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2020-01-17 28:04

第58回【GODAI船橋・亀戸支配人紹介】佐竹君仁〈前編〉

サッカーの街。静岡で生まれ、サッカーが大好き少年だったが、父親の影響でテニスをすることに。
テニスを通じて様々な経験をしたからこそ、恩返しがしたい。
テニスの名門柳川高校に進学し、厳しい練習環境や熾烈なレギュラー争いをする中で、【限界】は超えられることを知った。全国大会での優勝経験や上位成績を常に強いられる環境下、それがもたらしたアクシデント。。。
その天国と地獄を経験したからこそ、スポーツの醍醐味を伝える立場になろうと思った。
温厚な柔らかい語り口から発せられる言葉で深入りコーヒーのような苦みとコクがあるお話。





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5代スポーツポッドキャスト、すぽきゃす。
この番組は、スポーツを通じて人々の健康生活の実現を目指す、
GODAIグループの提供でお届けいたします。
新年明けましておめでとうございます。インタビュアーの石崎です。
いつも聞いてくださりありがとうございます。
すぽきゃすはおかげさまで、昨年90万ダウンロードを達成しました。
これはすごいですね。ありがとうございます。
これはもうリスナーの皆様のおかげであり、スタッフ一人一人のおかげであります。
感謝しかございません。
今年はですね、さらにパワーアップして、
またいろんな企画にもチャレンジしていこうと思っておりますので、
引き続きよろしくお願いいたします。
さて、本日のインタビュアーは船橋亀井戸支店、
兼務しております佐竹紀美人支配人です。
銘文柳川高校卒業後、中央大学に進んでキャプテンを歴任している人なんですが、
社会人では実業団日本リーグでプレーした素晴らしいキャリアを持った人です。
ちなみに私の中央大学時代の先輩になるんです。
1年生の時の4年生で、その時もキャプテンでしたね。
もう長い付き合いになりますが、改めて佐竹先輩の家、
佐竹支配人の話を深掘りしましたので、聞いてください。
それでは。
それでは本日は第58回目になります。
亀井戸支店、船橋支店支配人の佐竹紀美人コーチです。
よろしくお願いします。
はい、とうとうやっと来ちゃいました。
もう終盤になって、最後になるかもしれないですね。大取りなんですよ。
これでおかげさまですね。
多分、僕の予想は佐竹支配人全くこれ聞いてないと思うんですけど。
聞いてます聞いてます。
聞いてますか?本当ですか?
これおかげさまで、この前90万ダウンロード。
ダウンロード。類型ですよね。
すごいね。でも面白いね。
知らない面が結構あって、スタッフの。
そんなこともあったんだとかね。改めて聞くと。
本当に自分の部下を聞いてもらってます?
聞いてます。なるほどね。
恥ずかしいよね。自分のね。
でも話します。
僕はずいぶん長いお付き合いになっているので、
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いろんなことを改めて聞くっていうところで、復習みたいな形になってくるんですけど。
今ですね、スクールの2店舗をマネジメントしている立場になるまでのですね、
ここまでの老いたちをですね、ってなってくると、
たぶんおそらく一生分語らなきゃいけないんで。
これ今までのところで、多分聞いてくれてる人、
意外と佐竹さんのことってそんなに知ってるようで知らないっていうところって結構あると思うんですよね。
興味あるかな?
興味あると思いますよ。そこを掘り下げていきますので、よろしくお願いします。
まずですね、これ実は僕前段で紹介しちゃってるんで、
僕が先にベラベラ喋っちゃってるんですよ、おそらく。
ですんで、どういう感じなのかっていうところは、僕が先に喋っちゃってるんで、
また一から始め、話しちゃっても大丈夫なんですけど、
まず出身から。
出身から行っちゃう?
出身から行きましょう。
出身は静岡県、静岡市の出身ですね。
静岡県静岡市、どんなところなんですか?
静岡はサッカーが、今年全国の高校サッカー優勝した静岡区もあるけど、
サッカーが有名で、当初は本当にサッカー王国で、
特に男の子はみんなサッカー一色で、
自分もサッカーがやりたくて、
たまたまお父さんがテニスをやってたことがあって、
テニスを始めたっていうきっかけかな。
影響はお父さんなんですか?
そうなんです。
サッカーはやらなかったんですか?
サッカーはでもやってたね。
やってましたよね。
クラブとかそういうのではやってないけど、
小学校の時は放課後もみんなサッカーやったし、
休み時間もみんなサッカーやったし、
たまに練習をサボってサッカーやったりとか。
別にサッカーを習ってたわけか。
習ってはない。
でもサッカー得意ですよね。
サッカーは好きだね。今見るのも大好きだし、面白いですよ。
すごい飛んだ話になっちゃうんですけど、
ずっと昔はサッカーのゲームをやってましたよね。
大学の時ね。
そうなんですね。
その影響もあったかな。
なんで静岡ってちなみにサッカーがあんなに盛んになる県なんですか?
なんでだろうね。
高校サッカーが特に盛んで。
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有名ですよね。
共合校が何校もあって、
数もそうだし、中山もそうだし、川口もそうだし、
みんなね。
ちょうど何年か前の日本代表はみんな静岡ばっかりで。
地域密着で、街全体でサッカーを盛り上げようみたいなところがあるよね。
そんなサッカーに憧れていた少年時代はありながら、
お父さんの影響でテニスを始めるわけじゃないですか。
そこはテニスって惹かれるものがあったんですか?サッカー以上に。
小学2年でテニスを始めて、姉がいて、姉もお父さんの影響でテニスを始めて、
最初に姉がやってて、小学2年で始めて、
その時に静岡ではたまたま全国のトップ選手をいっぱい排出している
名門のテニスクラブのところに通わせてもらう。
やっぱり教え方がうまかったのかな。
やってすぐに1個1個ができないことができるようになっていって、
面白いなってなってたんだね。
その名門っていうところはなんていうテニス?
竜南テニスクラブです。
結構いるんですよね。今まで排出してきた。
結構日本トップ選手が何人も出てて、
本当に静岡ではそこがね、当初は。
テニスではもう名門で。
全然当初はそんなの分からないけど、
自然とそういう人が周りにいる感覚があって、
その中で習っているうちに、
サッカー熱よりもテニス熱の方が高くなっていくんですか?
って言ったんでしょうね。
続けたから。
やっぱり小学校3年生の時は週5回、
テニスをやってたんですよ。
好きとかっていうよりも、
もうその時から生活の一部で。
やるたんびにできないことができるようになっていくのは楽しくて。
でもサッカーとテニスは一緒なんですよね。
一緒にやることができるようになっていくのは楽しくて。
でもサッカーとテニスがどっちかっていうのはなかった。
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どっちも上回る。
サッカーは未だに好きだし。
プレイヤーとしてサッカー選手になりたいとか
っていうようなのじゃなかったわけなんですね。
単にやるのが楽しかった。
ちなみに一言で言うと、
留南テニスクラブは何が良かったんですか?
その教え方とか。
佐竹さんもそうですけど、
僕もいろんな人何人か知ってますけど、
全日本クラスの選手が
佐竹さんと同じように育っていったわけじゃないですか。
何がすごかったんですか?
そこの指導の方法って。
やっぱり当初教えてくれてた
メインの伊藤聖広コーチっていうのもあって、
その方の今思うと情熱というか。
ただ練習をするだけじゃなくて、
ちょくちょくいろんなスクールの人と
練習時代を指してくれたりとか。
キャンプがあったりとか。
そういうのを全部自分で送り迎えを
御社でしてくれて、
いろんな良い経験をいっぱいさせてもらったなと。
ちっちゃい時から。
今自分がやれって言われると
なかなか難しいなと思うようなことを
やってくれてたことはすごく大きかったなと。
本当にその方の意識も高くて。
やっぱりもう、
全日本のトップになるためにっていう基準で
練習も、そういう練習以外の取り組みも
やらせてもらってたので。
そこが大きかったかなと。
自然とそういうところに目標設定が
佐竹さんもピントがそっちに向いてたんですよ。
全国に行くんだっていうような。
すごい指導が上手かったんですね。
伊藤コーチは。
そうだね。意識をそういうところに持っていくのは
上手かったね。
その後、そこにいたのが
何歳まで?
中学3年生。
中学3年生だね。
その後、柳川高校に進学するわけじゃないですか。
これもまた超名門じゃないですか。
いろんな部活が、実はスポーツ強いんですけど
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テニスが軍を抜いて有名なわけなんですけど
柳川高校に行こうとしたきっかけと
そこを教えてもらっていいですか。
小学校の6年生の時に
全国小学生で3位になれて
そのぐらいから全国トップレベルで
自分もやっていけるのかなっていう感覚があって
小2で始めて、全国小学生で
何歳?最後5年生の時?
6年生で3位になったんですか。天才ですね。
たまたま1回戦が第2シードで
1回戦でたまたま勝って
あれはあれよと。
でも、小学生だからね。
ちょっとしたことで勝てちゃったんだろうね。
その結果が出たということで
なんとなく自分も自信がついて
中学も同じ流難でやってて
最終的に中学3年生の全国中学生
全中でまた3位になれて
だけどやっぱりベスト4の壁は破れず
というところで
トップのレベルでやれてるなっていう実感はありつつも
ひとかは受けたいなっていう時に
柳川は年から知ってて
トップレベルが集まるっていうのは知ってたので
何かそこでこうそういう
ひっかけがつかめればなっていうところかね。
やっぱりそこの流難テニスクラブで培った
そこのメンタリティっていうところで
やっぱりトップになるぞっていうところの指導から
その思いっていうのが
でももう前哨の時とか
前中とかってやっぱりもう狙ってました?
優勝って
前哨は狙ってないね。
前哨はもうただがむしゃらにやってて
全国がどうのこうのとかもわからなかったし
1回戦が第2シードになっちゃったってことだったら
シードついてなかったですよね
でもそれでちょくちょく
ジュニアの全国大会でシードがつくようになってきて
その辺からかね、なんかそういうのを意識をして
そこで僕の時代もそうでしたけど
柳川って言ったらもうナンバーワンで
必ずインターハイで決勝に上がってくるチームだったわけじゃないですか
そこに入って3年間どうだったんですか?
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実は行く前に
柳川はね、スパルタで厳しい厳しいってのも聞いてたんで
相当覚悟をしていったんだけど
最初1ヶ月くらい入って練習をやったときに
実はそんなに練習自体は今まで柳南でやってたものから
すごく厳しいなっていうのは感じなかったんだよね
そこで初めて柳南の練習って厳しかったんだなと
そうなんですね
いわゆるそういう基準でやってたんだなっていうのが
自然と当たり前のようにやってて
あれ?って実は思って柳川に行ったときに
それ以外のね、上下関係とか
たまに追い込むときとか
そういうのは確かに柳南の時にはなかったようなことはあったけど
いわゆる日々やってる練習とかトレーニングに関しては
結構ね、スッと入れたっていうのが
そこで改めてね、柳南ってそういう基準でやってたんだなっていうのが
またそこで意外と柳南が恐ろしかったっていう話ですね
そうですね
そうなんですね、僕でも柳川の
柳川高校出身者で初めてですね、その話聞くのって
入っていわゆるそういった厳しい環境の中に入って
壮絶な話っていうんですか
がほとんど
でもそうでもなかったんだよねっていうところって
もちろんいろいろあると思うんですけどね
時にあるね、突発的な何かね
そういうのが話題になる
それは確かにある
日々の練習で行くと
そうなんですね
でもやっぱり行ったときには全国のトップ選手がみんな集まってて
柳川は8面ぐらいあって
1番コートから上手い人順になんとなく入っていくんだけど
1年生のときは8番目のコートに入れるかどうかみたいなところだったから
初めてだよね、その感覚はね
試合に出れる、メンバーに選ばれるか
練習ができるかどうかみたいな
それやる人はボール拾いをしていて
練習ができるかどうかっていうのはそうですね
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本当にそういう意味だね、環境としては
本当に上手な人がいっぱいいるから
それはもう楽しかったね
そのときの、僕もメンバーはだいたい想像がつきますけど
どうでしたか、そのレギュラー争いって
今思い返すと
本当に柳川ははっきりしてて、すごく分かりやすくて
勝負っていうものを教えてくれたから
あえて同じ学校の同級生でも先輩後輩でも
ライバルっていう感じが明らかに前面的に
あえて出しているような学校なので
逆にそれをみんながコソコソやっているような感じではないから
それはそれで、もちろんコートを出たら仲間だけど
コートに立ったらみんながライバルっていう
気持ちでやれていたのが上達においてはすごくいい経験だったかな
一番入ってショックだった出来事ってありますか
柳川に入って
ショックだったというか、思い出に残っている
ショックという感も残ったかな
ないですか
もしかして3年連続連覇してますか
3年連続連覇はしてないね
1年生の時に準優勝で、2年生の時に優勝で、自分たちは準優勝
準優勝、優勝、準優勝
その時はどこですか
渋沢
渋沢
強かったですね、渋沢も
また雰囲気の違う世界ですね
ちょうど自分たちの時くらいから
何となく根性論的な指導のところから
科学的な指導が入ってきて
関東の方ではそういう指導が主流になってきている話が入ってきていて
ちょうど時代の変化の時だったのかなというのはあるけど
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自分たちはそれを信じてやってきて
今はすごくいい経験になっているかな
やながわは何よりも、テニスもそうだけど
限界を越えるという経験をさせてもらえる
潜在能力とか、これは無理だろうというものをもうちょっと頑張れたとか
あれはなかなか経験できないだろうなというね
あの経験は本当にその後の人生には大きいなというのが
人ってすごいなっていう
ここまでできるんだ
あれは自分だけで潜在能力を出すことってなかなか難しい
そういう厳しくするのも簡単じゃない中でそこまで追い込んでくれたり
周りが仲間もそれをやっている中でやっと自分もできるみたいなね
それが重なって本当に自分が別にいるような感覚
そこまでできちゃうんだみたいな
客観的に自分を見れちゃうような感覚はなかなか経験できない
ある意味そうせざるを得ない環境って言ってたからね
なるほど
その後いわゆるインターハイ優勝準優勝っていうそういったキャリアを持って
次のステップって大体柳川から卒業する方たちって
もちろん大学に進学するというのと
あともう一つは企業と契約したりしてプロになる人もいたわけじゃないですか
その選択のところっていうのはそのキャリアステップはどう考えたんですか
高校3年の時にキャプテンをやらさせてもらったんだけど
高校3年のインターハイが8月で
7月の上旬、6月の下旬くらいに怪我をしたんだよね
股関節の
股関節
どうしてもキャプテンをやらせてもらってて
最後のインターハイだから出たいなっていうのもあって
監督には言わず騙し騙しやってたんだけど
柳川の練習もそんな騙し騙しできる練習じゃないから
ある時にもう練習中立てなくなって
監督にどうしたんだって言われて
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実はちょっと怪我しててって言って
ちゃんと見てもらえっていう話で
見てもらったらちょっと簡単に治らない怪我だっていう話で
実はもうインターハイは出れないって言われたんだよね
うちは学校でいろんなトレーナーも知ってるから
紹介もしてもらったりしていたんだけど
ほとんどの人が
当初の医療の技術では治すことが難しいみたいな
結局インターハイはずっとそれまで
どうしようかって言いながらやってて
最終的にインターハイはシングルスが2本で
ダブルスが1本で3本なんだけど
シングルスの1はチェンっていうのはもう決まってて
2に自分が出るかっていうところで
連続では出れなかったから1試合おきに出るみたいな
団体戦の15分くらい前に
3年の時に鳥取かな
テニスコートの裏に山があって山に連れてかれて
針を打たれて
痛みよりも痛い痛みをやって麻痺させる
めちゃくちゃ荒い
それが1時間ちょっとぐらいで切れちゃうんだよね
でもなんとかなるんですか?
麻痺
それも本当はダメだって言われたんで
監督に頼んで出させてもらって
それで中央出て最後ベスト4の試合は出させてもらって
終わって改めて検査もして
やっぱ治らないと
手術をするならドイツ?
ドイツにはやれる人がいるんだけど
50%の確率で歩けなくなる可能性があると
車椅子になる可能性があると
言われて
車椅子かって言うんで
でも最終的にある先生が
半年時間をくれたらテニスができるようまでには
手術をしてあげると言われて
結局手術はせずに
半年間高校・インターは終わってから
大学まで全くテニスはできず
地道なリハビリ
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そういう時期だったから
さすがにもう選手としてってのは難しいかなって
正直そんな状況だから
大学もテニス推薦を取ってもらうのは難しいかなって
思ってたけど
そんな状態でも
首郎大学は取ってくれるっていう話をしてくれて
であればぜひお願いしますっていうところで
首郎大学を選んだっていうところかな
この番組は提供、ご大グループ、プロデュース、キクタスでお送りいたしました
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