ブッダの教えと戒
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、仏教初心者の方に向けて、インスタグラムのフォロワー3万人超えの総量、私、かんどう和尚が、目立的な視点から仏教を解説するプログラムとなっております。
みなさん、こんにちは。前回から、ブッダが晩年どのように過ごされたのか、これを大パリ一般の教という語表に基づいてお話を進めています。
前回は、バッチという国を通して語られた、ブッダのコミュニティ論をご紹介しましたが、今回はその続きとなります。
マガダ国との大臣との会談を終えた後、ブッダはナーランダという土地などを経由して、パータリガーマという場所に到着しました。
こういう地名がたくさん出てきて、あまり馴染みのないところなので、あまり覚えなくていいです。有名なところは何度か出てくるので、耳馴染みが出てくるかなと思うんですけれども、ここはそんなに意識されなくて大丈夫です。
このパータリガーマという場所について少しだけ触れますと、この場所はブッダの時代にはすごく小さな村だったと言われているんです。ガーマって村ってことなんですね。
でも後々にすごく発展をしまして、ブッダの時代から100年から200年くらい後になった時代なんですけど、そこでインドで初めて統一王朝であるマウリヤ王朝が出来上がるんですね。
日本の戦国時代と同じような感じなんですけど、インドもずっと小さな国がたくさんあって、覇権を取り合うということをやってたんですけど、
それがブッダの100年から200年後に初めて統一する豊臣秀吉みたいな存在が現れるんですね。それがマウリヤ王朝のアショウカ王という王様なんですね。
その時にマウリヤ王朝は首都をパータリガーマにするんですね。
その時は小さな村ではなくて立派な都になっていたので、パータリブトラというふうに呼ばれるようになったんです。
このアショウカ王の話はいつでも出てくると思います。すごく有名な方ですので、どこかで詳しくお話できたらなと思います。
このパータリ村においてブッダは信者たちに対して戒についてお話をしているんです。
戒を守る重要性
戒というのは仏教徒が守ることを推奨される5つのルールです。
生き物を殺さないとか、盗みをしない、横島な性行為をしない、嘘をつかない、お酒を飲まないと。この5つが挙げられます。
これをご覧になってもですね、皆さんありきたりなことを列挙しているというふうに思われると思うんですよ。
でもね、これよくよく考えてもらいたいんですけど、トラブルに巻き込まれる時って、だいたいこの5つのいずれかに抵触する行いをしているんですよ。
よく芸能人とかでも、お酒に酔って暴力事件を起こしてしまったりとか、不倫をしたりとかですね。芸能人限らないですね。我々一般の人間も全く同じですけれども。
やっぱりトラブルはですね、この5つに収束、修練されていくんですよ。
だからこれをちゃんと守りなさいって仏陀が言われたことは、実はね、すごく意味があると言いますかね、大きなことだと思うんですよ。
ちょっとね、これ私が自分が子供の時に言われたことなんですけれども、私の父はですね、警察官だったんですね。お坊さんじゃないんです。
その警察官だった父がですね、よく言ってたのが、夜の街に遊びに行くなっていうことをよく言われていました。
夜の繁華街とかに出かけると、どうしたって危険な目に遭う確率が高くなりますよね。
だからそういうところに自分から出かけて行って、危ない目に遭ってから自分を守ろうとしても、もう遅いんだと。
そういうところに、そもそも近づかないこと、行かないことで自分の身を守りなさいということをよく言われたんですね。
これ実はカイも同じ考え方をします。
良くないことから、心や体を遠ざけることによって自分を守るということなんです。
だから後々の仏教とかですね、このカイっていうのは、自分の心と体を悪いことから守ってくれるお守りなんだというふうに言われるようになりました。
これはね、よくわかることですね。
仏陀はですね、このようなカイを守らない人っていうのは、5つのリスク、危険があるんだということを説かれているんですね。
この5つを順番にちょっと見ていきたいと思います。
まず1つ目は、カイを守らない者は財産を失うって言ってるんですね。
これね、先ほど5回の説明しましたけど、あれらを守らないとやっぱりトラブルになる可能性が高いので、
財産を失ってしまうリスクがあるってことは、これはよくわかりますね。
おそらく実際に、これら5つのトラブルに抵触することをしてしまって、財産を失った方っていうのは、これまでたくさんおられたと思います。
そして次2つ目、カイを守らない人は悪い評判が立つと。
これもそうですね、トラブルになりますからね。
だから悪い評判になるのは、それもその通りです。
そして3つ目、カイを守らない人は立派な人々がいる集会において自信がなくオドオドしてしまうと。
これもね、わかる気がしますね。
やっぱり自分の振る舞いっていうのは、自分の心、普段どういうことをしているのかっていうのはすごく反映をされますよね。
立派な人っていうのは、やっぱり立派なことをちゃんと守ってやっていると。
だからいろんな人がいるところでも堂々としてやれるんだということなんですね。
そして4つ目、カイを守らない人は死ぬときに精神が錯乱してしまうと。
これは信仰の話と言いますかね、仏教のそういう独特な考え方が入っています。
カイを守るかどうかで、来世の境遇が大きく変わるっていう信仰が仏教の中にはあるんですね。
だからカイを守っていない人は、死の間際において自分の来世の境遇に恐れを抱くんだと。
自分はカイを守ってきていなかったから、これは地獄のお尻かもしれんとか、そういう思いを抱いて精神が錯乱してしまうんだということなんです。
戒を守らない者の結末
これに関連する話と言いますかね、これ仏教だけでは実はなくて、
インドの思想は、他の思想でも、正当的なインドの思想においても、
死ぬときの精神状態というものが、来世の境遇に大きく影響を与えるということが考えられてきたんですね。
そういうふうなインドの思想、仏教の思想から、今でも仏教においてはですね、
亡くなった後に枕行という、すぐ枕元でお経を上げるという習慣があるんです。
これもともとは亡くなった直後じゃなくて、亡くなる直前にやってたことなんです。
今みなさん病院で亡くなられますので、それでちょっと時間がずれて亡くなる後というふうになってしまっているんですけど、
これはお坊さんがお説法をすることによって、亡くなっていく人が安らかな気持ちで精神が安定して亡くなる。
それによって来世がいいところに生まれ変わることができるんだという信仰、これに基づいた習慣なんですね。
ただね、現代は時間が亡くなった後になってますけれども、
いつの時点を死とみなすのかっていうのは、現代でも様々な見解があって確定を実はしてないそうなんですね。
だからもしかすると区切り方によっては、この枕行の時点はまだ生きてるってみなすこともできるかもしれません。
次、5つ目ですね。
戒を守らない人は死後、地獄に堕ちると。
これはさっきの4番目のものと密接にリンクしている話ですね。
以上が戒を守らない危険、リスクになるんですけど、
戒を守ることの効能
反対に戒を守ると財産も得られるし、良い評判が立つし、どんな場所でも自信に満ちるし、死ぬ時も商用としていられるし、死後も天に生まれ変わることができるって書いてあるんです。
いいことづくめですね。
これね、実際、4番目、5番目やどうかはまだ私自身がわかりませんけれども、
でもこの3番目ぐらいまではこれに近い状態になると思いますよ。
だからぜひ皆さんも戒というものを守っていただければいいなと思うんですけれども、
最後にですね、戒と律の違いについてだけ触れておきたいと思います。
よく戒律って言うじゃないですか。
でも実は仏教において戒と律っていうのはこれ別々のものになっているんです。
戒っていうのはこれインドの言葉でシーラって言って、習慣っていう意味を含んでます。
これは仏教徒であればお坊さんだけじゃなくって、みんな守ることを推奨されるものになっています。
ただし努力目標なような性質を持っているので、これを破ったとしても罰はありません。
自分で反省したらいいんです。
その一方で律、これはビナヤって言いまして、三がお坊さんの組織ですね。
これに所属する出家したお坊さんの行動規則なんです。
だから出家者だけが守るものになっているんですね。
これには罰則もついています。
このパータリ村においては仏陀は信者の方にお話をされているので、
ここでは律の話ではなくて戒のみに言及をされています。
アヌルッタのエピソード
次回はどのような状態になると人は地獄に落ちてしまうのか、
そしてそれを自分で判別する方法があるということを仏陀が説かれている、
非常に珍しいお経があるんですけれども、それを皆さんにご紹介したいと思います。
ここからはアフタートークです。
今回もリスナーの皆さんからのご質問にお答えしたいと思います。
今回のご質問はラジオネーム監視決さんからいただきました。
教えを広める、人の苦しみを取り除くことは、
自己犠牲ではなく自らの喜びとなる。
仏教ではそのような考えなのでしょうか。
そうであるなら、そのようなエピソードはあるのでしょうか。
はい、ありがとうございます。
そうですね、私がぱっと思い描くもので言うと、
他者に奉仕をする仏陀の姿が描かれているお経というのがありまして、
これ私はすごく好きなので、それをちょっとご紹介したいと思います。
仏陀の弟子にアヌルッタという方がいたんですけど、
この方は目がちょっと不自由だったそうなんですね。
そんな彼がある日、衣のほころびを縫おうとしたんですけども、
目が悪いので針の穴に糸を通すことができなかったらしいんですね。
それで困り果ててしまって、誰か私の代わりに糸を通してくれませんかと。
誰かの代わりに親切にするっていいことじゃないですか。
私の代わりに針の穴に糸を通すことで、誰か徳を積みませんかと。
こういうことを周囲に呼びかけたんですね。
すると後ろの方からですね、
それなら私がその徳を積ませてもらおうという声が聞こえてきたんですね。
この声の主が誰かというと、ブッダだったんです。
聞きなじみがありますから、すぐブッダの声ってアヌルッタさんわかったんですね。
いやいや、ちょっととんでもないです。恐れ多いですよと。
私は徳を積みたい人はいませんかって聞いたんですと。
もうあなたのように既に積み終わった人にはそんなこと言えませんと。
そういうふうにブッダに言ったところ、ブッダはこう言われるんです。
徳を積むということにおいて、私の右に出る者はいないと。
徳を積むということは終わりはないんだって返されたんですね。
そして穴に糸を通してあげたんだと。
これはゾウイツアゴン教というお経に収録されたものになるんですけれども、
非常に良いお話ですよね。
多社合の法師というものを喜びとされるブッダの姿が描かれているお経じゃないかなと思います。
今回もご視聴いただきありがとうございました。
引き続き番組のご質問等を受け付けておりますので、
ご質問のある方は概要欄の質問フォームよりご質問いただければなと思います。
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ではまた次回お会いしましょう。