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2025-09-06 19:25

【仏教創業編#7】何が人々を仏教に惹きつけたのか。サーリプッタとモッガラーナの加入

▼今回の内容


今回は、のちに二大弟子となるサーリプッタ尊者とモッガラーナ尊者が仏教サンガに加入した物語です。何が彼らを仏教に惹きつけたのかをお話ししています。


アフタートークでは、「こだわりや執着を捨てた先にあるのは何でしょうか」というリスナーの方より寄せられた質問に回答しています。


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サマリー

このエピソードでは、ブッダの弟子となるサーリプッタとモッカラーナの加入について説明されています。特に、サーリプッタの心の変化やブッダとの出会い、そして彼らが仏教の中で重要な役割を果たすようになる過程が詳しく述べられています。また、サーリプッタとモッカラーナの加入が仏教の組織形成に与えた影響についても考察されており、ブッダの仲間を得ることの重要性や、環境の影響が語られ、良い組織作りの大切さが伝えられています。

仏教の成り立ちと弟子の加入
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、仏教初心者の方に向けてインスタグラムのフォロワー3万人超えの総量、私、かんどう和尚がメタ的な視点から仏教を解説するプログラムとなっております。
皆さん、こんにちは。これまで仏教参加、組織が形成されていく様子をお話ししてきましたが、今回でそのシリーズは最後となります。
前回は、ブッダがビンビサーラ王と再会して、祝輪精舎、これが仏教初めてのお寺ですね。これを寄信された場面、そしてビンビサーラ王と息子の確立から生じた事件についてお話をしました。
今、雷がすごく鳴っていて、もしかしたらこの収録中も音が入るかもしれないんですけど、ちょっとご容赦いただければと思います。
私ね、荒法のおじさんですけど、雷苦手なんですよ。昔は怖くなかったんですけど、ここ10年ぐらいかな、雷近くないですか?音が。
前はこんなに怖い音はしなかったというかね、最近すごく近くで落ちたりとか、怖いんですね。ビクビクしながらの収録になりますけれどもね、なるべくその様子は見せないようにしたいと思いますので、お聞きいただければと思います。
今回は前回の続きですね。ブッダがラーチャガハ、これがマガダ国という国の首都ですね。ここで竹林少女を寄信された頃、ブッダの最初の弟子の一人、5人のビクがおりましたね。
その中の一人がアッサジという人がいるんですけれども、このアッサジさんが同じラーチャガハで宅配をしておりました。食事の余り物をもらおうと。
イエイヨー。ちょっと雷鳴になりましたね。イエイヨーを巡っておりまして、それをウバティッサという名前の一人の異教徒が見かけます。これ仏教じゃない別の宗教家ですね。
彼はサンジャヤという、ブッダと同時代に6人有名な仏教徒以外の宗教家がいたと言われているんですけど、この6人の中の一人がサンジャヤです。このサンジャヤの弟子だったと言われているんですね、ウバティッサは。
その時のアッサジの卓発姿っていうのがすごく美しかったらしいんです。折り目正しかった。どう美しかったかというと、地面に目を向けて注意深く卓発して歩いてたって言うんですね。この時代の宗教家って地面に目を向けるっていうのが一つの正しいやり方だったらしいんですね。
なんで地面に目を向けるかというと、地面には虫とか小さな生き物が張ってますよね。これを見ないで歩いたらですね、踏み潰して殺してしまうことになるんですね。だからそういうものを踏み潰さないように注意深く地面を観察しながら歩いている。これがその時代の立派な宗教家の姿だったって言われています。だからブッダもそういうふうに歩いてたっていうのが仏典を見るとですね、よく書いてありますね。
そのような卓発の姿を見たウパティッサはですね、心の中で、「この人はアラカンなんじゃないの?」って。アラカンっていうのは仏教の中で一番悟りの最高峰にいる人ですね。煩悩が全部なくなっている人をアラカンって言うんです。
この人の師匠は誰なんやろうか。どんな教えを説いてるんやろうか。よし聞いてみようって思うんですね。でも思ったんですけど、「いやちょっと待てよ。」と。今卓発をこの方はされている最中だから、今話聞きに行ったら迷惑になってしまうなと。だからちょっと彼の後を追ってタイミングを見計らってから質問してみようって考え直すんです。
このあたりはすごく大事なところだと思うんですね。人に何かを尋ねよう、教えてもらおうってする時に、自分の思いとか都合だけで突っ走ったらダメですよね。相手の状況をちゃんと見て、気持ちよく教えてもらえる状況を作るってこと大事だと思うんですよ。
その部分を考えた時に、ウパティスタさんのこの振る舞い、ちゃんと考えて、今じゃないと、後だと思ったほど、こういうのはすごく勉強になりますよね。そんな風にしてアスタジイ僧侶のタイミングを見計らって、ウパティスタさんは師匠について尋ねたところ、ブッダが師匠なんだってことを教えてもらうんですね。
ブッダって聞いたことあるなと、前から気になってたって思うんですね。さらにですね、ブッダはどういう教えを説いておられるんですかって質問をするんですね。
そしたらアスタジイ僧侶は、「いや、私ちょっと出家してまだ日が浅いから、なんか変なこと言って誤解させたら困る。私まだブッダの師を完璧に習得してないかもしれない。だから下手なこと言えないんです。」って断るんですけど、ウパティスタさんは、「いや、そんなこと言わずに教えてくださいよ。」って、このやりとりを何回か繰り返して。
そしてアスタジイ僧侶も、「そこまで言うんだったら、じゃあブッダがよく唱えておられる下師ですね。これがあるので、これを教えて差し上げましょう。」って言って教えてもらうんです。それが次のものになります。
諸々の事物は原因より生じ、如来はそれらの原因を説かれた。また、それらの死滅なるものもと。
これ何を言っているかというと、縁起、死傷体を死にするとこんな風になるんです。苦しみには原因があって、それは葛藍、煩悩ですよと。その煩悩は仏道修行によって消滅させることができますよと。これを縮めたらこういう風な死になる。
この教えを聞いて、ウバティッサさんはいきなり悟りの最初の段階、夜に入るんです。
元々ウバティッサさんは素養があられるんですよ。既に三者屋という宗教家のところでずっと勉強もしてますし、しかも彼はバラモンの出身なんですね。だから幼い時から勉強をしてきている人なんです。
だからいきなりこの教えを聞いただけで、パッと悟りの最初の段階に入っていくことができたんですね。
サーリプッタとモッカラーナの特徴
そしてこのウバティッサさんはですね、これは素晴らしいと、私もぜひ仏教徒になりたいと言って仏教徒に転向をするんです。
仏陀の弟子になるんですね。この人は仏陀の弟子になったら名前が変わります。何と呼ばれるようになったか。サーリプッタと呼ばれるようになったんですよ。
これサンスクリット語だとシャーリープトラですね。まだピンとこない方おられるかもしれません。これ漢訳、漢字に翻訳されるとシャリホツとかシャリシって呼ばれるようになります。
有名ですね。般若心経に出てきます。仏陀の一番弟子にこの後なられる方なんですよ。
このサーリープッタっていうのは息子っていう子供っていう意味なんです。サーリーは何かというと女性の名前です。だからサーリープッタっていうのはサーリーという女性の息子っていう意味なんですね。
あだ名みたいなものっていうふうに言えるかなと思うんですけど、こういう名付けって結構多いんですよ。だからなんちゃらプッタっていう人たくさん出てきますけれどもね。
仏教徒になった時にウパティッサっていう呼び方からサーリープッタっていうふうに呼び名が変わっているんですね。これを見ると現代の開明の走りっていうふうに捉えることもできるかなって思ったりします。
このサーリープッタ尊者はですね、もうサーリープッタと呼びますね。名前変わってますんでね。
このサーリープッタ尊者にはモッカラーナっていう幼い頃からの親友がおりまして、このモッカラーナさんは漢訳するとモクレン尊者って呼ばれるようになります。
お盆の由来になったお経の主役、主人公はこのモクレン尊者ですね。
この2人が仏陀の弟子となって、後に仏陀の2大弟子になります。双壁ですね。
なお、この2人が仏教徒になった時に、もともといた宗教の師匠である三者や、どうなったかっていうと、血を吐いて倒れたっていうんですね。
このね、血を吐いて倒れるっていう描写はね、インドの古典ではあるあるなんです。
ショックなことがあると、みんな血を吐いて倒れます。
そういう文化背景なんですかね。
せっかくなので、このサーリープッタ尊者とモッカラーナ尊者の人となりについて少しご紹介したいんですけど、
まずサーリープッタ尊者からですね、この方は仏陀の後継者と目された方です。
仏陀もそういうふうに言われてました。
しばしばですね、仏陀の代わりにお説法を任されるってこともあったぐらいなんです。
ただ残念なことに、仏陀より早く亡くなってしまって、このことには仏陀もですね、大いに落胆をされました。
このサーリープッタ尊者、すごく人が良かったんですよ。
これ伝えられるところによりますと、このサーリープッタ尊者は卓発に行くっていう時も、みんながバーッて行きますね。
そしたらみんなと一緒に行かないんですよ。最後まで残るんです。
そして何をするかというと、このお寺の中を点検してみて回って、掃除がちょっとこれされてないなって場所は掃除をして、
ちょっと椅子とか寝具が汚いなと思ったら、それを整頓して、そして病人のところに行って、
彼らにですね、あなた大丈夫ですか?って、具合悪くないですか?元気ですか?って言って、元気づけて、
何か必要なものがあったら言ってください、何でも用意しますよって言って用意してあげて、
そして旅に出る時もですね、このサーリープッタ尊者は自他ともに認める一番弟子なんです、ブッダの。
誰が見てもサーリープッタ尊者こそがブッダの一番弟子っていうのは型なんですよ。
でも自分、俺がブッダの一番弟子だと絶対言われなかったそうなんです。
身分を隠してってわけじゃないですけれども、本当に尊敬される人なんですけれども、
そういうのは一切見せなくて、お年寄りがいたらお年寄りに優しくしてあげて、
病人がいたら病人に薬を塗ってあげたりとか、そういうふうにしながら生涯を送ったって言われてるんです。
その結果、そんなことがあることも多々あられたそうで、ある時はですね、夜遅くに、
本当にいろんな人の世話してるから遅くなっちゃうんです、どうしても。
夜遅くにお寺に到着して、ちょっと座る場所、寝る場所を得られない時もあったらしいんですね。
それを後からブッダが知りまして、サーリープッタはすごく初期の頃の弟子でもありますから、
このサーリープッタ尊者が隅っこで寝てるとか、また野外で辛い思いして寝てるとか、それダメだろう。
だから、床に着く場所っていうところ、寝る場所とか座る場所っていうのは出家した順番にしなさいと、それでいい場所を与えなさいと。
そうすると自動的にサーリープッタ尊者、上の方が与えられますからね。
そういうふうに規定するほど、ブッダが気を使うほどの人だったんです。
あとね、アーナンダ尊者って言って、これはブッダの付き人をずっとされた方で、これもいずれご紹介したいんですけれども、
この方とすごく仲良しだったんですね。
アーナンダ尊者の方が年は下だったんですけれども、お互いすごく人が良かったので、
サーリープッタとモッガラーナの関係
サーリープッタ尊者が何か良いものをお伏せしてもらうと、
これアーナンダ尊者にあげると喜ぶなって言って、アーナンダ尊者にプレゼントする。
そして反対に、アーナンダ尊者も何か良いものを信者さんからお伏せしてもらうと、
これはぜひサーリープッタ尊者に使ってもらいたいと思って、サーリープッタ尊者にプレゼントする。
こういう関係性だったと言われています。いいですよね。
こういうところがお経の中にもちょこちょこ出てくるんですけど、
読んでいると胸が温かくなりほっこりする、そういう場面なんですね。
一方、サーリープッタ尊者の親友であったモカラーナ尊者ですね。
この方は典型的なインドの宗教家っていう感じなんです。
何が典型的かというと、超能力がバンバン使えたって言われてるんですね。
空を飛んだりとか、普通の人では聞こえないようなものが聞こえてくるとかですね。
そういうふうな超能力、これはもうザ・インドっていう感じですね。
だから仏典を読んでも、そういうふうな描かれ方がされています。
ただ、サーリープッタ尊者と装壁と言われてるんですけども、
サーリープッタ尊者に比べると、仏典での登場の仕方、登場頻度がそこまで多くないんですね。
あと、最後がすごく残念な亡くなり方をされていまして、
最後は多宗教の人々の恨みを買ってしまって、撲殺をされたというふうに言われています。
だから、そういう残念な最後を迎えた方ではあるんですけれども、
ただ、今日まで名前を残すような素晴らしいお坊さんであったというふうに言われているんですね。
こういうふうに、得難い人材を得ることによって、仏教の組織、サンガの骨格が出来上がることになりました。
仏教の組織形成
このようにして、組織が形成されていく過程というものが国名に残されている。
これはね、やっぱり意味があることなんですよ。
仏陀が組織の運営に力を注いだということが、ここから伺うことができるんですね。
なんで、そういう組織の形成運営に、そこまでの力を注いだのかというと、
これ、別の箇所でも言われていることなんですけど、仏陀は良い仲間に囲まれるということ、
これは修行を終えたに等しいというふうに言われているんです。
人間というものは環境に左右されるんだということを、仏陀は実感されておられたんです。
だから、良い環境を作ること、良い組織を作ること、これを大事にされて、
そして、その組織の分裂を加わらせたではだったは、悪人にされてしまうんですね。
今回はですね、この仏教の組織が出来上がっていく話から、
私たちも良い環境を作っていくこの大切さ、これを十分に知ることができたように思います。
次のシリーズにおいては、仏陀の晩年をお伝えしたいと思います。
その晩年の仏陀の姿から、どのようにおいて、そして人生を終えていくのか、
この部分がすごく学びになると思いますので、楽しみにしていただければなと思います。
ここからはアフタートークです。
今回もリスナーの皆さんからご質問をいただきましたので、お答えしたいと思います。
今回いただいたご質問は、ラジオネームたびまるさんからいただいたご質問です。
こだわりや執着を捨てた先にあるのは何でしょうか?
はい、ありがとうございます。
仏教が目指す姿がどういうものであるのかということですね。
こだわりや執着を捨てるということ、これは何にも関心を寄せない、無機質な存在になるという印象、
多分こういうものを与えてしまっているんじゃないかなと思うんですね。
ただ仏天から感じられる仏陀の姿ってそういうものじゃないんですよ。
そんな冷淡な感じじゃなくて、ちゃんと喜ばれたりとか、また誰かを叱ったりもされておられるんですね。
でも私たちとは決定的に違うところがあります。
それはエコヒーギーをしていないというところなんですね。
万人に平等に接されるんです。
皆さんはスコトーマという言葉をご存知です。
これはもともと威嚇用語だったらしいんですけど、今ではですね、心理的な盲点のことを比喩的に言います。
私たちには自分にとって興味がないものは視界に入ってても認識できなかったりするんですね。
例えば、鼻に興味のない人は視界に鼻が入ってもそれを認識しなかったりしますよね。
逆の現象では、ペットを飼ったら、街を歩くとやたらペットが多いことに気がついたり、
家を飼おうと思ったら、いろんな家に目が行くようになる。
それまでどれも視界に入ってたはずなんです。
でも認識してなかったんです。
これがスコトーマ、心理的盲点です。
ブッダはこれがないということなんです。
全部をフラットに見られる、認知することができる、いずれも認識ができているということなんです。
私たちは自身の愚かさに基づいて、好き嫌いで周囲と接しています。
当然、自分の好ましい存在にはエコヒーキして、堅入れして接していますし、
反対に好ましくない相手には逆の対応をします。
端的に言うと、自分の欲望とか怒りといった感情で他人に接しているということなんです。
だからこだわりとか執着を離れると、そういうものにとらわれずに、
フラットに他人に接したり、物事を眺められるようになるということなんですね。
これがご質問いただいた、こだわりとか執着を伏せた先にあるものなんですね。
今回はこういうところですね。
引き続き番組についてのご質問を受け付けておりますので、
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ではまた次回お会いしましょう。
19:25

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