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2026-01-03 12:37

【ブッダの最期編#4】その生き方は、故人を尊敬していると言えるのか?供養の本当の意味と、子として生きる責任

▼今週のトピック


ブッダ最期の地、クシナーラーに到着/


北枕の由来はブッダ/


本当の供養と尊敬とは?/


悲しみに対する仏教的な態度/


心を浄める四つの聖地の指定/


チャイティヤとストゥーパ/


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サマリー

このエピソードでは、ブッダの最期における教えとその真意が探求され、供養の本当の意味や子としての責任が考察されます。特に、ブッダの死後の弟子たちの行動は、仏教への尊敬を表す重要な要素であることが強調されます。また、ブッダに関連する聖地の巡礼の重要性や、子として果たすべき責任についても探求され、故人への尊敬をどのように示すかが論じられています。

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かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、仏教初心者の方に向けて、インスタグラムのフォロワー3万人超えの総量、私、かんどう和尚がメタ的な視点から仏教を解説するプログラムとなっております。
みなさん、こんにちは。あなたはお坊さんのこと好きですか? 私のポッドキャストを聞いてくださっているので、嫌いという方はあまりおられないと思うんですけれども、
でも、世の中にはお坊さんのことをよく思っていない方も少なくないですよね。そういう方って、よくないお坊さんの姿を見ておられるんです。
夜の街で豪遊している姿とか、高級車を乗り回している姿とか、そういうのを見てお坊さんにあまり良いイメージを抱かれてないんですね。
実は、こういう良くないイメージを抱かせるお坊さんというのは、ブッダを尊敬していないことになるんです。今日はそのことに言及された箇所をお話ししたいと思います。
ブッダの直中毒と到着
前回は、ブッダが自身の直中毒の原因となった食事を提供したチュンダのことを心配する場面を最後にお話ししました。
そうして、ブッダは目的地の串奈原に到着しました。これ、串奈原というふうにも呼ばれます。到着したブッダは、月人のアーナンダ尊者に、ちょっと私疲れたので横になりたいというふうにおっされまして、
2本のサーラ樹の間に敷物を敷いて、頭を北に向けて横になられました。このサーラ樹っていうのは、いわゆるサラソウジのことです。
平家物語の冒頭で出てきますね。義温精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、サラソウジの花の色、常者必遂のことわりを表す。
これは、ブッダが亡くなる際に、このようにサラソウジの間で亡くなられたということを踏まえてのものです。そして、ここで頭を北に向けるって記述されてますけれども、
これによって日本では、頭を北に向けるのは亡くなる時の態勢であるということで、北枕は縁起が悪いって言って、普段では頭を北にして眠るってことはやめた方がいいよっていう習しに繋がっていきました。
そして、この時のブッダの姿っていうものなんですけども、テレビを見ている時とかに寝転がって、右肘を地面につけて頭を支えて足を投げ出して横になる姿勢ありますよね。
この時の姿勢だったって言われてます。で、頭は北に向いてるんですけど、顔は西に向いてるんですね。だから、頭北、顔西ってことで、頭北面西と言われます。
このようにして、ブッダが横になった時、周囲の木々の花々が満開になって、ブッダの体にその花びらが降り注ぎました。
すると、ブッダは、ああなる存在に次のように言われます。
私を供養するために、様々な花々が満開となり、花びらが降り注いでいる。しかし、これでは足りない。
弟子や信者たちが、私が教えた通りに仏道を歩んでいくこと。これこそが、私を本当の意味で尊敬し、供養することになると。
これ、何を言っておられるか。ブッダが生きている時には、一般の方々が仏教の教えを伺いしろと思うのであれば、ブッダその人を見たらいいですね。
でも、ブッダが亡くなった後は、残された弟子たちの姿を見て、仏教の教えに触れることになる。
その時に、弟子たちが織り目正しい生活、修行を行っているのであれば、仏教は素晴らしい、それを説いたブッダも素晴らしかったって思われることになるんですけど、
反対に、弟子たちが堕落した姿を見せれば、それを見た一般の方々は、あ、なんだ、仏教は大したことはないんだなと、軽んじることになりますよね。
これは、弟子や信者によって、仏教が、ブッダが既存された、損なわれたことになるんです。
これでは、尊敬しているとはとても言えないよね、ってブッダは言われているんですね。
そしてこれは、師匠と弟子の関係性だけじゃなくて、親と子、親子関係でも同じ構造だと私は思うんです。
お里が知れるって言葉ありますよね。あまりいい意味の言葉ではないですけれども、でもこれは、一人の人間の人格形成において、親の影響が絶大であるってことを逆説的に表した言葉です。
これ実際に皆さんも肌感覚としてあられるんじゃないかと思うんです。
子供である私たちの一挙手一等足は、そのまま親の徳を称えたり、また悪ければ損ねたりもするということなんです。
私たちの生き様、それがそのまま親の供養になるんだっていうことなんですね。
この供養っていう言葉は、古代インド語ではプージャーって言うんですけれども、これはお供え物を捧げる、備えるっていうことを意味しています。
でもここで、ブッダは供養に新たな意味を付け加えられているんですね。
このようなやり取りをされた後、横になって休まれているブッダを、ウパバーナーというお坊さんが内輪で仰ぎます。
このウパバーナーという人は、もともとアーナンダ尊者の前に長い間つき人をされていた方らしいんですけれども、このウパバーナーに対してブッダが、ちょっとあなたそこ邪魔ですから、どいてくださいって命じられます。
ブッダ曰く、このウパバーナーの後ろに、ブッダの最後を見ようということで集まった神々がいて、その神々がウパバーナーが邪魔で見えなかったらしいんですね。
それで、ちょっとどきなさいっていうふうに命じたんだと。
その際、この神様たちには二通りのリアクションがあった。
一つ目は、心のできあがっていない神々。
修行ができていないんですね。
彼らは髪の毛を振り乱して泣き、赤子のように地面を転がって、嘆き悲しんだと言われます。
もう一つのリアクションがある。
それは心ができあがっている神々ですね。
彼らは修行が進んでいるんです。
悲しみをぐっとこらえて、修行は無常である、転びないということがどうしてあり得ようかと、このように言って絶え死のんだと。
この二通りの対照的なリアクションの違いっていうのは、感情の奴隷なのか、それとも感情の御者、コントロールしているものなのか、この違いと言えます。
修行、修行によって心を納めた人っていうのは、感情に振り回されないんです。
よく泣くことが個人への供養になるんだって、こういう考え方もありますよね。
これ決して否定はしないです。
世間においてそういう考え方も確かにあると思うんです。
でも少なくとも仏教ではそういうふうには考えていないってことが、この辺りから受け取れるんですね。
神々との別れを終えたブッダは、残された時間、あとわずかになりますね。
アーナンド尊者の質問
そのことを自覚したアーナンド尊者は、聞いておかないとならないことを思いつくままに尋ねていきます。
まずこんなことを聞くんです。
ブッダが存命の間は、素晴らしいお坊さん方がブッダに会いに来られるので、近くにいる私たちもその方々にお会いして心を清めることができました。
しかしブッダがお亡くなりになった後は、彼らは来られませんから、お会いすることもお使いすることもできません。
つまりブッダ亡き後、心を清めるにはどうすればいいですかって尋ねてるんですね。
それに対してブッダは、私の生まれた場所、悟りに至った場所、初めて説法した場所、亡くなった場所、これらを尋ね歩きなさいと言われます。
それらの霊域、聖地ですね、こういうところを訪れて参拝をしたら心が清められて、ご利益によって死後は天に生まれ変わることができるって言われています。
これ生まれた場所はルンビニですね。
悟りに至った場所はブッダが屋、初めての説法をした場所はサールナート、亡くなった場所はクシナーラ、いわゆる聖地をここで指定をしているんですけれども、これまでのお話で全部出てきたゆかりのある場所ですね。
後の仏教徒たちはブッダをしのんで、これらの場所を訪れて巡礼をするって言うようになります。
我々が知るところで言うと、西遊記って小説がありますね、中国の小説。
あれのモデルになったのが、種本になったのが大東西遺記記という玄奘三蔵という実在のお坊さんが中国からインドに旅した旅行記になるんですけれども、この著者の玄奘三蔵をはじめとする中国の留学生、インドに留学したお坊さんたちは漏れなくこの聖地を訪れています。
この聖地を巡礼するっていうことは、ブッダその人にお会いすることに等しいんです。そしてその聖地に寄信する、ドネーションするっていうことは、ブッダに寄信することに等しいと考えることができるんですね。
これちょっと補足になるのであれなんですけども、ブッダはそれぞれの霊域に聖地をお参りしたら心が清められて、死後は天に生まれ変わることができると言われました。
今私が聖地とか霊域って言っている言葉、これ元々のインドの言葉、原点ではチャイティアっていうふうに言う言葉なんですけど、これを翻訳して霊域とか聖地って言ってるんですけど、このチャイティアに似た言葉がありまして、これをストゥーパって言います。
ストゥーパは次回ちょっとお話しするんですけれども、ブッダのお骨を埋めた場所の上に建てた建造物のことです。
日本の五重塔っていうのは、これはインドのストゥーパの日本版なんですね。
チャイティアもこれすごく似てるもので同様なんですけれども、お寺、僧院の中にあるのがチャイティアで、僧じゃないのがストゥーパだっていうふうに後々区別されるようになります。
でもこの大パリニッパーナ教が作られた時点では、そこまで厳密に区別されてなかったんじゃないかなというふうに思うんですけれども、
このあたりはですね、今後もし皆さんが仏教に詳しくなって、より仏教を学ばれていくときに、チャイティアとストゥーパって何なの?っていう疑問に突き当たるかもしれませんので、
その時には今お話ししたことをちょっと思い出していただければなと思います。
ちなみにまたね、これ補足に補足を重ねるんですけれども、古代インドのお寺においては、古いお寺ではこの境内の中にチャイティアがあるっていうのがスタンダードだったらしいんです。
だからみんなそこを拝みに行くわけですね、毎日毎日。
でもやがて時間が経つと仏像が作られるようになるんですね。
仏像が作られてからはチャイティアが姿を消して、代わりに仏像が祀られるようになっていったと言われています。
このようにまだまだ質問が続くんですけれども、それはまた次回お話ししたいと思います。
仏教講座の告知
ここからはアフタートークです。
今回は告知も兼ねているんですけれども、来年の10月から月に1回のペースで東京の浜松町にあります国際貿易センタービルにおいて、一般の方々向けの仏教講座の講師を務めさせていただくことになりました。
私以外にも仏教学者の佐々木静香先生、大御所ですね、であったりとか6名の講師の方がおられまして、ローテーションで登壇することになっています。
私の担当が来年の10月から2月までと、10月から年をまたいでですね、2月までということです。
概要欄に詳細のリンクを貼っておきます。
無料ということなので関東近郊にお住まいの方はぜひ足をお運びいただければと思います。
このように日頃から講座とか研修会においてお話をさせていただいておりますので、
これをお聞きの方、企業の方とか団体の方とか、またお寺さんでもですね、ご依頼がありましたら喜んでお伺いしますので、
これも概要欄にお問い合わせフォーム、ご依頼のフォームを貼っておりますので、そちらからですね、ご連絡いただければなというふうに思います。
それでは今回も最後までご視聴いただきありがとうございました。フォローまたレビューもお待ちしております。
さらにはですね、Apple Podcasts Spotifyの方には星印で番組を評価するところがありますので、そちらで番組の評価もしていただければ大変励みになります。
それではまた次回お会いしましょう。
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