1. Reverse Diverse
  2. 鬱と精神分析療法
2026-01-09 28:11

鬱と精神分析療法

#アタッチメント理論 #愛着障害 #カウンセリング
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サマリー

ポッドキャストでは、愛着や鬱について語られており、特に精神分析療法の重要性が強調されています。話者は自身の経験を通じて、鬱との長い闘いと漢方医からの助言が心に与えた影響を考えています。このエピソードでは、鬱からの回復におけるカウンセリングの重要性と自己受容のプロセスについて述べられています。また、他者との関係性やアタッチメント理論が、自分の内面的な安全を築く手助けになることが強調されています。

アタッチメントの探求
Reverse Diverse、アタッチメントを探求する。
こんにちは、平林です。こんにちは、イーノです。
2026年、ポッドキャストを再開しまして、第4回目かな、今回で、1回目になります。
アタッチメント、愛着を探求するというテーマでお話ししてまして、
前回予告として、イーノさんの鬱との長い付き合いの話を、今回はちょっと掘り下げて話していこうかなと。
前回、私、7、8年苦しんでみたいな話をしたんですけど、7年とかっていうのは、精神分析心理療法をやっていた期間で、実際には鬱病って診断されたのは21歳の時だから、結構長い。
鬱って感慨はするけど、治らないよみたいな、一般的な理解に基づくならば、もう30年以上鬱状態みたいなものを、ある種、なだめながらやってるっていうことなのかもしれない。
でも、その7年間の後は少し楽になってきてるっていうこと?
たぶんね、衝動的なものはなくなってきてるんじゃないかなと思うし、今日の話とも、あとアタッチメントとも関係してくるけれども、
7年間の精神分析心理療法を経て、その時にはあんまり気づいてなかったことってたくさんあるんだけど、それがその後、じわじわと聞いてくるというか、
ああいうことだったのかな、こういうことだったのかな、みたいな形で捉え直しが進むことで、やっぱり自分と他者との関係性とか、あるいは一般的な用語で言うと、
自他の境界線みたいなものを捉え直して、引き直すみたいなね、調整し直すみたいな、そういうことをするようになって、だいぶ楽になってきた。
精神分析療法の影響
一つ一つの出来事に衝撃を受けて、パニックに陥るとかね、もうダメだって隠れちゃうみたいなね、そういうことはなくなったかな。
このポッドキャストのシーズン1じゃないかな、比較的初期の頃にも、EGOの話をね。
私ね、それ調べたよ。ボリューム26、2021年7月23日に配信された。EGOを強に生きる。60歳になったら幸せになれるっていうタイトル。
これね、井野さんが、漢方医の先生のところに行って、言われたっていう話をしてるんです。
当時住んでた地域で、やっぱり精神的に不安定になって、もうちょっとどうしてもどうにもならないみたいな、自分一人じゃどうにもならないみたいな時に、すぐ見てくれる精神科とかって少ないんです、実はね。
予約取らなきゃいけないから1ヶ月先ですとかね。待てないわけじゃん。とりあえずその日に見てくれるところっていうのをどうしても必要としちゃうんだけど、その時もそうで。
たまたま漢方をやってるお医者さんで、もうなんか眠れないし、すごく精神的にも辛い状況にあるんだって言ったら、どれどれお腹を見てみましょうみたいな。お腹は何の関係もないんじゃないの?と思いながら、いつもお腹を見てくれるお医者さんだったんだけど。
そのお医者さんに、全然そんな話してないんだよね、自分の経歴とか人生とかね。だけど、本当にちょっとやりとりする中で、井野さんあなたはね、将棋を打つように生きている。
王様を取るために邁進してるって言うでしょ?諸突猛進っていうのかな?一生懸命。目標に向かって計画を立てて。真面目といえばね、そう真面目なんだけど、一生懸命やりすぎちゃっていると。
そうじゃなくて、人生は囲碁を打つように生きるといいよって。あなたのような性格の人は、60歳になったら幸せになれるよ、楽になれるよって言われて。まだ当時20代だったと思うから。
ずいぶん先の話。いい加減の話だと思うけど、今もう52歳とかでしょ。あの漢方医が言ったことは正しかったかもしれないなと。
うん、よく言ってますよね。なんかまたチャクラが開きましたねみたいな私が言うことがあって、井野さんが自分が長年悩まされてきた心の中の結び目みたいなものがスルスルっと解けたみたいな話をしてくれることがあって、それはまさに異語の話のようですね。
だから60歳まで待たなくても済んだかもしれないとかね、時々冗談も交えて言ってますけどね。
21歳のアメリカで打つの。打つですよというか、その辺のプロセス。それから日本に帰ってきての漢方医のプロセスなんかは井野さんが支援っていう雑誌ですよね。
そうそう。生活書院っていう出版社から年に1回発行される雑誌があって、その雑誌にずっと連載させてもらってて、その中で結構自分の病気との付き合い方とか、あるいはまさに今度は他者を支援するっていう話とか、今回のようなうつ病の話とか。
前回ちょっとお話しした、精神分析との心理療法の話とか。これ結構長くて、2回にわたって話してるのかな。
これホットキャストね。
そうそう。
これも面白いですよね。
22年9月に話してるんだけど、9月と10月に分けて話してるんだけど、カウンセラーにぶつかり続けた7年間って書いてある。
そのあたりも全部すでに書いてるんですよね。
そうですね。
2024年の。
2024年に生活書院が出してる支援っていう雑誌に、21歳からのうつの経験っていうのを、今の到達点みたいなのを、短い文章ですけどね、書いてます。
完璧主義と自己中心的な万能感
もう販売されている文章だと思うので、それを共有するよりは、その文章をノートブックLMにアップロードして。
最近の平林さんがお気に入りの。
それでそれを聞いてみようと思うので、ちょっと流してみてください。
なるほどね。
いいですか?
はい。
うまく流れるかな。
共有したかったのは、アメリカ時代から、うつとか機子燃料をしなければならないっていう感覚に襲われることがあって苦しんでいて、
日本に帰ってからも同じような苦しみが続いていて、ふとした表紙に、漢方医に、異語をうつように生きるといいですよっていうアドバイスがあって、それがピーノさんの中にじわじわと聞いてきた。
だけどそれには精神分析というか、カウンセリングでの7年にもわたるひも解きがあったんだと思うんですが、私がちょっと聞いてみたいなと思ったのは、アメリカ時代、私のイメージだとピーノさんはアメリカに行ってすごくよかったっていう。
すごく楽しかったし、勉強も思う存分やっていて充実していたっていう、そういう側面も聞いていて、だからこのうつのエピソードっていうのは少し意外だったんですよね。
アメリカ時代の苦しみっていうのは、どういう時に突如として来るようなものなのか。今回このポッドキャストではアタッチメントっていう愛着。
人に対して自分が、自分の思う通りに人はいかないこともあるっていうようなことを知るっていうことだと思うんですけど、それとアメリカ時代の毎日の中との関係っていうのはどういうものなのかなっていうのをちょっと知りたいなと思いました。
なんかね、そのエッセイの中で書いてあるのは、私のその既死念慮っていうのは、何か特定のトリガーがあって、理由があって、具体的な理由があって起きるっていうよりは、発作的なものであるって書いてあるんですよね。
発作的に、自分はもう生きていてはいけない人間だと。死ななくてはいけない人間だっていうふうに、非常に強烈に思って自分自身を殺そうとするっていうね。命を断とうとするっていう、そういう側面があったんですよ。
私もね、分からなかった。自分でなぜそういうふうに思うのか。これはその精神分析を経て、精神分析の中でもそんな話はしてないから、その後長い期間を経て自分でこういうことなのかなっていうふうに思っているのは、私はね、完璧主義な人間だったんですよ。
その、漢方医がね、将棋を打つように生きているっていうのも、そういう意味だったと思うんだよね。目標に向けて一目散に、自分に厳しく取り組みすぎている。
でも、自分の周り見てごらんと。自分が思い描いたような世界でも、自分が思い描いたような形で他人が動いているわけでもないよっていうことを多分伝えたかったんだと思うんだよね。
でも、やっぱり完璧主義者の頭の中って。ちなみにね、完璧主義って、いいことのように語られることもあるんだけど、実際にね、やっぱり自分に厳しい人多いし、向上心がある人も多いと思うんだけど、その根っこのところに何があるのかなって自分の中を探ってみるとね。
やっぱり、自分自身もそうだし、自分自身も理想の自分にならなきゃいけないと思ってるんだけど、それだけじゃなくて他者も、そして世界も、自分の理想に近づいていかなければいけない。
自分の理想と同じであるはずだとかね。そういう感覚っていうのはどっかにある。つまり、自分の理想の中に自分自身だけじゃなくて、他の人たち、そしてその社会とか世界を閉じ込めちゃってコントロールしようとする。でも、そんなのできるわけないじゃん。
一貫して言ってるように、他者はコントロールできないのよっていうね。世界もコントロールできないの、私には。でも、頭でわかってるんだけど、この根っこの部分でなんか、自分が頑張ればどうにかできるんじゃないかっていうものすごくこだわりみたいなものがある。
で、それをね、私は非常にこう、自己中心的な万能感っていうふうに呼ぶことにしたんですよ。
最近ですね。
なんで最近万能感って言葉を使ってるかっていうと、そういう経緯がある。完璧主義ってやっぱりちょっとさ、美徳みたいな雰囲気もあるから、そうじゃなくて。
良い面しか伝わらない。
自己中心的な万能感っていうのがあったんだろうなっていうふうに思う。で、そういう世界観の中で生きてるから、少しでも、少しでも上手くいかないことがあるとっていうほどのきっかけでもないんだけど、やっぱり人生上手くいかないこと多いから。
常にこう、なんていうのかな、自分は完璧ではない。だからダメだっていうふうに、自分にダメ出ししてるようなものだと思うんだよね。他者にもダメ出ししてるわけだよね。
こうあるべきなのにこうしてない。だからダメだ。そういう否定性の中に生きてることが積もりに積もって、時々爆発しちゃうんだと思う。
だからそこはもう本当に多分ね、無意識的な領域で、いつも抑え込んでる。そういう否定的な感覚っていうのを。
だけどそれが溜まってきて、なんか何かの表紙に暇な時なのか、何なのかよくわかんないけど、爆発しちゃうっていうのが私の、その既死年齢の欲さみたいな。
なんかよくその、日本っていう文化は比較的あまり思っていることを言わなかったり、違うって自分が思った時にそれを言うと角が立つとか、そういうことがあるから、抑え込みしやすい環境かと思うんですけど、
例えばアメリカとかだともう少しオープンだったり、思ってることを言うとか、言っても別にそのジャッジされたりしにくいのかなっていうイメージがあって、でもその井野さんの苦しみっていうのはあまり文化というものはあまり影響がないっていう感覚でしたか。
そんな感じかなというふうには思うよね。常にこう、不完全さみたいなものを感じていて、それを受け入れることができない。完璧主義だからね。それを受け入れる。人も世界も不完全なのだと。でもね、人生は続いていくっていう、それを受け入れるっていうことが私には当時難しいことだった。
それを受け入れるぐらいならば死んだほうがいいというか、死ぬべきだみたいに、ちょっと極端になってたんだと思うんでね。でもその回路ってすごく飛躍してると思うんだけれども、なんか無意識レベルで何か起きてたんだろうなと思う。
なるほど。そうか。じゃあその辺が由来で来るのが、漢方医。漢方医の方はじわじわ来たと思うんですけど。
そうだね。由来で来るのは、柔らいでいったのは、本当に精神分析の心理療法を受けてしばらくした後だよね。ポッドキャストを聞いてもらえたらわかるんだけど、過去の。実際にカウンセリングを受けているときは、もう怒りまくってんの。心外に。なんでこんなことをしなきゃいけないのかとかね。
いつまで続けるんだこんなことを。何の意味もないとかね。何の効果も感じてないみたいなね。怒りまくってるんだよね、実は。でもまあそれでもなんか真面目さゆえに、7年後。また来週って言われて。約束しちゃったじゃんって言ってね。もうブーブー文句言いながら来週も行くっていうね。
まあ今だとはもうちょっと違う形で、このカウンセリング受けられるなって思うんだけど。まあってことは必要ないのかなと思うんだけど。当時は本当にそんな感じで。それでもうやめて。しばらくしてからじゃない。じわじわ来たっていうのは。遅延があったっていうのが私のケースでね。それはすごく興味深いなとは思ってる。
鬱からの回復と信頼の回復
うつからまたそこを捉え直しというか、自分の頭の中の少し置いておく場所ができたり、問い返しが進んだりした時に、飯野さんが世界との信頼を取り戻す、取り戻してきたっていうふうに表現されてましたけど。
万能感?万能感っていうものを手放すっていう。世界とか人は思い通りにいかないっていうことを受け入れるっていうことが、信頼を取り戻すっていうこととつながってるっていうことが少し不思議な気もするんですけど。
そこには何かもう一つ、二つぐらいプロセスがあるのかなと思うんだけど。
完全じゃなくても大丈夫なんだという。そういう意味で信頼を取り戻す。今までは完全じゃなければ。
受け入れてもらえないというふうに思ってたんだろうね。完璧主義だから。だけど不完全なままでもそこにいていいんだって。いていいはずだというふうに思えるようになったら、
世界っていうのがこれまではすごく危険な場所だったけど、完璧じゃないけど、完璧じゃないといれない場所、いてはいけない場所っていうふうに勝手に思い込んでたのが、不完全なままでもそこにいていい場所になったっていうことは一つある。
でもそこに至るプロセスの中で何が起きてたかっていうと、これもエッセイの中で書いてるし、タイトルに実はなってて、このエッセイのタイトルがちょっと面白いタイトルなんだけど、
頭の中の右側にある場所っていう。頭の中の右側にある場所。そういうタイトルなんですよ。これ何なのかっていうと、私がカウンセリングを受けていたその7年間、右側にいたのはカウンセラー。
常にその配置で喋ってるのね。私が、例えばね、私は当時だから鬱なので、どうせ周りのみんなは本音では私など死んだ方がいいと思っているに違いないとか、失敗したらざまあみろと思ってるに違いないとか、そういうことを考えていたし恐れてもいたんだよね。
みんな自分のことなんてどうでもいいと思ってるみたいなふうに考えてた。もちろん口には出さないよ。
言われたわけではない。
言われてたわけでもないし、自分もそういうふうに、どうせあなたはみたいな感じで相手を責めたりはしないけど、この根っこの部分を探ると、そういうふうに感じて考えて怯えてる自分がいた。怖がっている。世界が怖いっていうのはそういうことだよね。
それを知ってしまうと、本当にそうだって知ってしまうと本当に怖いと思うんだよね。
なので、私にとって世界っていうのは、あるいは他者っていうのは非常に恐ろしい存在だったわけですよ。
そういう話をする。実は今日こういうことがあって、昨日こういうことがあって、すごく責められてるような気持ちになって怖かったという話をする。
あるいは、自分のことはもうどうでもいいというふうに言われているような気がした、みたいなことを言うと、カウンセラーが例の一言ですよ。不思議ですね。
そうでしょうか。実際に何が起こったんでしょうか。事実を整理していくと。それを聞くと、イーノさんにその人は時間をとったってことですよね。
イーノさんのために時間を作ったっていうことじゃないですか。それはどうでもいい人に対してやることでしょうか。みたいなね。
で、私は当然やると思いますって言うわけ。私はやりますよ、みたいな。
どうでもいい人にも時間をとるんですよ、みたいな。
そうですか、みたいなね。そういうやりとりをしていたわけ。不思議ですよね。不思議ですねっていうのが、私の右側のこの頭の隅に最初スペースを作った。不思議ですね、スペース。
で、それを7年間かけてどんどんどんどん真ん中あたりまで、左ぐらいまで浸食していった。その空間がね。
そこに行きやすくなったんだ。そこに行ったん、そこに行ったん。
で、時々やっぱり自分で、しんどいな、みたいなことがあった時に、カウンセラーだったら何て言うかな、みたいなのを考えるようになっていって、どんどん右側のスペースが大きくなっていって、
古い自分の脳っていうのがどんどん書き換えられていくような、そういう経験をしていったんだよね。
で、それを通して、もちろん古い自分もずっと長くは存在するから、やっぱり怯えているんだけど、こう思われてたらどうしよう、みたいに怯えてるんだけど、でも、右側の自分がそうでしょうか?
実際何が起きているんでしょうか?こういうふうに相手が言ってるってことは、こうじゃないでしょうか?とか、実際にこういうふうにしてる、ちゃんと約束の時間にここに来たっていうことは、それだけの努力を自分のためにしてくれたっていうことじゃないか、みたいなね。
そういう対話を自分の中でできるようになっていって、少しずつ少しずつ世界が自分にとって安全な場所になっていったっていうことだよね。これまでよりは。
そんなにこう、もう怯えて怯えて、ハリネズミみたいになって、自分は常に完璧じゃなきゃダメだ、みたいなね、ふうに精神をすり減らして、寝る時間も削って努力し続ける、みたいな、そういう生き方から降りることができた。
一番大事なのは、不完全な自分を自分が受け入れたっていうことだと思うんだよね。他者がどう思うかではなくて、自分が受け入れることができなかった。でもそれを少しずつ受け入れることができるようになっていったことが、その世界を安全なものにしていき、自分自身も楽になっていったっていうことかなと。
他者との関係性の構築
うん、なるほど。
そういう意味で、私の学びっていうのは、もちろん、不完全な自分をどう受け入れるかみたいな話でもあるんだけど、同時にやっぱり、自分がこれまでは、良かれと思ってやってきたこと。
例えば、人の3倍努力して完璧を目指すとかね。たとえば、助けてって言った人がいたら、もうすぐさま飛んで行って助けるとかね。良かれと思ってやっていたことが、実は自分とその他者の境界線っていうのを、結構ぐちゃぐちゃに曖昧にして、自分自身を守ることもできなくさせていたし、
他者に依存させて、自分により大きな負担をかけ、プレッシャーをかけて、その中でできないこともあるから、もがいて、苦しんで、自分を否定して、そこからもう逃げたいと思って、自信まで考えてしまうみたいなループになってたんだなと。
このアタッチメントっていうのも、私は究極的には、親子の関係じゃなくて、自分と他者の関係性をどういうふうに築いていくかっていう話なんだと思うんですよ。
それはもう千差万別あっていいと思うんですね。自分にとって安全な距離とは一体何なのか。自分も壊さず、他者も壊さず、いられる関係性ってどういうものなのかなっていうのを、私たちは一生、人生かけて探っているわけで、そのある種ヒントみたいなものがアタッチメント理論にはあるんじゃないかっていうふうに思ってます。
そういう意味で、親子関係だけの話とか、子育ての話に限定しちゃうのは、なんかもったいない気がする。
確かに。
ちょっと長くなってしまいましたけれども、今日のボトキャストはこのぐらいにしましょうか。
それでは本日もありがとうございました。
ありがとうございました。
28:11

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