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こんにちは、HON-CHA HON-CHA)へようこそ。
毎回一種類のお茶を味わいながら、一冊の本をきっかけに、ゆるやかに語る時間です。
静けさを通して人の想像性を探索する、スタジオスティルネスのFuyutoがお送りします。
今日のお茶は、初めてですね、抹茶をいただいてみました。
このお茶は、福岡の屋根にある星野製茶園という有名なお茶屋さんの抹茶を、
その後ですね、新潟のお茶屋さんが雪室、雪を貯めて夏場に冷蔵庫のように冷やしておく、
そんな雪室の下に寝かせた、雪室抹茶霞の城というものをいただきました。
これは最近、抹茶がもう本当に手に入らなくなって、
最近は少しずつまた戻ってきているのかもしれないですけれど、
本当、数ヶ月前はどこにも手に入らなかった時に、
唯一、ふるさと納税で手に入れた、そんなお茶になります。
それが雪室のおかげなのかどうかはわからないですけれども、
確かに、すごいまろやかな抹茶で、苦味とかが全然なく、
どちらかというと、少し牛乳っぽいというか、まったりしたような匂いのある、そんなお茶になっていました。
そして、今日ご紹介する本は、西村忠さんという方の書かれた、「稽古の思想」という一冊になります。
まさに今日この稽古の思想をご紹介したかったので、抹茶を立てていただいたんですけれども、
僕自身、4年ほど前ですかね、もう少し前から茶道の稽古に通っていて、
その中で、稽古っていうことが一体何なんだろうかと。
これまで、スポーツの練習みたいなことは、部活だったりそれ以外にやってきたんですけれど、
こういうお稽古というのは、人生で初めてだったこともあって、
一体その稽古というものが何なのかということに興味を持ちながら、
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たまたまこの本は、東京新宿のキノクニア書店の日本文化のコーナーで見つけたような記憶をしています。
この西村忠さんという方は、この稽古の思想という本以外にも、
衆用の思想、就職の衆に養生のようですね、という本だったり、
養生の思想という少し三部作っぽいような形で出版を、それ以外にもたくさん書籍を出されているんですが、
記されている方になります。
そしてこの著者の西平さんという方ご自身は、
お稽古関係とか何かの師匠のような方というよりも、
アカデミアの方で、新宿大学であったり、東京都立大学、立教大学というようなところで学ばれたり勤務をされたり、
最近は城地大学のグリーフケア研究所というところにいらっしゃる方のようです。
この西平さんという方は、ご自身では書道の稽古をされているというご経験があったりとか、
あとは大学の教師になりたての頃に、どうすればその良い授業ができるかということを探索する中で、
ゼアミの伝書に出会って、授業を舞台に見立てて無心に舞うにはということで、
様々な稽古関係のリサーチをしたり、読書をされたりということをしたそうです。
そしてこの本はですね、もちろん日常的に稽古ということに勤しまれている方もですし、
僕のように少しだけ稽古をかじっているような人間もそうですし、
あとは全くその稽古ということではなくて、何かを練習するとか、何かに熟達するとか、
何か知識や経験を得ながら自分のものにしていく、極めていく、
そんなようなことをやったことがあったり、興味がある人にはとてもおすすめな本になっています。
かなりですね、様々な方向から、この稽古ということであったり、型の話であったり、
あるいは身体論であったり、様々語られているんですけれども、
今日はその中から2つちょっとシェアをしたいなというふうに思います。
1つはですね、冒頭に少し話した、練習と稽古というものは何が違うんだというようなところのトピックになります。
文中にある1節を引用すると、練習は覚えるためにするが、稽古は忘れるためにするということを書かれています。
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この西平さんが、稽古というものをですね、3つのステップに分解をして、本部中だと図解もしているんですけれども、おっしゃっています。
1番初めが、技を習う。これはもうよく分かりやすい稽古の形ですね。練習をするというのが1つ目のステップ。
2つ目のステップで、技から離れる。脱練習というものを掲げています。
そして、技を習い、技から離れた結果として、最終的には技が自然とその状況に合わせて生じてくる、立ち上がってくる、こんなようなことを書かれています。
前半の技を習ったり、技から離れるというところは、まさにスキルを習い、手放していくということ。
その結果として、最終的にその人なりのアートが生じてくる。
さらにその先に、結果として人格の変容があったり、内面の成熟があったり、そんなような3ステップで説明をしています。
そして、この3ステップは、ゼアミの風刺家伝にも同じような表現があるらしくですね。
にする。にるということをするですね。にせるのような。にするがステップ1。
にせぬ。にせないという。にせぬがステップ2。
最後ににうる。これは、にるという字にえるですね。
尊徳の徳にる。にうる。にえるともしかしたら読むかもしれないですが、
この3つのステップがゼアミによっても語られている。
最終的にこのにする、にせぬを通り越した先のにえるというところに、個性が現れてくる。
そんなような話があります。
1つこの中で面白いなと、自分の稽古体験なんかも踏まえながら思うところで言うと、
この2つ目ですね。脱練習であったり技から離れる。
ゼアミで言うと、にせぬというところのパートなんですけれども、
これは何も自分から技を捨てていくような、そんな単純な話というよりも、
突き詰めて突き詰めていった結果、もはやそのにせる必要がなくなってくるとか、
もはや技を意識する必要がなくなっていくというような、
もう一個奥に通り抜けていくようなステップのようです。
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そうした結果、もはや技というものであったりにせるということを手放し、
それでもなお立ち上がってくるものが個性であり、稽古の目的であると。
そんなような話が面白いなと思っています。
2つ目の話として、これは稽古ともすごい近い、よく一緒に語られる単語だと思うんですけれども、
型というものについてです。
型があるから即興性が可能となり、型が土台となって初めて自在な動きが可能になると。
型というものを何かそのパフォーマンスを閉じ込めるようなものとしてではなくて、
創造性の基礎であったり、創造性の土台として捉えるという話が非常に面白いなというふうに思っています。
もう一つ引用すると、型はその型を超えていく可能性を内に秘めて習得されると。
何も型というのががんじがらめのルールとしてだけではなくて、そこを踏み台に超えるということまで含めて型であると。
これは自分自身もお茶のお稽古をする中で、型があればあるほど自由になれるというような話であったり学び終えたことがあるんですが、非常に接点があるなというふうに思っています。
よく稽古ごとであったり道というものでは、この型というものが型苦しい、文字通りですね、ものなんじゃないかというふうに捉えられる一面もあるとは思うんですが、
実際の部分は逆にそれがあるからこそ自由になれる、創造性が解き放たれる、そんなようなことが書いてあります。
そして後半に向かってですね、そもそもこの稽古というものが何を目指すのかというようなことのパートに移っていくんですけれども、
まさにそこから先はですね、この一見相反するようなものを同時に追及をしていくようなその稽古の立ち位置というものが語られています。
例えば、稽古とはという冒頭の部分で少しお話をした、技というものと人格の変容、内面の成熟みたいなものの関係性についても、
稽古は一方から見れば直接的に内面の成熟を追及することをせず、技の習得という回り道を介して間接的に人間を磨くのであるが、
しかし他方から見ればその技の習得は内面の成熟があって初めて完成するというような二つのことの両立であったり、
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一面ではうまくいかないことなど想定せずにそのまま流れに乗ってしまえと解きつつ、
他面ではうまくいかない場面に立ち止まり、そこから出発して順に分解して習得することを解く。
こういう一見矛盾するものの両立を、型というものであったり技というものを実践的に自らの身体を使いながら通り抜けることで得ようとしていく。
そんなような営みが稽古だというふうに占められています。
これを読むと確かに佐渡の営みは非常に稽古善としたものであるなともちろん思うのですが、
何か必ずしも稽古ごとではなくても、それが勉学であってもスポーツであっても、
あるいはもしかしたら仕事であっても、コンテンツは何であれ、
稽古というような構造であったりフレームワークというものが意外と様々なものに応用し得るのではないか、そんなようなことも感じています。
今日は福岡県やめの星野製茶園で作られた後、新潟のゆきもろで熟成された抹茶、かすがのしろをいただきながら、
稽古の思想、西平忠さんの書籍をご紹介しました。
それではまた。