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2025-11-08 16:22

【晩年のブッダ編#5】悪魔は心の中にいる?ブッダ、死を決意した悪魔との対話

▼今週のトピック


金剛力士像は夜叉/


「ヴェーサーリーは楽しい」の意味/


ブッダは永遠に生きられる?/


魔に取り憑かれたアーナンダ尊者/


ブッダ、悪魔との対話/


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サマリー

このエピソードでは、ブッダがアーナンダ尊者との対話を通じて、修行の重要性や悟りに至るための心の状態について語ります。また、心の中に存在する悪魔や煩悩についても探求し、アーナンダの修行の不足が明らかになります。晩年のブッダと悪魔との対話を通じて、煩悩が心の中に存在することが考察されます。ブッダは弟子たちが一人前になるまで生きる決意をし、悪魔との理想的な対立が描かれています。

ブッダの教えと修行の重要性
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、仏教初心者の方に向けて、インスタグラムのフォロワー3万人超えの総量、私、かんどう和尚が、メタ的な視点から仏教を解説するプログラムとなっております。
みなさん、こんにちは。前回は、ブッダが弟子たちに、自らを頼りとしなさい、法を頼りとしなさいと、このように語られた場面についてお話をしました。
自須法須、自当名、法当名と、こんな風に仏教では呼ばれる有名な箇所になるんですけど、後になって配信を聞いてみるとですね、もっとこう話したらよかったなというのが結構出てきたんですね。
なので今回は、最初にちょっとだけ補足をさせてください。
この自分を頼りにしなさいという風に言われて、あ、そうかと、心の赴くままに生きたらいいんだなと、このように理解される方が時折おられるんですけど、
そういうことではないんですね。
これはブッダもたびたび指摘されているんですけど、修練を積んでいない心っていうのは、基本的には欲望、感情の奴隷なんです。
だからとても頼りにできるようなものではないんですね。
ブッダが指し示した真理、これを目の当たりにして、心が変わる、変容することで、初めて自分を頼りにすることができるようになるんです。
では、ブッダが指し示した真理というのは何なのかというと、その根本にあるのは、世界が無常、移り変わるものであるということ。
そして、そのどこにも自らの本質となるようなものはないということ。
さらに、そのような世界は苦であるということ。
この3つが根本になります。
これ以外にもちょっと言えたりもするんですけれども。
こういうふうな真理を目の当たりにすることによって、いずれのものにも貪欲や憂いを抱くということがなくなると言われます。
この目の当たりにするというのがとても大きなことで、これを仏教では玄に見ると書いて玄観というふうに言うんですけれども、
頭で理解するよりも、もう一段階、フェーズの深い体験になるんですね。
これ例えるのであれば、ライオンの危険さというのは、頭で理解しただけでは逃げないじゃないですか。
でも、ライオンが目の前に現れたら逃げますよね。
これは、その危険というものを目の当たりにしたから逃げるんです。
目の当たりにすると対象への認知が変わって、それに対する行動が変わっていくんですね。
さっき最初に言った、移り変わるということ、無常もそうですね。
皆さん、頭では理解できてますよね、無常ということを。
でも、だからといって好ましいものを見たときに、あれはどうせ移り変わる、いつかは壊れるものだから、だから必要ない、いらない、こうはなりませんよね。
やっぱり欲しくなるじゃないですか。
でも、仏道修行によって無常というものを目の当たりにすると、認知が変容するので、欲しくなくなるんだということなんです。
こういうふうに貪欲とか憂いを抱かないような状態になって、初めて自分を頼りにすることができる。
これが、自灯明、法灯明、自分を頼りにする、法を頼りにするということの意味になります。
アーナンダの心の状態
では、今回のお話に入っていきたいと思います。
ベイサーリンに滞在されているブッダは、チャーパーラ礼儀と呼ばれる場所に行くことを希望されまして、
月人のアーナンダさんと一緒に移動をします。
ここはチャーパーラと呼ばれる、ヤシャが住んでいた場所だったので、そう呼ばれるようになったと注釈されています。
ヤシャというのは、これ何て言ったらいいかな。
妖精、妖精ピントコンナ。
精霊なんですね。精霊の一種。
こういう風な精霊がヤシャ以外にもたくさんいるんですけれども、
このヤシャはインドの言語ではヤクシャと言います。
お経の中ではしばしば、仏教を守護する行為的な存在として登場します。
皆さんもご覧になったことがあるんですよ。
お寺の門とかに一対の金剛力師像が祀られているところがありますよね。
浅草の仙草寺とかもあったんじゃないかな。
奈良のお寺とかもよくありますよ。
京都のお寺もたびたびありますけれども。
筋骨リュウリュウのマッチョな像ですね。
あれが金剛力師像。
あれはヤシャの一種なんですよ。
皆さん、実はヤシャをご覧になられているんですね。
そしてですね、霊気というもの、チャーパーラ霊気の霊気。
これは神聖な場所のことです。
こういう風な由来を持つチャーパーラ霊気。
ここにはですね、仏陀のために建てられたお寺が、
創印があったそうで、そこに仏陀とアーナンダ尊者は到着をされた。
そして用意された席に腰を据えた仏陀は、
アーナンダ尊者に次のように話されます。
アーナンダよ、ベイサーリーは楽しいところです。
ウデーナ霊気は楽しいところです。
ゴータマカ霊気は楽しいところです。
これまで修行のために訪れた、滞在した場所を列挙しまして、
それらが楽しい場所だったということを振り返られます。
この楽しいと訳される言葉の言語はラマニーヤと言うんですけど、
これ美しいとか魅力的という意味が含まれています。
これを受けて日本では次のような意見が結構見られます。
この仏陀というのはもともとすごく合理的で理性的な人だったんだけれども、
悪く言うとですね、地が通っていないように見えたと。
でもそれが老齢を迎えたことによって、
野に咲く花を見て美しいと思うような、
すごく情緒的な、人間的な心が芽生えてきたんだと。
こういう見解、意見というのがちらほら見られるんですね。
でも私はですね、これはそういうことを仏陀が言われているとは思わないんですね。
何でかと言いますと、実はこんな風に地名を挙げて、
ドコドコは楽しいって言われたのは、今回が初めてではなくて、
悟りに至った直後にも言われているんですよ。
その時には聖那阿尼村という場所を楽しいって言われているんですけど、
これ前後の文脈を読んだら、
世俗的な楽しい美しいとかではなくて、
ここは修行に適している、向いている場所ですねっていうことで、
楽しいって言われているんですね。
だからそれを踏まえたら、今回いろんな巡った場所、
楽しい楽しいとおっしゃったのも、
そういう修行にここは向いてたなということで、楽しいって言われている。
そのように受け取るのが妥当なんじゃないかなと、私は感じるんですね。
もちろんね、私の意見が絶対だとは思いませんから、
違う意見もそれぞれあられると思うんですけれども、
少なくとも私はそのように受け取っています。
そしてブッダは続けて、
もしも望むのであれば寿命を超えても、
この世にとどまることができると言われます。
これですね、ブッダは私は寿命を自在に操れますと、
だからあなたが望むなら長生きしてもいいですよって言われているんですね。
そんなことができるのと思われるかなと思うんですけれど、
このあたりはですね、後々の仏教徒たちのブッダへの志望の錠と言いますかね、
すごい人であってほしいという思いが込められていると思うんですね。
普通であればね、人間というのは寿命を迎えて、
自分でコントロールできずに亡くなっていくんですけれども、
ブッダぐらいになると自分の寿命というものをコントロールできるんだと、
そういうことを後の仏教徒たちが考えて、こういうふうな文章を加えたのかなと、
こんなふうにちょっと思ったりしますね。
そういうふうなブッダのほのめかしに対してですね、
アーナンダ尊者はどう答えたかというと、
この時ですね、アーナンダ尊者は心が魔に取り憑かれてて、
ぼーっとして聞いてなかったって言うんですね。
ブッダはですね、アーナンダ尊者が答えないから、
もう一回言うんですけど、またも聞いてない。
そして3回目、さらに言うんですけど、やっぱり聞き逃すんですね、アーナンダ尊者が。
それで、これどういうことを言っているのかというと、
アーナンダ尊者は魔に取り憑かれているというのは、悟りに至っていない、隙があるということを表しているんですね。
だから、案にアーナンダ尊者の修行が足りていない、不足しているということを表しているんですよ。
どうも、今回説明している、お話ししている大パリニッパナ教、大初音半行というこの教は、
アーナンダ尊者の評価を落とそうとするような意図が見えるんですね。
だから、それまではなかったような場面で、アーナンダ尊者がブッダから叱られたり、
いろんな人に叱責されたり、非難されたり、こういう場面がしばしば見られるんですよ。
これ、いろんな見方があるんですけど、どうも弟子同士の権力闘争のようなものがあったんじゃないかと言われています。
こういうふうなやりとりをブッダとアーナンダ尊者が行った後に、
ブッダはもういいと言って、アーナンダ尊者を下がらせるんですね。
そして下がらせると、次は悪魔がブッダのもとにやってきます。
悪魔との対話
この悪魔のことをどういうふうに捉えるかというのは、これも議論があるところで、
私はケースバイケースだなと思っているんですけど、あるときは心の良くない働き、煩悩ですね。
これを悪魔というふうに呼んでいますし、またあるときはちょっと良くない人のことを悪魔というふうに捉えている節もあるんですけれども、
これはあんまり厳密に考えても、そこはあんまり大事なところではないと言いますかね。
そこで何を学べるかということが大事なので、悪魔がどういうふうな存在なのかというのはね、ここではそんなに気にしなくていいかなというふうに思います。
このブッダのもとにやってきた悪魔は、ブッダにこう言います。
今こそブッダは亡くなってください。今が死ぬべきタイミングですと、こういうふうに言われるんですね。
実は以前にも悪魔はブッダに死を迫ったときがあるんですよ。
その際にブッダは弟子たちが一人前になるまでは亡くなりませんって告げていました。
これ悪魔はちゃんと覚えてまして、あのときブッダはあのように言われましたけど、もうあなたの弟子たちはみんな一人前になりましたよね。
だからもう死んでいいんじゃないですかって促すんです。
この悪魔というのは欲望とか怒り、愚かさ、こういう煩悩をテリトリにするんですね。
そういう中で人々が生きて世界が動いていく、回っていくっていうのが悪魔の理想なんです。
だからそこから離脱するような教えを説くブッダは天敵になります。
このように改めて見てみると、私たちは悪魔のテリトリに生きてますよね。
そこからブッダの教えを通じて抜け出そうと頑張っているわけですけれども、なかなかうまくいかないですよね。
気をつけていてもすぐに怒りとか欲望は湧いてきますし、そういうふうに考えると悪魔というのは私たちそれぞれの心の中にいると言っても過言ではないなと思ったりするんですけれども、
そのようにして悪魔から死を勧められたブッダは確かにこれが頃合いかもしれないと思われるんですね。
そして今は暗号と呼ばれる修行期間のまっただ長いになるんですけど、これが終わる3ヶ月後に亡くなりますということを約束をします。
悪魔の提示する死
次回は魔に取り憑かれていたアーナンダ尊者が正気を取り戻した後、ブッダにあるお願いをします。
その場面についてお話をしたいと思います。
ここからはアフタートークです。
今回もリスナーの皆さんからのご質問にお答えをしたいと思います。
今回のご質問はこれ質問ではなくてお礼になっていますね。
ラジオネームはこれ本名ご本名かもしれないですね。
言っていいのかな。ちょっとあれなので苗字だけにしましょうか。
ラジオネーム西田さんからのお便りになります。
バスケットのコーチをしています。
20数年前にバスケットが人が生きるためになぜ必要なのかを自分なりに考え、自分なりに納得できる答えを出し、そこに向かって日々指導をしていますが、
その指導理念が一般的なバスケット界のそれとは離れているので、なかなか話せる相手もなく、我が道を学びながら進んでいる状態です。
そんな中、このポッドキャストに出会いました。
お性が学ばれている知見やお広がらからなのか、私にはスーッと入ってくる内容や語り方が心地よくて、日々学ばせていただいています。
いつもありがとうございます。これからも楽しみに聞かせていただきます。
はい、ありがとうございます。
こんな風に自分がやっていることがちゃんと誰かに届いているっていうのを知れるのは本当に嬉しいですね。励みになりますね。
これはつくつく感じることになるんですけれども、人っていうのは何かしらの性か、手応えみたいなものを感じられるかどうかがすごく大きいなと思うんですよ。
人を生かすも殺すもそこ次第みたいなところがあるなって感じていて、これは前にもお話ししたことがあるかな。
私も何回も何回もいろんなところでお話ししているので、どこで何を話したかがわからなくなっているんですけれども。
ある刑務所で行われた実験の話でして、囚人を2つのグループに分けて同じことをさせるんですね。
一輪車で砂を運ばせるんです。
片方のグループはその運んだ砂で道路の舗装をさせます。
そして最終的には完成をさせるんですね。
でももう片方のグループは運んだ砂を一箇所に積み上げさせるんですけど、ある程度の高さになったら監視がそれを根本から崩して、また最初からやり直しをさせるんですね。
その結果、この両者のグループは同じ作業の内容をやったにも関わらず、前の方のグループは最終的に完成をしたので達成感で生き生きして働くんですけれども、
後の方のグループは結局土台から崩されてやったことが意味がなくなってしまうので、うつうつとした気持ちで過ごして欲うつ状態になるんですね。
これよく気持ちがわかりますよね。
のれんに腕押しっていうのは辛いですよね。
日々の人間関係、日々の日常でもそうだなと思うんですよ。
皆さんも配偶者の方が料理を作られたりすると思うんですけれども、自身が作られるという方もおられると思うんですけど、そういう時に何も反応がなかったらすごく辛いですよね。
だから一声でもおいしかったよとか、今回これはすごく良かったねとかですね、そういうふうな会話が入るだけで作った方もすごく張りが出ると思いますし、
また仕事の関係でもそうですね、部下の人か同僚の人がやった仕事に対して一声ね、これ良かったねと頑張ったねっていうだけでやった方は全然気持ちが変わりますよね。
教師と生徒とかでも同じですね。
人との関係性において一声ねぎらいの言葉、反応をするだけで相手はもう全く違う心持ちになっていきますよね。
そういうことを日常生活において意識しながら生きていくだけで、人間関係は随分変わってくるんじゃないかなということを思いました。
引き続き番組へのお便りご質問を受け付けておりますので、概要欄の質問フォームより送りいただければなと思います。
また番組のフォローもお忘れなくお願いします。
それではまた次回お会いしましょう。
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