きついな、それ。
全然おもしろくない。
いきなり辛辣な言葉が。
チロさんは今だいぶ幸せに近づいてます。
多分僕は幸せだと思います。
それでいうと、縦前的に今僕そういう風に言いましたけど、
1ミリも頑張ってないと思いますよ、本当に。
いいですね。もうそっちに合わせにきましたね。
本音の部分をもうちょっとさらけ出してやると、別にこれ頑張ってる領域じゃねえよ、だって。
頑張るってなんだよって感じ。
今日話したいのはですね、僕が今読んでいる不完全主義という本についてちょっと面白かったので、
こちらをテーマにお話をしていきたいなと思って、僕はあんまり保育のことを考えずにしゃべるんですが、
この後チロ先生がうまいこと保育に反省してくれると信じてこんな話をしてきたいと思います。
それでいうと、保育現場の人みんな頑張ってるって思いがちだから幸せになれないのかもしれないから。
そういうことです。
その時点でつながってる感じがするからね。
ぜひお聞かせいただきたいです。
はい、この話をしていきたいなと思います。よろしくお願いします。
冒頭ですね、ちょっと難しい質問から入ってしまったんですが、
この本、もう一言で言うとどういうものかっていうと、
あなたがうまくいってないのは頑張ってるからですっていう本なんですよ。
なるほどね。
で、頑張るっていうものをもうちょっと、今チロ先生が頑張るってなんだよって言ってたけど、
もうちょっとだけ解像度を上げると、
とにかくやることを消化する能力を上げようとするっていうのを頑張るっていう行為だとしてます。
やるべきことを消化すること。
今っぽい言い方で言うと、生産性を上げようとするみたいなことです。
なんかね、時短で働き方改革で生産性を上げていこうみたいなのを、
ニュースで見たりとか、会社で言われたりとかっていう方も多いんじゃないかなと思うんですけど、
それが不幸の始まりだって言ってる本なんですよ。
これどういうことかっていうと、
人間ってやることリストを空にしたいっていう欲望があると。
日々ずっとやることが積まれていて、これ全部空っぽにしたい。
だから要領よくタスクを消化していきたいなって思ってるんだけど、
これが実は幻想なんですよ。
やることリストが空になることって絶対にないんです。
やることリストの量って膨大じゃなくて無限なんです。
とにかく増え続けていく。
なぜなら終わったら次が始まるだけだから。
確かに。
わかる?家事ってそうだよね。
まじで俺、家事と子育てって無限だなって思ってた。
だって、ゴミ捨て終わった瞬間また次の日のゴミ捨てのことが待ってると思うと、
なんでこんなずっとゴミ集めてんだろうって毎回思う。
だから頑張っちゃう人の特徴って何かっていうと、完璧主義なんですよ。
それはわかるな。
やることを全部完璧に終わらせて、自分の生活を良いものとしてコントロールできるようにしたい。
何の不安もなく、何もかもが自分の手のひらの中でコントロールできている状態を目指そうとするのが頑張る人なんですけど、
これってもう言ってしまえば、ほぼ物理的に無理ぐらいの無理なんですよ。
なるほど。
っていうのがあるので、この完璧主義っていうものに向かって頑張ってるとどうしたって幸せになれないですよねっていうのがこの本のテーマです。
なるほど。あるね、確かに。
で、じゃあ現実をコントロールしません。
だからむしろ世界を受け入れた方がいい。
もうこれはやることは終わらないし、私たちはずっと何かに追われるし、あと今って情報化社会って言われてる通り、
いろんなインプットしなくちゃいけないはずのことがあるけど、いつか読みたい本だけがひたすら溜まっていき、
それは消化できずに、消化できない山では読書リストが溜まっていくなっていう感覚になるけど、
これもう無理です。
分かりぬりだよね。
本の中にあった話なんだけど、1999年ぐらい、20世紀ぐらい、初期末ぐらいから、
波状情報、情報刀時代だって言われてたんですね。
で、当時の情報量っていうものを全部データにしたら、確か何十億ギガバイトとか。
すごいじゃん、2000年とかの時点で。
で、今じゃあ、2025年とか24年ごろ、何バイトあるかって言うと、1000兆ギガバイトある。
もうちょっとクラクラするね。
これの量を全部、自分に必要なものをフィルタリングしたとて、
フィルタリングしてもまだ大量に存在するインプットすべきじゃん。
大きい本やイクタービデオも、これ一生かけても読めないんだなって場合かも。
間違いない。
これちょっと面白い話が、昔のローマ帝国かどっかの図書館、
もう全英地が集まってると言われてる図書館の情報量を全部データにしたら12ギガバイトしかないんだ。
やっぱね、真理はシンプルなんだな。
だから逆に言うと、今ってその1000兆、100兆倍ぐらいの情報量がこの世に存在するから、
いい情報だけ集めようとしたとて無理っていうぐらいの情報がありますね。
なるほどね。
だし、僕らはもうSNSに触れているので、いろんな世界の情報を知っちゃう。
そうすると、今アフリカでこんな問題が起きてますみたいな情報も入ってくるわけですよ。
そうすると、それに怒れちゃう。
はいはいはい。
自分に関係ない、自分の場所じゃないことに関しても怒れちゃう人って多いですね。
いっぱいいますよね、Xに。
ついこの間の選挙とかは僕が言った大事なテーマですけど、
それに怒ったところで僕らの人生すぐには良くならないのに、そこに怒りを覚えてしまう。
怒りを覚えやすいポイントも無限に増えている。
怒ろうと思えば何人でも怒れる。
っていうのがあるので、結局今本当にやるべきは、もうめちゃくちゃ対象を絞ることなんですよ。
もう完璧を目指せない。
もう今の自分のことだけをやりましょう。
はいはいはい。
これ完璧主義の人がやっちゃうのが、未来の自分のために動いちゃうっていうのがあるらしくて。
ゆくゆくこういう人になりたいから、今この準備の期間です、今はみたいに。
あーいるね。
いるよね。
じゃなくて、生きるのは今なんですよ。
今この瞬間の自分のために生きないとダメなんです。
っていうのがこの本のテーマです。
っていうのがあるので、この本では基本的に頑張る人っていうのはこういう人なんだけど、
それはもう今もう幸せにならない。本人の主観として。
だから頑張らない人になりましょうね。
っていうその完璧と不完璧、不完全、完全と不完全という対比構造で、
不完全主義というものが現在の必要な生き方だよねっていう話をしている。
あーなるほどね。
すごくいろいろ質問したいことが湧いてきました。
もういいね。
頑張るのとその頑張らないのの線引きって、その本の中だとなんか書かれてたりするんですか。
例えば、とはいえやらなきゃいけないことはあるじゃないですか。
要は、ゴミを出さなかったらゴミ屋敷になってしまうしとか。
いいですね、チロ先生。
そこで、そこでまあどうしたってじゃあちょっとギア1個上げて頑張らないと部屋は掃除されないしだみたいな。
耐えきれなくなってやるじゃないですか。なんかそれはどうなんですか。
まさにその例が出てまして、この本の中で人を家に呼ぶときに掃除をしなくちゃいけないのがめんどくさい夫婦っていうのが。
家に子供がいるからじゃあ人を家に招こうって思ったら、
子供のおもちゃを片付けて、カーペットを掃除して、庭を芝刈りして、
まあこれ海外の本だな、ちょっと庭とかあるよね。
海外ね、庭芝刈りしがちで。
で、またその庭の芝刈りを買ってる間に子供がまた部屋を汚したからそれを片付けなきゃって。
みたいなことをすると、それ考えても人呼ぶのはめんどくさいなみたいになっちゃう。
っていうときに、いや、よく考えよう。そもそも部屋汚いのってダメなんだっけ。
この今言った千尋先生が部屋を片付けなきゃいけない、だから頑張るの、
この部屋を片付けなきゃいけないっていうのが本当なのかっていう話があるんですよ。
これは別に片付けなくていいよみたいな話じゃなくて、
片付けないっていう選択もあなたにはできるはずなんですよ。
その中を片付けるっていう選択をした理由って何でなんだっけっていうところから向き合いましょうねっていうのがこの内容です。
すごく納得がいきますね。
そう、だから基本的に頑張る人って義務で動いちゃうんですよ。
やらなきゃいけない。やることリストを消化しなきゃいけない。
なんだけど頑張らない人っていうのは、いやこれ片付けなくてもいいんだけど、
片付けるっていうのを自分から選んだんだ。
するっていうその能動さが違うっていうのがあるらしい。
やらされ感がない分、幸福度が変わってくるみたいな感じ。
時にはもう片付けないということをしたことによってこの人はだらしない人だっていう結果を受け入れようっていうところまで話してる感じです。
でもその自己不全感って、結局のところ客観的な指標ではないと。
主観として自分の中にあるものだし、
なんなら今そのSNSで生まれた他人と比較することで、
っていう時に、他人の外見と自分の内面を比べてんのよ。
意味ない。
本来はね。
視覚対象じゃないよね。
他人の外見の内側にはもっと苦労したいろいろがある。
すごいダメージがあるはずなのに、それは見えないから外見。
キラキラしたとこだけを見て、自分が何もできてない内面と比較して、
勝手に自分はダメだってなるって。
意味ないじゃないですか。
すげーわかる、ほんと。
ほんとわかる。
高橋さんほんとに意味ねえじゃねえかを体現してますもんね。
たぶんその本で考えてるスタンスを生きてる気がする、今。
そうな気がするね。
そんな気がするよ。
予想は予想、一応うちマインドだね、結構。
あやすじゃんって聞いてたもんね。
だから不完全主義をまとめると、ある種の諦めから始まってますと。
無理だねって。
そんな思い通りの人生っていうのは絶対に歩めないっていう。
ある種の定念みたいなものから始まり、
その中でどうしようかっていうものがあるからこそ、逆に心が安定する。
多くの人は心を安定させるために現実をコントロールしようとしちゃうんだけど、
いやいや、心って安定してますよね。
だからこういう活動をできるんですっていう順番にしましょう。
素晴らしい。
っていうのがあるので、
頑張る人って未来のために計画とか自己啓発とか、
未来のための行動をしちゃうけど、頑張らない人はとにかくやるっていう行動とか量に効果するよねっていう話が載っていて、
確かになーと。
頑張らない人にならないとなーと思うという。
頑張らない人になると頑張らなきゃいけなくなる。
そうそう、でもそれもそういう意味で、
不完全主義を完璧に目指そうとすると挫折するからやめろっていう。
そこがパラドックスな感じ。
確かに、めっちゃ思ったわ今それ。
これ面白くて、いちいち表現がおもろくて。
習慣化が大事ですみたいな自己啓発って無限にあるじゃないですか。
あるね。
毎日こういうふうに、1日5分で一回やりましょう、毎日。
これって完璧主義ですよ。
確かにね。
まるで人間には感情とかバイオリズムとかがなくて、
絶対に毎日できるっていう傲慢さがある。
現実はそんなことないと。
人間だからバイオリズムもあれば予定もあれば急なできないこともある。
そこを加味してこそができるので、この人は毎日じゃなくて
だいたい毎日っていう設定しなさいっていう。
非常になんとかありますね。
いいね。
だいたい毎日っていうのは週1回では少ないが、週7ではない。
だいたい毎日っていうのもどうだろう。
まあ5ぐらいじゃないかなみたいなことを書いてて。
徹底してちょっとざっくりしてる感じがいいね。
そう。
なるほどね。
そのだいたい毎日っていうのが一番ちょうどいいですよみたいな。
ちょっと面白いなとかもしていて。
いや、気持ちめっちゃわかるし、
その本のテーマの中で今日のキーワードになってる頑張るっていう言葉は、
結構呪いだなと思ってて。
頑張ってねって人に言うのも俺あんま好きじゃないんだよね。
あんま言わないようなところですね。
あんま言わない。頑張ってっていうこと言いたくなくて。
流れで言わざるを得ないとか言うけど、
せめて踏ん張ってねとかにしてる。
ニュアンスを変えてね。
ニュアンスをちょっと変えてるって。
頑張るって無理してるというか、
やりたくないことを無理にやってる感がすごい強い。
努力の話したときにそれは結局嫌がってたもんね。
努力はあれだもんな。
努力はあれだとか言うとすげえろくでもない人っぽいけど、
でもその通りだからあんまり言えないな。
ちゃんと受け入れてる。
諦めたからスタートしてた。
基本諦めてるからね。
さすが。
今回のテーマでは全然なかったけど、
過去回で精神的に病んじゃうよねとかの話って、
頑張んなきゃいけないって思ってる人ほどやっぱ病むかなって思ったんですよ。
それは本当にそう。
それがその本の言ってるその完全主義。
不完全主義はそのアンチ的な話だけど、
やっぱなんか頑張らなきゃいけないみたいに思って、
何か努力するとか何かに向かってアクションするのめちゃめちゃいいことだなって思ってるけど、
これをしなきゃ絶対これをやらなきゃの状態になるっていうことが、
それによってなされることもあるけど、
必ずしも幸せにはならんよなっていう感覚がすごいあるかもしれないね。
だからうつ病気味の人に頑張ってねって結構さ、
つながってるのがよくわかる。
面白いね。
この話全部子育てと保育そのものにも、
そのものだよ、本当に。
それこそ頑張れっていう言葉一つで言ったら、
なんとなくさ、ほらみんなでなんとかちゃんのこと応援しようとか、
ありがちよね。ありがちだし、そういうことをしている保育園とか、
子供たちもみんなで応援しましたみたいなので、
お涙ちょうだい感動話みたいなのって、
今もたくさんあるし、むしろ主流ぐらいにあると思うんだけど、
違和感はずっとあって、
だって順位を決めてるんだからさ、
それはもう大人が設定した中で、
その1位とか2位とか、
ちと負けを勝手に設定してやらせている中で、
負けた側は、勝ちに残れなかった人は、
残ってる人を応援しなきゃいけないみたいなところに、
ある種の強制力があるわけ。
そういうところで、頑張れ、頑張らなければならない子供たちもそうだし、
頑張れって言わなきゃいけない子供たちもいて、
俺なんかすごくそのドラマが気持ち悪いなと思っているんだけど、
次縁の話というよりは他の縁の話だけどね。
なんかそういうところにも高谷さんが言った、
頑張れって呪いの言葉だよねみたいな。
それでいて、頑張らねばならぬみたいなマインドって、
もうそういう幼少期から植え付けられてるなとも思うし。
なんだろうね、幼少期からの親も含めての、
なんか頑張るのはいいことだみたいな、
世界観はすごいあると思うし。
なんかそこが結構強いなと思うんだよね。
なんかそれが、そういう世界観がインストールされすぎると、
頑張ってるのに評価してくれないみたいな感じのとこに行っちゃう気がしてて、
そうすると病むよな。
やっぱりその、まあ神経症的なね、鬱もそうだし、
やっぱりメンタル的にちょっとレジリエンスが低いタイプの大人の子供もそうだけど、
やっぱり自己不全感すごく感じやすい。
でいて完璧主義であるっていうのは本当に、
やっぱり頑張り屋さんの方がそういう病気になりやすいっていうのは、
エビデンスとして本当にあるから。
それはもう西洋医学だけじゃなくて、東洋医学系の中医学の本にも書いてある。
そういうタイプの人のこの気の張り方とかで、
やっぱりこう神経的に疲れちゃうよとか、
体が緊張しちゃってこういう症状出ちゃうよねとかっていうのも含めて、
もう何千年も前から言われてるような話だよなぁと思いながら聞いてたんだけど、
面白いね、なんかそういったことにつながっていって。
そうだね、頑張るって、
なんかかなり自分は頑張ってるとかって結構主観的なものだけどさ、
なんか他人から見たら頑張ってるように見えても、
全然なんか本人その頑張ってる気なくそれをやってるみたいなことっていっぱいあるわけじゃん。
考えると頑張るってめっちゃなんか主観的ような、
自分が頑張ってますみたいな。
多くの人はそこまで頑張っているっていう言葉に対してネガティブな印象がなくね、
本当に純粋に頑張ってるよねって使ってる人の方が多いとは思うんだけど、
なんかでもそれで言うとやっぱり僕は保育者、保育士さんって、
どちらかというと頑張り屋さんの完璧主義タイプの方が多いとは思う。
だからやっぱり子供たちにそれこそ片付けをしなさいと。
これからご飯だから片付けの時間です。片付けをしましょうって言ってさせるじゃないですか。
で、やっぱしない子が出てくるじゃないですか。どうして片付けしないんだってやり取りが生まれて、
そこで子供とのうまくやり取りがいかなくて、子供が崩れて大人が疲れてみたいなのって、
子育てでも保育でもあるあるな場面だと思うけど、
そもそもなんで片付けなきゃいけないのかっていうところに立ち戻って考えられる保育者って、
あんまり多くないイメージなのね。
俺なんか別にどうでもいいじゃないかと思いながら保育入ってるんだけど、別に。
怪我のリスクが上がるとか、それによって何か不具合があってあれば、
もちろん吐けるは吐けるけど、
なんというか、お人形さんはここ、レゴはここみたいな、
やっぱちゃんと全部そういうふうになってる、大概。
視覚的に分かりやすく片付けやすい、ある種の合理的配慮みたいなものが保育って絶対にあるんだけど、
なんかそれ通りに片付けていないとダメなんだみたいなものが、
無意識的に働きやすいと言えば働きやすくて、
本当に多分、本当に子供の主体性と職員の自身の保育感だったり、
やりたい保育を体現してる保育園って、
多分だけど、そういったことを強制はしないと思うんだよな。
させないと思う。むしろ意識的に。
でも、自然と子供たちは片付けるようになる。
だから頑張らなくてもできる。
頑張る必要はそこにないけど、ちゃんと部屋は片付いた状態を保てる。
っていうところまでいけると、その保育ってやっぱすげえなって思うし、
なかなか難しくってやれてないところもたくさんあるな。
多くの保育園は頑張らせた結果、そこにいろんなそこが埋まれてトラブルがあって、
ストレスがあるんだなって思うと、
これからの保育を考えていく上で、
頑張らない、それこそ不完全主義っていうものを保育の中に落とし込んでいくみたいな
ルールってやるんじゃないかなって今聞いてて。
だからすごい保育の本質にもすごい通ずるというか、
人を育てていく上で大事なところにも通じてるよなって思ったよ。
不完全主義っていう本の中で一番僕が好きだったところは、
こういう本ってだいたい読むと期待するのが、
じゃあその分かりましたと不完全主義が幸せなんですねと、
不完全主義が幸せに有意義にいきたいんで何すればいいんですかっていう、
具体的な行動とか計画の立て方みたいのをついつい求めがちなんだけど、
それは論じません。
なぜなら、あなたにとっての答えを僕は知らないので。
答えがどんなものであって、その問いっていうのは自分で見つけないと意味ないんですよ。
なぜなら、ここで話している3人ですらそれぞれ絶対違うっていうところは、
ちゃんと自分で考えようねってある種の言いつき話があるっていうのは、
安易な答えに逃げないっていうのはすごくいい。
なんかやっぱ誠実な人だね、著者が。
ここをなんか簡単にこうハウツーにしてしまうっていうのはなんか、
逃すものがあるなという感じがして、面白いですね。
たしかにハウツーに落とし込んだ瞬間、やっぱ完璧主義が湧いてきてる感じがする。
そうそうそうそう。
それを攻めば。
与えられた何かに向かって頑張るっていうのは、それこそ頑張るんだろうな。
頑張るっていう単語が解像度が荒くて、
エネルギーを注ぐっていう意味合いというより、たぶんこの本の中では、
現実をコントロールする、そういう意味合いなんだよね。
コントロールできないものをコントロールしようとする行為、システム化とかそういう行為、
自分の人生のシステム化みたいな行為は手放そうねっていう感じ。
結局それだよね。
コントロールできないものをコントロールしようとするから不幸になるよねっていう話は、
本当その通りだと思うし、他人の気持ちも含めてね。
他人からどう思われるかとかも全部別に、コントロールしようと思ったら不幸になりそうだけど、
他人のその氷山の一角の見えてるとこだけを見て、自分は自分の真相、
言っても意識的に把握できるとこまでだけど、自分のことは分かってるから、
そこと比較して落ち込むみたいなのをよく見るから、
なんかそれって比較するもんじゃないし、そもそもコントロール、
他人の見えてるところをコントロールもできないし、
でも逆にそれを見て自分がどう思うかもそんなにコントロールできないから、
それも受け入れて、じゃあどうしようっていう話だよね、多分。
完璧主義は未来に向けて現実をコントロールしようとするけど、
そうじゃなくて、今言ったように今の自分にフォーカスをしろよっていう話で、
僕はあの一番思い出したエピソードが、
僕と木曽さんとね、チョロ先生は同じ高校なんですけど、
僕と木曽さんは同じクラスだったんですね、3年生の時、高校生の時。
卒業式の時って大体担任がいい子って言おうとするじゃないですか、
僕はそういうの嫌いなんですよ、基本的に。
木曽さんくせえ子と言いやがってるとか、
もう社会知らないくせにとか思っちゃうんですけど、
でもその、僕らの担任の先生は結構、
普段なんていうか、別にクールというか、
そんなに生徒と仲良くしようというタイプじゃなかったんですけど、
結構僕、記憶に残ってて、
何を言ったかっていうと、
明日できることを今日するなって言ってたんですよ。
結構さ、一般的な教師が言う言葉って逆じゃない?
明日やろう、バカやろうって言ったりする。
我々世代はちょっとあるよね。
そうそうそうそう、じゃなくて、
明日できることを今やらない方がいい、
今できることを今やった方がいいよねっていうメッセージって、
これと共通する部分があるなって。
今、この瞬間に集中するっていうことが結局、
全てです。
未来とか過去って感じていけないので。
っていうメッセージだなと思って、
10何年ぶりに思い出して、
そうか、そういえばそんなこと言ってたなっていう。
確かにね。
別に好きではなかったけど、いいことを言う人だったなって。
そういうこといっぱいあるよね。
その人に対して自分がどう思ってるかさておき、
何年後とかに思い出して、
あの言葉を改めて考えるみたいなことってあるな。
いい先生だ。
そういうエピソードを保育園児に残せるように。
いやもうね、保育園での出来事なんてね、
1ミリも覚えてなくていいと思うんだよね。
本当に。
でもそれもある種の不完全主義だよね。
いや、そうそうそう。だから、
別に何でもいいのよ。
これは保育会に対するちょっとアンチテーゼ的な感じになっちゃうけど、
もちろん大事だよ。記録はすごい大事。
計画立てることも大事だし、
反察をちゃんと言語化して共有してっていうのは本当に大事だから。
で、ちゃんと本当に保育がわかってきて、
慣れてきて、
なるとその記録書くこと自体もそうです。計画を立てること自体も、
なんらかなくパッとできるのよ。本当に。