なるほど。やっぱりこれを読んでいて、っぽさってすごく救われる言葉だなというふうにも思っていまして、
例えばちょっと読ませていただくんですけど、親、仕事、学生などすることもみんな人生初めての経験。
やりながら感覚をつかんで生きている。プロなんて言われるとそこに正解があってそうでない自分、できない自分はダメな人だと感じることもある。
でも実は本当はみんなそれっぽくやっているだけなのかもしれない。
ということで、これなかなか優しい表現で救われる方もいるんじゃないかなと思いました。
泣けるよねここね。僕らねこのパパ側面で見ちゃうじゃないですか。
そうね。
パパっていうっぽさ着てるよね。
着るよ。
着た上でさ、頑張って僕娘ね、娘と接してさ、娘寝た後に奥さんとっぽさ脱いで泣きながら話すとか結構あるなと思ってて、
さらに僕好きなフレーズがあるんですけど、ここなんですよ。どんなっぽさもありなんじゃないって僕は思ってるっていう表現があるんですよ。
だから脱げって言われる感じありません?こういうのって。鎧を脱ぎましょうとか。
で、なんかそれって脱がなきゃいけないのかなっていうようなトライも以前はあったんですけど、ここのね本であるね、まあそれもいいんじゃないっていうのもね、なかなか暖かいっすよね。
らしさとまた違うんですかこれは。っぽさとらしさって。
確かに。
似てるようでちょっと違う側面があるんじゃないかな。
うん、気になる。
うん、確かに今言われて思ったんですけど、なんからしくって言われちゃうと、なんかそこに寄せていく感じしませんか?なんかそう。
分かるかも。
そっちになっていかなきゃいけない自分というか、だから。
理想像みたいな。
自分らしく、あなたらしくなんて言われると、それって何かよく分かんないけど、そっちに寄せて探っていくみたいな。
ほんとだ。
感じがある。
先生らしくしなさいみたいに言いそうだもんね。
そういうなんか、それを探っていかなきゃいけなくなってくると、ちょっとそれもしんどさみたいな。
確かに。
あるかなっていう。
ぽさってなんかどっちかっていうと、自分で振る舞うみたいな感覚があるかもしれないですね。
似てると思うんだけど。
確かにニュアンス違うかも。
ね、自分らしくいなさいって言われたら苦しくてしょうがない。
苦しいわ。
なんだよそもそも自分ってみたいになっちゃうけど。
軽いよね、ぽい。
ぽさって。
この軽さがいいですよね。
そう思う、そう思う、ほんとそう思う。
軽いのがいいんだよな。
そう思う。
ぽいね、みたいな。
ぽいねって。
ぽくやってるね、みたいな。
確かに。
実はそんな感じかもしれないしね、ほんとにみんなね。
そうだよね。
言えないけど。
めっちゃ分かるな。
僕たち共通でね、先生だったじゃないですか。
ぽいだけなんですよね。
実はね。
そうそう。
一生懸命やってんだけど、実はほんとにこれでいいのかなってどっかにね、抱えてたりもするし。
これは先生だけじゃなく、大体いろんなとこでそういうことって起こってんじゃないかなって。
分かるわ。
重ね着っていうのがまた、言えて妙な感じ。
ぽさが重ね。
着たり脱いだり、選んだり、重ねたり。
そう。
するね。
確かに。
これ自分で着られてるうちはまだいいんだけど、なんか着させられてしまったりとかね、なんか着たくないのに重ね着していくとなんかこう重たくなったりとかね、脱げなくなったりとか。
暑いのに重ね着しちゃって汗だくだくみたいなこともやっぱりあるなーっていうのは思いますよね。
分かるなー。
多分校長先生たちなんかまさにそういう感覚なのかもしれないですよね。
そうだね。
前まで例えば一教員だった人が管理職になった瞬間に着てる多分感覚ないんですよね。
気づいたら着ていて、あるなーそういうの。
なんかべきにも近い。
近いよね。
近いよね。
僕もやっぱりこの仕事してて先輩になったらさ、後輩にはある程度厳しく指導するべき、自分がしてもらってありがたいと思ってたからね、指導するべきと思ってたけど、
今思ったらつらかったなーって思って、自分に合ってなかったからとは思い出しますね。
そんなふうにすごく救ってくれる表現だなーというふうに思いました。
そして最後、ともに生きるということで締めているんですけれども、こちらどんな思いで書かれたんでしょうか。
そうですね。
なんかともに生きるって大事だなーとか、そうなれたらいいなーって思っているんですよ。
で、それは自分自身がまず生まれてきたから、どうせだったら生きていきたいなーと思うし、自分以外の人たちも生まれてきているから、その人たちも生きていきたいのかなと思うんだけど、
でもいろんな理由、事情で生きていけなかったりとかあると思うんですよね。
急に、例えばだけど、戦争とかで殺さなきゃいけないとか。
だからそうやってすごく残酷だなと思うし、生きていけたらいいな。
それを考えていく中でもやはり人間だものだから、なかなか争いもなくなりはしないしね。
当然自分だって誰とでも仲良くできないし、嫌われることも嫌いになることもあるわけで、そういう中でもともに生きるってどうすればいいんだろうなーって思ったときに、
みんな仲良くって言われるとすごく息苦しいんだけども、
ともに生きるっていうのは隣にいなくてもいいなとか、会わないなって思う人とめちゃめちゃ距離取ったりとか、もう二度と会わなくてもいいなって思っていて、
そこら辺の調整をする、あるいは気づいていくときにひょっとしたら対話を考えていくことで、
その人との関係性、距離みたいなものを見つけていけるんじゃないかなっていうふうに思ったので、
この対話の方の最後にともに生きるっていうことを添えたというか、対話について対話してるのかなって思うと、
一つの理由としてはなんかともに生きるっていうのは、なんかひょっとしたら見えてくるのかなっていう、そんなようなイメージで第4章にあるわけですね。
ともに生きる方向に向かっていこうよ、その方が良くない?
だーちゃんいいね。
ね、確かに。対話のね、理由の一つでしょうけど、確かにともに生きるっていうことは、それがやっぱり必要なんだろうなっていうときは、僕も多いなって思いましたね、今ね。
対話がなくても成立してるっていう見方って、まあ一時あったんですけど、そうでもないっていうか、実は見えにくいけどそれによってすごい助けられた。
それによってその人と一緒にね、なんか生きてこれたとか、過ごせたとか、プロジェクトが一緒にできたっていうのは、なんか思い出せば思い出すほどあるなって、あるな。
はい。
なのでまあ、みんなポサを着てたり脱いでたりするけども、全員脱がなきゃいけないわけじゃなくって、まあ着ててもいいじゃんと。着てるときもあれば脱いでるときもあるじゃんと。
その上で対話を重ねていって、ともに生きていこうよっていうメッセージのある、とても素敵な本だなと思いました。
ではここで、結構抽象的な話が多かったので、あえて具体を出して、3人で話してみたいなと思っております。
はい。コブトリ爺さん。昔話を持ってきました。
そこで来ましたか。
昔話を持ってきましたので、僕コブトリ爺さんの話知ってます?コブトリ爺さんって、対話で何とかもっといいエンディングになったと思うんですよ。
コブを取る、取られる話でしたっけ?
そうなんです、そうなんです。
ごめんね、ウロ覚えなんですよ。
じゃあちょっとあらすじ言いますね。
コブトリ爺さんは、そもそもコブのある優しいおじいさんと意地悪おじいさんがいますよと。
一人は優しいおじいさんで、子供がコブ爺さんがいるぞって言われても優しいおじいさんはニコニコしていると。
で、もう一人の意地悪おじいさんに、コブだって言うと、コラーと隣散らしていると。
で、ある時、優しいおじいさんだけが森の奥の鬼の宴会に迷い込んでしまって、
命を助けてくださいって言うんだけど、じゃあ楽しく踊ってみせろって言って。
優しいおじいさんが踊ったところ、いいぞとなって鬼は大喜び。
明日も来い、それまでコブを預かっておくということで、コブをスポンと抜きました。
ほっぺたがすべすべになりました。
そしたらですね、帰ってきた優しいおじいさんを見て、意地悪おじいさんは、コブなくなってんじゃんと思って羨ましくてたまりません。
明日はわしが代わりに行くということで、鬼の宴会へは意地悪おじいさんがこっそり行って、
今日も踊りを披露しますっていう風に鬼に行ったんだけれども、実は踊りが下手くそだったんですね。
見ていられないということで、鬼は呆れて、宴会は終わりだ、コブは返してやると言って、コブをスポンと投げてよこしました。
意地悪おじいさんはコブが二つになってしまいましたとさ。
というところで終わりのストーリーですね。
僕、このストーリーを考えたときに、優しいおじいさんって本当に優しいの?っていう風に思ったんですよ。
なるほど、クリティカル心境。
面白い。
ニコニコしてる優しいおじいさんはとってもいいと思うんですけど、子供にコブおじいさんがいるぞって言って、こらーと怒っている意地悪おじいさんも、まず救えるんじゃないかと思うんですよね。
そして鬼の宴会に迷い込んだのもしょうがないし、コブがスポンとなくなったのはよかったかもしれないけれども、そもそもルッキズムみたいな感じで、いいじゃん、コブあったっていいじゃんみたいなのもあったりしますし、
これはちょっと対話で何とかなったんじゃないかと思いますが、いかがですか?
何とかっていうのは、コブがニコにならずに済んだらよかった、そういうことでもない?
いや、たぶんこのストーリーでは、ハッピーだったのは優しいおじいさんだけなんですよ。鬼からも逃げることができ、コブもなくなり、よかったねっていう話なんですけど、村全体よくなら死にできなかったかなと思うんですよね。
考えたこともなかった。
その優しいおじいさんは、だからコブを取りたかったのかな、だから。
あそこはね、ストーリーでは語られてないんですけど、でも取られて喜んでるので、取りたかったかもしれないですね。
で、もう一人のおじいさんも取りたかったんでしょうね。
やっぱりいじられると怒ってるので嫌だったんでしょうね。
なのに二つになっちゃったという展開ですもんね。
対話か。
どんな対話があるといいんだろうね。
すごい、そもそもなんですけど、いじわるおじいさんって実は我々の社会にもいると思うんですよね。
なんかこう、コブがあるないは別として、子どもとの関わりがそもそも苦手な方とかっていらっしゃると思う。
で、ニコニコしてるおじいさんもいるとは思うんだけども、隣同士住んでて田畑を耕してるんだったら、もうちょっとそこなんとかならないかなというふうに思うんですよね。
なるほどね、そういうことか。
これは僕の持論というか感覚ですけど、例えばですよ、夫婦とかお隣さんとか、結構この距離感の近い人ってすごく対話が難しいなって感じることってあるんですよね。
これは近さゆえの、ひょっとしたら、例えば夫婦とかだったら甘えとかね、親子でもそうだけど、距離の取り方がちょっと違うみたいなのがあって、
そうすると過剰に接近してしまったりとか、言わなくていいこと言ったりとか、言い方きつくなったりみたいなことがあって、
だからひょっとしたらこのお二人のおじいさんの距離感がどれぐらいの距離で普段いたのかによって、
結果こうなってしまうような環境にあったのか、そんなような関連がありそうな気がした、環境というか。
確かに。
なんかありませんか?距離が近いがゆえの対話の難しさみたいなことを感じるとき。
めっちゃある、それ。
めっちゃある。
めっちゃある。
僕もすごい見方が近いようにしてて、このお二人はなんで対話が阻害されていたかっていう。
そもそもね。
そこに目がいったんですよ。だから関係性ってありますよね。近すぎたんじゃないかとか。
あとは近いというかそういう話をしなくなるきっかけがなんかあったのかとか。
あとはしにくいような今の状況があるんじゃないかとかね。
すごいお金がなくてご飯もなかなか食べれないとか。
そういうのがあるのかなとか探るけどね。
なるほどね。まさしく深淵ですね。
面白いね。
なんかこういう話から対話の必要性みたいなの探るの面白い。
なんか。
僕一個テーマ出していいですか。
お願いします。
アンパンマンの世界でアンハッピーな方がいるじゃないですか。
バイキンマンとかドキンちゃんとかホラーマンカビルンルンっているじゃないですか。
アンハッピー。
悪側というか。
悪側になってるじゃないですか。
これってなんでその側ができたんだろうなっていうのは結構考えたくなってきてて今。
バイキンマンってなんで悪をしてるのか。
そうそうそれはなんで悪になってるのかみたいなのって。
もしかしたら対話で解決できるのかどうかって。
これは対話マスターとしてはどうなんですか。
対話マスターはツボ犬のお子さんだけどね。
間違いないね。
ツボ犬のお子さん聞いてみて。
そうだねだけどアンパンマンとバイキンマンが対話するイメージ?
誰か誰か。
バイキンマンと誰か。
なんかねそこの一個ヒントになるのがドキンちゃんとね食パンマンは関係ができてるんですよ。
確かに。
はいはい。
食パンマン様って。
そう。
そうだね。
であれってドキンちゃんが好きだから食パンマンをっていう見方もあるけど食パンマンの受け取り方とか返し方って結構対話になってるんですよ。
対話な関係だと思いますね。
あの関係見てるとドキンちゃんと食パンマンはいけるのにドキンちゃんとアンパンマンはダメなわけだしって見るとなんかヒントはありそうなんですよ。
確かにそれはそうだね。
バイキンマンはそもそも何が目的なんですか?
ねあれ聞いてみたいよね。
ただただ荒らしてる可能性もあるんですね。
でもあれいつもきっかけって何パターンかに分かれるんだけどお腹空いたとか。
あとは何々が欲しいとかドキンちゃんにこれが欲しいって言われてドキンちゃんのために言ってるとか出発ってそんな悪くないですよ。
なるほど。
手段として間違えてるっていうのがもしかしたら何か手段が変わる対話があるのか。
確かに食料だったらね奪い合ってたらさずっと奪うわけにはいかないわけじゃない。
そうなんですよ。
で考えたら来年も再来年も一緒に美味しいご飯を食べるためには一緒に耕そうぜ。
だってそのマシーンを作る天才だからねバイキンマンは。
そのあの空飛ぶやつじゃなくて畑を耕すマシーンを作ってもらって一緒に山分けしようぜって言ったら解決するかもしれないもんね。
ある意味のポサになるんだけどバイキンマンはなんか悪っぽいじゃないですかもう。
バイキンだしね。
バイキンだしね。
でアンパンマンたちはなんか正義のヒーローっぽいじゃないですか。
ポサちょっと側を作って間開いてませんかって言うてもしかしたらバイキンマンになんかお腹とか空いてんじゃないのとか聞けたら違うかもしれないし。
ジャムおじさんのパンの配達でバイキンマンのところに行くっていうのをお試しでやってみたら違うんじゃないかとか。
確かに。
そのきっかけにもしかしたら対話があるんじゃないかな。
確かにバイキンマンは対話を望んでないかもしれないね。
そうなんだよ。
そっか。
全く対話の気配がない。
確かに。
ドキンちゃんぐらいじゃない対話が成立してるみたいなイメージは。
そうね。
他にはもう我が道でこうね一方的にみたいな感じがするけどね。
そう。
でなんかちょっと今現実世界一回戻ると僕たち学校現場行くじゃないですか。
対話を望んでない人って最初いません?
います。
その人に望んでないな対話しないなってあんましないじゃないですか僕たちって。
対話試みません?
うんうん。
なんかそういうのってあるんですか対話を試みるとか。
なんかいろんな理由があってその人はそういうスタンスを取るみたいなことはあると思うんだけど。
ある種こちら側が対話のスタンスがなければもう成立することは一生ないみたいなことになっちゃうでしょその平行線みたいな。
そう。
でもひとまず声かけるじゃないけどなんかこうね対話してみませんかみたいなことが起こると。
ひょっとしたら実はみたいなことが起こる可能性がそこは信じるかもしれないんだけど。
だからそこでこの人とどういう環境を作りたいかっていうことをこちらがどう思ってるかみたいなところによって始まりがあるかもしれないねひょっとしたら。
ね。
だからなんか実は対話って最初から対等じゃなきゃできないものでもないっていうか。
うんうん。
どっちかが対話にしたいって思っていたらそうなる時もあるんじゃないかなって思うんですよ。
確かに。
最初のコブトリ爺さんもあと今のバイキンマンも共通して最初のきっかけの聞くって人がいなかったんじゃないかみたいな。
確かに。
なるほどね。
そこの聞いてみたりとか話してみませんかっていうきっかけがあれば別のストーリーになった可能性あるなと思う。
そうだねバイキンマンの話を聞こうとする人いないもんね。
いないよね。
うん。
来たまたやってきたっつって。
確かに。
どうせあいつみたいな。
確かに。
殴ったろぐらいの感じ。
殴ったろぐらいなんだから。
そうだね。
である意味の暴力が正当化されて。
そうだね。
正当防衛なんだけどもう来た瞬間にバイキン来たみたいな。
殴り合いだもんな結局。
来ちゃってるからね。
確かに。
噛みついたりとか。
でも手がかりあってたまーにいい話の時あるんですよ。
うんうんうん。
じゃあモンジさんがこっそりパンとかなんか分けてあげて食べてまんざらでもない顔してバイバイキンって言って。
殴られないで帰るパターンあるんですよたまに。
じゃあモンジさんはそのスタンスが取れるんだ。
歩み寄るときあるんですよ。
あーそっか。
やつはね歩み寄るんすよ。
確かに。
対話できるんだ。
対話できるジャムはやるんすよ。
パンを通してね。
そう。
あーそれはあるな確かに。
あとね僕これ超マニアックなんでベンチさんっていう回があるんですよ。
知らない。
全然知らない。
でベンチの方がいるんですね。
あー。
でその人のベンチにバイキンマンが座ってね語るっていう回があるんですよ。
でその時にもう一人ね違う人が来てバイキンマンちゃんとね対話できるんですよ。
なんかそこのベンチとかもねそこヒントになってて。
対等じゃないですかそこに座って同じ方向向いて座って喋るわけなんですけど。
その時はねバイキンマン悪いことしないですね。
なるほど。
素敵に終わるんですよ。
ベンチさんいいよ。
ベンチさんいいでしょ。
ちょっと曖昧なんだけどね僕も。
でもねそんなのがあったなと思って。
じゃあやっぱりステージとあと聞いてくれる人とか環境とかそんなのがキーワードになってくるのかね。
なりそうだよね。
うん確かにね。
あのバイキンマンデモってことでしょ。
バイキンマンデモ。
デモできるって。
いいですね。
これ別ストーリーで考えるのおもろいねこれね。
ね。
面白い。
面白いわ。
ワークショップなりそうですね。
全然これだけでもね問いとしたらね。
ワークショップデザイナー的にはちょっとなんかありそうですよね。
使えそうな値段でね。
みんな知ってるからこそ使えるみたいな。
僕もあのだいちゃんの研修というかワークショップにご一緒させてもらうことがあるんですよ。
でだいたい先生たちがね楽しい雰囲気でわーっとお話しし合う感じになるけど。
僕はもうどちらかというとカメラ持って旗から見てるので。
中に入ってるというよりはいろんな人の表情を見てるんですよね。
で明らかにこの輪から外れて一人でいるちょっと立場が上な先生とかいらっしゃるんですよ。
で僕はいや大丈夫かなこの方。
なんか全然笑ってないけどとかって思いながら過ごしてるんですけど。
10分20分経ってパッとその方の手元を見るとめちゃくちゃメモってたりするんですよ。
なるほどなるほど。
すごい量。
誰よりも前向きにここの場を楽しんでんじゃんみたいなのを見るので。
ちょっとね別にそこの場に絶対に入らなきゃいけないわけじゃないから。
その後ちょっとお話ししようってなったらきっとバッと話してくれると思うから。
何かのきっかけとかステージとかその時がスタートじゃなくってその後の何かつながっていくだろうなとか。
そのふうに思いながらだいちゃんの場は見てましたよ。
だからあるがままでいいっていうのは僕結構大事にしてて。
なんか無理に話すとか無理に何かしろみたいなのはない方が僕は結構好きで。
それもある意味環境なんですよね。
で多分共通の今同じ人イメージ壺剣としてると思うんですけど、
その人終わった後来てくれてですね。
めっちゃ対話してくれました。
でしょうね。
あの熱量だから。
僕はねこう思ったよって言って。
こういう場って大事だよねって言ってたんですよ。
だから見えないですよね。
いっぺんさんの本にも書いてあるけど見えない部分がかなりあるじゃないですか人って。
そこをなんか覗こうとするって努力はやっぱしたいなと思うんだよね僕はね。
そしたらバイキンマン救われるよ。
見えない何かがあるんだよね。
なるほど。
なんか対話ってこの本の見開きにもあるんだけど話したくなったら話してもいいし聞いてるだけでもいいんだよっていう言葉があるんですけど、
まさにそのなんていうか聞いてるだけ言葉を発してないけど実は対話しているあるいは対話の場に参加しているっていうことがあるんですよね。
やっぱあると思うし発言してないからといって過剰に気を使う必要はなくその人のタイミングだとか。
でも参加したいけど背中を押してほしい人も中にはいるかもしれないから押してあげると本当入りたかったっていう人もいたりするから。
おもんばかることがすでに対話な関係なのかなっていう感じはしますね。
たしかにね。だって自己ない対話って言葉ありますもんね。
まずね。
自分とね。
そうなんですよ。話してるって前提にまずないんですよそもそも。
あと一平さんさっき出してくれた文化省の主体的対話的で深い学びの対話的っていうのはちゃんと解釈が示されていてですね。
こうやって話すのももちろんそうなんだけど自分との対話もそうだしあとは書物とか遠い人とかもそうだしあとは何かしたら情報だったりとか。
それ全部を含めて対話的と呼んでるんだよね。
だから実は対話ってあのわいわい話してる感じだけのイメージではないのはね間違いないと思う。
そこら辺の取り違いをしてしまうと何か無理やりね。
そうなんだよ。
話させてしまったりとか。
そう。
っていうことは苦しくなっちゃうっていうことにねつながって。
だから対話してくださいって怖いですよね。
うんうん。
やだ。
やだよね。
何かやだ。
無理やりね。
だから今から皆さんで対話をしますって言われたら何かうってなる感じがするよね。
結構振り返ってみてさっき対話だったなみたいな。
そんな感じ。
ことはね何かある気がするよね何か。
あるある。
対話しに行ってるわけじゃなくて話してたこの関係が何かすごく対話を感じたみたいな。
めっちゃわかるな。
あるなっていう感じがするね。
だから何か僕なんかで言うとその学校のね改革伴奏みたいにしてて1年間振り返ると何か僕たちめっちゃ対話してたよねって。
おーいいね。
対話してきてよかったねってみんな言うの。
なるほど。
いいね。
振り返ってね。
これがいいんだよね。
だから多分改革とかの前にいいですか皆さん対話が大事ですって言われてたらやだったんだよね多分ね。
確かに。
でも結果的に振り返ったらっていうのがあるな。
うんうん。
最初のうちは聞いてるだけの人もいたかもしれないしね。
でもそれでも3回対話だったと思うしね。
うんそう。
何かそういう感じするね何か。
ね。
面白いね。
まさかバイキンマンの話がこんな。