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2019-12-20 36:18

第57回【GODAI港北テニスコーチ紹介】藤原唱平コーチ

初めて買った写真集は鶴田〇由(笑) !?
秋田県で生まれ育ち、秋田県で育った生粋の秋田男児。
自然の中で育ったからこそ、伝えられることがある。
都心の窮屈な環境だからこそ、テニスを通じて運動する事の大切さを子供たちに伝えたい。
白楽支店の石垣コーチ同郷で先輩後輩の間柄。自然×テニスをよく理解した藤原コーチの楽しさを感じるお話。





00:02
五代スポーツポッドキャスト、すぽきゃす。この番組は、スポーツを通じて、人々の健康生活の実現を目指す、五代グループの提供でお届けいたします。
はい、すぽきゃす第57回。本日は、港北支店藤原コーチです。よろしくお願いします。
藤原です。よろしくお願いします。
藤原です。お願いします。
はい、さあ、ポッドキャスト、先ほどちょっと事前に話を聞きましたが、ポッドキャスト自身自体、やっぱりそんなに機能がないんですよね。
これを機にですね、みんなに言ってるんですけど、聞いていただいて。
番組がいっぱいあるので、移動時間とか、インターネットがないエリアでもダウンロードしておけば、その番組が聞けたりするので、
何か好きなタレントさんとか芸能人とかいます?
タレント、芸能人ですか。
昔は、僕唯一芸能人で買った人の写真集は、鶴玉湯です。
鶴玉湯、いいですよね。鶴玉湯さん。
最近見ないですけどね。
最近見ないですけどね。すごい気持ちよくわかります。でも写真集、唯一。
唯一買ったのが鶴玉湯です。
鶴玉湯って、女優さんと僕の認識ですけど、写真集っていわゆるグラビア的なものなの?
僕が買ったやつは、そういう感じではなくて、日常の鶴玉湯さんが街中散歩しているとか、食事しているとか。
そういうやつですか。
水着とかグラビアとかっていう感じではない。
まさにそういった、そういう方ですもんね。
いわゆる清掃系っていうんですかね。
そこがすごい好きだったんですかね。
当時。
何年前でしょうね。
鶴玉湯さんがやっていらっしゃるかどうかはね、わからないですけどね。
ちょっと探してみて。
もう57回目になりまして、いろんな人たちにこういったインタビュアー役をやらせてもらいながら、
いろんなことをお話ししてきたんですけど、基本的にテニスのことを聞いて、いつ始めたかとか聞いてきているんですけど、
今日僕車を運転してきてここに来たんですけど、今回思考を変えてみようかなと思って。
急に僕の時に変えなくていいんですか。
変えなくていいです。
03:01
テニスの話なんかやめようかなと思って。
もちろんテニスの話も聞きたいんですが、鶴玉湯さん出身はどちらですか。
私は秋田。
秋田県。
秋田県。秋田県ってどんな場所ですか。簡単に言うと。
僕の生まれ育ったところは本当にどいなかです。
秋田県のなんていう町ですか。
今は市町村合併して秋田市にはなっているんですけど、もともとは川辺郡っていうところで。
川辺郡。
自然豊かな、コンビニもない、信号もあって2つ民地とか。
いいですね。
いいですね。
いいですかね。
所さんもダーツの旅に来たってことですよね。
第一村人みたいな。
いつまでそこにいたんですか。
秋田には27までいました。
27歳まで秋田県だったんですね。
そうです。
そうだったんですね。
秋田県で生まれ育ち、そしてずっと27年間秋田にいらっしゃったんです。
それはちょっと興味深いんで。
そうですか。そんなに興味あります。
やっぱり秋田ってみんな言うと、やっぱり有名なのが生ハゲとか言ったりとか。
ザ・秋田ですね。
ザ・秋田ですよね。
キリタンとかそういった。僕はもう一切そういう話はしないです。
秋田で生まれて、秋田県で生まれてスポーツ、テニスに出会うまでっていうのは、
まずテニスに出会ったのはいつなんですか。
僕は中学入って南式テニスを始めたんですけど、
南式、はい。
僕の中学校がすごい田舎だったので、全校生徒で100人ぐらいしかいなかったんですよ。
中学1年生、3年生の中学校で全校生徒で100人。
全校生徒で100人。
僕のクラスはずっと保育園から同じメンバーが小学校、中学校で一クラスだけでずっと来てて。
中学校入ると部活には何かしら入らなくてはいけなくて、
当然生徒数も少ないので選べる部活も少ないんですね。
選べる部活もそうですよね。
南式テニス部か野球部か吹奏楽部か。
吹奏楽部あったんですよね。
あと女の子だとバレー部もあったんですよ。
バレー部。
バレーボールのバレー。
バレーボールのバレー。
男子生徒だと3つしか選べなくて、
野球部に入るには坊主が条件だったんですよ。
坊主嫌だったんですよ。
06:00
今若干近いもんね。
だいぶ戻りつつ。
吹奏楽は音楽はちょっと向いてないなと思ったんですけど、
残ったのは小教科でテニスしかなくて、
もともとはうちの親父が南式テニスをやってたっていう影響もあったんですけど、
そこもあるんですね。
それでちょっと南式を始めたんです。
小教科もあり、お父様の影響もあり、
お父様が南式テニスをやっていた、
それは進行形だったんですか?
やっているっていうのがあったんですか?
高校で3年間やってたっていうぐらいで、
もうその当時はやってなかったです。
その当時、藤原少年はお父さんが
俺は昔やってたんだっていうことを聞いたぐらいの感じだったんですね。
自分の仕事が早く終わったりすると、
親父が練習を見に行くわけですよ。
部活?
部活。
いわゆるアドバイス的なことを、
当時は顧問の先生しかいなくて、
顧問の先生が仕事が終わったりすると、
誰も、いわゆるコーチみたいな人が当時誰もいなくて、
うちの親父が、別に頼んでもないのに聞いて、
頼んでもないのにアドバイスして、
血が騒いだっていうことじゃないですかね。
そうなんですね。
ある意味一番最初のコーチはお父さんだったんですね。
南式の。
そういった出会いがあって、
そこまではテニスをやるまでは、
スポーツというのは小学生時代?
小学生時代は、
3年生からいわゆるクラブチームみたいな、
スポションみたいな、
スポーツ少年団。
スポーツ少年団。
というのが学校内にあって、
男の子は野球をするか、
パターンを普通に帰宅分科みたいな感じですね。
スポーツ少年団。
3年生から6年生までは、
入り乱れて野球をするみたいな。
いろんなことをやるんですね。
そうですね。冬場になると、
雪が降ってグラウンドは使えないので、
バスケに切り替わるんですよ。
なるほど。
季節的にどんどん変えてくる。
そうですね。
それいいですね。
しょうがないですよね。
グラウンド使えない。
でも、ある意味、
いろんなスポーツに触れ合えて、
そういうきっかけができないと、
やらないじゃないですか。
そうですね。
少年野球入ると、
やっぱり野球になっちゃうじゃないですか。
そうですね。
そういったところで、
その時の影響って、
今から考えると、
09:01
その時にやっておいて、
自分の運動神経とか、
運動能力に影響が出てたな、
というのってあります?
いや、もう、
そこがなかったら、
もしかしたら今はないぐらいかもしれないですね。
逆に。
どんな時に感じるんですか?
いろんなことをやってて。
今の自分がこういう立場になって、
小学生の子さんたちが、
ボールが普通に投げれなかったりとか、
サイドステップができなかったりとか、
リズムに合わせられなかったりとか、
というのが、
やっぱり僕が子供の頃って、
まだ本当に田舎だったので、
別にボール投げようが、
サッカーしようが、
何しようが、
ザルガニ取ったりとか、
トンボ取ったりとか、
その自然の中で身についたものは、
今はやっぱり、
確かに秋田と東京と差はありますけど、
公園でボール蹴っちゃダメとか、
何しちゃダメとか、
みんな公園でゲームしますよね。
今そうなんですよね。
ほんとゲームやってますよね。
しかもオンラインじゃないですか。
そうなんですね。
公園の椅子に置いて、
画面を、
みんなでコントローラー持って
何かやってるみたいな感じのね、
家でやりなさいよって感じですね。
当時は、
ほんと田舎だったので、
塾とかも、
まだみんな行けないです、
遠くて。
行っても雲とか、
雲。
雲。
あと、書道。
習い事のね、
我々の習い事のベスト3。
ほんとだから、
みんなで遊ぶとなると、
みんなで集まって鬼ごっこするか、
投げたりとか、
あと防空壕行ったりとか、
あー、防空壕。
あったんですね。
ありました。
あとザリザリ撮ったり、
カブトムシの幼虫掘りに行ったりとか、
朝方なると、
自然に木にも、
雨降った日も次の日も、
カブトムシいっぱいいるんですよ。
木にですか?
いるんです。
いやー、いい場所で、
いいですよ。
いやー、やっぱりそれってもう、
ほんとにね、
こっちに生まれちゃったら、
そういう場所って行くしかないですからね。
あの、トレーニングセンターの中に、
カブトムシ展とかあるじゃないですか。
なんじゃこりゃ。
カブトムシ、考えられない。
お金払って。
その辺にいたって。
そうですよね。
そういったスポーツ少年団時代に、
いろいろと経験して、
また環境がね、
子供時代にそういったことが影響があって、
そして、
中学校に入り、
軟式テニスっていう、
まあ、軟式ですけど、
そこにテニスって出会って、
で、公式にチェンジしていく、
シフトチェンジしていくのはやはり、
高校ですか。
12:00
なるほど。
高校は、軟式テニス部と公式テニス部、
2つあったんですか。
いや、公式しかない。
公式しかない。
じゃあ、もう選択肢は、
公式テニスだけだったんですか。
公式テニス部か、他の部活か、
部活をやらないか。
っていうことでしたね。
公式テニス部。
はい。
じゃあ、その軟式テニス3年間が、
結構楽しかったんですか、テニスって。
そうです。結構、
試合で勝ち上がって、
全県大会っていう、
県の一番大きい大会とかにも出たんですね。
秋田県も。
秋田県。
で、それ以降は、練習すればやっぱり、
結果もついてくるんだなっていうのが、
ちょっと芽生えてきて、
で、高校入っても、
テニスは続けようかなと思ってました。
で、結構ないんですか、
その軟式と公式で、
ボール変わるじゃないですか。
ラケットも変わる。
すごい最初苦しました。
フリットもそうですし、
軟式はやっぱりフォアもバックも同じ面です。
今までの、使ったことのない面ですし。
で、当時、軟式ってルールは、
今ちょっと変わってるのかもしれないですけど、
前衛はなんか前衛だけみたいな。
そうですよ。僕もそういう認識がありますね。
後衛は後衛だけみたいな。
前衛はレシーブとボレーだけしてればいいみたいな。
当時はそういうルールだったんだよね。
公式は違いますもんね。
そうなんですよ。
あ、そうなんだ。
それでそれをまた、
そういったことにチャレンジするようになって、
楽しくなってきたわけなんですけど、
多分、このまま続けて、
今こうやって続けてるってことは。
先輩はこうだったんですよ。
もう、このザ・体育会で、
その高校は、中学校は100人だったわけじゃないですか。
高校に入ると、その人数っていうのはどうなんですか?
高校はそれが、私立校で、
しかもスポーツに力を入れてる私立校で、
全校生徒が多分3000人近くいたんじゃないですか。
そんなにいたんですか?
1クラスで、僕が入ったときは900人ぐらいでした。
1クラスで1学年。
1学年。
1学年。
1学年でそんなにいるんですか?
いました。
えー。
なんで、僕1年A組だったんですけど、
A、B、C、D、E、F、G、H、I、J、K、L、
Mがなかったかな。
で、Oがあって、Sが出るみたいな。
なんでMがないんですかね。
分かんないですけど。
そう。で、男子クラスもあって、
強化クラスもあって、
女子クラスもあって、
体育コースもあって、
自動車工学科もあって、
商業科もあって、
みたいな。
じゃあ、もう本当に目が入り過ぎた。
そうです。
じゃあ、もう3年間いても、
同級生覚えられないんですよね。
全然、もう初対面の子とか。
そうですよね。
15:01
校舎が違う。
あ、そこまで。
そうですよね。
家によって全然生活が違いますもんね。
顔合わせると、
全校集会か、
食堂か、
食堂でも先輩がいると怖くていけないんですよ。
そうですよね。
あと部活科みたいな。
その高校時代は、
テニス部で3年間、
その先輩が怖かったって言うんですけど、
どんな感じだったんですか、部活は。
えーと、
人数がやっぱり多いんですよね。
入部した人数も、
最初当時すごく多くて、
多分20人以上いたと思うんですよね。
30人とか。
もう1、あの学年で。
学年で1年生に入った当時は。
コート何面ですか。
クレーコートが3面でした。
クレーコート3面。
でも男女ですよね。
そうです。
それはかなりしのぎを削らないといけない。
そうですよね。
で、当然やっぱり1年生なんで、
ボール拾い、
トレーニング、
ランニングからスタートして、
で、僕ら1年生が売ってるのは、
一通り部活が終わってから、
先輩たちがいなくなってから、
使わさせてもらえる、
みたいな感じ。
完全にスモーブ屋の残りのジャンプみたいなね。
そんな世界だ。
で、当時、
コートにナイター施設がなかったので、
あの、迎えに来てくれる親御さんのライトを
コートに向かって、
照らしてくれる。
ストイックですね。
すごいですね。
でも当然届く範囲が狭まってくるので、
最終的にもうサーボを打つしかなくなって、
みたいな感じでしたね。
照らすところがピンポイントですね。
そうなんです。
車で。
車でライト照らしてました。
いやいや。
ハングリーな世界で、
そういった3年間を過ごして、
で、あの、
テニス、
テニスをこうやって続けてきて、
あのー、
続けられた理由っていうのに
たくさんあると思うんですけど、
あのー、
今思えばその学生時代を通して、
あのー、
テニスを続けられたのって
一番の理由って何ですか?
もちろんテニスが好きだからっていうのは
大元であるんですけど、
やっぱり苦しい時も一緒に
頑張ってくれた仲間がいたからですね。
そうなんですね。
やっぱり、
先輩が怖かったし、
行ってもボール打てないし、
何度も辞めたいなと思った時期があったんですけど、
でもやっぱり
同じ境遇で頑張ってる奴もいたんで、
やっぱり
こいつらじゃ負けないぞとか、
一緒に頑張ろうぞみたいな
雰囲気はやっぱりありましたね。
なるほどですね。
いやあのー、結構僕も今までこうして
いろんな方の話を聞いて
やっぱり藤原コーチと同じことをね、
言う方とも多くて、
やっぱりスポーツって
18:00
続けるのは好きだから
ずっと続けられる人も
いると思うんですけど、
でもその一緒にいる切磋琢磨できる
人が必要なんですよね。
そうですね。
だからスポーツって
なかなか一人じゃ続けられないというか、
仲間がいてグループがあって
っていうところが
改めてなんか大事なのかなって
思うんですよ。
その中で
藤原コーチは
そういったライバルがいて
そういった仲間が
友情があったりとか
っていうところで
テニスっていうものを
突き進んできたわけなんですけど
その指導者
っていう道に
進むきっかけを
教えてもらいたいんですけど。
えーと、
高校3年間
テニスを頑張って
でもやっぱり僕は
個人戦は出てたんですけど
大会のメンバーには
選ばれなかったんですね。
なのでちょっと悔しくて
大学入って
テニスまた大会入って
そこでやっぱり
もっと上手くなりたいと思って
そのまま
付属高校だったんで
そのまま大学に行って
大会にテニス部に入って
大学入って
アルバイトコーチを
始めたんですね。
そうなんですか。
テニスというのは
どういった職業だったんですか。
高校の時に
僕よりも先輩とかが
通っている
部活以外のスクールがあったんですよ。
部活、あ、スクール。
そこのスクールさんに
いわゆるプライベートレッスンみたいな形で
僕の先輩とか
僕の同級生の人たちが受けてて
そこを何度か
一緒に行ったりとか
やったりとかもさっそくあったりとか
っていうのがあって
そのスクールさんで
アルバイトを受賞させてもらうことになったんです。
なったんですか。
ああ、なるほど。
そういう縁だったんですよね。
その時に
やっぱり勝ちたくて
レギュラーになりたくて
っていうところで
大の進学をして
また体育会のテニス部に入った
っていうところなんですけど
そこでアルバイトコーチ
そういったことをやるようになって
その時の大学の時代の
感情っていうのは
勝つことももちろん大事だと思うんですけど
教える楽しさっていうところに
築けたっていうところなんですかね。
どうなんですか。
そうですね。
まだその時は何となく
同じタイミングで
先輩も
同級生も
4,5人入ってるんですね。
同じ
コーチとしては
みんなゼロから
スタートで
ボール出しの練習とか
ヒッキングとかやるんですけど
21:01
僕が一番やっぱり
コーチ下手で最初に
だからですか。
全然球出しできなくて
ひどい時は
僕の列に誰も
お互い並んでくれないとか
やってても
そのメインの先輩コーチに
お前もう家に帰れって言われて
悔しくて
ボール
ずっと拾ってるとか
っていうのがあって
でもその厳しいコーチほど
終わった後
練習付き合ってくれるんですよ
球出しの練習とか
そういう出会いもあり
確かに学生の時も
アルバイトで始めてはいたんですけど
こういう世界もあるんだ
みたいな
しかも自分の
当時は自分の好きなテニスができて
お金がもらえるっていう
アルバイトっていうか
そういうのだったんですけど
でも先輩コーチの口癖は
お金もらってる以上
取るなって
ずっと厳しく言われてて
それはいい人ですね
そうですね
今思えば本当に
その人のおかげがあって
今に繋がってる
そうですね
やはり
コーチとして生きていこう
って言ったところは
大学時代に
普通と湧いてきたところでは
あったと思うんですけど
大学出てからすぐに
コーチとしての道を
進み始めたんですか
それが僕
大学4年間の時は
一応最終的には
一般企業に就職しようと思ってたんです
エスタバームの魅力を
感じないかもしれないですけど
僕は自動販売機に
時々銃って入れてる人たちが
いるじゃないですか
あれすごいやりたかったんですよ
憧れさん
そうなんですよ
やってみたいと思ってましたけど
真夏汗かきながら
腕半分真っ黒で
足にこうジュース
こうやって
あれやりたかったんですよ
やりたかったんですか
飲料系の
例えばコカ・コーラさんとか
伊藤彩さんとか
大塚製薬さんとか
そうなんですよ
自らベンダーマシンに
入れに行きたい
あれやりたかったんです
ただ最終的に受けたんですけど
履歴書で起こされたところもありますし
逆に最終面接まで
行ったところもあったりしたんですけど
結局全部ダメだったんですよ
ダメだったんですか
ダメだったんですよ
そこでじゃあどうする
って話になって
当時バイトさせていただいてた
スクールさんの社長の
スクールさんに
次は決まるまででもいいから
うちで働かないかって
誘われたのが
24:01
本職のコーチを選んだきっかけです
そうなんですね
良かったですね落ちて
違うか
もしかしたら今入れてたかもしれない
入れてたかもしれない
それは僕はなかなか
聞いたことなかったですね
そういうベンダーマシンに
僕もあれ入れてみたいっていう
今でも時々
あれちょっと気持ちよさそうですよね
あれやりたかった
そうなんですね
でもやりたいって言って
飲料メーカーも
勿体ないことしましたね
そうなんですか
その秋田で就職をしたわけですけど
こっちに東京に行くぞって
こっちに
今いるところは横浜ですけど
そうですね
来るっていうのは
どういった思いがあって
こっちにいらっしゃったんですか
大学を卒業するタイミングで
行こうと思えば行けたんですね
こっち以外の状況はできたんですけど
いわゆる自分の甘さが出て
当時実家暮らしだったんですけど
やっぱり
自分の実家から通って
いわゆる楽な道を選んじゃったんですよ
なるほど
27歳の時に
結婚という話が出てきて
当時今の奥さんですけど
奥さんに
これからも秋田でテレスポーチ続けるんでしょ
ある人と会って
うんそのつもりだけど
って訳しました
だったら今すぐ私別れたいんだけど
え?
あなたとの先見えないんだけど
え?と
そして
いろいろ話し合った末に
仙台とかっていう方法もあったんですけど
仙台だとある程度秋田と距離が近いので
だったら厳しいスクールさんもいっぱいある
関東の方に出てみよう
仙台ポーチの紹介とかもあったんですけど
そうなんですね
今のお話を指すところ
テニスの人口とかそういったことを考えると
全然安当的に多いので
いわゆるビジネスチャンスというか
そういったところに
奥様のことも考えて勝負に出てきたっていう
27:03
すごいっすね
一旗挙げてやるまではいかないんですけど
当時はいずれお世話になった秋田のテニス界で
恩返しがしたいななんで
ちょっと片隅に思いながら
出てきましたね
そうなんですね
うちにも
秋田県出身の方が数名いらっしゃいますが
某石垣さんとかですね
藍垣さんですね
よくご存知っすね
知ってらっしゃると思うんですけど
藍垣さんなんて
よく言うフレーズなんですけど
秋田に恩返しがしたいということをよく言うんですよ
いつ恩返しするのかなと思うんですけど
秋田の方
みんなその思いはあるんでしょうけれども
どこの出身の方でも
特に僕感じるんですよね
秋田の方は秋田が本当に好きで
秋田のことが嫌いな人ってあんまりいなくて
他にも会ったことあるんですけど
思い入れって強いですよね皆さん
生まれ育った
もちろんね
まだ一応親も健在してるので
そういったところでは
ぜひこちらに来てっていうところで
遠いところになりますけど
何かそういったテニスを通じての恩返しっていうのは
ぜひやってもらいたいですよね
そうですね
子供が年々世の中少なくなってきて
秋田のほんと
じいちゃんとばあちゃんしか
僕が住んでる地域いないんですよ
村人ですね
僕が通ってた小学校も
今もうないんですよ
取り壊しになっちゃって
中学校の校舎に小中学生が全部集まって
例えば小学校の3、4年生が同じクラスとか
っていう感じになってきてるんで
どうなんすかね
テニスもそうですけど
スポーツというか
体を壊すの楽しいよとか
最終的にテニスを選んでくれれば
それは一番いいことなのかもしれないですけど
やっぱりそういう環境とかが
こっちに比べると
施設もそうですし
そういった意味では
自然に触れ合うっていうところのチャンスはたくさん
本当に宝がいっぱいありますけど
そういった面で見ると
なかなかチャンスが
っていうところになりますよね
なるほど
今こっちに来て何年になりますか
状況を
30:01
27で出てきてるんで
今ここ40
13年
13年
そして
話を
ショートカットすると
僕が知ってる方
藤原コーチは
後代に転職してきた方ですから
その中でもいろいろと経験があって
そして後代に来てくれたっていうところなんですけど
今こうして後代で
レッスンをしていて
いかがですか
今日振り返ってみて
いつも毎日
僕電車通る時なんですけど
いつも電車の中で
もっとああすればよかった
こうすればよかったって思ってます
それは
レッスン終えて
帰る電車の中で
もたすればよかった
そうすると
満足したことはないですね
そこって
おそらく藤原コーチの
コーチ道というか
自分の理念というか
コーチとしてのというところが
すごいあると思うんですよ
どういったことをいつも
心がけてレッスンをしてるんですか
そうですね
子どもたちと大人の人で
ちょっと変わると思うんですけど
子どもたちには
楽しさを伝えたいですね
楽しさ
打ち方とかフォームとか
もちろんあるんですけど
子どもたちが試合で勝ってうれしい
負けて悔しいという中で
育ってきてるんで
そこから行ったほうが
子どもたちのモチベーション的にも
じゃあ逆に勝つためには
どういうショットを打ったほうがいいかなとか
そのショットを打つには
どんな方法があるかなとか
という風な考え方が
もしかしたら今の子たちに
合うのかもしれないですね
なるほどですね
子どもたちには
安全管理とか怪我とか
楽しさ
勝って悔しい
負けて悔しいというのが
伝わるといいかなと
なるほど
子ども好きですか?
そうですね
子どもの中でも
うまくなるスピードが速い子もいれば
遅い子もいるじゃないですか
でも遅い子ほど
変わるんですよね
手がかかればかかるほど
自分向こうにも子どもいますけど
親だと
なんでできないんだって
思うはずなんですよね
親も成長するスピードが違うので
親御さんとも
お話をさせてもらいますけど
親御さんはもともと体育会系だと
泣かせちゃっていいです
みたいな感じで
いるんですけど
やっぱり仕事で
子どもがテニスをやっているところが
33:01
普段見れなかったり
そんなことをやっているのか
親御さんには
こういうことをやっています
こういうのを
子さんが頑張っていますよ
結果は試合には勝てない時も
ありますけど
すごく頑張っていますよ
というのを伝えてあげて
いいですね
いいですね
あと1時間くらい
話を聞きたかったんですけど
そんなに時間が
こちらこっちもないので
今のお話だと
子どもたちに対しての
というところの
コーチとしての
考え方
いつも皆さんに
最後聞いているのは
今子ども
お子さんも含めて
こちらこっちお子さんだけじゃなくて
一般のレッスンも
担当して
200人以上
指導されているんですけど
そういった方たちに
向けて
これを
コンセプトは
藤原コーチのレッスンを
受けているお客様に
聞いてもらいたいので
お客様に最後
メッセージを
お願いしているんですけど
そうですね
これねみんなね
うんってなるんですよ
そうですね
テイズは商売スポーツなので
僕は今
一番下が
4歳5歳から
一番上の大人の生徒さんで
89歳
いやー元気ですね
っていう幅広を
できますので
本当にあの
もちろん試合に勝ちたい人もいらっしゃれば
楽しみたいという人も
中にもいらっしゃると思います
その人たちに合った
ニーズに合った
教え方だったりとか
打ち方っていうのを
より良く
テニスっていうのを
自分のライフワークの中に
入れてもらえると
ご自分としても
嬉しいかなと思います
やはりそこには
藤原コーチの先ほど
子どもたちへの楽しさっていうところが
共通しているなっていう感じが
すごいして
やっぱり
テニスって楽しくないとダメですよね
そうですね
なんとそうですけどね
楽しさを
リアクティブに
ぜひとも
反省はほどほどにして
電車の中で
楽しくそういった
ことが提供できる藤原コーチ
これから引き続きですね
後代後北の
藤原コーチのレッスンを
楽しんでいただきたいと思います
よろしくお願いします
どうもありがとうございました
こちらこそありがとうございました
36:03
提供 後代グループ
プロデュース キクタスで
お送りいたしました
36:18

コメント

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