ミノチさんにはね、どうしても制度、どうしてもって言えるっていうのを迫っていったけども、実話と言えるっていうのもちょっと近いのかもしれないね。
確かに。
あとその辺も実話って言えるチームってどうなのか、いいチームにしていくためにはどうすればいいのか、そんなことを対話というキーワードから迫っていこうと思います。
それでは最前線に行ってみましょう。
それでは本編です。今回のテーマは実話と言い合えるチーム。
ゲストは3月11日に著書、対話ドリブンを出版した五木田洋平さんです。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
ありがとうございます。
きたー。
はい、今日は洋平さんとお呼びしていいですかね。
はい、もちろんです。
ありがとうございます。
じゃあ簡単に自己紹介をお願いします。
はい、記録書等部のカリキュラムディレクターと代々木校の校長を務めてます、五木田洋平です。
みなさんからは洋平と呼ばれているので覚えていただけたらと思います。よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
番組的にはですね、ヒロック・ミノテさん出ていただいているので、なんとなくヒロックって素敵なとこだなっていうのと、あとどうしても制度のどうしてもって言葉が伝わってるかなと思うんですけれども、洋平さんはヒロックではどんなことをされてるんですか?
代々木校の校長っていう意味では本当に現場で代々木校のシェルパーをしていて、
子供たちと一緒に学び合うっていう本当に現場の世間一般でいう教員ですね。
あとはやっぱりなぜやるのか、なぜヒロックをするのか、どうありたいのかっていうところを言語化するとか体系化するのはカリキュラムディレクターとしての仕事なのでそちらもやっています。
なるほど、ありがとうございます。
そして本ですね、手元にあります対話ドリブンでございます。
ありがとうございます。
はい、ご聴衆ということで、大ちゃんもたくさん付箋が貼ってありますけども、読んでいかがですか?
聞いてる皆さん見えますか?この付箋の量。すごいんですよ。もうね、ちゃんと章ごとに貼ってありましてね。
で、僕何度も見て今赤の線がですね、たくさんこう引いてあって、これはいいなっていう本なんですよ。
ぜひ広まってほしいなっていうのもありますし、僕自身これで今助けられているところでもありますね。
なるほど。
やっぱりヨヘルさんの生き方そのものっていうのもね、なんか現れていて、それも素敵な本ですね。
じゃあ早速本のこと聞いちゃいますけども、タイトル対話ドリブンですね。
対話って何なのか、そしてドリブンって何なのか、ズバリ聞いちゃってもいいですか?
はい、ありがとうございます。なんか対話って最近よく言われるし、昔からある言葉じゃないですか。
けど何だろうっていうのはすごい皆さんごとに答えが違うって最初思ったんですね。
確かに。
僕も最初対話っていう言葉じゃないと思ってたんですけど、大事なのってお互いを知ること。
自分自身もそうだし、相手自身を知ること。
それがないと交渉とか議論とか討論とか雑談とか多分他のものになると思うんです。
けどお互いを知るための行動が対話かなと思っています。
ドリブンっていうのはアタカさんっていうですね、新日本とかイシューから始めようを書いた方がすごい好きで、
最初このオマージュを作りたいって思ったんですよね。
イシューから始めようは、イシュードリブンっていう英訳があって、
ドリブンって何だろうなっていうのがそこからですね、
ドリブンって対話から始めよう、何から始める、駆動するって意味なので、
授業論とか何々すべきみたいな話ではなくて、まずお互いを知ることから始めようよっていう思いを込めた本です。
対話ですよ、対話。本当にね、これもう相談したいことがたくさんあるわけですよ、僕。
会社でもですね、聞いてるからどこまで行ったらいいかあれなんですけど、
とにかくチームをどうしていくかっていうときに、対話しようっていうキーワードをここ3年ぐらいずっと言ってるわけですよ。
お互いにワンワンを文化にしていこうとかやってるけど、できない。できないの。
できないの、これちょっと今日は解決して帰りたいと思っておりますので、よろしくお願いします。
じゃあもう早速僕の悩みについて話してもよろしいですかね。
解決できるっていう立場だとまた対話じゃなくなりますからね。
一緒に悩んでほしい。
やっぱり僕はテレビ番組の制作会社なんですけど、面白いものを作るっていうのが正しいクリエイティブな会社の中にあって、
ものづくりのチームとしてっていうよりは会社の組織としてどう意思を統一していってみたいなのがやっぱ難しいんですよね。
本当に本読んでてもやっぱり先生でいらっしゃるから学校のことを書いているけれども、
すごく社会一般で使えることじゃないですか。
対話をしていってどこに向かっていってってことだと思うんですけど、定まっていない。
これからこっちの方向に向かっていくんだっていう形づくりがまだできていない状態っていうふうに分析してるんですけど、
どうしていったらいいですかね。
これすごい思うんですけど、意思統一は無理です。
言い切った。びっくりした。
意思統一っていうのは多分できない。意思統一をしようという考え方自体がちょっと難しいところがあると思っていて、
今どういう意思を持っているのかをまず出すことが大事だと思うんですね。
意思を統一しようっていうことは、どこか不自然な自分の今の考えてないこととかそっちに従わなきゃとか統一されなきゃみたいな文脈になると思うんです。
それよりかは自分がこうしたい、こうあるべきだ、こういうのは苦手だ、こういうのは好きじゃないっていうのをお互いに言い合うと共通点はあると思うんですよ。
例えば教員だったら、どの学校でもね。
例えば子供と接するのが好きだっていうふうなモチベーションになった人もいれば、成長っていうのはすごいいいことだからやってあげたいとかっていう教員もいるし、
僕はシンプルに子供が伸びる、大人が伸びる、できるようになった時のきらめきみたいなものが好きだから、その一瞬が面白くてやってるとか、
本当に言葉にすればいろんなモチベーションがあると思うんです。行きたい方向が。
でもそれだったら子供のためになることをやった方がいいよねっていうのは共通してたりとか、
共通してる方にまず向かってみるっていうのが対話の意味だと思うんです。
統一しようってなると、統一する人がいるわけで多分。
それはちょっと難しいなとはいつも思うんですよ。
でも会社ってパーパスとか決めていくわけじゃないですか。ミッションとかバリューとかいろんな言い方があると思うんですけど、
どこに向かっていくかっていうのは、何なら朝礼で読む会社だってたくさんあるわけじゃないですか。
言葉にしていって共通の認識を持って同じ方向に向かっていこうぜっていうのが強い組織な気がしちゃうんですけど、
それとは違う話?同じ話?
ヒロックもヒロック宣言っていうのがあって、一条に学習者の福利を拡張し続けるっていう文言があるんですね。
それこそパーパスというか。なんですけど、じゃあ福利ってなんだろうとか、
広がるってどういうことを指すんだろうっていうのは常に対話をするわけですよ。
だから例えば福利って幸福と利益みたいなイメージなんですけど、
じゃあお金を稼げるようになることが福利が拡張してるかって非常に危うい考え方だと思ってるんですよ。
それだけだとね。じゃあたくさん勉強ができるから良かった福利が増えたね。
別に今までと変わらないじゃないですか。いい大学行っていい会社に入ろうみたいなと一緒じゃないですか。
じゃなくて本当に幸せになるってどういうことなんだろうねっていうのを問い合う立ち戻って。
そのためにはパーパスっていうのは絶対必要だし、ビジョンだったりは言葉に一旦すごい必要。
その後それに盲目的に従うかそれについて問い合えるかっていうところに大きな分岐があるんだろうなと思ってます。
なるほどね。言葉として実際に手にとえる、いろんな角度から見えるものっていうのは必要だけど、
そもそもそれはそうなんだっていうこと。
それをどうやってカラフルにするのかごちゃごちゃにしていくのかカオスにしていくのかは
お互いを理解し合っていくっていう作業がすごい大切になっていくって思うんですよね。
よく話しますよやっぱり。
放課後2時半とか3時に授業が普通の学校も3時半に終わる。
その後何するかって言ったら宿題の丸付けとかテストを作るとか通知表をやるとか
法技校の指導するとかだと思うんですね。
そこがほぼゼロなんですよ。
そこで何するかって言ったら一人一人の名前を出して、
じゃあ太郎君は今日こうだったねとか。
しかも解釈じゃなくて事実。
今日はどこどこを勉強してたねとか。
ああいうとき笑顔だったねとかっていうのをずっと1時間2時間話して
じゃあ明日だったらこうしようかとか。
明日ちょっと休みにしよう。
ゆっくりしようかとか。
明日むしろがっつり関わるべきだよねとかっていうのを話していくので。
やっぱりそこの時間があってこそのさっきのカラフルなYとか
いろんな問い合うっていう文化な気がしますね。
水野先生は出ていただいたときは暇なんですよって。
冗談めかしてね。
暇だからやってるんですって言ってたけど。
でもそういうことですよね。
それぞれを見てお互いフィードバックしあってっていう時間を大切にしてるんですね。
前回の鎌倉の収録のときも出てきた高橋洋平さんがおっしゃっていた
相似系っていう言葉がよく出てきていて。
お互い学びの世界とか子供の学びの世界とかっていうのも形としては一緒なんだと。
相似系っていうのが言葉が出てきたんですけど。
今の洋平さんの話を聞いても相似系なのかなと思って。
子供と接するとか子供たちが学び合うとか子供たちが班を作るとか。
そういうのも同じく違いを認め合うって部分もあるってことなんですかね。
そうですね。やっぱり違うじゃないですか。人それぞれ。
それを一緒にならなきゃねとか正しいものがあるからねっていう風にすると窮屈というか。
一人一人が否定されてしまう部分があると思うんですよ。
でもあなたと私は違うよねっていう前提だと否定はそこにないじゃないですか。
どうあるべきだろうってお互い作り合っていくと思うんで。
やっぱりそこがすごく象徴的なんだと思うんですよね。
めっちゃいいと思いつつ、学校って結構型にはめがち。
授業時間だって決まってるし、教科だって決まってるし。
何時に登校して何時に帰るかも先生とか学校が決めるわけじゃないですか。
ある程度子供の意思とかを尊重するっていうのはもちろんいいけども、
一方でこのクラスはここに向かっていくんだっていうのも必要なのが学校なのかなって思っちゃうんですけど、