仏教の基礎教え
かんどう和尚のはじめての仏教。この番組は、仏教初心者の方に向けて、インスタグラムのフォロワー3万人超えの総量、私、かんどう和尚がメタ的な視点から仏教を解説するプログラムとなっております。
みなさん、こんにちは。今日は1話完結の法話回です。この仏教においては、一つ土台となる教えがありまして、これを演技というふうに言います。
演技というのは、様々なこの世の事象、物事というのは、いろんな原因が不合的に絡まりあった末に生じてくるものだよという教えです。
これを縁によって起こる、生じるということで演技というふうに言うんですね。
ここで演技の教えが土台となって、その上に3つの柱が立っています。その一つが移り変わるということ、諸行無常の無常ですね。常なるものはありませんよと。
そして2つ目が、この世は苦しみであるということ。この苦しみというのは、楽と苦とかね、そういうふうに苦楽というふうに言いますけど、そういう相対的なものではなくて、もっと根っこにあるものというふうに言われています。
例えば、苦しみの中には一つ有名なものとして、愛別離婚と言いまして、愛する者との別離というものが入っています。
この愛する者との別離というのは、この苦しみというのは誰もが経験をするんですけど、すごくつらいですよね、大事な人との別れというのは。
この別れ、私別のことを言うんですけれども、それが生じたときに、たとえ楽というものを経験しても、全然癒されない状況になりますよね。
楽というと温泉に入って心地よさを感じたりとか、おいしいものを食べたりとか、そういうものがあげられますけれども、
やっぱりこの別離を経験すると、その悲しみは、たとえ温泉に行ったり旅行行ったりとか、おいしいものを食べても、やっぱりそれは改善されないんですね。
だから、このブッダが言われている苦というのは、苦楽と相対的なものじゃなくて、もっと次元の深いもの、真相にあるものなんですね。
そういうことをブッダは、この世は苦であるというふうに表現されています。
そして三つ目になるもの、これが私がこれまでお話ししたことがなかったものでして、これは無我というふうに言われます。
子供の頃の死への恐怖
無我というのは我がない。
この我ってどういうことを指すのかということでよく誤解をされるんですけれども、これはインド哲学においては、この我というのはアートマンというふうに呼ばれます。
私たちのどこかに何か変わらない自分の中心となるような、核となるようなものが存在しているというふうな考え方がインドではあるんですね。
それを否定する形でブッダは、いやそういうものはありませんよというふうに言われたんです。
これを今回はお話をしたいんですね。
ではまず最初にですね、もう恒例となりました。法案の時には三経文という、これはブッダと、そしてこのブッダが説かれた教えと、そしてそれを守っていく仲間たちに対して信頼を表す文章、文庫になっています。
これは最初にお唱えしたいと思います。
あさってね、お話に入っていきたいんですけれども、皆さん子供の頃の記憶って残ってます?
人によってはね、結構細かく覚えておられる方もいらっしゃいますけれども、私ね、全然残ってないんですよ、子供の頃の記憶。
だから、学校で子供の時何を習ったとか、よくあるじゃないですか、国語の時にどんな話を勉強したとかね、あれでみんながね、ああ懐かしいなとか言いますよね。私ね、全然覚えてないんですよ。
あまりにも覚えてないので、周囲から地球人じゃないんじゃないかみたいなこと言われたりするぐらい覚えてない。
ほんと異世界から転生してきたぐらいね、覚えてないんですけれども。
でもね、その中でも数少ない子供の時の記憶の中でも、すごく強烈に覚えていることが一つだけありまして、これがですね、子供の時に私死ぬっていうことがすごく怖かったんですよ。
これだけはね、鮮明に覚えてます。
一回怖いと思ったとかじゃなくて、ずっと怖かったんです。
その怖くなるタイミングっていうのがやっぱりあって、夜寝る時だったんですね。
夜寝ようと思って、すっと寝れたらいいんですけど、私基本的に寝つきが悪い子供だったんですよ。
だから布団の中に入ってもなかなか眠れたかったんですね。
眠れないと考え事するじゃないですか。
その考え事の中で、死んだらどうなるんだろうかってことが頻繁に浮かんでくるんですね。
もうそれ考えると、怖くて怖くてたまらなくなってですね。
今となって思えば、何がそんなに怖かったのかって思うと、
私という意識がなくなるっていうこと、これがすごく怖かったんですよ。
だから、たとえ肉体ってものが滅んだとしても、この意識さえ残っていれば、私はOKだったんですね。
やっぱり子供ですから、こういう不安を解消したいと思うじゃないですか。
なんとかして、この恐怖をなくしたい。
その時に真っ先に縋るのは親だと思うんですけど、
当時、父に私聞いたことがあるんですよ。死んだらどうなるとって。
その時に、私の期待としてはですね、お星様になるとか、
何らかの形で自分という意識が残るっていうものだったら、私はOKで安心できたんですね。
だから、そういう答えを期待してたんですけど、
当時、父が言ったのがこう言ったんですね。
死んだら、無になるよって言ったんですね。
父はお坊さんじゃないんですよ。一般のサラリーマンでしてね。
私は一般家庭で育ったんです。お寺の周り育ちじゃないんですけれども。
だから、全然仏教的な思想では父はなかったんですけど、
一番考えうる限り、一番私にとって望ましくない答えだったんですね。
え?って。無になるの?って。
何とか意識があればって思ってたのに、無になるって言われてしまったので、
愕然とした記憶があるんですけれどもね。
全く解決しないまま大人になっていったんですけれども。
今となって思えばですね、私が恐怖した私という意識が無くなるっていうこと、
ブッダと哲学者たちの考え
これはフランスの哲学者にデカルトっていう方がおられますけど、
デカルトが言った、我思うがゆえに我ありって有名ですよね。
この、我が無くなってしまうっていうことに私は恐怖したんですね。
デカルトが言ってるのは、この世には様々なものがあって、
でもそれが本当に存在しているかはちょっと分からないと、不確かであると。
でも少なくともこの世に考えている我、私という意識はあるよねって言ったんです。
だからこの我っていうのは意識のことですね。私という意識。
これはあるよねって言ったんですね。
私はこれが無くなってしまうことが怖かったんです。
私たちは私っていう自我意識がありますよね。
生まれてから死ぬまで変わらない、自分のコアになる、中心になるようなもの、
こういうものがあるんだとイメージを持たれている方、非常に多いんじゃないかって思うんです。
例えばアボカドみたいなものですね。
アボカドって中に硬い芯になる種が入ってますよね。
こういうイメージで自分というものを捉えている方はすごく多いと思うんですよ。
自分というものの中に何か変わらない、普遍的なものがあるんだって考えること。
でも別の哲学者がですね、それは勘違いじゃないかって指摘してるんですね。
これを言ったのがイギリスの哲学者のヒュームっていう人です。
彼は人っていうものは見たり聞いたりする。
これを知覚って言いますね。知りに覚えると書いて知覚。
この人はこの知覚の集まり、連続に過ぎないんだって言ったんですね。
私たちは様々なものを見たり聞いたりと知覚をするんだけれども、
その知覚の裏側に私という自我意識を感じますよね。
私が見ている、私が聞いているって自然に思ってますね。
でもヒュームはそれは違うって言ってるんです。
事実としては見る、聞くっていう働きがあるだけなんだって言ってるんです。
その裏側に何か変わらない、私みたいなもの、私という意識、デカレットが言った我ですね。
これはありませんよって言ってるんですね。
これを例えるのであれば、玉ねぎみたいなものだと思うんですよ。
玉ねぎって剥いても剥いても芯がないですよね。
重層的にずっと包まれているだけで、その中身はないですよね。
こういう意識なんですよ、ヒュームが言っていることは。
ここからが本題というか、今日言いたいことなんですけど、
ブッダはどう考えたのかっていうところですね。
これどちらだと思われます?
はい、さっしの言い方はわかりですかね。
これヒュームの方の考え方なんですね。
人っていうのは肉体と様々な心の働き、こういうものが複雑に織り重なっている、そういう集合体なんですよと。
その中で私っていう意識が仮に作り出されている、仮想されているに過ぎないんだって考えられるんですね。
自我意識の正体
だから、この知覚することとか考えることとか、それも心の働き、機能なんですよ。
それが私なわけじゃないですよ。
そういうものが様々な働きが絡み合うことで、私っていう意識が仮想されているんですよと。
これね、ちょっとショックを受ける方はおられるかもしれないんですけど、
実は現代の脳研究でも自我意識を担当する部分って見つかってないんですよ、わかってないんです。
おそらく、いろんな複数の部位が連携をすることで、自我意識を作り出しているって考えられてるんですね。
だから、これ仮想されてるって言っていいと思うんですけど、
このブッダとかヒュームが私っていう意識は仮想されたものだって見抜いたのはね、これやっぱりすごい特権だと思いますよ。
人が自我意識を想定するのは、その方が生物として生存に有利に働くからだろうって考えられてるんですけど、
これ重大な弊害があるってことも同時に指摘されてます。
その弊害について、これはね、ブッダも自覚されててですね。
例えば、私っていう思いが強いと、自分の意に沿わない出来事が許せなくなるんですね。
これ俗に言う、我が強いっていう状態になるんですね。
あとはね、私中心に世界を眺めるとバイアスがかかりますね。偏っていきますよね。
だから、世界を正しく認識するってことができなくなるんです。
その結果、世界のありようと自分の認識にギャップが生じてしまう。これがすごく苦しいんですね。
こういう弊害っていうものを仏教は指摘をしています。
中でも最も大きい弊害っていうのが、自分が死によって消滅するっていうことで生じる弊害なんですね。
これ具体的にお経の中で挙げられてるんですけど、山賀経っていうお経が初期経典、古いお経の中に入っててですね、そこの中でこんな指摘がされてるんですね。
ある資産家のところに、彼の財産を狙う悪人が現れます。
悪人は自分の正体を隠して、資産家の召使いになって、彼のために買い替えしく働きます。
その様子に、こいつは信用できるなと思って、資産家は悪人をすっかりと信用してたんですけど、悪人は自分が信頼を得て、資産家が安心して無防備になってるって知ると、彼を襲ってその命を奪いました。
この話は、私だと思って信用してたものが、最後には消滅してしまうっていうことを比喩的に表したものだって言われてます。
主人っていうのは、これは私たちですよね。
そして、悪人っていうのは、これは自我意識ですね。
私という強い意識ですね。
それによってね、自我意識によって支えられることとかも人生にはあるのかなと思ったりもするんですけど、でも最終的にはやっぱりこれによって痛い目に遭うんですね。
なんでかっていうと、この自我意識が消滅をするからですね。
このよく、我が強いって言うじゃないですか。
我が強いと、やっぱりその分、自分が死ぬことの恐怖って大きくなると思うんですよね。
だから、これが悪人って言われるように、自分を苦しめるものになってしまうんですね。
人間以外の生物っていうのは、私っていう意識がないって言われてて、生命が脅かされることへの危機感はあるんですけど、人間のように私という意識が消滅するっていうことへの恐怖はないんですね。
これ自我意識がないからですね。
でも、私たち人間はそうはいかない。私っていう意識がはっきりある。
だから、ブッダが再三言われたように、これをちゃんと私というものが仮想されたものだって分からないといけませんよ。
私という意識は、いろんな心の働きとか肉体とか、そういうものが絡み合った末に作り出された、仮想されたものなんですよ。
本当は、そういう働きであったり作用であったりとか、またそのプロセス、これがただあるだけなんですよと。
これを誤認してますよと、皆さん。
だから、この誤認しない、ちゃんとそれを理解する。
自分が間違っていることを分かって、ただプロセス、働きがあるだけなんだということを理解して、それを腹落ちしていくこと。
これによって、私たちは自分が消滅する、私という意識が消滅するという恐怖を和らげ、克服することができるんですよと。
恐怖の克服
私は、これが仏教を学ぶで一番大きなメリット、利点じゃないかなというふうに思っているんですね。
実際に私自身も子供の時にはあれだけ怖かった、私という意識の消滅というものが、今は怖くないんですよ。
実際に亡くなるという間際になったらまた気持ちが変わるかもしれないんですけれども、少なくとも夜、眠れないなんてことは全くなくなったんですね。
今回も最後までご視聴いただきありがとうございました。
次回からは新シリーズですね。
ブッダの最後、ブッダが亡くなる場面についてお話をしていきたいと思います。
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ではまた次回お会いしましょう。