仏教初心者への導き
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、仏教初心者の方に向けて、インスタグラムのフォロワー、3万人超えの僧侶、私、かんどう和尚が、メタ的な視点から仏教を解説するプログラムとなっております。
みなさん、こんにちは。あなたは、人の心がどのように動くか、これを意識することってありますか?
ビジネスパーソンって、こういうところ、すごい悟い方多いですね。どうすれば人の勾配欲をかきたてられるのかとか、
どのような時に人の心が動いていくのか、こういう部分をうまく使われているなって感心させられます。
ブッダもそのあたり、人の心がどのように動いていくかをよくご存知なんですね。
ブッダには、多心図って言って、他人の心の中を知り尽くす能力、いわば人通力って言われるんですけれども、これがあったって言われるんですが、
これは、人の心の動きをよくご存知だったので、周囲の人には超能力に見えたんじゃないかなと思うんですね。
ビジネスパーソンの場合は、これをビジネスに使っていくんですけれども、ブッダは、周囲の人に不利益が生じないために、この能力を使われているんですね。
今日のお話は、そのあたりがよく伺えるものになっているんじゃないかなと思います。
前回は、ブッダが自らの死の直接的な原因となるスーカラマッタバという食べ物を食べて、食中毒にかかったところまでお話ししました。
これまで見てきたように、ブッダの伝記には、ブッダを偉大な人として扱おうとする技術が随所に盛り込まれています。
これは、残された人々の気持ちとしてそうなるのは当然のことと思うんですが、時間が経てば経つほどに、その傾向というのは顕著になっていくんですね。
けれども、そのブッダの死の原因というのは、劇的なものではなくて、食中毒という普通の亡くなり方なんですね。
だから、なおさら、この食中毒で亡くなられたということの信憑性は非常に高いと思われます。
そして、この普通の亡くなり方というところが良くて、特別じゃないんですね。
ブッダは特別なんですけれども、私たちと隔てられていないんです。
私たちの延長線上にブッダはおられるんですね。
我々、大乗仏教においては、私たちも努力するとブッダのようになれるんだって考えるんですけれども、
私たちもやっぱり頑張っていけば、ブッダのように感情に振り回されずに、理性的に生きることができる、
そういう希望をこのブッダの亡くなり方からも感じることができます。
プックサとの対話
さて、今回は、クシナーラに向かう道中の話です。
食中力に関わられて体調が優れないブッダは、
一本の木の根元で休憩をされて、
喉が渇いたから水を汲んできてほしいと月人のアーナンド尊者に指示されます。
しかし、近くの川は水が泥で濁っていて、とても飲めるような状況じゃなかった。
それで、アーナンド尊者は事情を説明して、
もうちょっと進んだところに綺麗な川があるので、そこまで我慢してもらえませんかとブッダにお願いします。
でもブッダは、いやもうちょっと我慢できないと、
大丈夫だから水を汲んできてくれと頼みます。
またアーナンド尊者は、いやですからと言うんですけど、
3回目ブッダが同じことを頼まれるんですね。
それでアーナンド尊者も、ああわかりましたということで水を汲みに行かれます。
すると、それまで濁っていた水が澄んで綺麗になっていて、
それを見たアーナンド尊者は、
これはブッダの神通力に違いないと感動をして、ブッダに水を差し上げました。
ブッダにはろ過する能力もあったんですかね。
あんまりこれ言うの野暮ですから、次に進みましょうか。
ブッダが水を飲んで休息を取られている最中、
一人の男が近づいてきました。
この男の名前はプックサと言います。
アーララカーラーマの弟子になるんですね。
これ覚えておられますか。
アーララカーラーマっていうのは、
ブッダに初めて瞑想を教えてくれた先生です。
ブッダが生涯で唯一、自分の先生と仰いだ人ですね。
プックサはそのお弟子さんなんです。
このプックサは、おごそかな様子で座っているブッダを見て、こんなことを話します。
昔、私の先生のアーララカーラーマは、
今のあなたと同じように道の脇で一本の木の下で休息のために瞑想をしていました。
するとキャラバン隊の500台の車が近くを通り過ぎました。
しかし先生は500台の車に気づかなかったのです。
これ何を言っているかというと、
私の先生のアーララカーラーマ先生は、すごく深い瞑想、高い精神集中があるんですよ。
先生自慢をしているんですね。
それに対してブッダは何と返したのか。
プックサよ、あなたはどう思いますか。
500台の車が通ったのに、深い精神集中からそれに気がつかないのと、
雷が目の前に落ちてもそれに気がつかないのは、どちらがすごいでしょうか。
私も毎朝瞑想を座禅するんですけど、唯一やらない時があるんですね。
それは落雷が続いている時です。この時やらないんですね。
全く集中できないです。雷鳴ってたら。
いつなれかわからないというところもすごく嫌なんですよ。
風船を膨らましすぎて、いつ割れるかわからないという時、怖いじゃないですか。
唐突に割れるとものすごい不快ですよね。
落雷がある時っていうのは、あれを耳元で何回もやられる感じがするんですね。
来るぞ来るぞってなっている。この時が一番集中できないんですね。
そのような答えを受けてプックサは、いやそれは雷の方がすごいですと。
たとえ1000台、10万台の車が通るよりも、雷の音の方が大きいですと。
そう応答されたブッダは、実はね、こんなことを語るんですね。
ある時、私はある農家の家に身を寄せていた時、その家に雷が落ちて、
住人の兄弟2人と飼っていた牛4頭が死んでしまった。
私はちょうどその時、家の前で歩きながら瞑想をしており、気がつきませんでした。
瞑想から出て、初めてその山上に気がついたのですと。
これ今で言っているところのマウントを取っているんですね。
ブッダらしくないなって感じるんですけれども、
これはやっぱりこのブッダの電気を作った作者が必要だと考えられたんだと思うんです。
思い返してみると、アーララカーラーマっていうのは、ブッダの唯一の先生なんです。
この人に最初に宗教家としての手ほどきを受けているんですね。
このブッダの最後に至って、その人をどれだけブッダが超えたのかを示しておかないとならない。
こんなふうに作者は考えたんじゃないかなと思うんですね。
そしてプックサさんの方はブッダに感激をして、
一対の金色の衣をブッダに寄信をします。
1枚はブッダに、そしてもう1枚はアーナンダ存在に差し上げます。
しかしブッダがその衣を身にまとうと、衣は輝きを失ったように見えたんですね。
これ何でだと思います?
正解はブッダの体の方が金色に輝いていたからです。
ブッダには32種類の特徴がある、他の人にはない特徴があるって信仰がありまして、
その一つがブッダの体は金色に輝くっていうものなんですね。
だから仏像は金色なんです。
日本の仏像はだいぶ古色になってますから色が落ちてしまって、
ちょっと黒っぽい色の仏像とかも多いんですけども、
もともと作られたときはやっぱり金箔が張ってあって金ピカだったんです。
今ちょっと思い出しましたけど、源氏物語の主人公、光源氏いますね。
光源氏も、あれ何で光源氏って言うかっていうと、
光ってたからなんですよ。
イケメンすぎて光ってたから光る源氏って言うんですね。
ブッダもイケメンだったと言われているので、
イケメンは光るんですかね。
どうでもいいですけどもね、ここはね。
プックサと別れたブッダ一行は串奈原の近くの万豪園に移動します。
そこでブッダはアーナンダションジャにこのようなことを言います。
誰かが家事職人の子、串奈に、
お前の提供した食事のせいでブッダが亡くなってしまったと責めるかもしれません。
しかし串奈に後悔の念を起こさせてはなりません。
あなたは串奈にこう言いなさい。
ブッダが悟りに至る前に食べた食物を施した人と、
ブッダが亡くなる最後に食べた食物を施した人には、
ブッダの心遣い
等しくこの上ない利益がもたらされる。
この悟りに至る前に食べた食物を施したというのは、
ヤギのミルクのお粥をブッダに差し上げたスジャーターという娘ですね。
覚えておられますかね。
それと同等の利益が串奈にはあるんだってブッダは説かれているんです。
私はこのブッダの心遣いの場面を読むたびにですね、
涙がちょっと出そうになるんですね。
ここを見てわかるように、
ブッダは人の心の動きというのを誰よりもわかっておられる方なんですよ。
串奈が他の人から責められることも予見をしていたし、
串奈が後悔の念を起こすことも予見されておられるんです。
こういうフォローもこの時点でもうやられているんですね。
よく人が亡くなった後に遺族で揉めることがありますよね。
これ一番良くないなと思うんです。
だから可能なのであれば去りゆく人自身が
自分が亡くなる前に何らかの手を打つ。
これが良いんじゃないかと思うんですね。
自分の子供たちの性格であったりとか、
パワーバランスっていうのをちゃんと日頃から観察して、
それに合った手を事前に打っておく。
これも終わる活動、就活として大事じゃないかって思うんですね。
豊臣秀吉もそれで失敗してるんですね。
秀吉の一番の中心というのはご存知の石田三成になりますけれども、
秀吉は石田三成が憎まれるようにしてしまってるんですね。
自分自身で。
そのせいで自分が亡くなった後の家臣団の分裂を招いてるんですね。
だからこのあたりは私たちも重々意識していかないといけないんじゃないかなと思います。
貧しい人々の寄付
次回は仏陀の遺言についてお話ししたいと思います。
ここからはアフタートークです。
今回はリスナーの方からのご質問にお答えしたいと思います。
ラジオネーム、かんしけつさんからのお便りです。
お釈迦様の話の中で、金持ちの村と貧乏な村の別れ道で、
あえて貧乏な村に進み、苦毒を積ませるという話があったような気がします。
どこかでお考えを含めお話しいただけたら後陣です。
はい、ありがとうございます。
出典はちょっと私も調べたけど分からなかったんですけど、
確かにそのような説話はありました。
似たような話で、
ダンマパダアッタカタという注釈書に載っているものがあるんですけど、
そこでは貧しい人がお伏せする機会を奪った神様のことを
仏陀が叱責されるというものがあったんですね。
なんで貧しい人にお伏せさせるかというと、
これ3つの要因が思い浮かびます。
まず1つ目は、お伏せというのは、
これはドネーションですね、寄付。
これは来世の幸福につながるという信仰があるんです。
仏陀は自分にお伏せするということで、
根性ではダメで貧乏であっても、
来世では裕福に生まれるチャンスを与えたい、
こういう考え方があられるんですね。
インドという国は、生まれによってその後が固定されてしまうということが
すごく強いので、
努力したら成り上がれるみたいなことがほとんどなかった。
そういう中で自分の現状の不幸は、
前世の報いだと捉える傾向がすごく強いんです。
これ現代でもそうです。
だから根性で良いことをして、
来世こそはいいところにという発想になるんですね。
次にこの話は、インドのカーストが背景にあるかもしれないですね。
インドでは伝統的な司祭階級、一番上の階級をバラモンと言いますけど、
この階級の人々は、
カーストの低い人々からのお伏せを受け取らないというところがあるんです。
でも仏教はそれを受け取るんです。
カーストの身分の違いに関わらず、
ちゃんとお伏せを頂戴するということをやるんですね。
3つ目は、誰かに何かをあげるというのは、
自分の価値を感じる機会でもあるということです。
皆さんもご家族であったりとか、
友人にプレゼントをあげた経験があると思うんです。
その時に相手が喜ぶ顔を見て、
自分まで嬉しくなりませんでした。
すごく良いことをしたなあ、
自分に価値を感じられたと思うんです。
だから、貧しい人は普段、
誰かに何かをするということがなかなかできないんですね。
仏典にもそういう話が載っているんですけれどもね。
そういう機会を作って、
そしてお伏せすることによって、
自分も価値がある人間、
誰かに何かをしてあげることができるんだ、
それがその人自身の自信にもつながっていくという、
こういう考え方もあるんですね。
だからこういうところから、
この最初におっしゃられた、
貧しい村に会えていったというところが、
見えてくるんじゃないかなというふうに思います。
最後まで番組をお聞きいただきありがとうございました。
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