富士の概念について
Nozomiさんのこの読書名簿に、この2年くらい、富士をテーマに考え事をしているんだけど、楽しい。富士とは?
富士って、二じゃないって書いて富士?
うん。
確か、テニスのおじさんは、あからかにそういう苗字の人いた気がするんだけど、富士っていうのがさ、何で見たか忘れちゃったんだけど、
よくあるさ、陰と陽みたいな、光と影みたいな、2つでまとめて、やっと1個の概念として存在をするっていうものってあります。
だから、富士って2じゃないって書いてあるんだけど、2つ分かれているように見えるけど、実はそれって1個のものとして存在をしていますっていうことだと、私はそこで、その概念に触れたときに説明がされてたのよ。
うんうん。
へーって思って、そりゃそうだなって思ってたんだけど、考えようと思ったのは、仕事の現場とかでさ、
例えば、とある主張とか表現をするときに、
なんとかはなんとかですっていうのじゃなくて、なんとかはこっちじゃなくてこっちですっていう表現をしないと意味がないなって思うシーンがすごくたくさんあったのよ、そのとき。
何を言ってるかというと、うまく仕事をするためには、顧客の要求に応えるのが大事ですっていう主張が仮にあったときにさ、もうそれって意味ないじゃん。
だから、なんとかではなくなんとかですって言ってくださいとか言うわけ。何も言ってないに等しいですよって言うんだけど伝わらないのよ、あんまり。
例えば、うまく事業をやろうと思ったら、投資家の意見よりも顧客の意見を重視すべきです。
だったらまだ一歩あると思うわけ。主張の意味が。
丸とそうじゃないものとか、なんとかじゃないものとセットで考えた方が、考えないととあるものって評価しえないよなって仕事のときに思うことがありましたと。
両義の表現っていう本の中にもいろんなところで出てくるんだけど、作品単体だけじゃなくてそれが置かれる環境をどう捉えるかとか、作る人だけじゃなくて見る人をどう捉えるかとか、
一方方向から何かを見るってことだけじゃない表現活動だったり、文章の書き方がすごくいろんなところに出てきて。
私も正直、両義とか富士とかまだ自分の中でどう取り扱っていいものかよくわかってないんだけど、同じ思考空間の中にあるなと思って読んでたかな。
表現の多義性とアート
両義の表現っていうタイトルがついている通り、本の中だと89ページから始まる。
事故の限定と進退のレンマによる制作っていうやつとかを読んでると、いろんなものが人間の欲望を化け物としていろいろ作られてるけど、
これって本当にそういうもんなんだっけっていう問い立てが出てきたり、その2コマ絵か何かに開かれる次元っていう。
ね、開かれる次元、私も好きだった。
ちょっとこの本の中では長めじゃない?この開かれる次元って。
すごくいいエッセル。
私は一応、富士っていう概念の取り扱いはビジネス上意味のある表現とは何かっていうことから考え出してそうかと思ってるんだけど。
りんゆうファンが言うところの、芸術中のをどう考えるかとか表現をどう考えるかっていうところも、
ベクトルが同じなのかハンドルの切り方が同じなのかわかんないけど。
本当に本当に多いエッセルでしたね。
ゆきさんはこの開かれる次元とかを見て何を思うの?
この開かれる次元で言ったら、一番最後の表現、
芸術を媒体として世界の共有と出会うとか、関係性の中に表現が生まれていくとか、
っていうところがとても共感しているし、ずっと私がライフワーク的にやっているプロジェクトもそういう部分があるから、
ほら、りんゆうファンも言ってるじゃんって思うっていうことで好きでした。
りんゆうファン文脈に自分が乗っかっていたというか、絡み合っていたというか、
それに気づく瞬間があったってことだね。
私も言語主張主義っていうか、自分が考えているものが世界のすべてっていうか、
だからいっぱい考える必要があるんだみたいなフェーズだった時代もあるから、
そこから抜けるっていうか、そうじゃなくて、
ただ自分のカードをそこに置いてみるみたいなことで得られる学びって超あるみたいなことをアートが教えてくれたと思ってるから、
まさにアーティスト側もそういうことを考えてアートを作ってますっていうことを言ってくれると、
ありがとうって思うから好きだなって思ったよね。
ひらくねる事件って私が付箋を張ってるのは、
一見考えさせるふりをしながら既に出来上がった意識や答えに引き込む仕掛けが、
最近のアートはほとんどにそれは良くないって言ってて、
一見考えさせるふりをしながら既に出来上がった意識や答えに引き込む仕掛けっていうのが、
仕事の中での表現
すごい上手い表現だなって思ったし、
ここ読んだ時に、私が今獲得したいスポンサーってさ、
それが出来ればもう良いわけなのになんで出来ないんだろうって思ったのよ。
その際に一見考えさせるふりをして、既に出来上がった意識や答えに、
引き込みが出来れば良いだけのことであって、
根本的な進退を開くとか、そういう話じゃないのに、
私はそれも出来てないんだって思って、
あーって思ったのよ。
リーフウーファーは別にそれが簡単だって言ってるわけじゃないからね。
それは同じくらい難しいんじゃない?
簡単だとは言ってないけど、
リーフウーファーはその先に行ってるというのに、
私はその手前すら出来てないよっていう。
なるほどね。
私、世の中でやってるビジネスとかって、
確かに一旦ネムマウジするとか、一旦ご機嫌取るとか、
テクニック的に一旦バカのふりをするみたいなことってあるじゃん?
それって考えさせるふりをしてるっていうだけだなって。
私が携わっているようなビジネスはね。
売上を立てるみたいなことで言うと、
相手には考えてもらわない方が楽だからね。
基本はね。
リーフウーファーがトランス状態にならないと作れないような作品が、
それとももうちょっと開かれた何かが出来上がるわけじゃん。
彼なりには。
そこまでのことをしなくても、出来上がる。
ほら、これ芸術ですよみたいな。
私、世界中でやってる芸術作品を作るときにね、
チートを持っていたのか、
本来のデザインをシーターで構成しようと思うと、
そこまでのことをしなくても、出来上がる。
ほら、これ芸術ですよみたいな。
私、世界中でやってる芸術家でして、
それは、もう僕が素晴らしい作品なんですって横に
パネルを置いとけばみんなが、
え〜、そうなんだ!
すごいねって言ってくれる物を作るのは簡単かもしれないね。
確かにね。
この開かれる次元を読んでてさ、私なんかミキサーよりたぶんよっぽどしょぼいことを考えてるんだけどさ
このコンサルを仕事をしてて、作る資料のタイプとして明確に得意なものと明確に苦手なものがあるんだけど
私すごく得意なのがさ、議論資料を作るのはすごい得意なの。
うんうん。
ディスカッションしましょう、つって。
素材はこれで、こういう見方がいくつかあって、こういう意見もあって、分かってないこともこんなこともあって、みたいな。
議論しましょうっていう時の題材資料とかを作るのが得意なんだけど、なんか報告資料とか提案資料を作るのを苦手っていうか嫌いなんですよ、なんか。
うーん、嫌いそうだよね。
簡単なのかな、簡単だと思うんだけど。
簡単でしょ、議論資料より報告資料の方が簡単でしょ、明らかに。
いやー。
100人が100人そういうと思うけどな。
提案資料とかもさ、その場でバイブスデー化してくれみたいな、相手はこういう質問があるかもしれないからQ&Aを後ろにつけてとかさ、そんなアホみたいなことをせずに当日30分一方勝負でバイブスできましょうとか思っちゃうのよ。
まあ良くないんだけど。
だから、むずい?
むずい?
仕事の現場ではこの…
自分に自信があるというか、自分の有弁な語りに自信があるというか、私はなんか資料とかの方が私の味方みたいな、資料はアベンジャーズの一人みたいに思ってる感じがします。
資料があると力が2倍になるみたいに思っちゃう。
議論資料みたいなものになった時って自分の存在を透明にできるじゃん。議論するのが目的であって、素材ですこの資料がいるんだけど、報告とか提案になるとさ、お前はどう思うんだみたいなことを求められる気がする。
ここに焦点が当たるじゃん。言っている俺に焦点が当たるじゃない。
それ、嫌だっていうか難しいんだけど。
究極だって、ちょっと変なこと言うけど、究極お客さんのこととかどうでもいいじゃん。
究極。
すごいミサイルのポカンとしたかもしれないけど、こっち側に焦点当てられましてもみたいな気持ちになるわけ。
報告とか提案をする時ってさ、資料っていうか、こいつ本体っていうかさ、田中臨君、君はどうですか?になるでしょ?
そうそう、だからその時に資料があると力が2倍じゃん。
いやー、そうですか。
俺が資料作り下手っていうだけなのかな?
私超文字の方が好きだから文字があると安心する。
自分の小脇に文字を携えている感じが?
携えているということがすごく安心する。
なるほどな。安心する資料とか長いこと作れたことないな。
その場の思考を促すみたいなことの方が普通に難しいし苦手だから。
他力の理解
資料だったらみんな読んでくれてるから、少し思考の助けになってるかもとか思ってしまう。
へー。
こっちは議論したいつもりで来てるのにさ、議論に持っていけない時の方が多いから、私は。
そういう時とかも資料を出してあげると安心するみたいな。
結構私そういう時、正解聞かれたら、「知らないっすね!」とか言っちゃうもんな。
リー・ウーファーも作品作ってて、「これってこういうことだよ!」って聞かれた時に、
あんまりよくわかんないっすねって答えてるみたいなエッセイ。
これだか余白の芸術かどっちかにあったんだけどさ。
レベルも全然違うしテーマも全然違うんだけど、
俺もこういうことやっちゃうみたいな。自分が書いた資料なんだけど。
読みたいように読んでいただければいいっすよみたいな。
好きにこういうもんなんで、あとも好きに考えていただければみたいな。
お得の方で考えてくださいとか言っちゃうなみたいな。
のどみさんのメモを読んでてさ、初めて結構意見が気づきとして
同じところに気づいてる。ほぼ初めてじゃね?みたいに思ったんだけど。
こんなに違う我々が?
私はこの本を読んでるのと、その時同時に最近考えてたことが、
最近たりきの話をしてた人とすることが多くて。
たりきって他の人の力っていう。
たりき、本番のたりき。
たりきをもっと活用した方がいいというか、
最近たりきがわかってきたみたいな話をしてて。
仕事とかって基本自分は頑張るんだけど、
無意識の力
自分が頑張ったり自分の成果になったりするんだけど、
それが本当に100%自分の力だけでできたかっていうと、
そうじゃないっていうか、いろんな人の力が勝手にやってきて、
それによって助けられながら仕事をするみたいなことってあるじゃん?
うん。
っていうことをたりきって私は言ってたんだけど、
それをのぞみさんはどっかでわかる気がするみたいな。
書いててどこだっけ。
意地を超えた自動的な力の作用。
昔なら非科学的だと知りどけていたけど、
今はなんとなくわかるところがあるって言ってて。
そうなんだよ。
私も昔は科学的だと知りどけていたけど、
今はなんとなくわかるところがあるだよって思って。
同じ感想じゃんって思ったのよ。
ついにこれだけああだこうだの解釈の喧嘩をしてきた2人が、
ついに同じ土俵に立てた気がすると。
やっぱり年近いと、人間ってこのペースくらいになったら
それわかってくるのかなみたいな。
っていうことなのかも。
みきさんが老いたってことになっちゃうから、
あんまりコメントがしづらいけども。
老いたでもいいけど、
経験としてね。
こんなに経験とか違くても、
一定の時間の蓄積経験があると、
そこにはたどり着けるんだって思って。
私の言うところのタニキとさ、
意志を超えた受動的な力の作用みたいなのは近い?
のとみさんと考えてたものとは近い?
近いと思う。
近いと思っていて、
一旦自分が思っていたことを丸と言うと、
明示的に自分が自覚できる条件×他の人間の力
自分が認識できているこの人の助けになってる。
例えば一緒に仕事をしているチームメンバーの人が
ありがたいみたいな話ってあるじゃない?
これの残りの3証言もある感じ?
全然自分の知らない他人も本当にありがたいよなって思うし、
認識している人間じゃないものもありがたいなみたいな。
パソコン中の発明してくれた人本当はありがとうみたいな。
誰か知らないけどありがとうございますっていう。
日々感じれてないことも含めてね。
水道管をまんじりメンテナンスしてくれてる人とか
いろんな人がいるんだけど。
それもだし、何なら何も分からない人間でもないかもしれないし、
何かも分からないけど、
多分私を助けてくれている何かへはありがとうみたいな。
全部含めてこういうのってあるなーって思ったかな。
同じかも。
じゃあよかった。
しかもその力っていうのが、
そういうのにありがたがったり、自分の認識してない
もっと超越的なところからやってきてるみたいな感覚って、
キーって、ロジカルシンキング頑張るぞ!努力するぞ!
自己検査!みたいなキーってなってるときにはやってこないっていうか、
もうちょっとフワッとしてるときにやってくるような感覚があるんだよね。
でも分かるよ。
っていうことが最近分かってきて、
より力がいい意味で抜けてくるというか、
整えるべき部分が分かってきたっていうか、
それはロジカルシンキングとかじゃないみたいな、
もうちょっと自分の感覚みたいな部分なんだっていうのが分かってきたっていうか。
前すっごい長いドライブ、車を運転してるときにさ、
メモに書いてる稲森さんかなんかの
生き方っていう本のオーディオブックがあって、
それを流してたのよ、車の中で。
で、ふと疲れたなーって思ってたときに、
その生き方の一節で。
稲森さんからはちょっと他の話だと思うんだけど、
宇宙には知恵の蔵というのがあって、
知らないところにだよ、知らないところにあって、
めっちゃ頑張ってると、
誰か見てるよくわかんない神様みたいな人が、
蔵の中にある一粒をちょっとくれるみたいな。
ピッてくれますみたいなことを言ってて、
なんかいい物事の捉え方だなみたいな感じがしてさ、
へーって思ってたんだけど、
たりきってそんな感じのことなんだろうなーって気がするわけ。
蔵の前でずっと陣構えてて、
このくださいくださいとか言ってるちゅーりかは、
ミニキサーのようにちょっとこう、
ある意味自分という存在を離れ、
ロジカルだよな、これだよな、みたいな、
論理で終えるものを離れたときに、
ずっと誰かがふっとくれるみたいな。
なんかそれを信じるっていうか、
こういう感じでいたら来るって信じて、
そのセンサーを見逃さないっていうか、
そういう感じだよなって思ってきたんだよね。
なくしちゃいけないのは、そこの感覚のとこだよな。
この本の中では、
純粋時空っていうエッセイの中で、
それっぽい話が出てきて、
リーユーファンは直感ともインスピレーションともつかない、
手がかりの薄いひらめきに襲われるっていうことを言ってるんだよね。
浄土神宗の影響
お茶を飲んでる時とか、深呼吸して一休みしてる時とか、
夢中でFで動かせる時に、
ずっと冥福しがたい透明感に浸ることがあると。
同じ箇所でもうちょっと先で、
想像力の抽象や背景は、事故を越えてもっと深く大きい。
意識の積極的な働きによる想像力は、
海に浮かぶ島のようなもので、
きれいへんに広大な無意識、樹洞の海が広がっていることに、
謙虚に気づくべきであろうって言ってて。
この樹洞の海が、知恵の蔵だし、
透明の意識の中だし。
人間の能動的な産物としてあらゆるものを見ちゃうっていうのは、
ありそうな感じするね。
ていうか、私もその癖あるよ。
あ、そう?
持ってます。
頑張れ、なんとかなるみたいなこと?
その他に気を信じるみたいなこと、最近分かったもん、やっと。
へぇー。
自分が頑張った方がいいと思ってた。
人に委ねたら、自分でコントロールできないものに期待することになっちゃうから、
良くない。
いや、真面目だ。真面目っちゅうか。
真面目だね。
最近までフェイスだったから、今月原稿ができたかも。
張り切った。
へぇー。
アクション自体はもうちょっと前からあったけど、
こういうことだ、みたいな説明できたのが最近かも。
うーん。
長野のど田舎、ど北部の生まれなんだけど、私自身が。
仏教の宗派でいうと、浄土神宗がめちゃくちゃ強いところなんですよ。
浄土神宗という一派は、たりき本願がマックスみたいな。
一番大事なのはたりき本願っていう。
うんうんうん。
親父が言ってたから、これは定かじゃないよ。
親父が、田中家の格文はたりき本願でいこうって突然言い出したわけ。
小学生ぐらいの時に。
うん。
一応理由として、我が家は浄土神宗の二種本願自派であると。
うん。
非常にこのたりき本願っていうのを大事にしていて、
我が家はそれでやっていこうと思うっていう話を、すっげえ真面目なことされてさ。
まあ、以来、俺もそれでいくかと思ってずっと生きてきてるから。
みきさんに比べて、たりき本願先輩だよね。
私の方が。
確かに。
でも野沢さん全然たりき使ってるイメージないんだけど、
全部自分のパワープレイでなんとかするみたいな。
パワープレイっていうか、パワープレイじゃない時もあるだろうけど。
他力と努力の関係
とにかくパワフルにプレイして頑張るというイメージあるけどね。
そうね。
自分なりにこのたりき本願を自分なりに解釈してみると、
私結構たりき本願MAXだと思うのよ。
ん?たりき本願マッチョ?
でもたりき本願マッチョだと思うよ。
今なんて言ったの?
たりき本願MAX。
あ、MAXって言ったのね。
あなたのたりき本願どれぐらいですかって言われたら、
ほぼ100の100いってると思う。
でも努力はするのよ。すごい頑張るんだけど。
そうだよ、たりきは努力しないってことじゃないからね。
努力はするんだけど、その前みきさんと一緒に読んだスロートハウス5が
すごい良い本だったなと思ってるんだけど。
私の中でのたりき本願MAXの振る舞いの一つは、
あそこの本の中に出てきた。あ、まあそういうもんか。
っていうのが私の中ではたりき本願的姿勢なのよ。
だからめっちゃ頑張って受験勉強したけど、
希望校に入れませんでしたとか言うのは、
私の姿勢からすると、まあそういうもんかって。
めっちゃ頑張ったけどその案件落としました?
まあそういうもんかって。
これが私なりのたりきの使い方かな。
投資スタイルが普通のブルなのかブルじゃないのか
みたいな話と思ったわ。
なんていうの?
うまくいかなかったときにそういうもんかとかで
たりきを使うのとしたら、私はぼーっとしてたら
なんか来るかもみたいな気持ちで待ってたら来る。
絶対に捕まえるて、より良くする。
自分をそういう犯人に対してしっかり開いておくように
しようということだね。
それはやっぱり頭だけじゃできないっていうか、
感覚的な部分の話だな。
自分が大切にしてる行動とか、なりたいと思う部分が
感覚を開こうみたいなところに向いてるのはなんでなんだろう
っていうのを考えるときに、例えばそういうことを
信じてるから、私はこれを大事に思ってたなって思った。
みきさんが言うたりきの使い方って、
理由ファンが言うところの
いい意味での関係性の中に存在を持っておくってことが
すごく本質だと私は勝手に思うのよ。
今まさに同じことを言おうと思って、
この本を読んだら理由ファンもどういう気持ちで作品を作ってるかっていうので、
自分が作ったものを適切な関係に置いたら、
自分が作ってないものともどんどんつながっていくって言ってたから、
そうですよねって思ったっていう話。
さらにもう一歩言うと、
その時に自分ってどういう存在であったらいいのかっていうところが
さっき一瞬言いかけた89ページぐらいからある
この自己限定と身体の連盟による政策ってやつでさ、
逆に自分自分って主張しない、
他人に開かれた存在としての自分っていうものを前提に作るからこそ、
体っていうのをしっかり磨いとからあかんねんみたいな話やったと思う。
自分の身体っていうものが一つ媒介となって、
いろんな政策物が出てくる。
他人に対して開いてこなきゃいけないってことは、
身体がいい状態になきゃいけないし、
いい存在でいないとそういうものが入ってこないから、
だからトレーニングしなくていいってわけじゃないし、
めっちゃ頑張るの飽きませんみたいな、
身体と開かれた次元
ストイックですねっていう感じ?
身体を鍛えたほうがいい。
何なら。
張り切りなんだけど、鍛えたほうがいいっていう。
鍛えたほうがいい、何なら。
より高く豊かな次元を開くためには、
自らを厳しく限定し磨きながら、
大きな外部の力を受け入れなければならない。
自分が媒介であるってことを意識して、
より良い媒介、いい感度のいいセンサーであるための
身体になきゃいけないというか。
めっちゃ筋トレをすればいいっていう、
身体のスペックを上げるって話でもないし、
知識をめっちゃインプットするって話でもないし、
ピースをいっぱい積み重ねたら良くなるみたいな感じで
思ってたんだけど、
結構そうでもないということが分かってきたのが、
谷木のところと繋がるんだよね。
これ難しい。私はまだ言葉を選んでないんだけど、
めっちゃ鍛えて、めっちゃ本を読んで、
その後力抜くみたいな話じゃなくて、
ただいるみたいな感じなんだろうなってことを今は思ってる。
でもまだ言葉になってないから。