その時にこのエチゼンにいたこの人を大友という豪族が衰退して都へ呼んで天皇にした。
この人の子孫が今の皇室にも結局流れているというような形になっているので。
そういう存在なんですね、エチゼンというのは。
何が言いたいかというと、エチゼン、福井というのは今も京都駅から考えると大体電車でおそらく1時間ちょいで行けるはずなんです。
昔もそれは要は変わらない時間なわけですよ。
つまりエチゼンはよく避難所みたいに使われるんです。
これ日本の歴史上本当に。
京都で危ないことがあったら福井にまず逃げよう。
そうなんです。
警戒天皇もね、ちょっと言われはよくわかりませんが、とにかくエチゼンにいた人を京都に呼び戻したっていうのがあったりとか。
ララですね、その当時はね。
だったりとか、ニッタ・ヨシサダも京都で足利尊氏と戦って、形勢が不利になったのでエチゼンの方へ引き込んでここで再起を図った。
そして浅倉氏というのも大河ドラマとかよく出てくるのは、足利幕府の将軍の足利義明というのがいたわけですが、
それが力が弱すぎて、そういうことを三好長吉とかにいじめられてたんです。
和の繰り返しで。
三好が猛威を振るって全然言うことを聞かないので、もう嫌になっちゃって出奔したんです。
それで頼ったのがエチゼンなんです。
浅倉に逃げてくるんです。
っていうように日本の歴史上、エチゼンに逃げてくる人っていうのは、何らかの事情でやめなく逃げてくる人が大半なんですけど、
もう一回リベンジがしたい、再起を図りたいっていう時に、まずはエチゼンに一度避難して形勢を立て直そう。
まずはエチゼンから様子を見ようっていうのが、日本史上何度も起こることなんです。
という絶妙な距離感にいるんですよ、エチゼンというのは。
いざとなれば京都にすぐ行ける。
ただしその間には、今もこの滋賀県の北部からエチゼンというのは、結構険しい山脈が隔てているので、
にわかに向こうからは攻めてこれない、向こうの都合でも。
いざとなれば自分たちは下れるんだけど、向こうは来づらい。
そして海にも通じてるから諸国とも連絡がつきやすいっていう、絶妙なバランス感覚の位置にいるんですよ。
でもそんなんだとさ、みんなそこ取り合いになりそうなもんだけど。
だからこそ結構えげつな争いも起きるんです、エチゼンと。
ただそのエチゼンを統一したものというのは、日本の歴史上に実は隠善たる力を及ぼしている。
その非難を受けてからその人たちだったり、その人において日本の政局自体の名誉を握るような人物がエチゼンに出現するんです。
一旦こう逃げて、形勢立て直すときにコシタンだと政局を見てるわけでね。
北陸から見てるんです。
実際そうやってエチゼンから見ていて、京都で例えば内輪揉めとかが起こって、敵がどっちも疲弊したときにエチゼンから乗り込んでくる。
それで復活を遂げるとか。
福井 で、この市城谷桜市遺跡博物館というのは、この市城谷、数の1に乗る、乗車するの乗ですね。谷と書いて市城谷と言うんですけれども、
福井 これが浅倉市の本拠地があった場所なんです。
福井 ここに浅倉市とはどういった人たちだったのかっていう歴史を解説して、それを体感してもらうためのミュージアムになっています。
福井 うんうん。
福井 今、内田も注目してくれてましたが、ここでやっぱり一番の見どころはね、このガラス張りになった窓から、この昔の館が復元されてるんですよね。
谷 いや、これ不思議だよね。建物の中に建物が再現されてるっていう。
福井 そうなんです、そうなんです。しかもそれをあえて外から見えるようにしてあるという。
谷 そうだね。
福井 これ復元されているのはね、その浅倉家の当主がね、用いていた館を、本当にそのままに復元しているというものになるわけですね。
谷 はいはい。
福井 ということでね、このミュージアムをまず見学したいわけなんですが、浅倉氏というのが何者なのかということをね、ちょっとここで簡単にお話ししておきたいと思います。
浅倉氏というのは、戦国時代に活躍した越前の戦国大名です。
おそらく一般的に一番有名なのは浅倉義影という人物。義影は義理人状の義ですね。景色の景と書いて景観の景ですね。義影と読みます。この影というのが浅倉氏の代々の字です。
この人がおそらく有名だと思います。なぜ有名かというと、浅倉氏を滅ぼした人として有名なんです。
最後の人。
福井 最後の党首です。
なるほど。
福井 だいたいですね、この人は言葉を選ばず言うと馬鹿殿として描かれます。滅ぼしてしまった馬鹿殿として描かれるんです。
まあそうなりがちだよね。
福井 まあよく言われることで言うと、そういうわけで足塚賀将軍義影が逃げてきたんですよ。一条田に頼って。
これを利用すれば京都に攻め込んで京都で覇権を手にできたはずなのに、足塚賀将軍義影は日寄り見をして一条田に引きこもって、積極的に手を貸そうとしなかった。
越前という絶好の一人にいたのに。足塚賀将軍義影は嫌になっちゃって、もうこいつ足塚ダメだと思って、誰かいい奴いないのかなって思ってたら、
なんかどうも岐阜に織田信長っていう有名な奴が最近出てきている。若手ですごいらしい。そっちに行っちゃおうかなって。岐阜に行って、信長はそれでよくぞ私のところに来てくれましたと。
行ってすぐに京都へ足塚賀を伴って行って天下制覇の第一歩を踏み出した。
つまりそのチャンスがあったにも関わらずミスミス逃した馬鹿殿ということで言われてしまった。
それは言われるわ。
後々信長が兄弟になったので危機感を覚えて、やばいと思って竹田信玄を頼る。頼って信長を一緒に滅ぼしましょうと。
竹田はああいう、このポータージャストで話したところなので、ああいう人たちだったので、信長もやばい。竹田が的にまでやばいと。
なんだけど、そこでも朝倉は竹田が攻めてきて信長がそっちでやばいやばいと慌ててるときに、北から越前から攻めていけば絶好のチャンスなのにまたそれを逃して帰っちゃって、竹田信玄はブチギレる。
この間まで西軍でバリバリやっちゃったのに、お前なんで寝返ったんだって言ったら、いや俺は越前が欲しい。
芝はもういいからもうダメだからうちのところの相撲。
俺こそが越前を治める。だって越前は絶好の場所だから。越前さえ持ってればいずれ天下だってもしかしたらっていう。
ってことで越前に引っ込んじゃって、越前で東軍です私はって言って西軍の周りの敵をどんどん駆逐していっちゃって、自らほぼほぼ乗っ取っちゃうんです。
これが朝倉氏なんですよ。
いずれ天下とる戸籍として、まず越前をどうにかして確立させたい。自分のものにしたいと。
信長秀吉みたいに天下統一みたいなところを持ってたかわかんないですけど、ただ少なくとも越前という場所がどれだけその影響力が強い場所なのに攻められにくい。
自分の王国を築けて誰もその王国の存在を無視できないから越前にいることの利権というのを多分この人は知り抜いてたんですよ。
それは血糊があるんだろうね。
血糊なんですよ越前は。
そして精神的な威圧の肉があるんです。朝倉越前さえ味方につけばうちが有利になるのにっていうのがずっとその状態だからどっちも頭を下げてくる。
越前に味方についてもらえばっていうことが彼はそこの野望を達成したんです。
これが朝倉氏の始まりなんです。
彼は結局それで市城谷という、これ遼西区分でいうと福井市の中なんですけど、もう町からだいぶ離れてます。
本当にこの山間の谷に城を築いて、自らのこの館を作ってそこに城下町を作りました。
朝倉隆は実は教科書に載っていまして、この人は戦国大名の中でもいち早く自らの分国法、つまり朝倉氏の両国だけに適用される独立法治国家っていうのを作ったんです。
法律を作ったっていう、これがある意味主権者として独立しますよ朝倉は越前の。
という示したっていうんで、戦国大名の先駆けって言われてる人物なんです。
つまり既得権益から出したっていうふうに自分で言い始めちゃったっていう人なんですね。
市城谷というものを開発して、そっから高谷家庭は間もなく亡くなってしまうんですけど、吉勝が滅ぼされるまで大体およそ5代100年にわたってこの市城谷朝倉氏というのを続く。
小田原法上も5代100年なのでね。
大体それぐらいの一つの歴史なんですね多分ね。
というのがこの朝倉氏なんですね。
なので終戦におけるこのキャスティングボートはこの人なわけです。
今言ったような歴史だったりとか、後々言うんですけど、約170万点の遺物、つまりお皿とか道具とか、
昔1550年とか使ってたものが発掘されて展示されている。
でも重要文化財とかのリスト見るとえげつない数があるんですよ。
本当に保存状態がいいままでていったんです全部。
っていうね、もう日本の中世史っていうものの研究はこの市城谷を境にまた変わったって言われてるぐらいのすごい史跡なんです。