理不尽な経験について
第53回、高校国語について話すラジオの時間となりました。
この番組では、高校の国語科教員であるなんばが、
普段の授業の話や研究の話などをして、国語科の先生のみならず、
いろんな先生に授業や教育について考えてもらうことを目的としたラジオです。
みなさん、こんにちは。パーソナリティを進めますなんばむっとです。よろしくお願いします。
今回第53回なんですけど、
え、みなさんは理不尽に怒られたことありますか?
同僚、先輩、上司、親。
ただまた違う人からもしかしたら怒られている。そんなこともあるかもしれません。
で、理不尽って言いますけど、もしかしたらね、理不尽って向こうは思っていないかもしれないけれども、
こちら側にしてみたら理不尽だって思うこともあるのかなと思います。
僕も最近ですね、ちょっと自分も至らないところがあってね、
ご指導を受けたときがあったんですけど、
そのときにうまく納得できなかった、消化できなかったっていうことがあって、
簡単に言うと、情報のやり取り不足、コミュニケーション不足から来る食い違いで、
違うような対応を取ってしまったっていうのがあったんです。
ただそれも事前に連絡をこっちは知った、確認も知ったつもりだったんですね。
向こうも確認を知ったつもりっていう、確認したと断言できず、確認が不十分だったっていう。
その不十分不十分という食い違いから来るところで、ご指導を受けたんですけれども、
やっぱり自分の中でも、ゼロではなくて60,70くらいまで確認できた。
残りの30はダメだった。だから分かる。
けれども、それは自分だけが悪いのかっていうところがやっぱり強く出てしまったんですよね。
そういう感覚になったことが僕すごく久々で、
今までもいろんなところで自分の至らないところをご指摘いただいたりとか、
指導をいただいたりとかして、割とその時にはえぇーって思ったとしても、
その夜とかに冷静になって考えてみれば、それはそうだよね。
自分が足りてないよねってことを思って、結構自分の中で消化できるんですけど、
消化できないような感じ。
なんでっていう風になったのが、すごい最近の事案がどれくらい久々かっていうと、
何年かぶりっていうくらい。それくらいの感覚だったです。
珍しくね、理不尽、怒られ方とかっていうのとかも確認をして、
理不尽度40%だなとか、じゃあちゃんと言わなきゃいけないんだなとか、
でも自分が求めてるのは謝ってもらうことじゃないよなとかっていうことをいろいろ考えながら、
結果的にはひとまずは落ち着いているんですけれども、そんなことがありました。
で、皆さんはね、僕はたまたま今までも縁に恵まれて、
理不尽に言われていたのはたぶん高校の部活動ぐらいだったかなと思います。
ただ、学生の時に言われることと社会人の時に言われることっていうのは違うかなと思いますので、
社会人になってからは1年目のところぐらいからなので、
5年ぶりぐらいに理不尽だなってことを強く感じたかなっていうところで、
今日はポッドキャストを撮っています。
感情の解消とコミュニケーション
別に相手の方を非難したいとかそういうことでは全くなくて、
単純にこういうことがあって僕の中では久々で真剣な経験だったので、
皆さんにもお伝えしたいなというところで。
で、このね、イライラした時ってどう解消するんだろうってやっぱり思うんですよね。
同期の英語のよく出てくる先生とかとも話してたんですけど、
美味しいもの食べるとか、あとはリフレッシュするとか、
あとは僕とかもふて寝するとかっていうのがあって、
いろいろ高い策があったんですけど、
なんかいろいろ考えて、もちろんそれも大事だし、
僕もそれやってるしなんですけど、
やっぱりずっとそれでも根本的な解決につながっていなくて、
やっぱりもやもやしちゃう。
それが一回きりとかの相手だったらそれでしょうがないなって思うんですけど、
継続的な関わる相手とかだと、やっぱりそれだとずっともやもやして、
で、もやもやしたことがその後の行動とかにも出てきて、
なんかあんまりうまくいかない方向性になっちゃうのかなーってことを思ったりします。
やっぱりそういうことはちゃんと別に相手を論破したいとか屈服させようとかそういうことではなくて、
なんか根本のそこに立ち戻ってどこかで話すっていうのがもしかしたら必要なのかなと。
ただその後結局話したとして何を求めているのか、
やっぱり根本には人間なので分かってほしい。
自分はこうだった、こういう思いだったけれどもそれが取り違いだったとかっていうふうに
単に分かってほしいっていう部分が大きいのかなって今回の事案でも思いました。
だからその行動の云々ではなくて、
その真意をちゃんと汲んでくれているのかなっていうところがすごく大切なんだなと。
それは生徒とか他の人と接するときも僕も大切にしていきたいなって思い直したところで、
相手が本当はどう思っていてどういうふうにしていたのか。
例えば行動の面ですごくぶっきらぼうにいっている人がいたとしても、
それは実はその人的な愛情があってわざと強い言葉で言っているだけかもしれない。
っていうふうにその人がそういうような表現をする意図とかをちゃんと考えるようにしたいなと思います。
逆に優しいなって思う人とかも何で優しくしているんだろう。
いつも優しいのかな。どっかのタイミングだけ優しいのかな。
よく上がってくるのは提出物を期限内に出すか出さないかで評価とかを変えるかどうか。
いろんなことを考慮しながらちゃんと報告してくれたら送れていいよっていう人もいれば、
期限までにちゃんと出さなきゃいけないっていうことを言う人もいれば。
でもそれはその人たちなりのやっぱり優しさがあって。
やっぱり社会に出たときに期限っていうものを守らなきゃいけないから、
ある理由があろうともちゃんと期限内に出しなさいっていう指導ももちろん一つだし。
普段はちゃんと頑張ってるからこそ、たまのポカっていうものもちゃんと許してあげましょうっていうのも優しさだし。
それはどちらがいいとかではなくて、どんな生徒に学年スタッフだとか学校全体がしていきたいのかっていうところの優しさなのかなと思います。
だからもちろん個人個人の優しさはいいんですけど、それが学校組織って考えたときには、
その優しさがいろんな方向に向いていると生徒はその優しさに甘えていってしまう。
だからA先生はいいけどB先生は嫌だとかそういうことになってしまうかなと思いますので、
優しさと指導の一貫性
もちろんさじ加減で難しいところではありますが、その優しさっていうものもぜひ統一していきたいですよね。
やっぱり優しさを統一するって言うと窮屈に聞こえてしまうかなと思うんですけど、
育てたい生徒像っていうものの明確化でその窮屈さもなくなるのかなと思います。
こういう風に育てたいからここまでは許容しちゃいけないっていう風になってくると、
なんか頑張ろうかなっていう風に指導者側も思うし、
生徒側もここまでは大丈夫だけどここからはダメなんだ、その理由はこういうことなんだっていう風に
いろんなことが線引きがはっきりして過ごしやすくなるんだろうなと思います。
やっぱり指導を受ける、指導されるっていうのは上と下、上下関係がどうしても発生してきてしまうところかなと思います。
よくあるというか、僕もね、昔上下関係にやられてしまって、
なかなか精神的に病んでたんですけど、会うたびに動機がすごくなっちゃうとか、
お手洗いで深呼吸をしないといけないとか、そういうことも実は自分の経験の中では実はあって、
その時に上下関係が発生してきて、それだけだったらいいんですけど、
相手の顔色を伺うようになってしまうと、それはもう終わりだなと思うんです。
指導と精神的な負荷
終わりだなっていうか、もちろんそういうことも大切なんでしょうけど、
やっぱりそんな精神的な負荷をかけてまでやる必要があるのかなって思うんですよね。
その時に、例えば僕たちだったら、生徒のためだったものが、
その怒られる人のため、民間でも一緒だと思うんですよね。
B2Cでカスタマー、顧客に対してやっていたことが上司に怒られないためにやるとか、
っていうふうに段々目的と手段の取り違いが起きてきてしまっていくのはもったいないし、
それが学校内で人を教えるっていう立場と自分がそうなっていくのは良くない。
大事なのは指導側が悪いわけではなくて、
やっぱりそれを上手く噛み砕くというか、消化していくっていうスキルもやっぱり大事なんだろうなと思います。
指導を自分自身も受けて、その時にどんなことを思ったのか。
それを今度生徒とか自分よりも年齢が下の人に対してどういうふうにアプローチをしていくのかということもすごく大切だなと。
やっぱり一番思ったのは、指導だとしても相手のシーンをちゃんと考えて、
相手がどう考えているのかなっていうことをすごく大切にすることが大事なんだろうなと思いましたね。
だから今回のところは、もちろん自分的には精神的な負荷がかかってパウっていったところもあったんですけど、
そこからいろんなことが学べたなと思います。
それが一回指導を受けて元通りの関係っていうのはなかなか難しい。
何かは変化していくものなので、変化はあると思いますけど、
その中でも自分から逃げずにその事実に向き合って接していく、動いていくということを
自分自身も体現したいなと思いました。
ただ、自分もストレス耐性が低いんだなって思った次第ですよ。
単純に。
うちのパートナーと話したことですけど、
ストレス耐性低くね俺みたいな話をした時に、
学生の時に怒られてるのと今怒られてるのが違うからね、みたいな。
ストレス耐性っていうか、怒られていい気持ちする人はいないでしょうって言われて、
それはそうだよなって思ったんですけど、
やっぱり僕もそういうような自分が納得できない指導というか、
納得消化しきれない指導を受けたのが久々だったので、
自分ってストレス耐性低いんだなって思ったんですけど、
単純に今まではそういうことが経験として少なくて、
結構悟してくれる上司とかが多かったっていうことがもしかしたら背景なのかなみたいな、
そんなことを思いましたね。
だからもう恵まれて、
やっぱり今回受けた指導とか僕の中ではすごく大切にしたいことなので、
今回得たことっていうものを是非なくさずにしていきたいなと思います。
もしかしたら聞いている中で若い方もいるかもしれませんので、
あと同じぐらいの年代の方もいると思います。
なんか嫌だなと思った時にもそこで関係性を引いてしまうんではなくて、
どこかのタイミングでいいので、
是非一緒にというか、自分からどうにか関わっていく。
それが何か惨めに思えるかもしれないですけど、
そうじゃなくて、それもちゃんと成長、
自分が伸びていくために必要なことなのかなと思いました。
逆にこれを聞いている中経以上のベテランの先生とかですね、
関係性の大切さ
是非若手の親友を組んでほしいなと思っています。
これ聞いてくださる方は結構人情にあふれている方が多いと思うので、
あまり釈迦に説法かなと思うんですけど、
若手とかはね、結構うって思ったりすると、
僕もそうですけど、若手代表ではないですけど、
やっぱり人の顔を伺ってしまうということが往々にしてあると思うので、
そういうことも大切だと思うんですけど、
それ以上に笑顔でやれると嬉しいなと思います。
往々にしてやっぱりうって思って、
悔しさはバネにっていう時もありましたけど、
どっちかっていうと大人になってからは、
笑顔でもっともっとっていうふうに自分たちを
のびのびやらせてくれて、自由にやらせてくれて、
その中でも軌道修正してくれるような、
そんな職場だと僕も働きやすかったですし、
いろいろと大切な職場というか、
考え方なのかなと思ったりしているので、
是非中経以上の先生、そんな場作りしていただけると、
救われる人がいるんじゃないかなと思っていますので、
僕の意見として受け止めいただけると嬉しいです。
ということで、なかなか喋ってしまいました。
リスナーの皆様、改めまして皆様、
いつもありがとうございます。
やっぱり人を育てる仕事なので、
その人に寄り添っていきたいなと思わされた、
今回の一点でした。
また一歩ずつ僕も前に進んでいきたいと思いますので、
皆さんも一緒に進んでいただけたら幸いです。
ありがとうございました。