それでは続きになります。今回のテーマは、対話について対話しようということで若杉逸平さんにお話を聞いております。よろしくお願いします。
エピソードの1本目はですね、じゃあ対話って何だったんだろうとか、本によって我々がどう変化したかとか、そんなお話をさせてもらいました。
では2本目はですね、逸平さんがじゃあどうしてこう対話を大切にするに至ったのかということをどんどん深掘りしていきたいなと思っております。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
自己紹介でも名古屋市の工業高校に18年間勤めてらしたというふうに聞いたんですけれども、そもそも先生になりたいなーってずっと思って先生になったという感じなんですか?
実はですね、大学は工業大学の建築家卒業で設計士みたいなところを目指していた時期があったんですけど、でももっと前は実は教師とかそういうことに興味があって、
人に関わることをやりたいなと思いつつも、勝手な思い込みで理系だったもんです。数学とか措置系が得意で、逆に文系の科目はとても苦手だったもんですから、勝手に教育大学には行けないなとか、
教師の道はないなって勝手に思い込んで進んでいたところ、大学4年生の時に実は工業高校の建築家の教員になる道があるなんていうことを担当教員から偶然聞きまして、
途中で単位を取ったりとか採用試験を受けたりとかっていうことになって、結果的には採用されたっていうことになるんですけど。
じゃあ、なろうなろうと思ってたけど、いいんだみたいな。
いけるんだ、本当に自分の得意でやっていくと教員にもなれるんだみたいな感じでしたね。
得意を生かして、工業高校の中でも建築家の先生ということなんですけれども、18年間現役の先生っていうのはどんなふうにとられていらっしゃいましたか。
そうですね。教育について全く学ばずに教師になったもんですから、自分が児童生徒だった頃の記憶をたどって、どんな先生たちがいたかとか、
あとは現場で自分が働いている職場の先輩たちに言われたことや身を見真似だったりして、こういうふうにするといいんじゃないかみたいな教育をやっていたですね。
特にずっと最初のうち。子どもたちとの関係も悪くなかったもんですから、これでいいんだなみたいなことでどんどん進んでいったんですけど、
ただ、公立ではありつつも移動先がなくて、名古屋市内に建築家のある高校が1校しかなかったもんですから、結果18年間ずっと同じ学校で勤務していたこともあり、
どうですかね。やはりこれは自分の性格ですけど、どんどん先生っぽくというか、どんどん王兵かな。わからないけど、ちょっとそういうような慣れてきたことによって、
何だろうな、生徒子どもたちとの心の距離が離れたりとか、雑になってたのかもしれませんね。授業のクオリティも大抵高くはなかっただろうし、
それこそ一斉型授業で40分間50分間喋り続けるみたいな授業もほとんどしてましたし、まさに対話なんてあったのかというような状態だったかもしれませんね、今思えば。
個別では対話してた可能性はありますけど、授業とかっていうフレームの中ではあんまりなかったのかもしれないなと、今は思いますね。
分かる分かる。ありますよね。
ある。やっぱりある。
もう一回行って謝りたいなっていう格好めっちゃありますね。
ある。あるね。
いや、言われた方が、もちろん気づいてるパターンもあるけど、先生ってそんなもんって思ってるのがほとんどなんじゃないかと思いますけどね。
だからその時の自分を思い出すとね、あーってめっちゃ抱えるね、頭ね。
えー。
さっきの授業の話もあったけど、僕も喋り倒すような授業をしてた時期に戻って僕に言ってあげたいもん。
対話について対話しようぜって。
めちゃめちゃ思うね。
そっか。
あるある。
じゃあどんどん自分の中で知識がついていったり、いろんな世界が広がることによってできることも増えていったし、ちょっとこの場所じゃないかもなって、もっと違う世界もあるかもなみたいなことだったんですかね。
そうですね。
やっぱそのまず学んでいく中で、自分の授業だったりとか部活だったりとか、学校の教師として何ができるのかみたいなところをやり始めていって、
その延長上にやっぱり組織の先生たちとのコミュニケーションだったりもあるし、あと学校を越えて土日とかを使いながら勉強会をやろうみたいなこともやり始めたので、
それを1,2年やっていくと先生たちとの学びだったりとか、そこがすごく自分として楽しいし、必要性も感じたし、そういうことって今ほどなかったし、10年近く前ですけど、そういうことを仕事にできたらいいなとは思ったけど、
収入がそれで安定していくのかとか、生きていけるのかみたいなことになると、なかなか踏ん切りもつかず。
でもなんかいやいや続けるのもすごく失礼だし、それは子どもたちに対しても。やる気がある状態で仕事を続けられてないかどうかを常に悩んでる時期はありましたね。
特に退職する1年前ぐらいは万一のように悩んでましたね。続けることがいいのか、先が見えないけどやめて作っていくことがいいのかみたいなね。
それでも次のステージなんだって思えたのは何でだったんですか?
最後の最後は明日死ぬんだったら今日何やりたいかって話だったなって思って、結局そのお金、家族もいますしね、生きていけなくなってしまうと人助けもできないわけで、
そうなってくる可能性もあるけど、でもまあやめてみれば何とかなるかもなっていうこともあったもんですから、
誰かに退職金もあるしって言われて、あ、そっか、退職金もらえるんだみたいなところもあって、ちょっとほっとしたりとかしながら、そんなような感じでしたね、最後は。
それから今では7年。
丸7年ぐらいですね、ちょうど。
丸7年。何年間振り返ってみていかがですか?
そうですね、実はコロナもありましたのでね、ちょっとイベントしづらい時期とか、学校の中入ってもマスクして顔が見えない状態でってやりづらさのある時期もありましたけど、
学校教育に関して言えば、とにかく今まで自分が同じ学校に18年行ったってことを考えると、いろんな校種のいろんな地域の学校の先生たちと会うことができるようになりましたし、
あとは学校教育だけじゃなくて、福祉ベースの活動をしている方々と一緒に仕事をしたりとか、これは名古屋市の方も多いですけど、
例えば学習支援とか訪問支援とか、学校以外の場所で子どもたちに関わっている人たちと不登校支援だったりとか、いろんな人たちと会う機会がありまして、今でも一緒に仕事をしているんですけど、
ちょっと分野の少し違う人たちとも関われるようになってくる経験をしていて、それと併せて自分が本当にやりたいことを形にしていくみたいなことを続けていた中で、
徐々に徐々に経験も積みましたし、今回本も出版できたので、またこれをきっかけにしながらまた新しい後援があっていうタイミングが来ているかなと思いますけど。
はい、ありがとうございます。
そして、個人授業ひらけごま、そして一般社団法人ひらけエデュケーションを設立ということなんですけれども、ひらけエデュケーションについて分かってもいいですか?
はい、ひらけごまっていうのは実はですね、大学4年生の時には建築の大学、工業大学にいたもんですから、4年生の卒業の時に卒論以外にですね、卒業設計っていうのを作る課題がありまして、両方提出しなきゃいけない大学だったんですけど、
卒業設計のテーマがちょうど今日いる実家の地域を使って、地域づくりみたいなところをテーマにした卒業設計にしたんですよね。
その設計のタイトルがひらけごまだったんですよ。この地域にくさび型の建物を挿入することで地域が開いていくっていうような、特にこの辺り外国の方も多いですし、開くっていうイメージがあった。
ちょうど今日辞めて、個人事業でまず何か野望をつけるときに、これいいじゃないかっていうのがちょうどひらけごま。
開くっていうワードが何か与えられていくわけじゃなくて、自分の中にあるものが何かのきっかけで開いていく。自分に力があるんだっていうようなメッセージがあると思ったものですから、ひらけごまでまずは個人事業主として立ち上げ。
1年後に実は仲間が退職するということを言い始めましたので、2人いれば一般社団法人ってできるんだよねっていうところからひらけエデュケーションという法人を作ろうということになりまして、2人で立ち上げるという形になったのが一般社団法人ひらけエデュケーション。
そちらはどっちかというと学校教育に特化したような法人で、ひらけごまの方は学校以外の人に関わるところであれば何でもというような形で活動していることになりますね。
分かりました。ありがとうございます。ひらけエデュケーションのとっても素敵な言葉だなと思ったのが、語り合い、つながり合い、学び合い、この3つあったのがとっても面白いなと思いまして、それぞれ別々の役割というか性格が違うものなんですかね。
そうですね。つながってはいると思うので、法人のロゴの円が3つ重なり合うようなロゴを作っているんですけど、この3つの輪がつながり合いつつもそれぞれを大事にしようみたいなイメージで今坪玄が言ってくれた3つなんですけど、それが樹木のような形をしているのは法人ロゴにしているんですけど、
これも実はもともと働いていた学校の仲間に作ってもらったロゴになりますね。
ありがとうございます。ざざっと20数年を振り返っていただきましたけど、だいちゃんいかがですか。
なんかね自分の経験と重なるような経緯でもあるんですよね。学校現場にいてそれを旅立ってですね。なんかその変化のきっかけの話なんですけど、僕と一平さんと共通の知り合いがいるんですよね。山本歩美さんという方でもしかしたら結構聞いてくれてると思うんですけど、
この山本歩美さんの話をちょっと思い出しながら、いつも変化のきっかけって対話で生まれてるんじゃないかというふうに僕思ってるんですよ。きっとなんか一平さんの変化のきっかけにも対話があったんじゃないかなって、そこの対話なんか聞いてみたいなと思ったんですけど、僕自身はその山本歩美さんから誘われたね、あの学校見に行こうやって言って、ある学校見に行ったんですよ。
そこがもう衝撃的で、僕が普段やってる教育と違うわけですよ。僕その時になんだこれって思ったの正直。これ教育なのとか言ってちょっと斜めに見てたんですよ。そんな対話にならなそうな僕の発言を山本歩美さん受け取ってくれて、わかるなーってこれまで私たちそういう教育だったもんねって。
でも本当の教育って何なんだろうねって。教育って何なんだろうねっていう問いがずっと残ってるの。これね14年前だと思うんですよ。あ、12年前か。それで山本さんとずっと対話していって、それがきっかけで僕の中の教育感がかなり転換できたんですよね。
だから一平さんのそのきっかけになる対話みたいなのもいずれ聞いてみたいなとか思いながら、今一平さんのストーリー聞きながらね、覚えましたね。一平さんと僕をつないでくれたのは山本歩美さんが大きいんですよ。
たった一つことの問いで。問いで、はっとしたわけですね。そういった意味で言うと、一番初めのなんで先生やってるのもきっかけの問いでもありますね。
確かに今だからだいちゃんの話聞いてて思い浮かんだのはその話ですね。その人実は今一緒に平家エデュケーションやってる仲間なんですけど、彼が実は大学からの友達で、学校で働いたときも同じ職場で働いていて。
で、自分が退職した1年後に、誘ったわけではないんだけど、でもなんとなく辞めるんじゃないかと思いつついたら辞めて、せっかくだったら一緒にやろうよみたいなところから、今一緒に活動してるハットリーっていうやつなんですけど、彼はやっぱ対話だと思いますね。すぐ対話を感じる人なので。
彼が言うんであれば受け入れられるみたいなことからきっかけが始まったかもしれませんね。自分の中で。
問いって本当に人を変える力があるんですね。中伊達さん、伊達ちゃんの隣の先生は幸せですかってだいちゃんに言ったのも大きなきっかけだと思うね。
そうですね。問いってやっぱりなんか対話から生まれることも結構あるなと思ってて、その場の中で2人でやり取りする中で生まれてきたものってやっぱ強いなって。
はい、そんなわけで20数年の一平さんの歴史を追うことができました。どうもありがとうございました。
ありがとうございました。
じゃあもう次からはですね、対話とは何かをガンガン3人で深掘りしていこうかと思いますので、次のエピソードもよろしくお願いします。
お願いします。