青い瞳
2023-01-29 07:21

青い瞳

あの日、産まれてきて良かった。
ハッピーバースデイ トウ ミー❣️

経験に損得なし
あるもの使えば道は開ける!

note.記事
https://note.com/gokigen_coach/n/n2762670e9cf9

BGM: MusMus

#マイヒストリー
#誕生日
#ごきげんに生きる
#鈴木安子
#A202301
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00:06
はい、皆様こんにちは。安子はんです、あんこはんです。 1月の29日の日曜日
今日は実はマイ ハッピーバースデー
ま、トゥーミーでございまして、はい。 1月の29日のそれも日曜日に私が生まれまして、ちょっと感慨深く思っておりました。
安子の安の字は、安息日、日曜日の安息日から来ているようなんですね。 父がつけてくれまして、
1週間に一度、安らかに、安らぎを与えられるような子になってほしいという思いがあったようです。 そんな今日は、娘夫婦と、主人と家族で食事をして、娘夫婦とはね、夜まで一緒だったんですけどね。
彼女を見て、こうやって私が生まれて、彼女に命のバトンを渡せたからだなぁなんて思っておりました。
そんな折、少し前ですね、3年ぐらい前に私が文章にしたのがありまして、その一つを読みます。
ご縁がいただきましたら、聞いてやってください。
青い瞳 そのおさんはかなりの難産だったようだ。
このままだと母体も胎児も危険です。 私は急遽監視分娩
かっこ監視で胎児の頭をハサミ引っ張って分辺させることに切り替えられ、どうにか光の世界にたどり着けた。
いちかばちかだったんだろうなぁ。 父は万が一の場合もあると医者に言われ、同意書にサインをしたとも聞いている。
その時、父はどんな気持ちでペンを取ったのだろうか。
とにもかくにも、母も子もその後の人生を歩むことができた。ありがたいことだ。
ただ、今振り返ればなんだそうだったのかと思えることも、その時はさぞ心配だったんだろうなぁということはある。
その1、母の体。 相当ダメージが大きかったようで、1年間は入隊員生活を余儀なくされたとか、
そして退院後2年間は自宅療養。 その間どうやら私にはウバがいたらしい。
後に私が高校2年の時に私の目の前に現れて、 安子ちゃんこんなに大きくなって、と泣かれたこともあった。
その2、私の右目。 生まれた時の私の右の目の瞳は青かったようである。
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ただ、眼球は左右同じく動いたので、医者の見解でしばらくは様子を見ることになったと聞く。
そして半年後、青い瞳は黒くなった。
この右目のこと。 今ならどんな状況なのか把握できる手段はいろいろあるのだろうが、当時はどうだったのか。
特に視力に関しては何歳ぐらいから測ることができるのだろうか。
当時の記憶でこんなことがある。 それは小学校に上がる時の視力検査でのこと。
私は実はすでに右目は見えなかったのだが、みんなと違うのが嫌で、ちょんぽして答えたのである。
当時の視力検査はスプーンを使って反対側の目を隠すというやり方。
ちょっと角度を変えてスプーンを浮かせれば、その隙間から左目で見ることができてしまった。
はい、ではこれは右。 じゃあ次のこれは上。
上。何と言っても左目は1.5。なんなくクリアである。
ただ学校の視力検査はパスできたものの、親は私の右目が見えていないことに気づいていたらしく、何とかしなくてはと奔走していた。
特に父の動きはさまじかったと後から聞いたことがある。
インターネットのない時代にどうやって情報収集をしたのだろうか。
私が小学校3年生の頃だったと思う。ある日父は私に言った。
やすこ、右目は手術をすればもしかしたら見えるようになるかもしれない。
ただし成功率は50%。失敗すれば眼球は動かなくなる可能性がある。
そして手術はアメリカでやることになる。だから学校は1、学年遅れることになるけどどうしたいか。
私は2つ返事で答えた。やらない。このままでいい。
私のこの右目は今でもほとんど色と光しか感じられないのだが、ここまで人生が進んでくると、あの時の選択でよかったんだなぁと思うことも多々ある。
ただ、確かに制限や血行な痛みを伴う事実があったことは否めない。
例えば、制限といえばいくつかの職業が選択できず。
なぜなら応募条件に視力0.1以上というのがあったからだ。
強制化となっていても強制はできないので諦めるしかない。
あとは3D映画を3Dとして感じられることが少ない。
調子がいいと感覚をキャッチできるのだけども、それはかなり稀なこと。
また、痛みの伴うことといえば結構な回数転んだり起こったりしたかと思う。
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3歳では転んで角材から出ていた釘に顎を打ち付け何針か縫ったとか。
20歳の時、階段の最上段から一番下まで吹っ飛んだ話とか。
はたまた40年になってからもバスのステップを踏み外して円積までスライディングしてストップ。
左半分、顔がしばらくの間お湯屋さん状態になった話とか。
まあいろいろ出てくる出てくる。
もちろん全てが目のせいではないかもしれないが、なるほどそうかもねーと後から思えることはたくさんある。
そして今となってみれば、それらの経験こそがもしかしたら私が手にできた財産とも言えることなのかもしれない。
経験に損得なし。あるものを使えば道は開ける。
お聞きいただきましてありがとうございます。またお耳にかかります。
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