言われていること、説かれていることが真理なんですけど、
この聖書とか、このコーラン、そういうものが完全一致するのかってするわけないんです、しないんですね。
この事実を見ても、真理が同じっていうことはやっぱり到底言えないんですね。
そしてそれぞれの宗教者やそれを信仰する人たちは、自分の信じている神であったりとか、自分が信じている教えこそが最も優れている、至上であるって考えるんですね。
ここでですね、直ちにバチバチのですね、バトルが起こるのかっていうと、これそんなことなくって、
自分が大事にしているものがあるから、たとえ別のものを大事にしているとしても、その相手の気持ちがわかる、尊重することができる、こういうことがあるんですよ。
なんていうのかな、私なんかでもやっぱり仏教は大事ですし、ブッダのことをすごく大切に思っているんですね。
だからキリスト教のですね、牧師さんとかが神様を大事にしたり、キリストのことを大事にするという気持ちがよくわかるんですよ。
これね、たまにね、あるんですけど、教本でありますね、お経の本。
これはもう聖書でいうとバイブル、キリスト教でいうとね、聖書バイブルと同じですけども、
教本をね、皆さんにお務めする時とかお配りした時に、ちょっとね、雑にね、配られている人がおられるんですよ。
これはね、見るとやっぱりちょっと胸がズキッと痛むときがあるんですね。
やっぱりちょっと丁寧に扱ってもらいたいなと。
やっぱり私なんかは地面に置くこともしないんですよ、教本も。
地面に置くときには必ずね、その下にね、何か布切れを敷いたりとか、お盆を置いたりとか、その上にしかやっぱり置かないんですね。
教本自体も片手では扱わないんですよ。やっぱり両手で大事に扱ったりするんですよね。
この気持ちはね、キリスト教の神父さんとか牧師さんよくわかるって皆さんおっしゃるんですよ。
皆さんもやっぱりキリスト教でね、結婚式とかやるときにね、皆さんに配ったりするときに、皆さんがこう雑に配るとね、やっぱり胸が痛いっておっしゃるんですね。
これはやっぱりそうやって大事にしているものがあるってのがね、わかるんですよ。
同じものを大事にしてなくてもね、大事なものがあるからわかるんです。
だから共感できるんですね。
だから宗教、無宗教の人よりも多宗教の人の方がお互い共感できるって言われるんですね。
だからそういうところを見ると、安易にいただきが同じって言わない方がいいと思うんですよ。
共感と尊重の重要性
かえってね、そういうふうに考えてしまうことで物事を単純化してしまってね、理解しづらくしてしまったりとかね、またその特定の宗教をね、信仰されている方の気持ちを害すこともね、やっぱりありますから。
このあたりはちゃんとね、学んだ上でね、一緒って言ってもいいんですよ。
でもそれはね、すごく理解した上でじゃないとやっぱり言えないことなので、そのあたりをね、私たちはちょっと気をつけていかないといけないかなということをね、思います。
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