こんにちは、保育園看護師の千尋先生こと佐藤です。 新規事業の力で日本を開国せんとす、合同会社黒船の基礎です。
同じく、黒船の河地です。 僕たちは高校の同級生3人で、保育業界向けの新規事業を作ろうと日々頑張っております。
このラジオでは、現役の保育園看護師である僕千尋先生と、保育業界は未経験ですけど、なんかいろんな仕事をしているお二人とで、いろんなテーマについて語りながら、
保育や保育園の看護の面白さを発信していきたいなぁと思って続けてる、そんなラジオです。
はい、はーい。 というわけで、今回もいろいろやってる河地さんの方からの持ち込み企画ということで、お願いします。
今回はですね、「自分の当たり前を切り崩す文化人類学入門」という本を最近読みまして、
そちらの内容の文化人類学って、なんか名前は聞いたことある気がするけど、あんま分からんな。
柳田邦夫でしょ。 ああ、そうなのか。
名前聞いたことある。 そこは柳田利香の方が知ってるけど、あの空想科学読本の作者。
ああ、懐かしいな。 忘れらんないよね、あのヘリコプターじゃなくて竹コプターでさ、頭引きちぎれる図が忘れらんない。
あの頃の小学生、中学生はみんなあれで笑ってたから。
テニプリで、テニスの球で人の体を浮かせるにはどうしたらいいかみたいな。
確かに、先にテニスの球が貫通するんじゃないかみたいな。
面白かった。 めっちゃ面白いよな。
はい、というわけで、それをもとにちょっと保育につながる話があるんじゃないかと思って。
お、楽しみですね。すべてを保育につなげていきたいと思います。
よろしくお願いします。
というわけでやっていくんですが、最初にですね、そもそも文化人類学ってお二人聞いたことありますか?
はい。 うん。
ワードとしては。 ワードとしては。
なんとなくどんなものっていうイメージとかあります?
なんとなくどんなもの?
なんかあの砂漠でスーツ着るみたいなイメージがなんか文化人類学のイメージ。
エスノグラフィーだね、イメージとしては。
え、ポルノグラフティー?
ちょっと待って、今バカ二人が。
なんて?
なんかエスノグラフィーって調査手法だよね、文化人類学的な。
なんかその、何ていうの、部族の生活の中に入って観察するみたいな。
ああ、なるほど、なるほど、はいはいはい。 フィードワークっぽい話。
もう実際その民族とともに生活することで見えてくるその文化と、なんか人間を学んでいくみたいなそんな感じ?
うん、まさにです。
あの、今この後言おうと思ってたことは規則に言われてしまったんですが。
はい、すみません。
まさに文化人類学って、その、そもそも人類学っていうのが自然人類学、性質人類、形質人類学っていったか、ちょっと名前忘れてた。
人類があるんだね。
文化人類学に分かれて、要するに人間を自然科学的に見る、神経とか脳とかっていう目線で見るか、文化という社会学的視線で見るかっていうのに分かれた上で、
社会学的に見ようねっていうのが文化人類学という思想でして、で、そのメインがまさに自分が言った通りで、その特定の地域とか部族とか、
その中にもう、特に仮説とかもなく、ガッと入ってみて、何年とか過ごしてみて、
その過ごしていく中で、あれ、ここって普段と違うな、自分の生活の中と、みたいなこととか、こういう特殊な文化があるなっていう違いに気づいたり、
一方で、いやでも、これってもう一段階中小化すると、その僕たちが普段過ごしている日本的な文化、ヨーロッパ的な文化、その人類全体に普遍な文化が存在するなっていう、
違いを測りながら、もう一段階上で共通するものは何かっていうのを測ろうとするっていうのが文化人類学のそうです。
そうだった。
そうなんですよ。
結構なんか探索みたいな文脈で話題に上がるというか、よくUXのリサーチとか、あとインタビュー、ユーザーインタビューとかもちょっとエスノグラフィー的な話が出てきたりするから、
なんかそういう文脈でビジネス的には聞くことが多いですよね。
そうなんだね。
そうなんですよ。UXの意味とか、みなさんもどんどん調べていただければと思います。
そうだよね。
で、他者の方が文化人類学者の仕事っていうのを一言で表してて、それが他者を理解しようとしつつ、自らが身につけてきた文化を問い直すことだと言ってるんですよ。
なるほど。
これちょっと面白いなと思ってて、もちろんいろんな事例があるんだけど、1個だけ面白いなって思ったのが、
規則は知ってると思うんだけど、バンジージャンプってもともと、成人への通過儀礼だよね。
そちらも聞いたことあるかな。
イニシエーションでしょ。
そうそう、イニシエーション。
で、バンジージャンプって、要するに大人になるための通過儀礼なんだけど、これと日本の就活って本質的には一緒だよねって私にしてて。
あー、なるほどね。
日本における成人式を思い出すけど、あれって言うことのイベントなんですよ。
なんだけど、その通過儀礼っていうものは、一定の手順を踏まないと意味がないというか、踏むものだって言われていて。
うん、なるほどね。
それが、まず既存の共同体から離れる。
はいはいはい。
就活制であれば、リクルートスーツを着て、真っ黒の中になかなか着ないスーツを着て、就活制という括りに入り、
で、そのバンジージャンプの方であれば、あの人たちってバンジージャンプで飛べないっていうのを、成人式を受ける人たちだけで作んなきゃいけないんだって。
うーん、試練を受けなきゃいけないんだって。
はいはいはい。
なるほどね。
で、その、ある種試練的なもの。
切り離されて、既存の共同体から切り離されて、試練を受け。
うんうん。
バンジージャンプであれば、バンジーを飛ぶ。
あー。
就活であれば、面接を受ける。
はいはいはいはい。
あれ結構、あの、お二人はあんまりやってないから知らないと思うんですけど。
我々はまだ大人になってないといけないね。
いいのかな。
なるべないね。
で、そういうなんか、自己分析みたいなやりたくもないことをやらされて。
うん、はいはい。
それを崩り抜けて合格した結果、これ、成人というより社会人という。
あー、なるほどなるほど。
そうかそうか。
共同体に入るようになるよね。
っていうのを必死な方々が入っていて。
なるほど。
うーん、確かに。そう言われてみればそうだよな。
だから一見、バンジージャンプと就活っていうめちゃくちゃ遠い事象のようで、
違う事象のようで、実はもう一段階中小化すると同じようなことがあるよね。
っていう話を、文化人類学ですよってすごく簡単に言うと。
うんうんうん。
そういうものだっていうお話をしてたのがめちゃくちゃ面白かったです。
面白い。
文化人類学、普通にちょっと面白いよね。
うんうんうんうん。
なんかあの、浪人生だった頃にさ、
文化人類学者と言うべきかはちょっと悩ましいけど、
レビストロースってそういう人がいて、
その人の悲しき熱帯と野生の思考っていう本があるんだけど、
それすげーよかった。
言ってたな、それ。
だからそう言ってた気がするな。
ね。
あそこら辺は本がいっぱいあったからね。
うーん。
あのー、文化人類学のそもそもの一番最初の発想って、
ちょっとレビストロースがどこまで関係あるかは僕も確かできてないんですが、
そのヨーロッパとかが、いろいろ半島を広げていった時期とかもある程度一致するらしくて、
なるほどね。
いろんな多文化に触れる中で、
違うじゃん、みたいなのが気づいていたので、
これを最初は、未開の地っていうのは劣ったものだから、
我々ヨーロッパ圏っていうものは、そこに至る進化があるはずだ。
それを調査しようみたいな視点でやってたんだって。
うーん。
だからその、今この部族たちはノホホンと暮らしているが、
当時のヨーロッパ的価値観というか、
ジョン・ロックだっけ?
聞いたことある。
ヴァイアさんっていう。
はいはいはい。
万人の闘争状態になるはずなんだけど、
未開の奴らはどうやったらそこに至るんだろうな。
この高度に文明化されたら万人にも闘争に至るはずなんだけど、
どの過程でそうなっていくんだろうなみたいなのを測ってやろうって思ってみてたら、
どこまで行ってもならんと。
だから、違うんだっていうことに気づき始めて、
そこから今のスタンスになったっていう話がありましたね。
そうだね、まさにレヴィストロースはその未開の地っていう考え方とか、
先進諸国じゃないけど、聖王みたいなところの死刑者っていう話を結構がっつりした人の印象があるかなって。
そうだよね、だから成熟したら先進国みたいになるってのは結構傲慢だろうね。
そう、傲慢だよね。
うんうん。
っていうのが今、文化人類学の話の前提として捉えてたので、
これ保育でもあるのかみたいな話がありそうっすよね。
そうね。
で、ちょっと調べてて、
まず、これ給食の場面ってありそうだよねみたいな話がちょっと出てきていて、
実際どの縁もそうかは僕は現場にいないんでわかんないんですけど、
一般的には、そして日本ってやっぱり好き嫌いをなくそうっていう工夫をしますと。
食べれないものを減らしたり、食べにくいものを食べやすいようにしようとする。
うんうんうん。
一方でフランスとかだと、もうちょっと食事を楽しむことを最優先アプローチにするよねみたいな話があったり。
うんうん。
これだけでもちょっと好き嫌いをなくそうと食事を楽しむっていうアプローチだと、
何を優先するか違ってくるよね。
そうだね。
うんうんうん。
でもどっちも子供のためっていうところでは一緒だよね。
うん、そうだね。
他、お昼寝の時間とかでも、日本の場合はやっぱこう、みんなで集団の中で他に迷惑を受けないように静かに休もうねっていうのもあれば、
デンマークでは結構個々のリズムを大切にするみたいな方法もあるみたいな。
はいはいはいはい。
これも、まあなんつーの、子供の健康と成長を願うっていう点では同じだけど、
うんうんうん。
でも、かたや、集団という、集団行動をしましょうね、というものと、個々を尊重しましょうねってアプローチは違うよね、みたいな。
うんうんうん。
結構違いは出てくるんだなーっていうのが、ありましたね。
なるほどね。
なんかその、食育の話でいうと、それこそ好き嫌いなく全部食べましょう、出されたものは残さず食べましょうっていう、
もともと日本の、なんというか、まあ昭和平成よりの、こう、お育て感みたいな、保育感みたいなところから、やっぱり、このもっと食事を楽しみましょう、楽しく食事をすることに重きを置きましょう、みたいなことの方に寄ってってる感じがする。
あーそうなんだ。
うーん、というかそうやって、そうそう、要はその好き嫌いなく食べさせる、嫌いなもの苦手なものを無理やりでも食べさすということが、あの、良くないとわかってきたというか。
うーん。
そうすることで、より一層その食事が嫌になり、なんなら食べることが嫌になってしまうっていうところで、食育の根本からずれていってしまう、そんな教えになっちゃってるっていうところに、
ここ数十年で気づき、現場も変わり始めて、それこそバイキング形式の食事をとってるような保育園が出てきたりとか。
うーん。
あの、まあ、もちろん栄養価とかね、その日本の食材っていうものを大切にしてほしいとか、その和食を継承していくためにも、みたいなところはまた一方でありつつも、なんというか、子供にそれを選択させるというか、教養はしないし、楽しい雰囲気を作って食べる、みたいなところを重視してやった方が、結果的に子供がその、なんというか苦手なものにチャレンジしていくフードが作れたり、
そんな文化が醸成されていったりするよね、っていうところで、だから今の保育って、特に食育に関しては、すごく先進的にやってる園と、
あの、いまだに、あの、ほら、食べなさいって言ってる園との差がすごく激しくなってる、そんな過渡期だと思うんだけど。
でも、そう、やっぱりそのキャリアアップ研修もそうだし、いろんな食育を学んで、今現時点でこう、最初のものを学んでいる人たちからすると、今まで少なくとも僕たちが子供の頃受けてきたような食育っていうのが、やや昭和寄りだったんだな、っていうのがよくわかるというか、
そんな感覚はあるかもしれない。
確かにね、まあ、僕自分でこう、日本って好き嫌いなくそう的な努力をしかしたよね、って言うけど、僕、食べれないもの、マヨネーズとか嫌いだったし、漬物とか嫌いだったし、
あの、少なくとも小学校の頃の給食のパンとかは、なんか味がしなくて好きじゃなかったから、全然食べてなかったけど、なんか何回言われた記憶一個もないなって思って。
言われた?そもそも食べてた?
食べてた。
食べてたね。
食べてた?
なんでだろう?なんか、先生の息子だからかも。
話。
どうだろうね、なんか食育っていうところ、そもそもなんかこう、計画とか目的を持って、すごくやり始めたって、わりと最近のイメージがあって、いや、もともとあると思うんだけど、
なんかそれよりも、それこそ戦後間もない頃とか、とにかく栄養を、病気しないように生きていくたびにまず栄養を、みたいなところで、こうなんか、脱脂粉乳が出ますみたいなさ、
そんな時代を経ての今だから、なんか食事というものに対してもっとこうありがたみを感じている世代、
当たり前じゃないんだ、ダサいものは食べなくちゃならんぞって、それこそ社会的にそういう食がまだまだ十分じゃなかった時代の名残みたいなものが、たぶん今も強くあるんだろうなっていう気がするね。
うーん、なるほどね、面白い。
そうだし、寝かしつけとかもそうだけど、
やっぱりそうだね、だんだんそういった意味ではやっぱ欧米化してるというか、そういう諸外国の良い取り組みみたいなところと、
日本のその、子よりももともと集団をちょっと重きを置かれるような感覚が、
どんどんここに寄っていってる気はする、主体制をっていう話もそうだし、なんか集団で寝かすっていうこと自体が、それは虐待だっていう認識に変わってはきてる。
だから、すごく全体的に言えば、おそらくそれこそその文化人類学的に言えば、
その諸外国の感覚とか考え方にどんどんどんどんシフトしていっているとは思うんだけど、
ちょっとこれあのラジオ収録する前に裏で話してた話でさ、さっき炎上が日本でどう起こるかみたいな話してたじゃん。
なんかある種のこう、集団でこういろいろやらせていく集団の中での自分というものを、
なんか重きを置いてやってきた日本のもともとの価値観というか、感覚みたいなところと、その同調圧力みたいなところで、
やっぱり、非道徳的な何か振る舞いに対してすごく一斉に叩く傾向があるってさっき話したじゃない、日本って。
で、なんかそういうとこにもちょっとつながっていくのかなと思うけど、こう、やっぱ集団で動かされることに慣れている我々大人世代は、特に。
がゆえに、なんというかそういうところに走りやすいんだろうな、炎上とかしやすいんだろうな、不倫を叩きやすいんだろうな、みたいなのは、
みんな寝かしつけを一斉にさせられたからっていう決意を持っていけるんじゃないかってちょっと思うくらい。
なるほどね。
だし、もう一個あるのは、最近僕が保育園の中で健康教育として取り扱っている包括適正教育っていうのがあるんだけど、
結局これも、自分というその一人の人の、結局は人権を大切にしようよっていうところに最終的には帰結するというか、
そこをまず出発点として、自分の体は自分のもので、自分の体のことは自分で決めていいんだっていうところをまず理解しないと、
そこから先の正教育には結びついていかないぞっていう話なんですよ。
その感覚も、確かに諸外国の感覚、ひらたくとアメリカの考え方だよなって思うような、
やっぱり主語が愛だ、私が、私がっていうところとすごく文化的につながっていくなって思っていて。
やっぱ日本のなんとなく、なんだろうな、自然と一体化しているような、
隣人と自分の境目がやや曖昧な感じの文化性というか感覚、民族性と言うべきかちょっとわかんないけど。
で、今すごく欧米化している社会の中で、
ギャップが激しくなってきているような感覚があるんだよ、なんとなく。
それってすごく良い面とそれこその不適切保育につながるような、
無理やり好き嫌いなく食べさせるとか、無理やり寝かすとかっていうのじゃない方向に行ってるのはすごく素敵だと思う反面。
日本という国におけるその集団による作用みたいなものの良さというか、
それによって成り立ってきたものって何なんだろうなっていうのがちょっと気になるんだよね、やってて。
なるほどね、まあ多分あのね、僕ときそくんはね、割と個人主義が強いというか、
多分今、保育園の話を聞いてて、僕その時に昔のこと全く覚えてないってずっと言ってるんだけど、
ずっと思い出されたのが、寝かしつけ絶対寝ないようにしてたなって思った。
もう当時から反骨精神。
寝てたまるものかって思った記憶があるなって。
たとえって動くとなんかいろいろ言われるから布団被って、でもその布団の中でずっと目を開けるのみを信念としていたなと思って。
なんかあの合唱祭の時に絶対口パクはするけど歌はないって言うと同じだね。
すごい上手に歌ってるように見えるもんね。
ちゃんとブレスの行き継ぎとかしてるもんね。
そことですんだら歌えばいいのにってことですね。
2人しか伝わらないのでちょっと補足するんですけど、僕はね、高校生の時の合唱祭を3年間全部口パクでやり過ごすっていうことをやり切ったんですが、
3年生の時の指揮者の人から、もう口パクでいいとお墨付けをいただきまして、
なぜなら合唱ってやっぱり調和なので、1人下手な奴がいるより口パクで周りを乱さない奴がいる方がまだマシだっていう。
マイナスにならない方が大事。
一番いいのは上手い歌を歌うことなんだけど、練習するのは嫌だろうから、それで下手な歌で本番出られるぐらいだったら歌ってるかのような人の前で声を出してないっていうのは、場を乱してないのでそのまま行こうって言われた。
逆にそれができるのが、なんていうのか、すごいよね。
だから、よしよしって周りに認めさせたぞって。
やっぱり場を乱さないとかっていう考え方は日本的だよね。
個人主義って多分かなり西洋的な話だと思うんだけど、そもそも個人っていう考え方があんまり元に日本なかったっていうこともあるしさ。
でもそういう個人的なあれを大事にしつつも、共同体的な部分を大事にするみたいなのがやっぱり日本人の感覚としてはちょっとあるよね。
保育の世界で言えば、なんとなくこういうのに目線が向いてる部分、すごく自由なアート的な作品を自分たちで作るとかもそうだし、それこそ給食の先のバイキング形式とかもそうなんだけど、
この6年間、入院時期の6年間でそういったある種生活をしてきた子どもたちも、
変な話、普通に公立の小学校行ったら急にまたものすごい集団の中に送り込まれるわけよ。
で、何が起きてるかって、すごく不登校率が高くなっていたりとか、子どものうつみたいなものも増えていたりとか、いろんな要因はあれどね。
全部がその入院時期の過ごしだけではないと思うんだけど、
なんかその、やっぱ構造全体が変わらない限り、これってずっとこの問題は起こり続けるようになっていう感じがするんだよね。
だから義務教育っていうものの捉え方を、というかその構造をどう今後変えていく必要があるのか、あるいは変えない方向でいくのかも含めて。
そうね。個性が大事って言いながら育てといて、小学校入ると全然違う高校の教育になってみたいな、そこにギャップがあるよね。
今すごく保育とその修学後の生活にギャップを旗から見てると感じる。現場の先生たちもきっと感じてるとこはあると思う。
うちの保育園から行く子どもたち、集団生活送りにくいだろうなってすごい思う。
たぶん他の園よりは早くから主体性を大事にするっていうモットーがあったから、それをすごく謳ってるわけではなかったけど、もともとの関わりがそういう方を見ているから。
小中学校ぐらいはちょっと苦しむ時期もあるんだけど、そのうちの保育を受けて育った今大人になった世代の子たちって結構いろいろなとこで活躍してる子いるんだって、どうやら。
園長とかに話を聞く。やっぱりそうやって大人になった時に活躍できるだけの何か素児みたいなところは入院時期にしっかり育てていけたんだろうなっていう、ある種実証されたような感覚がどこかであると思うんだけど。
もちろん研究データとしてあるわけじゃないから確かのことは言えないけどね。
なんか自分が保育園の頃の園長先生に会って、こんなに立派になって保育園の育て方が良かったのねって言われたらちょっとムカついちゃうけど。
そういう話だね。
そうそうそう。
でも、なんかそれこそ、なんだろうな、こういった職域を大切にしてきたのに、その小学校修学したらもうそれらが連続していかないっていうのは子供にとっては変えられないわけじゃない。今の地域では。
やっぱり大人がそこをじゃあすごく大事にしたいからって言って、どうにかしようと思ったらお金を払って私立のどこかに入れるか、海外に行かすかみたいな感じになっちゃうじゃん。
そうだね。
で、最終的にじゃあ海外の方がいいし、教育もいいし、お金もいいし、もうどんどん国の外に出ましょうってなったら、日本という国は終わっていってしまうんじゃないかっていう気もするしね、子供が減ってる中で。
とか、なんかいろんなとこに絡んでいくな、もっと国力とか、なんかもっと大きい何かに繋がっていくなっていう、そのスケールの大きさにちょっとびっくりしちゃうような感覚を、
包括適正教育をこうして何とか感じてしまう場面があって、なんかそれがさっき今、かわじが話していた話にもちょっと繋がっていて、
面白いなと思いました。
なんかそのちょっと、たぶん、チロの中では日本の保育ってこうで、とはいえチロの保育園はこうで、みたいな感覚違いがあると思うんだけど、
たぶん僕と希作にはありそうでないので、ちょっとそこも軽く調べたので、どんな特徴があるのみたいなのが大きく4つくらいあったのでバッと話したんですが、
大きくはやっぱり根底がみんなで一緒にみたいな価値観があるよねっていうのがあるらしく、例えば運動会でみんなが心を一つにして演技をするとか、
協調性とか思いやりの心を育てようね、みたいな、っていうのがまず一つ、あとは、保育士を先生と呼ぶっていうのが特徴らしいんですよね。
俺、なんで先生と呼ばれてるのか全然意味がわからない。何も教えてないのに。
あの、欧米とかでは名前で呼び合うフラッフルな関係もあるじゃないか。
それ、ちょっと気になるというか、他の傾向としてもさ、大企業の人とかさ、社長とか役職で、なんか名前呼ばないことあるじゃん、社長さんとか。
なんかそれとかも結構、肩書きベースで言ってるよねっていう、その、個人というよりはその役割というか。
確かにね。
実際僕も転職2回ほどしてるけど、その度に文化が違うってめちゃくちゃ思うんですよ。
最初の会社はメールしかないスーツを着て、毎日出社してみたいな。
2社目は結構若手ばっかり、僕より年下しかいないような環境で、スラックで基本やり取りをしてみたいな。
今の会社は基本年上だけど、スラックでかつリモートワークでみたいな。
それぞれ文脈とか言葉遣いとか使う単語とか関係性をどう組み上げていくかみたいなのは全然違うと思うんだよね。
そういうことは多分ね、エンベースでもやっぱ違うと思うんだよね。
それはそうだよね。そうだと思う。
っていうものを、何となく違うんだろうなぁじゃなくて、それこそ文化人類学的アプローチで観察できるぐらい入り込めるみたいな、いろいろ起きると、
そこの交流が生まれると面白そうだよねっていうのはちょっとこれを読んだりしていて思った。
うん、なるほどね。そうだね、なんか前提となる価値観を、自分がどういう価値観を持ってるかを問い直すってさっきなんかそういう話してたけど、
まさにそれだなっていう気はするよね。
当たり前だったものを疑うという意味ではさ、それこそ留学するとかもそういう話じゃん、本来的に。
自分の育ってくる環境での常識みたいなものを相対化するみたいなことだと思うんだけど、
なんか、それってめちゃくちゃ必要なアプローチだし、文化人類学のやっぱいいとこというかさ、
炎上にもつながりそうなんだけど、これは絶対正義だっていうものはないじゃん、その文化人類学的アプローチにおいては。
そうだね。
その時々その時代において変わるもんね。
で、その共同体というか文化によっても何を良しとするかもね。
うんうん。
で、なんか、絶対こっちの方がいいじゃんっていうのはまさにその未開という言葉が表すようにさ、
先進国のおごりというか、先進国って言い方もあれだけど、そういう自分たちが進んでいるというおごりを感じるというか、
うん。
なんか、そういうアプローチが面白いなって思うんだよね。
だから、すごいマクロレベルでもミクロレベルでも、そういうなんか異文化にいかに偏見なく入れるか。
でも全く偏見ないと常識っていうかさ、疑わなくなるというか違和感が少なくなるから、
こういうのが難しいなと思うんだけど。
いや、それはすごいあるな。
俺もなんか、保育園で働き始めた頃、今まで自分はそんな環境にいなかったもんだから、
すごく感じて、すごく疑問に思っていたことが最近わからなくなってきてるので。
当たり前というか、あれになっちゃう。
そうそうそうそう。
ある種、自分がストレスを感じないためにそこをシャットアウトしているような感覚もあるんだけど、そうそうそう。
だから、人間ってすごいなーって毎回思うけど。
でも、ほんと面白いね。なんかいろんな分野に、なんというか、応用が効くというか考えられて。
そうだね。
かつてやっぱり、違いを築こうというメッセージに集中してしまうけど、
その上で、同じ部分は何だろうねっていうところに着地するっていうところが僕は個人的には面白いと思う。
違うんだけど、共通してみんな大事にしているものって何なんだろうねっていう。
他、実は保育園同士でもあったりするかもみたいなのが見えてくると、ちょっと面白かったりするかもなーって気はしましたね。
そうだねー。
共通するものっていうのの、なんていうのかな、レベル感?メタレベルみたいな話。
それぐらいのスケールのものだったら共通しているのかとか気になる。
そうだよねー。
具体的な手法は違うけど、目指しているところは一緒とか。
うんうんうん。
ってなると、どうしてもある程度抽象度高いものが共通法なくなるんじゃないかとか気になるし。
まあそれこそ、それを無理やり言語化して、それこそ集団にも入っていけるようにっていうので作ったのが、
保育所保育士として現れてるんだろうなという気もするね。
そういう形でしか共通法をかけなかったといっても過言じゃないんだろうけど。
そりゃそうだと思うけどね。
でも、そのそこまで深読みというか、なんていうか、分かった上でもう一回保育所保育士に読んでみたら、
なんか無限の可能性を感じるかもしれない。
確かに文化人類学者が保育園に張り付くのめっちゃ面白そうだな。
その観察の視点というか、なんていうか、ぜひ聞いてみたいとか見てみたいな。
この話をしている途中でふと思い出した、全然別の本。
正確には僕、本を読んだわけじゃなくて、その本を紹介しているyoutubeを見たくらいの、超浅い感じなんですけど。
事件記者保育士になるっていう本がありまして。
事件記者、記者だよね。
この記者さんがもともとヤクザとか、そういうのを真っ直ぐ相手にする、本人も見た目ヤクザみたいな人が、
63歳で保育士を目指すのよ。
ほんとだ、正解が面白い。
だからその、なんでかっていうと、事件記者やってると、
ほとんど恵まれなかったが故に帰ってしまった子どもたちっていうのをたくさん見てきたと。
そういう子たちを取材したりとかして、
その捕まって構成していくところとかを見ても、
こうなる前にもっとなんとかできなかったのかなって気持ちに、いつでもなっちゃうと。
いう時に、じゃあどこがいいんだろうなーみたいな、考えつきにやっぱり保育士っていう部分がやっぱりあるじゃん。
どこに基礎から触れないとダメだよねっていうのに基づいて、
その短大に63歳で通い始めて、ピアノ無事みたいなことをやりながら。
かわいい。
周りがさ、ただち前後ぐらいのほとんど女の子しかいない。
すごいギャップだろうね。
普通に面白そうだね、これ。
これってやっぱりでも、違う文化で育ってきた、それも60何歳になったらなかなか自分の信念がある。
その人は割と柔軟な方だけど変わんない部分は変わんないっていうか。
ちょっとやっぱその、さっきりとは出ないけど、女性に優しく男に厳しい昭和の親父みたいなのが出ちゃったりするとか。
いうのもありつつ、とはいえ、最終的に保育士の資格は取ったんで。
特定の縁で勤めるっていうか、いろいろ公園に出たりとかそういうことをしてるらしい。
面白いね。
そういう異文化の人が入る目線でどう見えるんだろうみたいなのが。
いや、なんかそれこそずっと高橋とか川尻の方話してるよね。
なんかずっとそのいろんな人が保育やったらいいってずっと思ってるけど。
なんかほんといろんな視点から見て、見てもらいたいし、それが最終的に全部子供のためになるような気もするし。
聞いては社会全体というかね、その人自身にとってもそうだし、日本、世界的にもそうだし。
全部にとってプラスになる気がしうるんだけど。
何々業界とか、特定の会社でもそうかもしれないけど、それだけが村とか部族みたいな単位だと考えるんだったら、
民族、文化人類学的なアプローチが全然効果的っぽいよね。
そういう感じ。
うん。
面白いな。
私、2冊も本を紹介してしまいましたが、
2冊も紹介したところで、別に僕がヘイトをやっているわけでもなんでもないので。
うん、確かにね。
1円も入ってくるわけでもないので、リンクは貼りません。
はい。
どんどん検索してたどり着いてください。
はい、ありがとうございます。