1. かんどう和尚のはじめての仏教
  2. 【ゲスト編#1】苦しいのはこの..
2025-11-22 25:00

【ゲスト編#1】苦しいのはこの世界の仕様?カレー坊主さんに聞いてみた!ゲスト:浄土宗僧侶 吉田武士さん

▼今週のトピック


出版はオファーの半年後!?/


限られた字数で伝えることの難しさ/


カレー縛りで苦悩した?/


仏教とカレーの共通点は多様性/


苦しいのは普通、つらいのが当たり前/


無明はそれを気づかせない/



▼カレー坊主さんの著書

https://amzn.asia/d/fOtJqEQ


▼サポーターの申し込みはこちら

https://kando-bukkyo.jp/mothlysupport/


▼ご依頼、お問い合わせはこちら

https://kando-bukkyo.jp/top-2/contact/


▼吉田武士さんX

https://x.com/curry_boz?s=21&t=xjCU0vJwso7_kSB0Td6rhQ


▼かんどう和尚Instagram

https://www.instagram.com/kando_sns?igsh=MWU5ZmNlZzNveDNybg%3D%3D&utm_source=qr


▼かんどう和尚X

https://x.com/kando_bukkyo?s=21&t=xjCU0vJwso7_kSB0Td6rhQ





サマリー

浄土宗の僧侶である吉田武士氏が、仏教とカレーに関する独自の視点を交えて、苦しみやその解消方法について語っています。著書『カレー坊主が教えてくれたみんなの仏教入門』の出版背景や、カレーを通じた仏教の表現についても深く掘り下げています。このエピソードでは、吉田氏が「苦」という概念について話し、人生の苦しみをどのように受け入れ理解するかに焦点を当てています。また、無明という思考の障害についても詳しく触れ、その意味や私たちの日常生活への影響を探ります。

ゲストの紹介
かんどう和尚のはじめての仏教、今回は素敵なゲストにお越しいただいております。浄土宗僧侶、カレー坊主こと吉田武士さんです。
武士さん、どうぞよろしくお願いします。
カレー坊主こと吉田武士と申します。よろしくお願いします。
まず最初に私の方から簡単にですけれども、武士さんのプロフィールをご紹介させていただきます。
1984年生まれ、長崎県大村市出身。一般家庭に生まれ育ち、大学を卒業後すぐに縁あて、ソウルの道に進み、2008年に浄土宗教師となられました。
現在は浄土宗長安寺、長崎県大村市内に勤務されておられます。
誰もが気軽に参加できる無料イベント、いきなりカレーや地域の子供食堂の運営にも参加し、地域社会と仏教を結びつける活動に力を入れておられます。
また、カレー好きの僧侶、カレー坊主として、Xを中心にSNSを通じて日々の活動や仏教をユーモアを混ぜながら発信されておられます。
そして何と言いましても、今年6月に著書、カレー坊主が教えてくれたみんなの仏教入門を上司されました。
早速ですね、お伺いしちゃうんですけれども、今回出された本ですね、これどういう経緯で出版されることになられたんですか。
そうですよね、本を出版するっていうのは、私今回初めてもちろんだったんですけれども、
実は仏教カレー協会っていう一般社団法人を数年前に仲間の僧侶と立ち上げまして、
その一般社団法人、仏教カレー協会っていうのが、カレーと仏教で世の中を明るくしたいっていう、そういうミッションというかね、ビジョンを持ってて、
その中で、ぜひ本にして、今伝えたいことをできるだけ多くの方に伝えるために、本という形でやってみませんかっていう、編集者さんからのお誘いをいただいて、
そしたら、せっかくそういう機会だから、やれるだけやってみますっていうことで、お話をいただいて、こういう運びとなりました。
これどれぐらい前からそういうお話があって、本の制作に取り掛かられたんですか。
それがですね、ちょうど去年の今ぐらい。
これ収録が今10月ですけど、10月ぐらいにオファーというかお話をいただいて、ただもうオファーいただいてやりますって言った時点で、じゃあ半年後ぐらいになりましょうっていう話だったんです。
結構タイトだなと思いながら受け継げた記憶があります。
すごいですよね。私も実は恥ずかしながら、いつか仏教の入門書みたいなものを出せたらいいなっていう。
出しましょうよそれは。
本当にそう思ってたんですけど、今回この本ですね、拝見させていただいて、構成だったりとかめちゃくちゃ難しいんじゃないかなと思って、ちょっと私無理やなと思ったんですよ。
いやいやさすが。
大変だったでしょ。
そうなんですよ。やっぱり本でこれが192ページかなっていう、ページ数で言うと191か、そういうページ数で最初聞いた時は結構書かないといけないなっていう印象があったんですけど、じゃあいざ何を書くかとかどう書くかっていうところになってくると、
一旦バーッと内容を広げて、じゃあこれ書いていこうと思うと191じゃちょっと足らないなみたいな思いもありつつ。
むしろそうですか。
最初は間に合わせるために書こうと思ってたんで正直。
でも本っていう一つのまとまりにするっていうのは、もちろんこの多分Podcastとかもそうだと思うんですけど、要点をどこに絞ってどういうふうに伝えるかっていうところで、
結構本当おっしゃる通り、さすがナブコ、いろんなことを送ってこられたからこそわかると思うんですけど、伝えるっていうのは本当それを目的にするとなかなか大変だなっていうのは正直なところでしたね。
そうですよね。私なんかでもどこがいらないかとか省くっていう作業がやっぱり難しくて、やっぱり全部伝えたいと毎回思い出てくるんですけど、そしたらもう聞き手の方とかですね、実際に読まれる方にとってはたまんないと思うので、削る作業が大変ですよね。
そうですね。どうしても仏教入門っていう冠をつけちゃうと、そんなこの本一冊で語れるほどの、しかも僕みたいなのが語れるほどの注射選択ができるかって正直やっぱり難しいので、そうなってくると本当に伝える。
どこを伝えるかっていうことは本当どこを削ぎ落とすか捨てるかっていうところ、そこがやっぱり難しいところでしたね。
今回カレーと絡んだ仏教の表現を多く一貫しなされてたと思うんですけど、これも私が嫌そうな言い方になったんですけど、絶妙というか素晴らしいなと思いながらずっと終始拝見させていただいたんですけど、この辺すごく悩まれるというか難しいところはあられましたか?
そうですね。モチーフとしてカレーを基本的にやっぱり使っていきたいっていうところがあって、もちろんカレーボーズとして本を書かせていただいているのでですね。
となると、いわゆる比喩表現っていう例え話ですね、をふんだんにもちろんカレーに関わるもので入れていくということになると、こっちの例えではカレーを食べるという行為がいいことのように比喩として使うけれども、
こっちではカレーを食べるということはむさぼるみたいなのになっちゃうなっていうバランスが、表現方法としてカレーっていうところで枠を決めちゃうと、大変だったところは正直あって。
縛られるんですね、そこで。
そうなんです。
だから、比喩表現だけが残っちゃっても困るので、なんていうかそこら辺のバランス。難しい。
最初に冒頭のところで、私すごく印象的な言葉があって、仏教とカレーっていうものが共通点があるってことを最初に6ページかな、おっしゃられてて、ここでどちらも印度生まれてて、ものすごく多様性を生み出してきたっていうところですね。
これでカレーはインド式とかスリランカ式とか、いろんなバリエーションがあるってことを語られたときに、これすごく本当だ、私こんなこと考えたことなかったんですよ。
仏教もやっぱり地域地域によってですね、それぞれ発展、ローカライズされていったので、すごくピタリとくる表現だな、これ会心の表現じゃないかなと思ったんですけど。
ありがとうございます。
私もカレーって小さい頃から家のカレーしか小さい頃っていうか、小学校とか中学校とかは食べたことがなくて、せいぜいレストランとかのちょっといいカレーみたいな。
でも、いつだったかな、日本に急にインド系のカレー屋さんが増えたんでしょう。
なんとかを出す、なん食べ放題のお店とか、あとスパイスカレーっていう言葉が出てきたりとか、今までに食べたことのないカレーを食べるようになって、これもこういうカレーがあるんだっていう衝撃を受けた記憶があるんですよね。
そういうカレーが出てきたとき。
それは、今思っていると仏教っていうのが、漠然と昔思ってた仏教から、例えば私浄土宗ですけど、例えば、
生網打仏を唱えて極楽浄土に行きましょうっていう宗派がある一方で、例えば座禅をして仏になるということを目指すっていう教えがある、そういうバリエーション。
さらに、僕個人としては、いわゆるテーラワーダ仏教ですかね、浄土の。
ああいう仏教に触れたときに、なんだこんな仏教もあるのかみたいな、本当いろんな仏教との出会いが、そういうカレーとの出会いにちょっとリンクしたとこもあって、こういう表現をさせていただいたんですね。
私たち仏教って言ったときに、もともとのお釈迦様、仏陀の仏教があって、そこから枝分かれをしていきますよね。
その末が、今の私たちの日本の仏教のそれぞれの宗派にもなっていくと思うんですけど、ここに優先順位みたいなものもつけたがるじゃないですか。
中国においても、教範ですね、教祖反尺って言って、判定をしてどれが一番上なのかって宗派ごとに決めたりとかですね。
あれは私たち人間がやりがちな挙動なんだと思うんですけど、でもおっしゃられるような、カレーもスリランカカレーとかインド式カレーとか日本とか、あれはどこが一番とか上下ないですよね。
あれ見たときに、宗派も本当に、我々も浄土宗とか臨済宗とかいろいろありますけど、これも本当に上下ってのはないなーっていうのを改めて感じさせていただいた。
すごくいい言葉だなと思いながら、読ませさせていただきます。
こう言っていただけるととっても嬉しいです。ありがとうございます。
本当こちらこそ。
普段ですね、自分一人で仏教を勉強とかしていると、なかなか見えない見方とかあるじゃないですか。
それを今回、ブッシュさんの本を読ませていただきながら、自分の考えが相対化された部分がすごくあって、こういう視点があるんだなって本当に自観したんですよね。
その点とかは、執筆中とかでも意識されたりするところはあられましたか?
そうですね。読んでもらった後に、日常の視点がちょっと変わるような、そういう月並みな言葉で言うと気づきを持って、毎日をもう一度見直すことができるように、
私なりの見方っていうのは、なるべく入れたいなっていうのがあって、気をつけてと書いたことは書きましたね。
今、見方っておっしゃられたときに、ふと読んだ本の中で思い出したんですけれども、印象に残っているのがお生まれ、成果のお話ですね、ご自身の。
苦しみとその理解
その中からすごくお家が大変になったときに、生きることが苦しみなんだっていう、仏教の一切皆苦って言われる基本的な距離ですね。
これに触れたときに、苦しいのが普通、思い通りにならないのが当たり前って思えたことで、張り詰めたものが少し緩んだっておっしゃってたのが、私すごく印象的で、そのあたりは今もずっと根底にあられる考え方になられますか?
そうですね。実家が私は、いわゆる小さい町のお米屋さん。
そのお米屋さんが、私の父が経営者だったんですけれども、倒産をしてしまって、家族にもちょっとそういう余波というかね、いろんな影響があって。
こんなに苦しいことがあるんだろうかって、一般的に見れば、町の小さなお米屋さんが潰れちゃったっていうのは、よくある風景ではあるんですけど。
それが当事者っていうかね、そうなったときに、これはなかなか応えるなっていう。
そのときはそれすら思っていなかった。とにかく苦しかったんですけど。
このときに、実は僕、すでにお寺で、総席も取ってたのかな。教師資格も取ってた状態だったんです、実はね。
で、苦しい一方で、いろんなお団家さんとか、そういう方たちの前では、仏教っていうのは苦を解きますってね、苦しみっていうのはこういうことで、っていうようなことを言ってたんですけど。
言ってる本人がめちゃくちゃ苦しんでるっていうところで、こんな苦しんでる自分がいるのに、わかった顔して苦とは何かみたいなのを説くのって、とっても変だなって思って。
そこからね、実は仏教をもう一度ちゃんと勉強というか、思っていえば仏教に改めて救いを求めていったみたいなところがあって。
その中で、これちょっとご紹介したいんですけど、実はテイラワーダ仏教タイのプラユキナラテ坊さんっていうお坊さんが書かれた、それこそ本だったんですけど、苦しまなくていいんだよっていう本。
オレンジ色の表紙のですね。
持ってます。
タイトルにそのままね、苦しまなくていいんだよって書いてあって、それをね、なぜかその時手に取って読み始めたときに、今まで見たことのある仏教の話だったんだけれども、
苦の理解
苦しみがあるっていうのがもう前提としてね、そこから前提があって、それをどう解決していくかっていうやっぱりことがそこに書かれてて、当たり前のことなんだけど、それにすごく励まされた記憶があってですね。
だから、苦っていうもの苦しみがあるっていうのが当たり前だっていうところに1回こうしっかり腰を下ろすというか、それすら逃げたいみたいな自分がいたので、いやそうだ苦しいってお釈迦様もね、おっしゃってたじゃないかっていう当たり前のとこ、なんか一周して戻ってきたみたいな感覚があって、
このことは絶対本にやっぱり書きたいなと思ったんですよね。
本の中で苦がこの世界の性質、いわば仕様なんだって言葉があられますよね。あれも私すごく響くものがあって、一般的に世間一般では、人生だったりとか世界っていうものを肯定的に見る向きが強いじゃないですか。
人生は素晴らしいとかですね、そういう言葉とかもよく聞きますし、でもそういう標準が高いというか、いいもので当たり前なんだっていう価値観でやってると、そこから外れる出来事がすごく惨めに感じると思うんですね、自分のことを。
でも今おっしゃったような、苦しみっていうこと。言い方悪いですけども、もともとがそういう低いところにあるんだっていうふうに見ていくっていう方が、辛いことが起きたときとかに柔軟に対応できたり、また受け入れやすくなるんじゃないかなと、私も日頃から思ってて。
藤井さんのおっしゃったところっていうのは、すごく共感するところで、これは私も皆さんにリスナーの方たちにも聞いていただきたいし、本当にこの本の文章もそのまんま読んでいただきたいと思うので、ぜひこの後詳細欄のリンクにもですね、本のAmazonのサイトを貼らせていただこうと思ってるんですけども。
ありがとうございます。
どんどん買っていただいて。
ありがとうございます。
本当ですね。
あともう一つあるのは、無名の説明が無名。すごく印象的で、リスナーの皆さんに無名ってご存じない方もいらっしゃるかもしれないので、ちょっと説明するんですけれども、私たちの心の良くない働き、煩悩の親玉みたいなものが無名だっていうふうに言われますよね。
この無名っていうものがあるから、私たちは物事を正しく見れない、自分中心に見てしまう、こういう根本的な愚かさが無名ということですけれども、この本の中に無名っていうのは、自分が無名であるってことを気づかせないように働くと。
腹ペコだから人生は面白いんだよ、この上があるから味わいがあるんだよ、こういうふうに無名は私たちに働きかけると。
これすごく私分かるというかですね、よく言われる方いらっしゃるじゃないですか、人生はそういう人間だから弱いところがあって当然なんだと。
そういう欲望を追いかけるような人間らしさっていうもの、これがいいんだみたいな見方される方いらっしゃるじゃないですか。それをすごく私思い出したんですよ。
僕はこれをこの本の中ではある意味でこの腹ペコっていうようなことで書いてたと思うんですけど、おいしいものを食べるのには絶対お腹が減ってることが大事じゃないかっていう見方があると思うんですよね。
お腹が減ってるからこそ食べ物がおいしい、空腹は最高のスパイスだみたいな言い方もすると思うんですけど、でもそもそも空腹がなければいいんじゃないのっていう視点はなかなかないんですよね、おいしいものを食べるときは。
私も妻がいるんですけど、妻とこの腹ペコっていうコンセプトというかそういうのを話してるときに、もしお腹が減らないっていうことがあったらどうだろうって僕たちに、僕たちがもしお腹が減らないっていうものになったらこの世はどうなるだろうっていう話をちょっと妻としたら、
そうなったら楽しみがなくなるじゃないって言ってたんですよね。
食べるっていうのは楽しみでしょって言われて、確かにそれすごく当たり前の正しい意見だとは思うんですけど、
僕たちは何かを欠落したものを埋めていくことが幸せだっていう風にずっと思っちゃってて、その欠落自体がもうないっていう状態を想像することすらなかなかできないというかね、そういう感覚があって、ちょっとここらへんどう言っていいかわかんないんだけど、無明っていうものを、僕も無明だって自分ではわかってないですよ、まだ多分。
無明があるっていうことだけをお釈迦様が示してくださってるから、常にそれが働いてるんだっていう、自分を自分で監視してるような感覚かな、うまいこと捉えきれてない感じはあるんですけど。
すごく言語化するのが難しいですよね、このあたり。申し上げることはすごくわかるんですよ。私もどう言葉にしていいものかっていうのが。私たちの中にそう思わせたくない何かというか、擦り込まれてるとはまた違うんですけど、生まれたときからそういうふうになってるんだと思うんですけども。
だから限りなく本能的なところだろうとは思うんですが、そういう部分があるから疑問にすらやっぱり思わないですよね、そういうところがあるってこと。腹ペコでいるっていうことが何が悪いんだと。それでそれを満たして幸せなことで何が悪いんだっていう、それがもう私たちの当たり前になってるから、お釈迦様、ブッダがそれを全く違うところから見つめておられるじゃないですか。
やっぱりブッダは今は言われたように、いやもうそもそもお腹すかんかったらいいやんって。ブッダはぶれることが嫌いですよね。心がこう、怒りも当然そうですけど、過度に喜ぶこともすごく嫌がられたので、シャって我々は言いますけど、平成ですね。
これをすごく好まれたので、その辺はこことすごくリンクするところですよね。
本質がそこにあるなっていう感じはしてますよね。
そういうものに反応しない。外の世界に引きずり回されないってことをすごく意識されるじゃないですか。その辺の価値観っていうのがなかなか一般には伝わらないところですよね。これをどれだけ言っても、いやいや怒りがあるから人生はいいんだよみたいなことをやっぱり返される方がおられますし。その辺の予想はどうやったら伝わるんですかね。
そうですよね。
この辺は仏教的な価値観にどれだけ触れてるかが大きいですね。これは我々が頑張っていかないといけないところってことですね。
まさにその通り。
そうなりますね。
そしたらちょっとお時間が来ましたので、引き続きはまた次回ということでやらせていただきたいと思います。
ここまでですね。どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
25:00

コメント

スクロール