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2023-08-21 15:26

○ 5.3 石拾いの話(科学と信仰編)

石拾いから始まる、散歩のような雑談。

もの派、ピダハン、科学と信仰、アイヌ文化。3人が当て所なく喋った先で辿り着いたのは……?

出演者 : 藤野真司, のぞみるき, 塩田素也
収録日 : 2023年6月21日

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Narration by VOICEVOX:冥鳴ひまり
Produced by かもすハウス

サマリー

このエピソードでは、科学と信仰、そしてそれらが創造力に与える影響について議論しています。石拾いや量子力学の観点から、日常の中での信仰の意義を探ります。また、信仰や占いを通じて心を軽くすることの重要性についても語られています。さらに、仏教のお釈迦様の教えが、苦しみの中でも人間味を感じる優しさを持っていることが紹介されています。

科学と信仰の交差点
前回からの続きをどうぞ。
なんかその、実体というか、物理的なものを何か伴わないと、確かにそこに行けないっていうのはなんかわかりますね。
なんか絵を描いている人だと、筆を動かしているときだったりとかね、やっぱ同じような感覚ってのもあるんですね。
そうですね、やっぱり絵もその手を動かして、その体を使うっていうことと、
藤野さんのさっきの石拾いのように、どんどん解像度を上げていく、見ることで。
描いてよく見ることで、どんどん見えてくるんですよね。
それが、さっき言ってたパターン認識から解かれていくっていう感覚で気持ちいいんだろうなと思いますね。
割と我々は、遠人類に近いことをしているのかもしれないねって聞きながら思ってました。
戻ろうとしてる。
戻ろうとしてる。
最近すごい、僕はめちゃくちゃ文系の人間ですけど、理系の方の話を聞くのがすごく好きで、
なんかすごく、量子力学とか素粒子の話とか聞くと、わーって、わーってなるんですよね。
あれがまさにさっき言った仏教のずっと言ってきたことを、割とその物理が証明していってるみたいな話も面白いですよね。
色即是空、空即是色みたいなことが、要はあらゆるものは空なんだと。
実体ってものを伴っていませんよねみたいな前提として、この世界の成り立ちはみたいな話と、
その素粒子のすごい小さい素材というか、世界を覗いている人たちが、今最新の技術でわかっていることは、物体ってあるようでないみたいな。
揺れてるみたいな素粒子、粒みたいなものがある。
だから今僕がこういう目の前にあるグラスとかそういうものに触れていると、その僕とそのグラスの境界、本当の境界って、ちっちゃい粒が揺れてて、どっちが僕でどっちがグラスでっていうことが証明できないらしいんですよね。
でも僕的には、いやいや、これはグラスで僕じゃないでしょっていう感覚はあるんだけど、でもそれがその物理の世界、素粒子学の世界だと、いや、どっちとも言えないっすみたいな状態が言われているのって、すごくさっきの空の話と繋がってますよね。
だからそういう意味では、昔はそういう科学、科学者と哲学者が兼務していたというか研究をっていうこともすごく理解できるし、今は割とその分野で分かれて研究っていうのがなされていると思うんですけど、
本当はなんか横断するんですよね、きっとね、その領域って。だからなんか僕が最近そういう気になってた話題とかが、なんか全然その違う畑と思っていた、そういう物理とかを扱っている方々の話が、なんか聞いてて、分かる分かるみたいな、分かってないんだけど、分かるはずないんだけど、なんかその結果だけ聞いて、分かる分かる、ですよね、やっぱそうですよねみたいなことって、なんかすごいあるような気がして。
違う方向から来たのに行き着いたところが一緒だったみたいな、楽しいですよね、そういうの。
大人になって勉強ってやっぱ楽しいですね。
そうですね、大人になると子供の時に点で学んでたのが、やっぱそうやって繋がっていく面白さみたいなのが、こう分かるようになってくるなと思うんですね。
なんか小学校の授業とか、そういうのだったらいいのにね、物理の話してたらいつの間にか社会になっててみたいな、したらいつの間にかそれが美術になってて、めちゃくちゃ楽しいのにって思うんですけど、そういう教育法とかあるんですかね、海外とかで。
どうなんですかね。
ありそう。
ありそうですよね。だからその専門的に深めていく前に、なんかそういうのがまずやっぱ必要ですよね。
全体を見渡すというか、まあそのリベラルアーツって言われるようなことは、なんかそれに近いのかなと思うんですけど。
そうですね、確かに確かに。
ちょっといつもの通り、何の話をしているのか分からなくなってきましたね。
すごい。
いいですね、こういう時間はいいですね、やっぱり。
なんか石広いからだいぶ宇宙の話になる。
石は宇宙の中で。
そうですね、宇宙の宇宙ですからね。
うん。
ずっと同じ話をしているというか、そうかもしれない。
ちょっと全然違う話なんですけど、やっぱり人間は想像力の生き物じゃないですか。
ハエとの不思議な体験
それでなんか、最近こう信仰について考えさせられた出来事がありまして。
これ全然、全然そのあれなんですけど、出発点は僕カフェで作業してたんですよ、こないだ。
2,3時間くらいの空間も落ち着いて音楽もすごく良くて、席の感じもすごく良いカフェが近くにありまして、好きなカフェが。
そこで、よし、2,3時間これから作業しようと思って。
コーヒーを注文して、席に着いてパソコンパカって開いて、よしと思って作業するぞって思ったら、コーヒーが運ばれてきたんですよね。
ありがとうございますって言って、よしって言ってパソコンに向き合った瞬間にめっちゃでっかいハエが。
めっちゃでっかいハエが僕のそのマグカップの縁に止まったんですよ。
で、もうその瞬間もう、え、もうって、ちょっとみたいな。
もう僕、ダメなんですよ。それでもう一気に気が散っちゃって、もうやめてって言って手で払って。
で、言ったら手で払うんですけど、そのハエが結構でかいですよ。5ミリくらいのサイズのでっかいハエが、手で払って飛んでいって、また5秒後に僕のマグカップの縁に止まって。
で、えーって。で、それも何回も払うんですけど、もうリアルに12回くらい、毎回僕の広い店内あるのに僕のマグカップの縁にだけそのハエが止まってくるんですよ。
で、もう僕完全にもうちょっと作業する集中力、心が見られちゃって、なんか嫌じゃないですか、ハエがね、止まるのって。
で、あった時にちょっと自分、試みとしてやってみようって思ったのが、自分のそのマインドをちょっとハックしてみようというか、思い込むことにしてみたんですよね。
で、何を思い込んだかっていうと、このハエひょっとして僕のおじいちゃんじゃね?って思ったんですよ。死んだおじいちゃんね。
こんだけ広い店内で、12、3回僕のこの、僕が今一番気になるであろうマグカップの縁に止まってきてるっていうことは、そのおじいちゃんが生まれ変わって、ハエでブーンって飛んでったら、僕のことを見つけたんですよね。
っていう設定をふと思いついたんですよ。そしたらですね、不思議とさっきまで見られていた心がめちゃくちゃ穏やかになり、もう相変わらずパッて目線をやると縁にいるんですけど、僕はそこにこう、すごい穏やかな顔で目線を送りながら、そっから2時間3時間作業することができたんですよね。
これもう見事に自分を騙せたというか、本当に本当に心が楽になったんですよね。そう思い込むことで。
なんかすごい効果あったなと思いながら帰ってて、その流れで信仰について考えたんですけど、結局信仰のあり方ってこれが正しいっていうかっていうことを思ったんですよね。
要は事実かどうかは別に置いといて、どうでもいいんですよね。その目の前にある苦しみから遠ざかることができれば、何でもいいっていうのが正直なところ。
信仰と心の軽さ
僕の場合はおじいちゃんかもって思うことで、マグカップの縁にハエが止まるという苦しみから僕は遠ざかることができたんで、だから信仰っていうものは極端なマネタイズとかそういったものを除けば、
やっぱり苦しまずに生きていくためには必要なもの。そのあり方はそれぞれの心のうちに完全に自由な状態であっていいっていうのが改めて体感でわかったというか、どうしてもその信仰っていうとすごく極端なイメージを抱いてしまうんですけど、
でもその心の中の設定、楽になるための設定っていうかマインドセットのことを指すんだなっていうのを改めて感じたっていう話です。おすすめなんでぜひこの設定使ってみてください。
おじいちゃん。
おじいちゃんが会いに来てくれたんだと思うとね。
でもそれかとかに対して適応するとめっちゃ困ります。
かーだとねちょっともう耐えかねて潰してしまいそうですからね。
潰して逆に罪悪感みたいな。
甘めおじいちゃんみたいな心が見られちゃう。
かは適応しない方がいいですよ。
でもなんかそのそうだね、前にるきさんと2人で喋ってるポッドキャストの方で占いの話をしたときに、確か似たような結論というか話をしてたような気がするんですけど、
結局占いっていうのも心を軽くするというのが結構重要な役割だなと思っていて、
確かに確かに。
実際当たるかどうかというよりも、やっぱりそのさっきの言っていたみたいに現代人が過去とか未来っていうのにとらわれて割と消耗しがちだしネガティブになりがちみたいなものをちょっと中和するというか、
現代のに集中しやすいようにほぐしてくれるみたいな効果が占いであったり宗教の機能、宗教観みたいなところでできるのかなっていうのはちょっと思っていて、
そう考えるとやっぱり、ただ合理的でないから必要ないっていうほど簡単なものでもないというか、むしろ合理性がすごく徹底されてしまっている時代だからこそ必要になっちゃうというか、ものなんじゃないかなっていう。
割とそのものを作ってたりする人とか表現に関わっている人って、そういうアートに触れることの効果みたいなことを一番実感していて、別にそこにスピリチュアルな部分っていうか、いわゆる合理性ではないスピリチュアルっていう認識はないんですよね。
普通に必要だよねって思っているところってあるというか、合理的に考えたらこれ必要だよねって思っているところがあったりもするんで、そこの必要性に気が付くと、もしかしたら今いる、今自分が陥ってるストレスから遠ざかることができるかもっていうようなことかもしれないですね。
仏教の教え
それでもストレスはどんな形でもありますけどね。
別の方のポッドキャスト聞いてた時に、仏教のお釈迦様の教えって、割と勘違いされがちというか虚無主義じゃないけど、全ての苦しみは存在しないのでありますみたいな。
心を無くしなさいみたいな教えに受け取られちゃって、いやいやそれは常人の僕には無理ですよっていう風に感じさせてしまうところがあるんだけど、実際そのお釈迦様が言ってたことを読み解いていくと、なんか傷ついていいっていうか、心は普通にあって傷ついていいんですよね。
で、そこの傷ついた人に対して、辛いよねって。世の中生きてるだけでさっていうところから、でもその辛さ、辛い辛いってずっとそこに囚われてても、やっぱりその辛さ自体は変えられないから、そのためにはこういう考え方がいいんじゃないっていうハウトゥーを教えてくれてる部分が仏教みたいなことを言ってた方がいて、なるほどなと思って。
そう思うとなんか急に結構優しいっていうか人間味のある教えに感じてきますよね。
結構どれだけ大人になってもね、なんかストレス感じなくなること自体は無理だし、傷つかないということもなんか最近無理だなと思ってきて。
その立ち直り方がたくさん備わってくるだけで、傷つくこと自体とかストレスを感じること自体はあんま変えられないなっていうのが最近僕実感としてあって。
お釈迦さんいいじゃんって思ってます最近。
まだまだお話は終わらないようです。
次回もお楽しみに。
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