問いの重要性
こんにちは。本茶本茶へようこそ。毎回一種類のお茶を味わいながら、一冊の本をきっかけにゆるやかに語る時間です。静けさのデザインとケアを通して創造性の器を育む、スタジオスティルネスのFuyutoがお送りします。毎週水曜日19時に更新しています。
本日ご紹介するのは、永井玲さんの書かれた、これがそうなのか、という一冊になります。
書者の永井さんは、各地で哲学対話を開かれている方だったり、ご著書でいうと、はじめに水中の哲学者たちという本を出されて、その後も何冊か、世界の適切な保存であったり出されながら、今回のこれがそうなのか、というのが最新刊になります。
こちらはですね、言葉というものを切り口としたエッセイ集になっていて、二部構成になっている本になります。
第一部は、「問いは隠れている。」という大きなタイトルで、新語ですね、新しい言葉、最近生まれた言葉、例えば、推しとか飯テロとか庭家ファンみたいな、そういう言葉をテーマに、その裏にある問いについて書かれたエッセイをまとめたもの。
そして第二部は、「これがそうなのか。」こちらの方が本章自体のタイトルになってますね。
なんですが、これは長居さんが幼少からこれまでに読んできた数々の本の中から、少しずつ引用しながら、その内容について深掘っていく、そんな短編集。
第一部が十二編、第二部も十二編、合計二十四のエッセイがまとめられている、そんな一冊になっています。
今日ご紹介したいテーマは三つ。
一つ目が、「何をそんなに焦っているのだろうか。」
二つ目が、「あなたは聞いてもらったことがあるだろうか。」
そして最後に、「対話とは何だろうか。」
では、本日もその前に、まずは一緒に楽しむお茶から。
今日は抹茶をたてていただきました。
おつめはですね、京都一方同作法というところの雲門の昔、以前何回か前にご紹介をしたのと同じ抹茶をいただきました。
今日はですね、特に理由がなくというか、抹茶は一度開けると、まあもちろん密閉して冷蔵庫で保管をするんですが、
早めにいただかないとちょっと風味が悪くなってしまったりするので、そんなこともあって今日は抹茶にしております。
一般的なお茶ってこう新茶の季節、ゴールデンウィーク明けとか5月、6月ぐらいからその年の新しいお茶が店頭に並ぶと思うんですが、
抹茶はですね、少し違って、新茶で摘み取った後に少しこう熟成の期間があるんですよね。
昔はその茶壺というものに入れて半年ぐらい保管をしておくんですが、
そうして熟成されたものを11月に口を切ってですね、それを石薄でひいていただくということなので、
抹茶で言うと新茶の季節は11月。
以前は、というかまあ遠い昔はですね、11月にできたものを1年をかけて飲むということで、
1年の中で最も香り高く、そして鮮やかだっただろうお茶がまさにこの季節、もう少し前ですかね、にいただけていたということだと思うんですが、
最近はもう年中保管さえしっかりすれば、おいしい味の抹茶をいただけるのがとてもありがたいことだなと思っています。
それではここから本の紹介に戻りますので、皆様もお気に入りの飲み物とともにお楽しみください。
この長居さんのこれがそうなのか、これはですね、表参道にある青山ブックセンターで購入をしたかなというふうに記憶をしています。
これ実は長居さんのサインが入ったサイン本でして、僕結構サイン本というのが好きなんですよね。
もちろんレア、そのレアさみたいなこともあるのかもしれないですけど、大抵その1ページ目とか見開きのところにサインって書かれると思うんですが、
全く何にもなかった空白だったページに、何て言うんでしょうね、どのページよりも人のぬくもりが重なるというか、その書かれた方の体温みたいなものが乗っかる気がして、ついつい買ってしまうと。
ということがあるんですが、この長居さんもそのサイン本を偶然見つけることができて、購入をさせていただいて開いてみると、ちょうど表紙を開いたところですね、
これがそうなのかというタイトルが書いてある少し紙質が違う1ページ目の上に長居さんのサインとともに、あなたの問いは?という一言が添えられています。
もちろん第1章は問いど真ん中の話ではありつつ、第2章本全体にかけてこの隠れた問い、あるいは自分自身の問いというものが深くテーマとして設定をされている一冊になります。
まず一つ目の切り口は、この第1部、問いは隠れているという中から、何をそんなに焦っているのだろうかというポイントでお話ししたいと思います。
これは乱括。みなさんご存知ですか、乱括。僕は走る方かと思ったんですけど、そうじゃなくて、ランドセル活動という信号に向き合いながら、その裏にある問いについて話されたパートになっています。
この乱括に限らず、いろんなほにゃらら括がこんなようにはありますよね。
たぶん初めは就活とか、就職活動の就活とかそのあたりから始まったのかもしれないですが、
婚活とか、朝活とか、推し活とか、その中で今回取り上げられているランドセル活動というのも乱括として、
子供が小学校に入るだいぶ前から、ランドセルのカタログを取り寄せて、いろんなブランドのいろんな色のものから子供とどういうふうに選んでいくか、もちろんその数に限りがあるものも多いので、それをいち早くゲットする活動というようなことがこの乱括だそうです。
ここで永井さんがおっしゃっているのは、ほにゃらら括という言葉で包まれているものは緊張感をもたらすと。
本来は別にやろうとやらないともしかしたら自由だし、やるにしても焦ったり不安になったりしなくて済むような領域にも、
それがまるまる括という言葉で包まれるだけで、それをすぐ始めなければいけないとか、誰かと競争しなければいけないというような緊張感、そういうものがこの乱括をはじめ隠れているんじゃないかということをお話になっています。
そしてその裏には、何をそんなに焦っているのだろうかという問いが見え隠れするというふうに話しながら、一文引用させていただくと、
選ぶことができるというのは自由の経験そのものだ。選択肢があることは自由であることとほとんど同義だ。
だが、本当は選ぶこと自体が決まっている。枠組みの中で選ばされている。乱括あるいはまるまる括というのは、選ぶこと自体が決まっている。その中であなたは自由だというように仕向けられている。
さらに言うと、その自由の中で選ばれたものを自分が手に入れるためには、誰かと競争しなければいけない。知らぬ間に、そんな枠組みの中での自由というものに向き合わされている。そんなように受け取りました。
対話の意義
何かこの文を読みながら思い出していたのは、これ僕も専門外のもちろんことなので、あっている間違っているあるかもしれないですが、
何かその選択肢が多く、その中で思い通りにできるという西洋的な自由の考え方ということと、それに対して、まあ、東洋的というんですかね。思い通りにしようとしなくても、すでにそうなっている状態。
何かその選ぶっていうこと自体が緩んでいく自由みたいな、そういう価値観があるよねという話を先日、友人としたことを思い出しました。
そして2つ目の切り口は、第2部のこれがそうなのかというパートから選びました。
あなたは聞いてもらったことがあるだろうか。
これはですね、もっとくださいというタイトルのエッセイになっていて、冒頭、あなたは聞いてもらったことがあるだろうか。
聞くことができているのだろうかという問いの手前に、その問いがぬっと顔を表すという文章から始まります。
これは長居さんが中学校3年生の時に、選択授業、自由に好きな科目を選べる授業があったそうなんですが、
その中で当時、芥川龍之介の法教人の詩という作品を読むクラスを選択したことがあったんだそうです。
それはたった受講者が3人の生徒しかいないクラスで、みんなでその法教人の詩を読みながら、先生が一人一人にどう考えますかという質問をとにかくしてくる、そんな授業だったそうです。
自分も中3でそんなことを聞かれてもきっと困るだろうなと思いつつ、当時の長居さんも当たり障りのない感想のようなことを答えて過ごしていたそうなんですが、
その日々の中で、ふとある日どう考えますかと聞かれた時に、少し本当に気になったことがポロッと自分の口からこぼれ出たという時に先生が、もっとください、非常に真面目な顔をして、もっと、もっとくださいということをおっしゃったんだそうです。
そこからその質問に答えるために何とか言葉を紡いでいくうちに、自分の中で新しい解釈や気づきが生まれた体験を思い出しながら、こういうふうに長居さんは振り返っています。
それは聞かれたからこそ見えたものだった。私はただ正しく先生にそれを伝えた。先生はまたうなずいて黙って聞いた。中略して、聞くこと聞かれることそれによって世界が開く。先生は世界を開きたかったのだ。
本気でそう思っていたのだ。僕自身、このほんちゃほんちゃの第14回、ユンウンデさんの書籍をご紹介した時にも、聞く、相手の言っていることを相手の思う通りに聞くという話を紹介させていただいたと思うんですけれども、
今日は聞かれることによって自分の世界が開いていく、そんな可能性をとても面白く読んでいました。
対話の意義
おそらくこの長居さんが主催される哲学対話の場も、そういう聞き合うあるいは話し合う、そういった対話応答の中から様々なものに出会える、そんな場だと思うんですが、最後の切り口がまさにその対話とは何だろうか。
というものになります。この問い自身を長居さんが明確に投げかけているわけではないんですけれども、本文中にとても似た表現で2箇所同じようなことが強調されている場所があったので、そこを片方引用したいなというふうに思います。
対話で最も革新的なことは、「共に座る」というところだと思うようになった。
分かり合うとか、発見があるとか、解決策が見つかるとか、そういうことではない。
考えが合わなくても居心地の悪さを感じながら、とにかく一緒には座っている。立ち去りたくなったり、その人を消してしまいそうになったりする欲望と戦いながら、それでも一緒に座ろうとしている。
もう一箇所、これに非常に似た内容の話が出てきていて、これがその連載されたものを編集したというところに起因する、単純にそういう話なのかもしれないですが、
何か永井さんがここに非常にアンテナが立っているような、そんなものを僕は受け取ったとともに、
ちょっとですね、まだ読み返せてないんですが、あの一作目の水中の哲学者たち、その時も哲学対話について書かれていた本なんですが、
その時の感触と少し違うような、やっぱりそこに何かこの時間の感覚を感じるような一文な気がしていて、後ほど前作も読み返してみたいなというふうに思う、そんな一文になっていました。
今日は、教と一方動作法、抹茶ですね。
云々の昔をいただきながら、永井玲子さんのこれがそうなのかをご紹介いたしました。
ノートにて書き起こしと本のご紹介、そして収録公表を投稿しておりますので、概要欄からぜひご覧ください。
また、ほんちゃほんちゃ気に入っていただけましたら、レートの評価の方もよろしくお願いいたします。
それではまた。