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2025-07-01 21:52

李禹煥『両義の表現』#3 ~言葉では届かないこと、身体でひらくこと

 「世界との通信の仕方を磨くって、どういうことだろう?」 そんな問いが、コンサルの現場や読書体験を越えて、だんだんと身体の感覚にまでにじんでいきます。

『両儀の表現』をめぐる読書会、最終回。 今回は、言葉の限界と他力の気配、呼吸や空間との関係、そして「ただ在る」ということについて語り合いました。

言葉は便利で、鋭くて、でもときに他者を“モノ”化してしまう。 だからこそ、「言葉は承認しかできない」という問いは刺さります。 でも、そこで終わらずに、ふたりは言葉を使いながら、言葉を越えるもの—— 身体のアンテナ、気づきの感度、静かな関係性の成立について考え続けます。

会議で時計回りに歩くワークショップから、コルビュジエ建築における光と風、 そして「ただ居ること」の可能性まで。 李禹煥の作品世界と、わたしたちの日常が、またしてもふとした瞬間に重なり合う読書会です。

サマリー

今回のエピソードでは、言葉の承認の役割やその限界について考察されています。特に、言葉を通じたコミュニケーションが他者理解に不可欠である一方、アート作品や身体感覚を通じた理解も重要であると語られています。出席者たちは、身体の動きと共同作業が思考やコミュニケーションに与える影響について議論します。コルビジェの建築における空間と身体の関わりについて深い洞察を得て、言語以外の方法での理解の重要性が強調されています。

コンサルタントとしての成長
さっきの仕事っぽい話だと、私は、李禹さんと言ってることは違うかもしれないけど、ちょっと思ってたのは、よく言うコンサルタントとしての成長みたいなことを考えた時にさ、
マーケットの知識にすごい詳しくなるとか、特定の領域でめちゃくちゃ経験を積むっていうことがあると思うのよ。
俺、そういうコンサルタントになりたいと思ったこともないし、そういう人がかっこいいなと思ったこともないなと思う。
だから、自分を限定して磨くっていう時に、よし、とにかくたくさん経験を積みましょうとか、たくさん知識をつけましょうとか、他人が知らない最先端の情報を集めましょうみたいなのって、
あえてそういう言葉を使うと、クソだせえなみたいなことを思うわけ。
そうじゃない、なんとなくたぶん、李禹さんが言葉にするのを難しいなと思ってるような、磨き方と強さを持ってすると、すごくいいコンサルティングワークができるんじゃないかっていうのは、本を読み終えて改めて思ったことなんだけど、
それは何を磨いているんだろうと言われると、それめっちゃ難しいなとも思うよね。
スピってないんだけど、世界との通信の仕方を磨いてるんだと思っている。
スピらずにその話すんの、なかなか難しいね。
それは他者を世界観ごと理解しようとするような営みとか、そういうところから磨くこともできると思ってるんだけど、表現するとスピリチュアルワードとすごい近似してしまって、難しいなって。
まっすぐに考えていくとそうだなと思うと、そこそこ金稼いだベンチャーの社長とか、何ならスティーブ・ジョブスとか、ああいう人がはたかも目から見てスピってくるのもしょうがない気がするよね。
逆に前澤社長がスピンないのすごいよね。
そうだね。まだ金の話できるのすごいよね。
あんなにアート作品を買って、そのアートのパワーを浴びても、金の話しかできないのすごくない?
あれはすごい生き方だよね。真似できないなと思っちゃうけど。
今逆に前澤社長もやっぱり特別な人なのかと思ったわ。
いや、と思うよ。普通はアーはできないもん。強度として。3回目の登場になって恐縮だけど、村上春樹みたいなイメージがするもん。あんだけ文体擦られて、まだやめないんだよ、アーの感じの表現。
絶対あんだけいろいろ言われて、小説じゃなくて、それこそ彫刻作ろうとか、なりそうなもんなのに、まだ書くんだっていう気持ち。
言葉の承認とその限界
前澤派だよね。
そうだね。
他に何か民主党の心に残ったことがあれば。
読みながら他力の話とかしてるときに言ってたのが、結局言葉での表現って、言葉でのコミュニケーションでできることって承認しかないっていう、なんか言って。
いい強いスタンスだね。面白そう。
言ってて、でもそうかもって思っちゃったの。言葉ってわかりやすすぎて便利すぎて一番簡単じゃん。
だからそれでできることが結構確かに承認かもって思っちゃったんだよね。
だから便利なツールゆえに否定とかも簡単じゃん。
否定。
だから言葉でコミュニケーションを取ってるときに、
わかる、わからないっていう話でしかなくて、それでできてることっていうのが承認に閉じちゃうけど、
アート作品とか身体感覚とかを使った理解の方が、わかるとかわかんないとかってはっきり言えないじゃん。
言葉と比べて、言葉でわかるって言った瞬間それはもう言葉じゃん。
だからなんかその、そういう言葉みたいな、明確な意思基準みたいなものがないから、
とりあえず理解しようとしたっていうところで思われるから、
そっちの方が…っていう今ここまで話を聞いてどう思う?
なんか、一旦言葉が承認だっていうところから始めようとすると多分、
でも私に今、数年を伝えるためには言葉を使わせられないからすごい大変なんだろうなーっていう、
ふわっとした感想と…
究極の話だよ。究極を考えたらっていう。
言葉はとても便利であり、今ビジネス界に言葉をなくすことはできないし、私も対応してるし、
いろんな要素がはなんでるんだけど、究極やってることってが全部承認なんじゃないかって、
一つにまとめなきゃいけないとしたら。
この承認にもさ、いろんな承認があるじゃない?
やってOKみたいなことを含む承認もあれば、
みきさんの今の中で言うと、わかる、わからないみたいな言葉も出てきたけど、
承認ってのはどんなイメージでとれたらいい?
承認欲求を埋めてあげるということしかできないじゃないか。
あー、なるほどね。
だから欲望としての、言葉が叶えられる欲望も承認欲求だけなんじゃないか。
あー、なるほど。
面白いね。
特にコミュニケーションというか他者理解において、他者との関係性。
だから言葉があって、言葉を中心として人と人が向かい合っているとしたら、
その言葉の果たしての機能っていうのは承認だけなんじゃないかっていう。
へー。
で、みきさんが言っている、もうちょっと神体を使って深くっていうのは、
承認じゃなく何をすることになるの?
身体感覚と共存
ただの理解というか。
ただ共存存在というか、ただそこにいるということを許すというか。
言葉を承認しないとそこにいられないというか、ものにしてしまうというか、他者を。
あー、そのあれだね。
承認というところを一回脇に置いて、今みきさんが最後に言った、
言葉を使うと他人をものにしてしまうっていうのは、すごくそう感じるシーンがたくさんあるかも。
うんうんうん。あ、そういうことかもそう。
うん。その、なんていうんだろうな。
言葉っていうのを使うと、あなたは私とは違う他人ですよねっていうことを、すごい強調するツールとして、言葉って機能するようなのはすごく思う。
だから、何だろう、それを常に言葉が存在した瞬間に、他人と私、あなたと私っていうのが話をしているっていう状態に必ずなるから、
言葉が存在する空間だと、その欲求というか、その承認欲求みたいな難しい人間関係に伴う欲求っていうことを、完全に排除して考えられないようなのはめちゃくちゃそう思う。
それは試行実験で、人間と人間が間の言葉というものがあったまま、永遠に放置したらどうなるかみたいなことを考えたときに、やっぱりずっと一緒にいるみたいなことができなくて、承認されたという感覚だけが、それを二人を一緒にいることができるようにさせるみたいな、
承認しました、はい終わりみたいな、表面的な承認で終わってしまう可能性が高いのでは?みたいなことをシミュレーションしてて、だけど人と人があって、作品があるとか、言葉がなくただ一緒にいるみたいなことの方が、言葉があるときよりずっと一緒にいれる可能性が高いんじゃないかって。
なるほどね、たぶんみゆきさんが思っていることの2割ぐらいは、まず理解ができているような気がする。たぶんみゆきさんの奥、それに至る深い思考の海があると思うからさ、全部はわからんけど。
なんか何かの話の時に、昔は個人っていう概念がすごく希薄でしたっていうのを聞いたことがあって、その話の時にあったのは、名前っていうものが乱暴に付けられていると、お父さんの名前が継ぎますとかさ、
だから家族の中の個体とか社会の中の個体っていう風になってるから、別にそれは死のうとなんだろうと関係ないですみたいな。
大事なのは家族っていう集団とか社会です?みたいな話をしてたんだけど、みゆきさんの話を聞いて確かに書き言葉とか話し言葉みたいなものが発展していくと、その人が個として立ってくるじゃん。
そうなると、ここからはみゆきさんが言ってないことのような気がするけど、あなたと私って違うよねっていうことを前提にしないと話ができなくなるから、そうすると必ずそこにはずるいという感情が一定確率で出てくるし、承認欲求云々も出てくるんだろうなーっていうことは思うかもね。
だからギュッとまとめると、承認かどうかわからないけど言葉っていうものを使うことによって促進されてしまう人間関係の悪いところはめっちゃあると思う。その一つはみゆきさんが言う承認なのかもなと思うかな。
私はあなたと私は違うものですよねっていう確認をするんじゃなくて、あなたは私と同じなんですかっていう確認をするんじゃないかって思ってるんだよね。
そう。
てか言葉って最終的にも全部それをやってないっていう、あなたは私と同じなんですかっていうことを確認してないっていう、すごい丸めた。っていうときに違うといられないっていう。
へー。
あなたと同じなんですよねと言っている。
完全に一致するんですかっていい意味じゃないけど、私の理解可能性の中にいるんですかみたいな。
あー。
例えばあなたと私は同じですかってことだけじゃなくて、私が普通に考えるとこうなるんですけどあなたもそう思いますよねっていうようなことも含むってこと?
そうそうそうそう。
あーなるほどね。
あー。なるほどね。
で、違うと排除っていうか同じだったら承認しみたいな。なんかそれをやってるような。
で、伝言が本当に持つ気になる。本当にそれだけあなたと私は同じなんですかって確認して承認するっていうことだけなのかもって思ってたよりめっちゃできること少ないのかもみたいなことをちょっと思ったんだよね。
へー。
そう考えたことなかったけど興味深い資産ですね。
例えば旅先で全然言葉とか通じなくても2日くらい一緒にいれちゃう人とかいるじゃん。
いる。
なんかそういうような言い方?なんかただ集まってなんとなくフィーリングで一緒に楽しいみたいなことを人間の能力としては持ってるのに言葉っていうものがあった瞬間に多分2時間くらいしか一緒にいれなくなっちゃうみたいな。
おー。
そういうことない?
俺はないかも。
ないかも。
はいわかりました。はい終わりみたいになっちゃうっていう感じ。
へー。
あーはいはいわかったみたいになっちゃうというか。
あー。
今その自分の言葉の使い方を振り返ってるんだけど、俺も同じだっていうことを確認するために言ってんのかな。
なるほど。でもその言葉が通じちゃうとかなっちゃうことによって関係が難しくなるは確かにあるのかもね。
例えば議論が成立するっていうこととかは普通に自分と私は同じだってことを確認してるに私は分類する。
なるほどね。その意見が別に違おうと思うってこと?
うんうん。
分類を正確に理解したいけどなるほどね。そうかもね。
私もまだこれはコンセプト段階なんだけどなんかすごい言葉を信じすぎてたかもとか頭では言ったけど本当に信じすぎてたかもみたいなことを思ったんだよね。
なるほどね。そこはなんかそのドアの2枚奥ぐらいになんかすごい良い発見がありそうだよね。
時間をかけてノックしていくわ。
それはなんかそのドアはそのドアの向こう側には大事な何かが待っている気がする。
多分そういう探求をして発見した数学とか記号を使って偉い人たちとか賢い人たちは宇宙を探求してるわけだからね。
言葉じゃいけなさそうだなって。
そうなのかもね。
なんか私の話がめっちゃ迷っちゃったけど他なんか考えてたこととかある?
すげーしょぼいことから行くけど、私のこの3日ぐらい前に書いたメモでアホみたいなこと書いてるけど、
呼吸や体のリズムを整えるだけで物事がうまく進むことってあるよなーっての書いてて。
でも私もそれ散々言ってるじゃん。
言ってるね。
鍛えたほうがいいって。
身体とコミュニケーションの新たな方法
鍛えたほうがいいって最近仕事の会議とかでよくやるんだけどさ、
なんか煮詰まってるズームの会議とかオフサイトの会議でもやるんだけど、
なんか煮詰まってるときに全員で一緒に進行距離とかしばしょーってやることとかあるわけ。
こんなおっさんで。
なんかうまくいくよね。
鍛えるみたいなさ、ちょっと時間をかけてみたらもいいんだけど、
一瞬の土言語コミュニケーションの中でも一回なんか呼吸を整えるとか。
それこそ前回みきさんと話をしたけど、映画のシーンシーンかなんか見に行ったときにみんなで歩くシーンとかあるじゃない?
だから会議やるときにみんなでぐるぐる回りながら話しましょうよみたいな。
やると意外といい感じになったりするのよ。
本当にやったことある?回りながら会議。
あるある、全然ある。
普通に大きい会議室みたいなとこで、5人ぐらいで会議してるときに、
ちょっとみんなで今から時計回りに歩きながら話しましょうっつって。
時計回りに、何の話のときだったか忘れちゃったけど、
時計回りのときに、なんかのアイディア、提案かなんかかな。
なんかの対象のことを話をしてて。
時計回りに話してる間は、めっちゃいいことを言いましょうっつって。
その対象に対して。
で、もうできたなっていう人から、半時計回りに歩いてもらって、
その人は反対のことを考えてくださいっつって。
で、みんなが反対で歩き終わって、もう言い尽くしたなって思ったら座ってくださいっつって。
5分ぐらいだったよ、なんか。
えー、いいじゃん。
時計回りワークショップじゃん。
確かに、めっちゃ盛り上がったな。
だからそれってさ、結局反対に歩きながら反対のことを考えるって、
体とシンクロさせてんだよね、脳をね。
そう、モードがあるのと、何て言うんだろう。
周りの人から見ても、その人が何を考えてるかが可視化されるわけじゃん。
一応さ、本当は一方向で終わるはずだったけど、
つまり、時計回りに回ってて、一回反時計回りに回って座るっていうことだったんだけど、
反対回りで歩いてる最中に、もう一回いいことを思い出す人とかいるわけ。
その人、もう一回さ、時計回りに回り出すわけじゃない?
そうすると、周りの人が、あいつもう一回頭いい感じに動いてるな、みたいな感じになったりとかするからさ。
何て言うんだろうかな。
本人のモードもそうだし、他の人から見て、
その人の思考の状況というか、流れが可視化されるのがすごい面白かったよ。
なるほどね。今終わった。
大企業がゾクゾク収支をさせてるのって、会議室でぐるぐる歩かせるためかもしれない。
コルビジェの建築と感謝の関わり
絶対やってないと思うよ。
絶対あの人たちは歩いてないと思うけど、せっかく歩けるんだろうね。歩いた方がいいのにね。
あと何だろう。時間もあれだから最後の最後。
家・部屋・空間。コルビジェとの対話っていう。
約25ページくらいのやつを読んでて。
内容自体もすげえいいんだけどさ、このコルビジェの作品。
建物のコンセプトがめっちゃいいみたいな話もあるんだけど。
この中にさ、そういうものとの関わりこそが恵みであり感謝であるみたいな。
最後出てきてさ。
建物自体はすごい牢屋っぽい。
建物だけ単体で取り出すと別にオシャレでもなんでもないし。
なんて言うんだろう。札幌系なんだけど。
差し込む光とか、周りの空気との調和とか、風の巡り方とかがすごい心配りがされていてめっちゃ気持ちいいと。
そういう関わりこそが恵みであるっていうのが書かれててさ。
すごい言葉にするじゃないんだけど、いいなーって思ったっていう。
アホみたいな感想をその2。
思い切って1個だけ言うと、その関わりに対して気づけるってアンテナの1つじゃん。
コルビジェの建築です、札幌系ですってなった時にさ、想像できるのって2パターンいて。
コルビジェってこういう建築をやっていていいなっていう人もいれば、いや刑務所じゃんっつって。
建物だけ見るとコルビジェなばかりでちょいイマイチじゃんみたいな。
SNS論争がわかりやすく見えるんだけど。
薄い2次元情報とコルビジェ情報を処理してるだけでさ、光と影の感じとか空気の巡り方みたいなのってさ、
すごい体がいい感じに仕上がってないとその恵みを受け取ることができないわけじゃね。
世の中にある恵みってたくさんありそうだなーっていうワクワク感がいいなーかな。
私が体を鍛えた方がいいっていうのも、そういうことに気づける体に手として鋭いアンテナになっているべきっていう意味だったわ。
ニシさんが週何回も通っている重りのついていないバーを上げるスクワット。
最近ついてますから。
おっと、ついに成長。
最近ついてますから。
確かに体の仕上がってくるとそういうものを感じられるシーンは増えそうだよな。
私の今年のテーマは言語の優先度を下げる。なぜなら言語は承認しかしないからだなって思いました。
何回聞いても強いスタンスなんだよな。
なるほどね。
これを言いたいことをわかったわって言わせられるように言語化を頑張るっていうことですね。
直感を裏切るものではないでしょう。
直感的に否定できることはたくさん言語的にはありそうなんだけど、ある日突然お腹の底にストンとわかったっていう感覚が落ちてきそうだ日は来そうだ気はする。
ありがとうございます。お楽しみに。
お楽しみに。
はい。
腹の底第2章ね。
はい。
めっちゃいい本だったね。
いい本だった。
これを新卒の人に勧める会社は本当にいい会社だと思うよ。
今見たらミス・ドゥ・ショボーの裏にある本も面白そうだね。
ヨーデフ・ボイスの足形とか石を聞く。
ヒサムノグチの芸術と生涯。
本当だ。
本当だ。
時の震えっていうのもあるんだね。
出会いを求めて。
この余白の芸術、まだ私3分の2ぐらいしか覚えてないけど、これもめちゃくちゃいい本だよ。
茶色のダイアログの作品が表紙に載ってるやつだよね、余白の芸術って。
違う?
カバーを取っちゃってる。
そんなの載ってた気もする。
次の本はまだ考えてないから、急に考えてメモする。
教えてください、また。
今日はありがとうございました。
おいじゃあね。
あーいではでは。
21:52

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