ブッダの決意
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、仏教初心者の方に向けて、インスタグラムのフォロワー3万人超えの総量、私、かんどう和尚が、メタ的な視点から仏教を解説するプログラムとなっております。
みなさん、こんにちは。前回から悟りに至った後のブッダが、どのような動きをしたのかについて、
ブッダの動き、にらなかたに基づいてお話ししています。前回からじゃないですね、前々回からですね。
前回は、ブッダが梵天、バラモン教、当時一番最大宗教だったバラモン教の神様、一番偉い神様の梵天の頼みを受けて教えを広めることを決意したところをお話ししました。
こんなふうに、ライバル宗教の神様とか、また教祖、創業者を登場させて、道家役を似合わせる、ピエロみたいな役目を似合わせるということがね、しばしば経典にはあるんですね。
梵天がブッダにお願いするこのエピソードというのも、その一つの例になるかなと思います。
さて、仏教を広める決意をしたブッダは、最初に誰に教えを説くのか試案した末に、
2人の瞑想の先生を思い出したんですけど、彼ら亡くなっているということが分かったので、かつて共に修行した5人の仲間を思い出しまして、
彼らがいるバラナ市、英語の名前ではベナレと呼ばれますけれども、この土地に行くことにしました。
5人の仲間たちは、かつての仲間たちですね、その時点では。
ブッダがやってくるのを遠くから見まして、こんな風に言うんです。
おい、ゴータマがやってくるぞ。ゴータマっていうのはブッダの苗字ですね。
彼は苦業をやめて贅沢な生活をしている。決して立って出迎えたり、彼のえはつを受け取らないようにしよう。
えはつっていうのは衣と食糧を取るための容器のことです。
ただ生まれがいいから、席だけは用意をしてやろうと。王族の出身だからということですね。そこには敬意を示そうと。
そんな風に話を示し合わせをするんですね。
要するに歓迎しない、歓待しないでおこうということを話し合っているんですね。
まるで小学生のいじわるみたいなことなんですけども。
でもブッダをいざ目の前にした時に、彼らは悟りに至ったブッダの姿、仰に慶応されてしまって、思わず立ち上がって出迎えて、えはつを受け取ってしまうんですね。
そして悠々と用意された席に座るブッダに、以前のようにゴータマさん、友よって呼びかけるんですね。
仲間同士ではこんな風に呼びかけるんですよ。
でもね、そうやって呼びかけた彼らに対してブッダはこんな風に言うんですよ。
私は悟りに至ったのであるから、以前のようにゴータマと名前で呼んだり、友よと呼びかけるのはふさわしくないって言うんです。
仏教の経典を読んでいくと、ブッダのことを世に尊いと書いて世尊とお呼びしたりとか、様々な尊称、敬称でお呼びするというケースが散見されるんですけど、この感覚ってのはちょっとわかりますよね。
私たち日本人も天皇陛下のことをお名前でお呼びするってことは決してありませんね。
この尊い方を名前でお呼びするのは失礼だっていう感覚、これは万国共通なのかもしれません。
ただ実は経典にはブッダのことをゴータマと名前で呼ぶ人もちらほら出てくるんです。
これどういう人だと思いますか?
そう、これは仏教を信じてない人です。
ブッダを侮っている人。
だから呼び方一つで相手をどう思っているかっていうのがわかるようになってるんですね。
それで悟りに至ったっていうブッダを前に、5人の仲間たちは戸惑いを隠せません。
いや、あなたは苦行を放棄して贅沢になったじゃないですか。
それなのにどうして悟りに至りましょうかと。
こんな風に疑問を投げかける。
贅沢って言っても普通にご飯とってるだけですけどね。
でも苦行、食事を断食したりしてる人たちからすると贅沢者だっていう風に批判されるわけですね。
それに対してブッダは、じゃあ私が得た教えを語りましょうと言ってお説法を開始されるんです。
この時に説かれた教えが悟り編でお話をした思想体です。
悟りの理解
この世界は苦しみであり、苦しみの原因は煩悩である。
その煩悩は消滅させることが可能であり、消滅させる方法は8つの実践によるのだというものですね。
このあたり詳しくもう一回聞き直したいという方は、悟り編の第4話をお聞きいただければと思います。
このようなお説法を繰り返していくうちに、5人の中の1人であった懇談者という人が生じる性質を持つ者は、すべて消滅する性質を持つと理解をしまして、悟った人の一番最初の段階である夜になります。
この夜一来不厳あらかんというのも以前お話ししましたね。
悟りの一番最初の段階が夜っていうんですね。
いわゆるこれは諸行無常を悟ったわけなんですけど、こんなのみんなわかってるよって思われる方おられるかもしれません。
でも本当にそうでしょうか。
例えば、自分の愛する人が歳をとってこの世を去ろうとするときに、冷静にいられますか。
諸行無常が本当に理解されたっていうのは、そういうときにも心が乱されないようになるってことなんです。
ブッダがお亡くなりになられた際に、次のような話があります。
修行が完成していない弟子たち、まだ途中の人たちは、ブッダが亡くなったときに地面を赤子のように転がり回って泣いたっていうんです。
ジランダ踏むような状態ですね。
でも修行が完成をしてた弟子たち、悟った弟子たちは、諸行は無常である。
どうして滅びないことがあろうかと言って、じっと偲んでいたっていうんですね。
私たちは知識としては、この世は移り変わる、諸行無常だって知ってるんです。
でもただ知ってるだけで、本当の意味で理解できてない、解説できてないんですよ。
このブッダが亡くなった時の弟子たちの対照的な姿っていうのは、そういうことを私たちに教えてくれてます。
せっかくここで諸行無常の話をしましたので、もう少し深掘りしていきたいんですけど、
この諸行無常っていうのは、これまで話した縁起、この世界は原因と結果の関係性でできているという仏教の法則ですね。
そしてこの世は苦しみであるという、これ一切解くと言いますね。
こういうものと並んで、仏教の根本的な距離の一つなんです、諸行無常は。
この後に諸法無我っていうのも入るんですけど、これはいずれお話しすることになるかと思います。
この諸行無常は日本人にとっては平家物語の冒頭にも出てくる言葉なので、広く知れ渡ってるんですけど、
なんで無常なのか、なんで移り変わるのかっていう原理、仕組み、ここまでは知らない方がほとんどじゃないかと思うんです。
じゃあなんで移り変わると思います?
それはこの世のものは様々なもの同士で作用し合い、関係し合っているからです。
もしもそれぞれのものがお互いに全く干渉せずに独立をしているのであれば、変化は起こらないんです。
例えば鉄が変化すると錆びますよね。
これは鉄というものに水とか酸素が触れるから錆びるんです。
もしも鉄が何にも関係しない、何からも干渉されないのであれば、ずっと変わらない、錆びないんですよ。
そしてこれは鉄だけじゃなくて、この世のもの全てはその世に関係し合ってるんです。
こういう仕組み、原理があるから世の中のものは変化をするんです、無常なんです。
諸行無常の諸行っていうのは、こういう関係性の中にあるものっていう意味なんですよ。
ブッダの教えと共同生活
こういう原理のことをなかなか説明する機会がないので、ここはお話ししたいなと思って今日お話ししたんですね。
それと普通、ブッダの5人の仲間とのやりとりで分かるところっていうのは、
普通は仏教では教えを聞くのに加えて、瞑想修行という実践を積むことで悟りに至るんですよ。
教典には、ブッダのお説法を聞くだけで悟りに至るという人が結構出てくるんですね。
このあたりはブッダがお説法者として非常に優秀だということなんです。
現代ではこんなふうにポコポコ悟らないんですよね。話聞いただけで悟るとか、私ちょっと聞いたことないんですけど、
教典ではブッダはそういうことを結構してるんですね。
本当にその時代に生まれてたらなということを思ったりしますけどもね。
それでこのようにして6人で共同生活を送ります。
食事はどうするのかというと、ブッダが3人のお坊さんに教えを説くときには、残りの2人は宅発に行くんですね。
家を回って食事の余り物をもらってくる。
次の日にはその宅発に行った2人が教えを聞いて、そして前の日に教えを聞いた3人が宅発に行くんですね。
こういうふうに効率的に共同生活を送ったというふうに書いてあります。
宅発というのは宅発自体は修行でもなんでもなくて、
効率的な共同生活を送るために食物を得る手段でしかないということなんですね。
悟りの達成と教団の成立
これちょっと学者さんたちから言われたりするんですけど、
私は隣在宗という前宗の僧侶になるんですけど、
前宗の宅発ってお寺を殻にしてみんなで一斉に宅発に行くんですよ。
これちょっと間違ってるんじゃないか、ちょっと分かってないんじゃないかということが言われたりもするんですね。
その部分は私はなんとも言えない部分なんですけどもね。
こういうふうな生活をブッダと5人の仲間たちは続けまして、
ブッダのお説法を聞くうちに他のメンバー、混乱年以外のメンバーも悟りに至るようになりまして、
みんなブッダの弟子になるんですね。
この時に仏教の教団、サンガが成立をしたんです。
次回はたった6人で成立をしたサンガが拡大をしていく様子をお話ししたいなというふうに思います。
ここからはアフタートークです。
今日はブッダの呼び方の話、名前の呼び方の話をちょっとしましたけどもね。
我々僧侶もいろんな呼び方がされますよね。
私が所得している臨済宗だとお正というふうに呼ばれることが大体なんですけど、
宗派によってはお正人と呼ばれたりしますね。
だから浄土宗とかの信者さんから私もお正人様と呼ばれたりして、
恥ずかしい、悪い意味じゃないですよ。
すごく偉くなった気持ちになりますね、お正人と呼ばれたら。
お正と呼ばれたら、対等に呼ばれているような気持ち。
これも尊称なんですけどね、お正というのはね。
でもお正人と呼ばれたら、すごく尊ばれている気持ちがして、恥ずかしい気持ちになったりするんですけどね。
本当に悪い意味じゃないですよ、これ。
お正人が悪いという意味で言ってるんじゃないっていうのは、誤解されたくないから繰り返し申し上げますけどね。
でもお坊さん嫌いな人って坊主って呼ぶことが多くないですか。
もともと坊主って言葉自体には差別的な意味ってなかったんですけど、
現代ではちょっと差別的な意味が含まれていることも多いように思いますね。
こんなふうに相手をどう呼ぶかで、相手に対する敬意の有無、これが諸に出てくるので、
そういうところは我々も気をつけていきたいなというふうに思いますね。
今回はこういうところですかね。
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五つ星がMAXですけどね。
そういう星印もつけていただければ大変ありがたいなと思います。
ではまた次回お会いしましょう。