ブッダの悟りの真理
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、仏教を学んでみたいという方に向けて、インスタグラムでフォロワー数2万人超えの僧侶、私、かんどう和尚が、1から仏教を丁寧に解説していくプログラムとなっております。
みなさん、こんにちは。悟り編ということで、お話をさせていただいております。前回は、結局、ブッダが悟りに至ることができたのは、なぜだったのかということで、伝統的に2つの説があること、そして、その最初の説についてお話をしました。
今回は、その2つ目の説についてお話をしていきたいと思います。
1つ目の説は、苦しみが発生するメガニズムを解明したというものでしたが、2つ目の説というのは、ブッダが目の当たりにした4つの事実、真理というふうにも言われます。
このブッダが目の当たりにした4つの事実、真理の言葉を、「四生体」というふうに言います。
四つという字は四に、そして、生というのは聖なる、聖徳太子の生。そして、体というのは諦めるということ。諦めるというのは、仏教では真理の言葉にします。
どういう事実、真理をブッダは目の当たりにされたのか、それが以下の4点になっています。
まず最初は、この世は苦しみであるという事実。そして、2つ目は、苦しみの原因は丹波であるという事実。
そして3つ目、丹波が消滅すれば、苦しみも消滅するという事実。
そして4つ目、苦しみを消滅させるための8つの実践があるという事実。
丹波というのはですね、前回も前々回もお話ししましたけれども、私たちも盲臭とか渇愛というふうに言われますけど、欲求ですね、非常に強い欲求のことを丹波というふうに言います。
これらを師匠体という事をさっき申し上げましたけど、この師匠体というのは、4つの聖なる真理という意味ではないんです。
字だけ見たらそう思うんですけど、そうではなくて、4つの聖者にとっての真理という意味なんですね。
聖者というのは、前々回ぐらいに申し上げましたが、悟りの海底を登っている人、世の中には悟っていない人と悟っている人、2種類がいるという話をしましたよね。
聖者と、これを凡夫というふうに言います。凡夫が悟っていない人ですね。
そして聖者は悟りに煩悩を一つでも消したら、もう聖者になるんですね。
この聖者は4段階あるという話をしたんですけども、この聖者のことですね。
こういう聖者になって初めて、この世が苦しみであるということが目の当たりにされるんだということなんです。
これ私ですね、すごくね、願蓄があるというか、なるほどなって思うんですよ。
だって、私も含めてですけど、多くの人はこの世を苦しみだなんて思ってないんですよね。
大体の場合においてはですね、この世っていうのは素晴らしいものだって称えるじゃないですか。
映画とかドラマとか見ていただいてもそうかなと思うんですけど、人生は素晴らしいっていう、こんなふうに登場人物が語るのってすごく多いですよね。
人生なんか大したことないとか、くだらないとかね、こんなことを言うのってあんまり聞かないですね。
でも実際には、この私たちが生きている世界には多くの苦しみがあって、老いとか病とか死っていうのはその代表格になりますよね。
今でも地域によっては紛争が起こってたりとか、戦争もそうですし、危機が発生してたりとか、そういうこともやっぱりたくさんあるんですよね。
こういうことをお話しするとですね、いやいやと、人生には苦しみも確かにあるかもしれないけど、その反対に楽しみもあるはずだっていうふうに言われたりします。
それはそうなんです。仏教もそういうものはないとは言わないんです。もちろん認めます。心地良さであったりとか、楽しい経験はもちろんあるって言うんです。
でも、それらっていうのはいつも不満足に終わるんです。
例えば、美味しい食事だってそうですね。食べていればいつかなくなってしまうでしょ。
温泉に入るのもそうです。温泉に入って気持ちいいなーって味わう心地良さ、これもずっと続くわけじゃないですよね。
いつか終わりが来る。そしてそれが終わった時にもっと味わいたいって欲求するんです。
温泉旅行とか行ったらすごくいいじゃないですか。美味しいもの食べて、みんなで穏やかに過ごして、気持ちがいい温泉に入るってね。
でも、そこから帰ってきて日常が戻ってくるとまた行きたいなって思うでしょ。温泉に。
もし一回行ってそれでずっと満足感、幸せ、幸福が続くんであれば、それはやっぱり人生は幸せだっていうことになるんですけども。
でも、ブッダはそうじゃないよねって言われてるんです。やがて不満足が訪れるよね。また行きたいなって欲求募らせるじゃないかと。
これはまるで花咲きに人参をぶら下げられた馬みたいなものだ。ずっと欲望を追いかけ回して、でも満足することはできない。そのうちに一生が終わっちゃう。
この世界ってのは常に変化をしていきます。だからそれに伴って苦が生じるんですね。変化しないんだったらね、ずっと気持ちいいまんまとか幸福の気持ちが続くんですけどね。
そうじゃないんですね。だから私たちの人生、またこの世界っていうのは、ベース、基準に苦しみが横たわっていて、その表面に時々心地良さとか楽しみっていうものが気泡、泡のように浮かんでくる。
こんなふうに仏教は見てるんですね。だからこういう言葉があって、説得の快楽を追求することは、紙剃りの刃から滴る蜂蜜を舐めるようなものっていうんですね。
うまいこと言うなというかですね、私はすごくなるほどなと思ったんですね。それでちょっと舌を切ってしまってね、血が出るような、これが私たちのありようだっていうことですよね。
こういう話するのは皆さんあんまり好きじゃないと思うんですよ。こういう話ばっかりするとね、仏教は暗いなとか、ニガティブだなというふうに言われたりもします。
実際、19世紀にですね、ヨーロッパに仏教が伝わった時っていうのは、ヨーロッパの人々の評価って良くなかったんですよ。
やっぱりそういう部分をみんな見たんですね。すごい暗いことばっかり言ってるって。きっとインドは暑い国だから、だからみんなそういう後ろ向きな気持ちになっちゃったんだって。
こんなふうに当時のヨーロッパの人々は評価をしたんですけども、ただね、後々、現代ではその評価は全然覆ってましてね、
ブッダが言っていることはそうだろうなと、最もだろうなというふうに理解されているヨーロッパの仏教に関係する人は思われているというふうに思いますね。
ただ、いずれにしてもですね、ちゃんと見ていただきたいなと思うのが、そういうふうな苦しみだという事実はあるんですけども、
それには原因があって、それはちゃんと解消できると説いているところなんです。
その部分が2番目の苦の原因は短波、欲求であるという箇所。そして3の部分のそういう欲求が消滅をすれば苦しみが消滅するという箇所ですね。
八つの正しい道
これを言ってなかったらそれはネガティブなんですよ。苦しいけどどうしようもない、それで終了ですって言ってるようなものですからね。
でもそうは言ってないんです。現実をちゃんと見据えた上で、でもそれはちゃんと努力によってどうにかできるよって言ってるんです。だから仏教はネガティブでは全然なくてポジティブなんですよ。
この苦の原因が短波だ、欲求だって言ってるところ。これは前回お話しした1つ目の説、十二支縁義でも割愛というふうにその時言いましたね。
これと重なる部分ですけれども、そういう重なる部分もしっかりありますので、今回して話をしている思想体というもの、これは前回お話しした十二支縁義を大概的に説明するために説かれたものだって言われたりするんですね。
このあたりは裏と表、ただ見る角度が違うというかですね、それによって十二支縁義になったり思想体になったりするんだということですね。
短波、欲求というふうに絞って説明してますけど、ものによってはですね、もっと広い意味で煩悩というふうにも言ったりしてるんですね。だからもう煩悩って言っても全然間違いではありません。
そして最後の四つ目、そういう欲求、煩悩を消滅させるための八つの実践、これを八つの正しい道って書いて発想道というふうに言います。
これは具体的なですね修行方法が説いてあるわけではなくて、修行の流れが抽象的に説明をされているものです。せっかくなのでどういう流れで修行が進んでいくのかをちょっと皆さんに説明したいと思います。
一番最初に来るのが正しい見解を得ること、これを証見というふうに正しく見ると書くんですね。これは仏教が主張している原因結果の関係性で世界が成り立っているという見方、また自らの良い行い、また良くない行いというのは後の自分にその性質に基づいた何らかの結果をもたらすという見解。
これは自業自得とか言いますね。善因楽化、悪因苦化というふうに言ったりしますけれども、因が応法のことですね。こういうふうな仏教の持っている見解のこと、これをちゃんと持ってないといけませんよ、これが証見だって言うんですね。
だからその反対に邪見、横島な見解というのも当然あって、それ何かというと仏教以外で言われている見解です。
ここらへんはやっぱり仏教は宗教なんですよね。まずこれを最初に持ってないとダメだということ。ここを疑っていたらもう修行を進めないんですよ。これ本当?ちょっと信じられないなと思ったら、そこでもうおしまいになってしまうので、だからこれが一番最初に来るというのはすごく意味があることだし、最もなことなんですね。
こういう見解に基づいて次は何が出てくるかというと、正しい思考が出てくるんですね。どういうのが正しい思考かというと、怒りとか欲求という自分本位な思考を離れた、そういう思考。
わかりづらいですね。自己中心的でない思考が正しい思考ということですね。逆に怒りとか欲求といった自分本位な考え方は横島な思考ということになるんですね。
次、3つ目がそういう心に基づいて何が発生するかというと、1つは言葉ですね。正しい言葉。正しい思考に基づいて正しい言葉が発せられるんだと。具体的にどういうのが正しい言葉かというと、嘘とか悪口とか二枚舌とかグダ口。こういうのを離れた折り目正しい言葉が正しい言葉ですよって言うんですね。
そしてもう一つ、心から、思考から発生するものがあって、それは行いですね。正しい行い。これも具体的に例が挙げられるんですけれども、殺傷、生き物を殺すこととか、盗み、こういう良くない行いを離れた折り目正しい行いのことが正しい行いとなります。
そして5つ目が、そういうものに基づくと正しい生活が行われるんだと。正しい生活というのは、ちょっと意味が広いんですけれども、一つよく言われるのは、他者を苦しめるような生計手段じゃないもの。それが正しい生活になっていくんだって言うんです。
現代で言うと、詐欺とか強盗とか、ああいうふうな形で生計を立てるというのは、これはもう正しくない横島な生活になるんですね。でもそうじゃなくて、ちゃんと人のためになるようなお仕事。ほとんどの方、皆さんそういうお仕事だと思うんですけれども、そういう仕事で生計を立てている方は正しい生活を行っているとなるんですね。
そしてそういう生活に基づいてくるのが、次が6つ目で、正しい努力、精進のことですね。正しい精進、努力って、これもいろいろ言えるんですけれども、煩悩がなくなることに直結をする努力です。
正しい精神集中の重要性
努力って、やっぱり良くない努力もあるんですね。例えば、成果に結びつかない努力というのも、やっぱり良くないですし、あとは不全な方法、悪い方法で頑張るということ。さっき言ったような、詐欺とかもね、やっぱりあれもね、努力すると思うんですよ、やり方であったりとか。でも、あのために頑張るというのは横島な努力ですよね。
あとは、出世しようと思って、真っ当に努力するんじゃなくて、周りの評価を落とすこと、足を引っ張ることで自分を出世しようとさせる。これも横島の努力ですよね。
仏教が認めていない修行方法とか、苦行とかですね、こういうものも横島の努力というふうに言われます。そして7つ目、これが正しく集中対象に意識を向けること。これを正念って言います。念はですね、お念仏の念。念っていうのは、元々の意味としては、対象に意識を置き続けることなんです。
これ、瞑想の時の話なんですね。皆さん、座禅とか瞑想とかされたことあるかな。瞑想する時って集中するわけですよね、精神を。その集中するためには、どこか一つのことに集中、一点に集中するということをやるんですね。
よく知られたやり方としては、自分の鼻を通る、呼吸に集中するということをね、一番初歩的なことでやるんですけど、こういう時に、鼻の入り口に意識を置くんですけど、やっぱり最初のうち、慣れないうちっていうのはすぐ意識が飛んじゃうんですよ、別のことに。いろんな考え事をしてしまったりとかね、するんですけれども、長く置き続けられないんですね、意識を。
でも慣れてきたら長い時間置き続けられるんですね。こういうふうに意識をずっと置くということ、これが念という意味なんです。
だから、お念仏って言葉、これ、今の日本では、生浴びた仏って、お隣することをお念仏って言いますけど、これはお念仏の一つのアシュというかね、バージョンの一つなんですよ。
もっと元来的な、もともとのお念仏っていうのは、仏様を心の中でイメージをして、そのイメージをずっと集中対象として置き続けるということなんですよ。そういう瞑想、これがもともとの念仏なんですね。
そういうふうに長く集中対象に意識を抜けると、正しい精神集中ができるんです。長い時間集中できるようになるんです。これを定めるって書いて、性情っていうふうに言います。
優れた精神集中をすることで、正しい瞑想が行われて、その結果、煩悩を打ち消すような知恵が現れてくるんだ、こういう流れになっているんだということですね。以上が発祥土の説明になっています。
これで悟りについては一通りお話ししました。距離に関わる話だったので、難しいものになってしまったかもしれませんけど、こういうところを避けていたら私はいけないと思うんですね。大事なところだなと思っているので、難しい話ではあるんですけれども、お話をさせていただきました。
ここで悟り編はおしまいにして、次回からは新たなシリーズ、悟った後のブッダ編ということについてお話をしていきたいと思います。悟った後のブッダがどういうふうな挙動をとったのか、これは一般にはあまり知られていない話で、
次からは物語形式になっていくんですけれども、意外性があるので、これ皆さんも面白いんじゃないかなと思うんですね。ぜひ今回悟り編で難しいなという気持ちになった方も、もう一回ここからネジを巻き直していただければ、
次からはもう本当に聞き流せるって言ってるあれですけれども、普通にフランクに聞ける話になりますので、ぜひお楽しみにしていただければと思います。なお次回は、新編がスタートする前に番外編として、一話完結の正当的な講話をお送りしたいなと思っておりますので、こちらもお楽しみにしていただければと思います。
さて、アフタートークです。今日のお話はいかがだったでしょうか。今回の話をするのも、実はちょっと慎重になるところがありまして、私が大学に入って初めて受けた授業が、この四聖体と八聖堂についてのものだったんですけれども、当時すごくとっつきにくかったんですよ。
仏教ってこんな感じなの?みたいな。形式的ですしね。しかも、18歳の当時の私にとっては、この世界は苦であるっていう一番最初の真理、事実、これは全く響かなかった。何ならちょっと聞きたくなかったんですよね。やっぱり当時の私もネガティブだなと思ったんです。
でも、今は違うんですね。そういう事実を目の当たりにしているとは言わないですけれども、ちらっと見ているんですよ。これは皆さんも同じじゃないかなと思うんです。皆さんも、この世界、人生というもの、苦しみだとまでは言わなくても、やっぱりそういう苦しみをちらにしているんじゃないかと思うんですよね。
そういう方にとっては、やっぱり仏教はものすごく有益なんですよ。ぜひ、聞きたいことだけを聞く、見たいものだけを見るんじゃなくて、そういう自分がちょっと嫌だなと思うもの、そういうものも、視界の中に入れていただけると、皆さんの人生の深みというものがより増すんじゃないかなと思います。
今日も最後までお聞きいただきありがとうございました。この番組はサポーターの皆さんからのご支援によって運営することを目指しております。既に大変ありがたいことに、複数の方にサポーターになっていただいて、ご支援をいただいております。
ただ、前回ご紹介したこれまでのサポーターの申し込みの方法が、クレジットカード情報のほかにも住所とか電話番号が必要だったんですね。これが一つ心理的なハードルになったみたいで、ちょっと躊躇される方、申し込みに躊躇される方が多かったみたいですね。
なので、今回から住所と電話番号の記入を省略しまして、お名前とメールアドレス、そしてクレジットカード情報、この3点だけでサポーターにお申し込みいただけるように変更をしました。月額500円、1000円、2000円と3つのプランをご用意しております。それぞれのご都合に合わせてご支援をいただければありがたいです。
このポッドキャストの概要欄にサポーターの申し込みのページのリンクを貼っておりますので、そちらの方からお申し込みをよろしくお願いします。では、また来週お会いしましょう。