1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #68【福井】隠然たる越前Part1
2024-12-16 1:31:24

#68【福井】隠然たる越前Part1

隠然たる越前―――ある“キャスティング・ボート”について―――1日目

現在の福井県東部すなわち越前地方は、古来中央政権を追われた、あるいはその簒奪を狙う人々が雌伏する土地でした。これは都との地理上、精神上の絶妙な“距離感”によって生じた現象で、北国の清冽な土壌を背景に形勢を窺う越前は、都人にとって時に頼もしく、時に不気味な存在と映りました。その存在感は、人知れず、しかし確実に政局へ影響を及ぼし、日本の命運の舵を握っていたのです。


【目次】

〜 挨拶を変えてみたのですが……

〜 コーステーマの発表

〜 福井県ってどんなところ?ディープな思い出

〜 “カツ丼”の原点の面影を残す!?名物グルメ 【ヨーロッパ軒 総本店】

〜 キャスティング・ボートを生む越前の歴史

〜 朝倉氏の栄華を物語る新鋭の博物館【福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館】

〜 ★歴オタ話★ 戦国時代のキャスティング・ボート 朝倉孝景の存在意義

〜 ★さらに歴オタ話★ 幻の将棋の駒 “酔象”とは!?

〜 戦国時代の遺跡をそのままに再現 【一乗谷朝倉氏遺跡】

〜 曹洞宗の大本山 日本最高峰の禅の道場 【大本山永平寺】

〜 ★歴オタ話★ 道元禅師の疑問と悟りをおさらい

〜 ★さらに歴オタ話★ 世界的偉人を魅了した道元禅師の教えと“人間観”

〜 1日の振り返り

〜 ★皆さまにお願いです★ JAPAN PODCAST AWARDSについて


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00:03
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな同級生2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介していきます。
旅行のために生き、生きるために旅行をしているハイヤです。普段は旅行ガイドブックの編集をしている旅のプロです。
酒のために生き、生きるために酒を飲む内田です。ディープな旅がしたいけど知識がない旅行初心者です。
はい。大丈夫かな、これ。改めて読み上げると。
ちょっとね、ポッドキャストスターワードの審査コメントでね、挨拶をしっかり立ち位置をね、言った方がいいんじゃないかというコメントをいただいて、ちょっと書いてみたんですけど、なかなか。
ちょっとね、攻めた感じの。
ちょっと俺のキャラがやばい奴になってる。
酒のために生き、生きるために酒を飲む、すごいね、どういう人。
そんな飲んでないんだよ。
まあちょっとね、まだ変わるかもしれない。模索中なんですけど。
要はね、単純に同級生が旅行好きの話をしているとかじゃなくて、本当にその、普段ね、僕が旅行ガイドブックをやってるわけですけど、そういったその、なぜこの人たちの話を聞かなければならないのかっていうことをちゃんと言った方がいいってアドバイスをいただいたんですよ。
情報の信憑性というかね、しゃべり手のバックボーンをちゃんとお伝えしたいなということで。変えるかもね。
ちょっとね、まあ一旦これでやってみましたけど。
今日はこれでやってみましょうか。
毎回変わるかもしれない。
はい、ということで、今回からね、新しいコースになるわけですけど。
じゃあ今回のコースのタイトルは何でしょうか。
はい、今回のコースのタイトルは、陰善たる越前、あるキャスティングボートについてです。
陰踏んでるね。
そうですね。
陰善たる越前。
キャスティングボートってもうなんかちょっと最近話題の話じゃないですか。
そうなんですよ。これね、コロコロタイトル変えてたんですけど、最近ね、日本でね、アメリカでもですか。
選挙があってね。
その選挙用語みたいので使われる場合もありますよね。
情報番組とかでめっちゃ言われてる。
そうですよね。
具辞書さんを引用すると、会議で賛否同数の場合、議長の決裁権、また議会などで2大勢力が均衡している場合の第3党の決定権。
これから転じて関与表現としてですね、どちらになるか決まらないときにそれを決定することになる力。
というのがキャスティングボートというものだと。
その賛否というか2つの意見が傾向しているときに、じゃあ第3者がどっちに行くかで変わるっていうその第3者のことでね。
そういうことですね。
それが旅に絡むのがどういうことなんだろうという感じがするけども。
03:03
そうですね。今回はね、このエチゼンっていうのは福井県の東部のことなんですけれども、このエチゼンというものが実は日本史上のキャスティングボートなんじゃないかっていう話をね。
旅をしながらそういう話をしていく。ちょっと歴史寄りの話になると思います。
そんな大事だったんだ。いまいち印象ないけど。
そうですね。だから隠善たるなんですよね。
隠善というのは隠れる自然の善でね。
密やかな力を持っているとか、隠善たる影響力を持っているとかってちょっと難しい言葉遣いを言いますけれども。
いままあ内田はね、あんまり印象がないけれどもといった、まあ事実そうだと思うんですよね、大半はね。だけど実はこのエチゼンというのがという。
隠善としてたから印象に残ってないっていう感じね。
じゃあその隠れた福井、エチゼンの力というかね。
そうですね。
立ち位置が見えてくるわけですね。
そうはってほしいですね。
じゃあ紹介をお願いします。
ということでね、今回このエチゼン、福井県の東部をですね、取り上げるわけなんですけど。
そもそもこのコースを作ろうと思ったきっかけというのは、リクエストを頂戴したんですよね。
そうですね。
ふっさんさんですね。
ミンキャスでお会いした方ですね。
そうですね。
中略しまして、私も旅好きで47都道府県のうち沖縄と福井以外は訪れたことがあります。
福井県を半年以内に初訪問したいなと思っているのですが、もしおすすめの場所や工程があれば教えてください。
ちなみに普段の旅ではご飯と温泉に重点を置き、合間に街歩きを入れることが多いです。
ということで、これに応える形でね。
そうですね。
福井というものを取り上げさせて頂いたというのがこの背景にあります。
福井県はこのポッドキャストにおいて本当に初登場だと思いますので、
ちょっとまた例によっていろいろとうちだからもヒアリングをしてみたいわけですが、
福井県というとどういうイメージがあるんですか?
これはね、我々にはかなり思い出というかね、
思い出か思い出だね。
あるんですよね。
以前からね、仏教校っていう話はしてるんですけど、
我々が行った中学高校は仏教校でして、
我々の時は中3に福井にある総統州の総本山、
永平寺というところにね、
泊まるという。
そうなんだよね。
イベントがありましたから。
やっぱその印象がやっぱり僕は強いですね。
そうですよね。
なので我々の同級生はね、
みんな福井県に行ったことない人はいないはずなんですよね。
中学旅行で行ってるからね。
そうなんですよね。
あと他だとなんだろうね、
メガネとか。
ああ、メガネね。
あの鯖江というところでね、
もう一大産地ですよね。
06:01
あとなんだろうね、蟹とかか。
蟹ね。
なんかそんな感じかな。
そうですよね。
福井県自体はあの永平寺の就学旅行の時以来は行ってますかね。
行ってないかな。
なるほどなるほど。
じゃあそれ以来の越前という話になるわけですね。
今ね、鯖江のメガネの話もありましたし、
蟹もありましたけれども、
北陸のある意味玄関口となるようなね、
京都の方から見るとね、
そういったところに立っているのでね、
非常に歴史的に重要な位置を占めていたというのが今回のね、
ポイントにもなってくるわけなんですけど、
最近の観光コンテンツで言うと、
今年の3月にね、
北陸新幹線が延伸したというのが結構大きな、
今年おそらく一番大きな国内旅行のゴツだったんじゃないかと思うんですけど、
確かに。
これがね、今までは石川県の金沢までしか新幹線がなかったのが、
それから西の方に行って福井市を通過して、
福井県の鶴ヶというところまで、
今延伸してるんですよ。
なので東京の方から見ても、
新幹線で一本でね、福井県に行けるようになったということでね、
ある意味今年の観光の旬と言ってもよかったかもしれません。
確かにね。
あの修学旅行の当時会ってほしかったね。
あれ遠かったもんね。
我々はね、その修学旅行の時に、
なぜか名古屋に行って、
そっからバスで渋谷するっていうね。
結構でしたよね。
あれ過酷だったね。
過酷だよね。
先生も寝てたからね。
寝てたね。
あの観光とかじゃなかったもんね、もはやね。
本当に修行だったね。
そうなんですよね。
修学旅行というか修行だったんですよね。
我々はね、立ち位置としては。
永平寺に行く内容も修行だったし、
それに行く工程も修行っぽかった感じだった。
過酷でしたね。
だからやっぱ東京から一本で行けるのは便利ですよね。
そうですね。
我々の後輩はだから今年からもう新幹線で行ったのかね、もしかしたら。
かもね。
福井駅まで行けば多分永平寺はすぐ行けるので。
いいね。
羨ましいわ。
そうですね。
でも今言った通りやっぱりちょっと、
これまでどうしてもアクセスしづらいっていう印象がどうしても、
事実そうだったと思うんです、東京とかからだと。
なので福山さんも静岡県にお住まいということでしたので、
もういわば日本の南と北の対照的なところにあるじゃないですか。
日本縦断しなきゃいけないっていうので、
もしかしたらそれでちょっとまだ行かれてなかったのかもしれないなというね、
勝手に推測もしていますけれども。
なので今回はちょっとそういった、今年もう終わっちゃいますけどね。
今年の旬である越前、福井ということをお話できたらと思っています。
例によってなんですけれども、
福井県っていうのがね、実は旧国名で言うと、
これ2つの国に分かれていたんですね。
片方が今回取り上げる越前、
09:00
以前越後の上杉謙信の話をしましたけれども、新潟ですね。
これの越前、あと富山が越中なので、
越前、越中、越後の越前というところですね。
昔その北陸一帯を越すというね、
超越するの越前ですよね。
と呼ばれていて、京都から見て前、中、後っていう風な順序で言われていたわけですね。
なので京都から見た一番北陸の玄関口だから越前になっていたと。
前にあるってことですね。
そういうことです。
今の行政区分で言うと、
これは県庁所在地の福井市を中心に開けていた国です。
一方ね、これは僕いずれまたやりたいと思ってるんですけど、
福井県の西部の方は若狭という別の国でした。
若い狭いと書いて若狭っていう国があったんです。
ここはここですごく面白いんですけど、
ちょっとまだ新幹線も伸びてないところなので、
なかなかまだ行きづらいところはありますが、
今の行政区分で言うと、
小さな浜と書く小浜という町が若狭の中心地です。
ただ今回は越前だけで2泊3日の旅行をしたいという風に思っています。
そしてね、福産さんからのリクエストの中でですね、
福産さんの旅行のいつものプランとして、
温泉と食事に重きを置いていて、
街歩きを挟むというお話がありましたので、
ちょっとそれに寄せた形で今回作ってみたので、
ご検討いただければと思います。
シチュエーションとしてはね、
かなり歴史好きの方が今回いいかなと思っていますが、
一人旅でも全然行けますし、
僕も福井は実はすごく好きで、
結構本当によく行ってるんですよ。
2年に1回ぐらいは行ってる。
今が一番行ってないかもしれないですね。
なんですけど、だいたい一人で行ってます。
たまにグループで行きますけど。
なので一人でも楽しめるものかなと思っています。
ということでちょっと前置きが長くなりましたが、
実際のコースに入っていきたいと思います。
1日目のスタート地点としては、
福井駅にお昼頃に着くということを想定したいと思います。
ちょっとさっきアクセスの話したんですけど、
これね念のため僕調べてきたんですね。
静岡県から福井に行くにはどうしたらいいのかということ。
これがねただ難しいということが気づきまして、
要は北陸新幹線ができてるんだけど、
どっちもどっちなんだよね。
静岡から行こうとするとね。
つまり仮に東回りで回ろうとすると、
静岡から東京まで新幹線とかで行って、
そこで乗り換えて、
北陸新幹線で3時間以上かかる。
こういったパターンが一つ。
西回りで行こうとする。
我々の中国旅行と同じですよね。
行こうとすると、
名古屋、あるいは滋賀県の前原というところがね、
これも新幹線が通ってるんですけれども、
東海道新幹線です。
そこまで滋賀県の方まで西に行って、
そこで北陸本線の方に乗り換えて、
JR西日本の特急に乗り換えて福井に入るというパターンがあって、
12:01
これね、どちらもほぼ同じくらいの時間がかかりました。
なるほど。
なので今でもね、
ちょっとこの静岡からって考えると、
なかなか厄介な場所ではあります、正直。
なんか北陸新幹線もっと伸ばして、
丸くつなげようみたいな噂?あれは計画なのか?
計画ですね。
そうなの?があるらしいけど、
それでも解消しない?
そうですね。
もちろん多少は良くなると思うんですけど、
やはりすごくアクセスしにくい、
静岡からのね、
というのは変わりないかなと思いますね。
そうなの。
だし、福山さんもね、
あと半年以内にとおっしゃっているので、
ちょっとそれまではさすがにね、
新幹線を開通しないと思うので。
そっかそっか。
なので、僕が調べたところだと、
仮に12時に福井駅に着こうとしたら、
もう結構朝8時くらいにはね、
お家、あるいは、
静岡のどこかということにもよると思うんですけどね。
静岡も東西長いので。
なんですけど、
結構朝早くから用意していただく必要があるかな、
という気がしています。
東京からの場合は、
北陸新幹線が妥当だと思いますね。
まあそうだよね。
それでも3時間くらい?
かかりますね。
結構かかるんだね。
かかりますね。
やっぱり金沢のさらに先なので。
ということでね、
ちょっとね、
関東の方は遠いというイメージがあると思うんですけど、
それでも僕はやっぱりね、
通うくらい好きなところでして、
非常にいいところですので、
ぜひその魅力をちょっとお話しできればと。
大阪とかの方はね、
全然馴染みやすいと思います。
もうJR西の特急で1本なので、
我々が例えば静岡に行くくらいの感覚だと思うんですよ。
なるほどね。
なので西日本の方は全然その商品じゃないかなと思いますね。
ということで、
12時に福井駅に着いたというところからお話をしましょう。
福井駅というのはですね、
JR福井駅なわけですが、
いわゆる昔の城下町です。
後々お話しするんですけど、
福井藩、越前藩というすごい強大な藩がここを持っていました。
ので非常に城下町として大きな城と共に栄えた町になっています。
福井の駅前にもですね、
恐竜のモニュメントがあったりとか、
福井恐竜めですね。
そうだね。
っていう栄えてはいるんですけど、
中心市街地はやはり福井駅から10分くらい歩いたところ、
昔の城下町のエリアが今も千葉の繁華街というふうにご認識ください。
やっぱね、この番組初めてそうなんだなって思って。
大体ね、富山とかもね、金沢もそうですけど、
北陸の城下町は特にこの傾向が強いですね。
なので今回も福井駅に降り立ちましたら、
そのままですね、
ちょっとまずお昼を食べに歩いていきたいと思います。
福井駅から12分ほど歩いたところにあるのが、
ヨーロッパ県ソウホンテンというものです。
スポーツ活動。
これね、ご存知ですかね。
福井の名物グルメの一つにね、数えられるものですね。
そうなんだ。
15:01
今ね、何を見ているかというと、
このヨーロッパ県ソウホンテンさんのウェブページを見ているわけですが、
このサクサクの衣にあがった、
きつね色のね、揚げ色のカツが、
ご飯の上に乗って、ちょっと蓋を外したところが出ているという形ですね。
きれいですね。
きれいですよね。
ファンコが結構細かい感じのカツですね。
そうなんです。
これね、ちょっと面白いところで、
いわゆるこのザクザクっていうとんかつというよりも、
ちょっとね、貝殻というか、少しレトロな感じのね、
カツレツみたいな感じがしてますよね。
で、なぜこれが福井の名物なのかということなんですけれども、
このヨーロッパ県ソウホンテンというのは、
実はすごく老舗なんですよ。
そもそものね、創業というのは、
1913年。
大正2年ですね、これは。
もう100年以上じゃないですか。
そうです。
東京都の早稲田、鶴巻町というところで創業したのが始まりだと。
つまり福井ではなかったんです、そもそもね。
早稲田大学のすぐ近くです、これ。
で、創業したお店だと。
でね、創業したのはね、高畑真太郎さんという方だったんですけれども、
この人はね、福井のご出身のシェフなんですが、
ドイツのベルリンにね、料理の留学をして、
現地で西洋料理というものをね、
本当に先駆け的に学んだ人なんですね。
実は余談ですけど、福井というのはね、不思議なことなんですが、
この高畑さん以外にもね、秋山さんという非常に有名な料理人の方も、
ほぼ同じ時期に同中生みたいな形で、
2人とも留学をしていて、
この秋山さんこそが、
ドラマでね、佐藤武さんが演じたことですごい話題になりましたけど、
天皇の料理版っていうドラマがね、TBSかな。
すごいヒットしたドラマがありましたけど、
あれのモデルになった人。
エッジフェンのご出身なんです。
そういう信仰のあった方らしいんですね、高畑さん。
その高畑さんの方は、民間の方でシェフとして活躍をされて、
この早稲田鶴巻町において、
日本におけるおそらくカツ丼というものを初めて出したじゃないかとも言われている人なんですね。
これは色々諸説あるようなんです。
ただまぁ、今ね、我々がカツ丼というと、
とんかつに卵とじ、出汁の卵とじをかけてというものが一般的だと思うんですが、
この人の出したカツ丼はそうじゃなかったんですね。
これが今も福井に受け継がれているわけですけど、
すごくシンプルで、ご飯の上にカツを乗せて、
そこにちょっと特製のソースをサッとかけたっていう、あくまでもソースカツ丼なんですよね。
なので、卵とじみたいなふわふわというよりも、
まだカツの食感そのものを食べるというすごくシンプルな出来栄えのものだと。
ちょっとさっき内田が粒子の細かいパン粉だねって話ありましたけど、
これなぜそんなことになってるかというと、
そもそもこの人がカツ丼を思いついたきっかけはそういうわけでベルリンなわけなんですけど、
向こう行くとシュニッツェルっていう郷土料理があるのご存知ですかね。
シュニッツェル、なんだっけ?
18:02
ちょっと調べてみましょうね、せっかくなのでね。
カツだね。
そう、いわゆる我々がイメージするカツですよね。
ドイツだったりとかオーストリアとか東中央のあたりで食べられてるお肉料理。
豚肉にパン粉をつけてあげるという本当にいわゆるカツなわけです。
これを学んできて、それを日本風にアレンジはもちろんしたと思うんですけど、
その原型を非常にとどめた形でこのカツ丼に乗っけたんですね。
だから日本のいわゆるパン粉をすごくつけるとんかつとはちょっと違う大向きのカツが受け継がれているというものになります。
このシュニッツェル自体も衣がすごく粒が細かくてね、
それを踏襲したんだなというのは確かによくわかる。
そういうことですね。
というのがこのタカバタケさんという方なんですね。
当初はそういうわけで東京にあったんですけれども、関東大震災でね被害をこむってしまいまして、
お店がダメになってしまったと。
そこでふるさとである福井へ移転して新たな再スタートを切ったというのがこのヨーロッパ県総本店さんなんですね。
ここで食べるものといったらやはりソースカツ丼だと思います。
食べた食感としてはもちろんお肉の美味しさもあるんですけど、やっぱり特徴的なのはこのパン粉ですね。
非常に目の細やかなパン粉ですので食感が面白いんですよ。
お肉の柔らかいロース肉だと思うんですけど、
それをちょっと引っ掛けるような形で食感が柔らかいお肉と粒子の細かいカルモがうまくそこで噛み合うような形で。
それが非常に面白い食感になっている。
かつウスターソースをベースにしたタレで味付けをしているのでちょっと酸味もあるような。
いいね。美味しそうだなこれ。
カツ丼っていうとやっぱりちょっとガッツリ系だと思うんですけど、
卵とじはないということもあるので、そんなに負担がグッと来るというよりも意外とシンプルにすっきり食べられるような僕は印象を持ちましたね。
ソースでちょっと軽やかというか酸味もあるってことだからちょっと軽やかに食べれるのかなって感じだね。
そう思いますね。
カツ丼セット1400円とこのホームページはなっていますが、もちろん養殖屋さんですので、それ以外にもちろんエビフライですとか、あるいは西洋料理ということでビーフステーキですとか、ポークチャップとかね。
あとは季節限定で牡蠣フライみたいなのもあるようなんですけど。
こういうやっぱり揚げ物を主力とした養殖という形になりますので、この点でもいろんな方が喜ばれるものかなと思いますね。
お店自体はすごくね、本当に昔ながらの老舗という感じの養殖屋さんです。
歴史は100年以上ありますからね。
21:01
そうですね。
本当に昔ながらという感じですね。
かどっこにあって結構並んでますね。
福井の名物の一つでね。
福井って他にも後からグルメ出てくるわけですけど、ちょっとこういうお肉系というのはあんまり他にないような気がしている。
ガッツリ系というのは。
でもやっぱ海産の方がね。
まあね。
土地柄。
なのでね、こういったものは貴重になりますので、朝も早かったでしょうから、ここでちょっとお腹空いてると思うのでね、ぜひしっかり召し上がっていただければいいかなと。
グルメね、お好きということでしたので。
そんな気がしております。
ここからはですね、ちょっと一旦福井のこの駅前、中心街を離れていきます。
福井駅にはまた翌日の夜にまた帰ってくるんですけど、それまでは郊外の方にね、回ってみたいと思うんですね。
なので福井駅の近くで車を借りていただいて、ちょっとここからドライブで行きたいなと思っております。
ここからがね、ちょっとその歴史とかエチゼンというものを考える上での本題になってくるんですけれども、エチゼンという国の歴史をね、簡単にちょっと振り返っておきたいんですね。
エチゼンといった時に歴史上の人物とかって考えると誰かご存知ですかね。
ちょっと難しい質問かもしれませんが。
俺は本当に分かんないな。
一人はね、一人は知ってるはずですよ。
怒られますよこれ、出ないという構えが。
だって我々の一王なんで永平寺に行ったのかっていう。
いやもうそこはね、もう古覚えですよ本当に。
あら、ちょっとこれ同級生が聞いてたら前にもやってんだと思う。
いや同級生はもう忘れておいてるかもしれない。
永平寺、日本において総統首を開いた人という。
道元。
そう、道元禅師ですよね。
あの人は出身はエチゼンではないんですが、エチゼンで即席を残した人。
道元禅師がまずそうですよね。
あとはね、ちょっとあんまり難しい話になってくるのでもう言っちゃいますけれども。
戦国時代には朝倉氏というものが結構ね、勢力を誇っていたりもしますし。
ちょっと時代が前後して申し訳ないんですけど。
南北朝時代には日田義貞っていう武将。
これは群馬県の出身で鎌倉幕府を滅ぼした武将なんですが。
これがエチゼンに勢力を張ってここで大変活躍をして福井市で最後は死んでしまうんですけど。
っていう人物がいたり。
そしてもっと前、古代の方に行くと、6世紀の始めなので本当に古代も古代ですが。
景泰天皇という天皇がこのエチゼンから都に来るんですね。
これね、諸説ある、本当に古いことなのでもう分からないんですけど。
日本書紀とかによるとこの景泰天皇、6世紀の始めに出た天皇なんですが。
この人はね、前の天皇の子供とかでもなんでもない遠い親戚くらいの人だったらしいんですけれども。
前の天皇が後継ぎが指名しないまま亡くなってしまったという時に後継ぎ争いが起こるんです。
24:01
その時にこのエチゼンにいたこの人を大友という豪族が衰退して都へ呼んで天皇にした。
この人の子孫が今の皇室にも結局流れているというような形になっているので。
そういう存在なんですね、エチゼンというのは。
何が言いたいかというと、エチゼン、福井というのは今も京都駅から考えると大体電車でおそらく1時間ちょいで行けるはずなんです。
昔もそれは要は変わらない時間なわけですよ。
つまりエチゼンはよく避難所みたいに使われるんです。
これ日本の歴史上本当に。
京都で危ないことがあったら福井にまず逃げよう。
そうなんです。
警戒天皇もね、ちょっと言われはよくわかりませんが、とにかくエチゼンにいた人を京都に呼び戻したっていうのがあったりとか。
ララですね、その当時はね。
だったりとか、ニッタ・ヨシサダも京都で足利尊氏と戦って、形勢が不利になったのでエチゼンの方へ引き込んでここで再起を図った。
そして浅倉氏というのも大河ドラマとかよく出てくるのは、足利幕府の将軍の足利義明というのがいたわけですが、
それが力が弱すぎて、そういうことを三好長吉とかにいじめられてたんです。
和の繰り返しで。
三好が猛威を振るって全然言うことを聞かないので、もう嫌になっちゃって出奔したんです。
それで頼ったのがエチゼンなんです。
浅倉に逃げてくるんです。
っていうように日本の歴史上、エチゼンに逃げてくる人っていうのは、何らかの事情でやめなく逃げてくる人が大半なんですけど、
もう一回リベンジがしたい、再起を図りたいっていう時に、まずはエチゼンに一度避難して形勢を立て直そう。
まずはエチゼンから様子を見ようっていうのが、日本史上何度も起こることなんです。
という絶妙な距離感にいるんですよ、エチゼンというのは。
いざとなれば京都にすぐ行ける。
ただしその間には、今もこの滋賀県の北部からエチゼンというのは、結構険しい山脈が隔てているので、
にわかに向こうからは攻めてこれない、向こうの都合でも。
いざとなれば自分たちは下れるんだけど、向こうは来づらい。
そして海にも通じてるから諸国とも連絡がつきやすいっていう、絶妙なバランス感覚の位置にいるんですよ。
でもそんなんだとさ、みんなそこ取り合いになりそうなもんだけど。
だからこそ結構えげつな争いも起きるんです、エチゼンと。
ただそのエチゼンを統一したものというのは、日本の歴史上に実は隠善たる力を及ぼしている。
その非難を受けてからその人たちだったり、その人において日本の政局自体の名誉を握るような人物がエチゼンに出現するんです。
一旦こう逃げて、形勢立て直すときにコシタンだと政局を見てるわけでね。
北陸から見てるんです。
実際そうやってエチゼンから見ていて、京都で例えば内輪揉めとかが起こって、敵がどっちも疲弊したときにエチゼンから乗り込んでくる。
それで復活を遂げるとか。
27:00
そういうパターンが多いんですね。
それは隠善としてそうな価値がある。
そうなんです。隠れるんです、だから一度エチゼンに。
あと雪というのもあると思います。
北陸はやっぱりエチゼンは雪国なので、雪に閉ざされるとやっぱり余計向こうは攻めてきづらくなるので。
ちょっと一旦避難エチゼンにしようというのがエチゼンの国なんですね。
こういった歴史を踏まえた上で見に行きたいところというのが、今ちょっと話出してしまったんですけど、
福井駅から車で15分ほど東の方に行ったところにあるのが、福井県立市城谷浅倉市遺跡博物館というものになります。
綺麗な建物ですね。
福井 そうなんです。これ最近リニューアルしたんですよ。
これ結構話題になりましたね、このリニューアル大きなトピックとして。
すごいね、でっかい窓ガラスがいっぱい張られてて、その中に木の建物というか柱とかが見えてて、外観からも綺麗な感じだね。
福井 そうなんです。これいきなりもう外観の話出たのでそっちに話を振っちゃいます。
とある有名な建築家の方がこれを設計したんですね。その名前が内藤博史さんという方なんですが、
内藤博史さん、これ実はこのポッドキャストに登場するのをすでに3回目です。
2回目も同じ質問をして、残念ながら答えられず岡田が陰で怒ってました。
福井 彼建築すごい好きなんで。
じゃあまた怒られるのかな、これは。
福井 答えがありませんか、内藤博史さん。
えー、急にクイズくんの怖いんだよな、これ。
福井 えー。
うん。
福井 いやもう覚えてないですね。
福井 じゃあ最後、言っちゃうとですね、高知県の牧野植物園を作った方。
あーはい。
福井 そして、
あー次なんだっけ。
福井 うん。
あーじゃあそこが繋がってないんだな、俺は。
福井 そうですね。残念です。
福井 富山県の富山県美術館。
あーはいはいはい。
福井 あのポスタートリエンナーレをやってる美術館ですね。
福井 これを作った人ですね。
あーはいはいはい。
福井 が、この市城谷桜の遺跡博物館もリニューアルにあたって設計されました。
うーん。
福井 はい。
でもなんかそう言われると、確かになんかこういう色味のグレーの感じの建物だった感じがするから。
福井 そうですね。
そう言われるとなんか繋がってる気がするね。
福井 うん。
福井 まあこれはちょっと僕も専門家になるのであんまり詳しくは話せませんが、
福井 まあ僕は主観で見る感じだと、やっぱりすごいシャープだね。
うんうん。
福井 角度をつけてすごくシャープで洗練されたね、グレーとかね、そういったデザインをよく使われる方な気がしますね。
福井 うん。
30:00
福井 で、この市城谷桜市遺跡博物館というのは、この市城谷、数の1に乗る、乗車するの乗ですね。谷と書いて市城谷と言うんですけれども、
福井 これが浅倉市の本拠地があった場所なんです。
福井 ここに浅倉市とはどういった人たちだったのかっていう歴史を解説して、それを体感してもらうためのミュージアムになっています。
福井 うんうん。
福井 今、内田も注目してくれてましたが、ここでやっぱり一番の見どころはね、このガラス張りになった窓から、この昔の館が復元されてるんですよね。
谷 いや、これ不思議だよね。建物の中に建物が再現されてるっていう。
福井 そうなんです、そうなんです。しかもそれをあえて外から見えるようにしてあるという。
谷 そうだね。
福井 これ復元されているのはね、その浅倉家の当主がね、用いていた館を、本当にそのままに復元しているというものになるわけですね。
谷 はいはい。
福井 ということでね、このミュージアムをまず見学したいわけなんですが、浅倉氏というのが何者なのかということをね、ちょっとここで簡単にお話ししておきたいと思います。
浅倉氏というのは、戦国時代に活躍した越前の戦国大名です。
おそらく一般的に一番有名なのは浅倉義影という人物。義影は義理人状の義ですね。景色の景と書いて景観の景ですね。義影と読みます。この影というのが浅倉氏の代々の字です。
この人がおそらく有名だと思います。なぜ有名かというと、浅倉氏を滅ぼした人として有名なんです。
最後の人。
福井 最後の党首です。
なるほど。
福井 だいたいですね、この人は言葉を選ばず言うと馬鹿殿として描かれます。滅ぼしてしまった馬鹿殿として描かれるんです。
まあそうなりがちだよね。
福井 まあよく言われることで言うと、そういうわけで足塚賀将軍義影が逃げてきたんですよ。一条田に頼って。
これを利用すれば京都に攻め込んで京都で覇権を手にできたはずなのに、足塚賀将軍義影は日寄り見をして一条田に引きこもって、積極的に手を貸そうとしなかった。
越前という絶好の一人にいたのに。足塚賀将軍義影は嫌になっちゃって、もうこいつ足塚ダメだと思って、誰かいい奴いないのかなって思ってたら、
なんかどうも岐阜に織田信長っていう有名な奴が最近出てきている。若手ですごいらしい。そっちに行っちゃおうかなって。岐阜に行って、信長はそれでよくぞ私のところに来てくれましたと。
行ってすぐに京都へ足塚賀を伴って行って天下制覇の第一歩を踏み出した。
つまりそのチャンスがあったにも関わらずミスミス逃した馬鹿殿ということで言われてしまった。
それは言われるわ。
後々信長が兄弟になったので危機感を覚えて、やばいと思って竹田信玄を頼る。頼って信長を一緒に滅ぼしましょうと。
竹田はああいう、このポータージャストで話したところなので、ああいう人たちだったので、信長もやばい。竹田が的にまでやばいと。
なんだけど、そこでも朝倉は竹田が攻めてきて信長がそっちでやばいやばいと慌ててるときに、北から越前から攻めていけば絶好のチャンスなのにまたそれを逃して帰っちゃって、竹田信玄はブチギレる。
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なんでお前はそんなのだってブチギレてるって本当に残ってる、その症状。
そうこそうち信玄は亡くなってしまって、味方がいなくなって最後信長に滅ぼされちゃったんです。この朝倉自体。
それは馬鹿殿だな。
言われちゃうんですね。実態はどうもそれだけではなかった、優れた人でもあったようなんですけど、結果としてはただそう、滅ぼしたのは事実です。
さすがにね、何にもなくて後期をね、チャンスを逃すような人ではないんだろうけどね、敦修だからさすがに。
でも、絶好のチャンスを二度も逃してるっていうのは、まあ確かに言われそうなね。
ドラマではなので朝倉ってどうも頼りなくて、いつも馬鹿っぽく描かれるんですけれども、この朝倉氏というものの最初の方をたどってみると、これが越前の本質の一つだと思っていて、
そしてなぜその馬鹿殿義影が馬鹿殿と言われるかもまたそれが越前の本質だと思ってるんです。つまり絶好の位置にいるっていうのが越前の本質なんです。
実はこの朝倉氏というのはなんかね、ドラマとかだと若手のなんかバリバリ最近上がってきた信長と比べて保守的で日和みで全然確信されない、なんか事情効果のない人質みたいに描かれちゃうんですけど、
実は朝倉って武田とかだと全然歴史が浅いんです。
せいぜいね、黄泉の乱くらいから下国上でグッとのし上がってきた、これもまた下国上の人なんですよ。
世代で言うと出雲の天子恒久とかと、あの人たちとだいたい同じくらいの世代にグッと上がってきた、本来何もベンチャーなんですこの人たち。
で、この上がり方がえげつないんですよね。
というのがですね、この朝倉氏で勢力を実質的に初代のような形でね、この越前を収めるきっかけを作ったのが朝倉孝影という人物なんですね。
親孝行の子、最初の子の考えるところを子供にしたやつですね。
で、景色の家で高陰という人物がいるんですが、これは1467年から始まった黄泉の乱の時代に活躍していた人です。
つまり信長とかが生まれる60年くらい前の人ですね。
70年くらい前かな。
戦国時代の始まりみたいなのが黄泉の乱ってよく歴史の教科書にあると思うんですけど、そのくらいの世代の人なんですよ。
なので、まだ全然戦国大名確信でいたりとかっていう感じじゃなくて、まだ室町幕府っていうのがあったんだけど、それがだんだんおかしくなってきちゃったっていうところなんですね。
で、黄泉の乱っていうのは、そもそも足利義政っていう隣格子作った人の後目争いみたいなので、義政が変なことばっかりやってるからなんか守護大名っていう強大な勢力を持った大名が2つに分かれちゃって、これで派閥争いがそもそもの原因だった。
で、東軍と言われたのが細川勝元という人物で、もう西日本最大の勢力を持っていた細川家って長名。
36:00
それに対して西軍は山名っていう人物で、これはもうゴリゴリの武道家の長力さの強い山名宗禅というものがいて、細川と山名というのが対象として争ってた。
けど、細川と山名はそれぞれ自分の派閥を拡大するために各国の守護大名の後目争いに介入して、その守護大名の中でも細川方と山名方に分かれるんですね、どんどんどんどん。
ああ、なるほど。じゃあ各地の後目争いで代理戦争みたいなことが起きた。
そうそう、代理戦争です。日本中に代理戦争が起こるんですよ、細川山名の。細川山名もそもそも足利将軍家の頭よりはその代理戦争をしてるんですけど。
それが東軍西軍となって、だいたい10年以上、10何年にわたって京都を中心に慢性的に内乱が続いて、戦国時代がだんだん本格的になってきて。
でね、この朝倉というのはそもそも山名側、西軍の超有力武将としてバリッバリ活躍したんです。
京都でもすごい戦が強かった、この朝倉高輪というのは。京都の紫外線でもその名を知ると数多くの武将を打ち取ったすごい越前の猛将だったんですけれども、それ以上に野心が強かった。
自分の野望にあったんですね。自分が越前を得てしまおうっていうね、底知りの野望を持ってた自分。それで何をしたかというと。
吉陰とは全然イメージが違うね。
そうなんです。やっぱり最初の初代っていうのは創業者っていうのはそういうやつなんですよね。
で、えげつないのがこれ何をしたかっていうと、もともと越前は芝っていう家があって、朝倉氏は芝の家臣だったんです。
家臣で越前に置かれていた代官みたいな人だったので、要はもともと生徒の代名字じゃないんですよ。あくまで芝っていう家、これは細川山のレベルの巨大な家なんですけど、これが家臣の一人だったんです。
越前にいた家臣。だけど芝っていうのが細川山の第二戦争に捕まって、もう家なんかぐっちゃぐちゃになった。
それに駆けつけて自分がこの主を追っ払って越前を取っちゃおうと思ったんですよ。
っていう野望を密かに抱いて。で、何をしたかというと、当初は山田側にいたんだけど、戦力がこう硬着してきて、どうしようどうしようこれでも硬着してどっちも手出しできないな、何年も続いてるしどうすんだこれってなってた時に、
なんと細川側の策略に乗って越前の実質的な支配権を悪不当軍が認めるということを条件に細川に裏切るんです。当軍に裏切っちゃうの、この朝倉高影は。
これで一気に黄泉の乱が終結に向かうんです。
キャスティングボートだ。
そうなんです。朝倉高影は黄泉の乱を終わらせた、そしてある意味戦国時代を始めたキャスティングボートなんです。
そして高影は細川側に寝返って、西軍の人としては嘘だろって話ですよ。
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この間まで西軍でバリバリやっちゃったのに、お前なんで寝返ったんだって言ったら、いや俺は越前が欲しい。
芝はもういいからもうダメだからうちのところの相撲。
俺こそが越前を治める。だって越前は絶好の場所だから。越前さえ持ってればいずれ天下だってもしかしたらっていう。
ってことで越前に引っ込んじゃって、越前で東軍です私はって言って西軍の周りの敵をどんどん駆逐していっちゃって、自らほぼほぼ乗っ取っちゃうんです。
これが朝倉氏なんですよ。
いずれ天下とる戸籍として、まず越前をどうにかして確立させたい。自分のものにしたいと。
信長秀吉みたいに天下統一みたいなところを持ってたかわかんないですけど、ただ少なくとも越前という場所がどれだけその影響力が強い場所なのに攻められにくい。
自分の王国を築けて誰もその王国の存在を無視できないから越前にいることの利権というのを多分この人は知り抜いてたんですよ。
それは血糊があるんだろうね。
血糊なんですよ越前は。
そして精神的な威圧の肉があるんです。朝倉越前さえ味方につけばうちが有利になるのにっていうのがずっとその状態だからどっちも頭を下げてくる。
越前に味方についてもらえばっていうことが彼はそこの野望を達成したんです。
これが朝倉氏の始まりなんです。
彼は結局それで市城谷という、これ遼西区分でいうと福井市の中なんですけど、もう町からだいぶ離れてます。
本当にこの山間の谷に城を築いて、自らのこの館を作ってそこに城下町を作りました。
朝倉隆は実は教科書に載っていまして、この人は戦国大名の中でもいち早く自らの分国法、つまり朝倉氏の両国だけに適用される独立法治国家っていうのを作ったんです。
法律を作ったっていう、これがある意味主権者として独立しますよ朝倉は越前の。
という示したっていうんで、戦国大名の先駆けって言われてる人物なんです。
つまり既得権益から出したっていうふうに自分で言い始めちゃったっていう人なんですね。
市城谷というものを開発して、そっから高谷家庭は間もなく亡くなってしまうんですけど、吉勝が滅ぼされるまで大体およそ5代100年にわたってこの市城谷朝倉氏というのを続く。
小田原法上も5代100年なのでね。
大体それぐらいの一つの歴史なんですね多分ね。
というのがこの朝倉氏なんですね。
なので終戦におけるこのキャスティングボートはこの人なわけです。
今言ったような歴史だったりとか、後々言うんですけど、約170万点の遺物、つまりお皿とか道具とか、
昔1550年とか使ってたものが発掘されて展示されている。
でも重要文化財とかのリスト見るとえげつない数があるんですよ。
本当に保存状態がいいままでていったんです全部。
っていうね、もう日本の中世史っていうものの研究はこの市城谷を境にまた変わったって言われてるぐらいのすごい史跡なんです。
42:04
じゃあやっぱりそれだけこういろいろ集まってたんだろうね。
朝倉の力って非常に強くて、越前って要は三国港の方とかって海にも通じてますから、朝鮮半島とかからガンガンいいものが入ってきたりするんで。
だから越前王国みたいな独立国家みたいになってるから、無理して外に戦わなくてよくねって気分が後々出てきちゃうっていう。
それがまあね、ある意味そういうことなんですね多分歴史というのはね。
っていうのを展示しています。
先ほど申し上げたようにこの博物館自体前からあったんですけど、
2022年にリニューアルオープンして、内藤博士さんの設計によって生まれ変わりました。
市城谷は谷合のところで山が迫っていますが、その山、里山の自然に囲まれたすごいスタイリッシュなんだけど全く景観は邪魔をしない。
執筒豪華っていうのがね、内藤さんの福井っていうものに対するイメージだったらしくて、
その執筒豪華を体現しようとしてこういった施設になったということのようです。
っていうのがね、この博物館なんですけど、
これちょっとね、朝倉の話は結構重かったので、
少し軽めな面白い話をしたいと思うんですが、
内藤は将棋とかってやりますか?
将棋はやらないですね。
あんまりやらないですかね。
駒の動かし方とかどういう駒だったって分かりますか?
翁章があってみたいな。
それもうっすらだね。
うっすら。
でもなんとなくは分かるけどね。
有名なところで言うと翁章があって、
飛車角があって、金銀があって、
あと強者とかね、
あと歩兵みたいなのもいるわけですね。
っていうのがいわゆる我々が知ってる、
藤井壮太さんとかやってるね、将棋だと思うんですけど、
これね、戦国時代は実はそれが違ったっていうことが
一条谷の事跡によって分かったんです。
水象、酔う象。
象はエレファントですね。
と書いて水象という駒がかつては存在したということが
一条谷から分かったんです、これ。
将棋ってさ、まあ軍儀じゃん。
そこに象が入ってんの?
チパ子酔ってんの?
不思議な名前ですよね。
これ正直なんでこういう名前なのかよく分からないそうなんですよ、
本当にまだに。
ただ将棋ってね、今の形になるまでにやっぱり
マイナーチェンジをずっと繰り返しているらしくて、
微妙にね、ルールが変わってるんですって。
まあまあありそうだよね、そんなのは。
やっぱり平安時代とかからこの水象があったんじゃないかって話はね、
文献から伺われてたんだけど、
この一条谷から将棋の駒が発掘されたんですね。
そこに水象って書いてあったの。
日本で初めてこの水象っていうのが見つかったのが一条谷なんです。
そっからね、今3つだけ確か見つかったんですよ、水象が。
それしかないんだね。
もう将棋って木だからさ、
こんな木が燃えたりなんだり。
でもこの一条谷に残ってたんですね。
45:00
1枚だけあったの、この水象が。
なんかそんなに文献とかにあるんだったら見つかったそうな気がするけど、
そうなんですよ。
ここにしかなかったんだね。
初めて見つかったのはここだったんですね。
ただこれによって水象っていうのが実在したってことが初めて分かって、
そのルールの解明も済んだんですね、すごく。
将棋の歴史というものもこれで変わったんです。
一条谷についてはそういったことも含んでるんです。
なるほどね。
そうか、駒があってもどう進めるやつなんかが重要だもんね。
この水象を見てもらうと、駒の動きも今分かってるんですね。
こういった形で、将棋のルールもいろいろあるんだけれども、
当初の水象は王将って前方向に1枚進めるわけですけど、
これの下、後ろの1枚以外は全部進めるっていう、
王将のちょい劣化版みたいなのが水象だったので、
これめっちゃ強かった駒らしいんですよ。
そうだね。
真後ろ以外全部1個ずつ進めると。
どうもこれが鳴ると大使、将徳大使の大使ってものになるらしくて、
これは王将と一緒なんですって。
そんな駒作っていい?
そう。
それでゲームパラソコンだから途中から気づいたのかもしれない。
なるほどね。
これめっちゃ強すぎっていうね。
そうそう。
禁止カードみたいな遊戯王の。
かもしれないんだけど、結果としてなぜか残らなくなってしまった。
水象が失われてしまった駒なんですね。
江戸時代にも既になかったようなんです。
ただ戦国時代までは使われていたのが、
この朝倉氏の遺跡によって初めて分かったんです。
水象が鳴ったら大使ってのも面白いね。
やっぱりちょっと仏教的だと思うんですよね。
おそらくなんですけど。
これはちょっと僕もあまり詳しくないんですが。
実際この水象も見れます。
ある意味展示されてると思います。
特別戦闘機だけかもしれないんですけど、僕は見ました。
非常に不思議な感じがします。
将棋って伝統的な日本のものって思ってから、
ルールがちまちま変わるってあんまりそういう想像してなかったんですよね。
確かにね。
今の我々からするとずっと昔から今の形だと思ってるからね。
意外と戦国時代の後期までは、
しかもこの朝倉の人たちは水象をよく使ってたわけなんで。
意外な発見もあったりするので、
やっぱ当時の人の生の嘘偽りのないものっていうのが
170万点あるっていうのは非常に画期的なものなんですね。
そういった貴重な資料も展示されているので、
ぜひ歴史好きの方ここを訪れていただくといいんじゃないかと思います。
170万点はやっぱすごいね。
すごいですね。
生活が見えそうだね。
そうなんです。
まさにそれなんですよ。
市城谷朝倉市遺跡博物館から車で3分ほど行ったところに、
市城谷朝倉市遺跡というその遺跡も残ってます。
今まさにうちらが生活が見えそうだねって言ったんですけど、
その通りなんです。
その生活を再現してるんですね。
48:01
遺跡に?
はい。
ちょっと写真を見てみましょうか。
本当に街並みを再現してるんだね。
そうなんです。
戦国時代の街並みというのをそっくりそのまま再現してるんです。
つまり塀の高さ、石の置き方、
実際にどういう人がここに住んでた。
職人とか商人とかっていうのも全てまま復元してるんです。
これ今見るとすごく屋根が低い感じがするね。
そうですね。
やっぱり昔の人の身長の世界ですので。
ただ江戸時代の街並みが残ってるとかっていうのはよくある話ですけど、
戦国時代の街並み、再現ですけどねあくまで。
再現ですけど、それをやってるっていうのは多分なかなかないと思います。
確かにね。
やっぱその江戸時代の街並みとか言われてるところとも全然趣が違うもんね。
そうですね。やっぱりまだ戦の時代ですので、
防御施設がちゃんとあったりとか、
あとはなりわいもやっぱりみんな違うわけですよね。
じゃあなぜこんなことができたのかっていう話なんですけれども、
そしてなぜその170万点出土してるのかっていうことなんですけど、
先ほど申し上げたように朝倉氏は後代吉賀家の時代に至って、
信長に滅ぼされました。
その時に市城谷も焼き払われてしまって、
もう全てその栄誉を誇った市城谷はもう灰燼に帰したんですね。
ところがその後市城谷というのはそのまま遺跡のように眠り続けて、
再開発がなされないまま昭和時代まで来ちゃうんですね。
市城谷は先ほど言ったように山の谷合いのところに、
防御のためにこういう狭いところにあえて城下道作ってるので、
正直平和の世の中になったら不便なんですよ、はっきり言って。
こういうところにいてもね。
ということで信長が朝倉を滅ぼした後から、
越前の中心地は今の福井市になるんですね。
なので市城谷はもう誰も使わなくなって、
農地になってそのまま眠っていったんです。
つまり再開発がされなかったからこそ、
掘り起こされる瞬間もなかったんです。
なので土の中に保存状態の良いままだれも手を付けなかった歴史が、
そのままこの谷に全て残った。
昭和時代に入ってそれを発掘し始めたら、
みるみる出てくるお宝が。
ていうんでこれはってなって、
本格的に文化事業としてこれを発掘して開発をして、
市城谷、朝倉市のその街並みをそのまま建て直したんです。
実際に朝倉市は最後大パニックになって、
市民たちもバーって片付ける間もなく、
命からがらみんな逃げ出したそうなんです。
なので例えば桶を作る桶屋さんのところには、
まだ桶の破片とかも全部残ってるから、
これは桶屋さんだったんだと。
一方で鉄のこういうのが残ってる人は、
おそらく鍛冶屋さんの家だったんだ。
荷物持ち運ぶ間もなくみんな逃げ出した。
それでいて埋まってそのままだった。
だから誰が何をしていた家までが全部わかってる。
51:01
すげー。
当時の人は不運だけど、
今の我々からするとラッキーというかね。
そうなんです。
よくぞ残ってる感じだね。
他にここまでの規模のものはないはずで、
よく言われるのは、
これが起こったことで大河ドラマっていうのもすごく影響立てた。
つまり映像制作にそれこそセットとかっていうのが、
これは発掘を機に変わったとも言われてる。
やっぱり映像をするにしても、
やっぱりなるべく当時の雰囲気というかね、
街並みとか小道具とかの資料があるに越したことないので、
そういうのが残ってると嬉しいですね。
そういうことですね。
っていうのもね、
この一条谷によってできたことなんですね。
なので現在これ言っていただくと、
こういった戦国時代の街をタイムスリップして
自分が歩くような感じにして、
実際この商品の家にも入れるんです。
そこの中も再現されてるんですよ、全部。
だから自分が時代劇の登場人物になったかのような、
すごい面白い場所です、ここは。
本当にセットみたいな感じですよね。
そうなんです。
ただ一方で一条谷のすごいところは、
こういう庶民の街並みは再現したんですけど、
肝心の浅倉市の遺跡はそのままにしておいたんですね。
なるほど。
なので今浅倉市の上級部署の館とかは、
さっきの資料館の中に復元はしてるんですけど、
あえてその建物をもう一回建て直さなかったんですよ。
当時のその距離感だったり、
学術操作が必要だろうってことで、
まだ今は原っぱのままにしてあって保存がされてるんです。
なるほど。
ただ昔の庭園、浅倉よしかげとかがおそらく見たであろうね、
庭園、和風庭園とかの名残は残っていたので、
庭園だけは復元されていて、
今我々も見ることができたりします。
遺跡の上に建ててるって最初聞いて、
そんなことしていいの?って俺ちょっと思ったんだけど。
大事なお城の周辺は残してるってことね。
そういうことです。
なので本当に日本文化保存事業っていうものの
画期的な存在としてこの一条段には歴史に刻まれているので、
そういった観点でもすごく訪れるべき価値のある場所ですね。
余談ですけど、
僕これ最初に言ったのが大学1年生の大学入ってすぐの5月だったんですけど、
永平寺に行った後にここまでバスで来て、
夕方のバスに福井市に戻ったんですけど、
そのバス停でバスを待ってる間に、
急に5時のチャイムくらいが鳴ったときだったと思うんですけど、
急に周りからすごい音が鳴り始めて、
なんかのサイレンかって最初思ったんですよ。
本当に冗談じゃなくて。
でも思ったらカエルの声だったんです。
谷だからね、
そういった昔の水路とかも戦国時代の水路に残されているので、
その谷にまだカエルがいっぱいいて、
谷前だからすっごい反響するのよ。
でもウワーってカエルの声がずっと鳴り響いてて、
びっくりしました。怖かったですちょっと本当に。
っていうので撃たれてて、
すごいのここって思って、
バスに乗って福井駅の方に帰ってたんですよ。
54:02
で、サザンで真夏の果実がちょっと流れてきたんですよ。
それも覚えてるんですけど。
で、カエルの声とか朝倉の歴史に触れてちょっとテンション上がってたのもあって、
バスの中から福井の田園風景、
すごい綺麗に泡落とした田園風景だったので、
それを写真撮ってたんですよね。
平日夕方で一人だったんですけど、
そしたら急にバス止まっちゃって、
あれ?と思ってバス停止まっちゃったなと思って、
どうしたの?と見たら、
運転手さんがいい写真撮れたって言われて、
撮れました?っつったらまた動かしてくる。
そう、つまり俺が一人で夢中になってるから、
わざわざバス止めてくれて、
それで写真撮らせてくれたりっていうね、
そんな優しい福井のバスの運転手さんのことは今でも覚えてますね。
いい人だね。
もちろんダイヤに運行の支障がない限りでしたけど、
やっぱり一人旅、大学1年になってね、
初めて大学で一人旅だったのが越前だったので、
そういった思い出もすごくあってね、
印象深いとして個人的に。
すごい優しい運転手さんでした。
いいね、いい体験だねそれ。
大体ですね、一乗谷がおそらく見終わるのが
2時半過ぎくらいまでは見てると思います。
やっぱり資料感も大きいですし、
街並みに一個一個入ってると結構な時間食うのでね。
そっからね、車で15分ほど行っていただいたところがですね、
大本山永平寺です。
ついに。
まあね、まあまあ行くでしょ。
懐かしいと言いますか、お馴染みというか。
禅の道場って書いてあるね。
言わずとして言えばね、
曹洞宗の大本山になりまして、
今でもたくさんの雲水、雲に水と書いて、
これ曹洞宗でいう修行僧のことなんですけれども、
雲水の方々が実際に今でも修行をしている修行道場です。
そうだね。
永平寺がちょっと特別なのは、
いわゆる観光地ではあるのは間違いないんですけど、
本質は観光地ではないんですね。
修行のお寺ですからね。
今でも曹洞宗のお寺さんの、
これからお寺を継ぐ僧侶の方々が、
ここで修行をしてそれぞれお寺に帰って、
お寺を継ぐというね。
そういった修行の場であるんですね、まず先手として。
まあ俺らの同級生もね、
一人永平寺何年?5年ぐらい行ってた?
5年ぐらいいたんだよね。
で修行して、
去年、一昨年ぐらい降りてきてね、会いましたけど。
なんかちょっと変わってたね。
変わってましたね。
やっぱ修行の成果が出てたのか。
ということでね、
実はこのモデルコースで言うと、
この1日目はね、
ここが最後の目的地になります。
おーなるほど。
つまり、
泊まります。
永平寺に泊まりたいと。
やるの?
はい、やりたいと思います。
なるほどね。
おかしな台本ですね。
15時永平寺、15時半座禅1、
入浴、薬席、座禅講和、視聴学研修、座禅②、
57:01
21時解鎮って書いてありますけれども。
やるんだ。
ここはね、
ぜひちょっと内田にも語ってほしいところですけれども。
はじめに言っておくと、
僕もこの永平寺に観光客として行って
泊まったことはありません。
厳密に言うと同じプランかわからないという前提で
ちょっとお話はしたいと思いますが、
我々は先ほど申し上げたように、
中学3年生の時に、
やはり一泊二日で
この狩猟体験というものをしてきましたよね。
しましたね。
どうもWebで見ている限りは、
おそらくそのメニューと大して変わらないんじゃないかと
思いますので、
我々の体験もお話しできることがあるんじゃないかと思います。
ということでね、
どうですか?
ざっくりフリートークみたいになりますけど、
座禅の思い出だったり、
永平寺の泊まった時の思い出なんかあれば
ぜひ話してほしいなと思うわけですけど。
座禅はでもね、
これ参考になるかわからないけど、
俺は割と好きな方だったので、
退屈じゃ退屈なんだけど、
でもまあ、
いい体験なんじゃないかなと思いますよ。
その理由はありますかね?
やっぱりね、
本当のお寺の禅堂でできたっていうところもあったし、
本物の雲水か後ろをね、
虚策っていうあの木の棒をね、
持って歩いているっていう、
まあこれはなかなか体験できないと思いますしね。
なんかやっぱりちゃんとするというかね、
いう感じがありましたね。
座禅をやった前と後だと、
ちゃんとするっていうのは、
リフレッシュされるみたいなイメージですか?
なんかね、
スッと気持ちがするというかね、
なんかしっかりしようみたいな。
なるほどなるほど。
ちょっとね、
見つめ直す感じがあるよね。
なるほど。
とかね、
雑巾掛けとかね。
そうなんですよね。
あとは、
超人料理とか。
はいはい。
あれもね、
食べ方の作法というか、
食事も修行だっていう考えですから、
いろいろとね、
ルールというか、
まず喋っちゃいけないっていうのがあったりとか、
するんで、
仏教興味ない人でも、
一回体験してみると、
仏教ってこういうことする、
まあ仏教っていうか、
曹洞宗かな。
曹洞宗ってこういうことするんだとか、
いうのはすごくね、
体験できると思います。
なるほど。
そうですね。
今ね、
内田が言ってくれたキーワードで言うと、
食事自体もね、
修行の一つ。
というのが、
これは曹洞宗の非常に大きなポイントの一つですね。
なるほどね。
修生一如。
つまり修行と明かし、
全てがその一つなんだと。
食事もそうですし、
座禅ももちろんそうなんですけど、
あと雑巾掛けって言いましたけど、
作務ですね、いわゆるね。
そうね。
作務と書いて作務。
これ自体も日々の掃除とかも全て修行なんですよ、
というのが、
この道元禅師と曹洞宗の教えなわけですね。
でね、
改めてなんですけれども、
この永平寺と、
そして曹洞宗、
道元禅師というのが、
1:00:00
どういった人物だったかっていうのをね、
ちょっとおさらいもしておきたいと思うんですね。
なぜこの永平寺というのはすごいのかという話なわけですけど、
道元禅師というのはどういった人物だったかって、
我々習ったと思うんですけどね、
生き方の授業で。
生き方ね。
そう。
我々生き方っていう授業があったんですよね。
座禅とかするね、それこそね。
怖い名前ですけどね。
いやでもね、
もう覚えてないんだよな正直。
まあ、
僕はそんな真面目な方ではなかったので、
あんまり聞いてなかったっていうのがあるんですけど。
座禅はやってたけど。
座禅はね、やってたけど。
はい。
教室で座学はちょっとね、
あんまり聞いてなかったんでね。
はい。
よくわかってないですね。
じゃあちょっと改めて、
おさらいをしておきたいと思うわけですが、
道元禅師、道の元と書いて道元さんですね。
はいはい。
鎌倉時代を生きたお坊さんです。
青年月日で言うと、
西暦1200年、
長野流を誕生されていて、
1253年に亡くなっていらっしゃいます。
53歳のね、生涯だったというわけなんですね。
で、生まれはね、京都です。
京都の小賀家という、
久芸の家に生まれたという説が有力です。
ちょっとよくわからないとこもあるらしいんですが、
まあまあいいところね、
あの久芸なのでね、
結構いい上級貴族の家に生まれてるんですね。
じゃあなんでそういう人が、
こういう道に入っていったかっていうことなんですけれども、
これもね、道元禅師というのがね、
非常にね、その特性として、
うーんとね、
一言で言うと、
すっごく難しいんです、この人の書いた本って。
消防原像っていうね、
正しい方の間奈子を喰らって、
消防原像っていうのが代表作なんですけど、
本当に難解であることで言われていて、
この人ね、言葉というのは非常に難しい。
まあなんかイメージ的には、
禅門道的なつかみどころのない感じですね。
そうなんです。
なのでそのね、本質に迫るというのは、
本当に難しいんですよ、この道元さんという人の。
ただまあ事実をね、
わかっている事実をかき集めていくと、
そもそも道元さんは、
クゲとして生きる道もあっただろうに、
なぜこういった道に入ったかっていうのは、
一つの疑問をね、いただいたかららしいんですね。
何かって言うと、
お釈迦様の教えには、
人間は皆仏性、つまり仏になるだけの素質が備わっていると。
と書いてあるんですね。
お釈迦様のこともあるんですよ。
でも道元さんから見ると、
みんながじゃあ仏様になれるってお釈迦様が言っているように、
なぜじゃあわざわざ狩猟とかをしなきゃいけないのかと。
人間だってみんながそうならば、
普通に真っ当に生きていれば、
別に狩猟なんてしなくてよくね?
何でわざわざ狩猟とかってしなきゃいけないの?
お坊さんってそういう風になきゃいけないの?
っていうことを疑問に思ったんです。
で、いろんな人にそれを尋ねるんですよ。
最初に言ったのは、比叡山遠略寺です。
当時日本の仏教における大学みたいなところだったんです。
1:03:02
言ったんだけど答えが得られない。
じゃあ違うのかなってことで、
そうこうしているうちに、
京都に兼仁寺っていう寺ができて、
英才っていう人が、
中国から臨済禅というものを持って帰ってきた。
この人になら分かるかもしれないと言われて、
英才のところに行ったら、
あなたのその質問は、
禅を求めるべきですという風に教えてくれた。
じゃあ禅とは何かっていうことで、
その質問から発端してこう行くんです。
ただ残念ながら英才は、
もうその時、この人は臨済宗の会社として、
道元と並んで教科書を載ってる人ですけど、
道元から世代がだいぶ上なんですよ。
なのでもうおじいさんですぐ亡くなってしまったんです。
道元にその方を残した後に。
だからその答えが得られないまま、
英才と死に分かれてしまって、
道元はその本当の答えを求めるために、
中国へ渡るんですね。
中国へ渡って、
中国の有名な寺院をいろいろ尋ね歩くんですけど、
なかなかその答えにたどり着けない。
どうも中国もいろいろ内乱とかが起こって、
ごたごたしてて、
あんまりその仏教に本当に向き合ってるんじゃないか、
その正しい教えを受け継いでる人いないんじゃないかと。
迷っていた時に、
ある時、あんまりぱっとしないお坊さんが、
自分の船に近づいてきて、
なんか椎茸みたいな、きのこみたいなの買いたいという風に言ってきた。
何だこいつはと。
そしたら、私はとある禅寺のお料理係、料理番なんです。
だから食材をみんなの作るために、
椎茸とか集めてるんです。
言ってきたら、
道元さんは結構おじいさんなんですよ。
だから、
大体日本の禅寺の理屈で言えば、
あなたみたいなおじいさんだったら、
結構長老みたいな地位にいて、
キャリアも相当積んでるでしょうから、
そういった雑用みたいなのは、
若い人に任せとけばいいんじゃないですかと。
なぜあなたがそのようなことをって言ったら、
分かってないですねとそのおじいさんは言ってた。
食事を作ることもまた全てが主要なんです。
それが禅なんですよという風に言って、
道元はそれにガーンって頭を打たれて、
自分の考えが浅赤だったということで、
そのお寺に行くんです。
そこで、いろいろその後も端折るんですけど、
あった上で、
女女っていう中国人のお坊さんに出会って、
この人が本当の師だという風に、
お師匠さんだという風になって、
この人の下で禅の修行に就くんです。
その人が言ったら、
やはりその師匠を一如っていう、
修行も全てが修行なんだということと、
禅のやるときに、
とある道元の同僚が寝てたと。
座禅帳に。
眠りしたそうなんですよ。
やっぱり昔の人でも。
寮主が怒るわけですよね。
パーンってやって。
だからどうすんだと。
もう座るときは何も考えず、
何の雑念もただひたすらに座るだけなんだと。
もうお前にはそれ以外ないんだと。
いうことを徹底しろって言って。
これが曹洞宗の教義である四喚多座。
1:06:00
ただひたすらに座る。
っていうものですよ。
あったね。
ありましたよね。
なんとなくおぼろげにね。
そうね。
今聞いてて、
そんなのあった気がするっていう感じだった。
そうですよね。
四喚多座。
これで道元は、
これこそが正しい道だと。
いうことで日本に帰ってきて、
四喚多座の精神を広めるために、
曹洞宗というものができて、
それを皆さんに布教し始める。
ところが、
これは遠略寺とかがあると気にくいんですよ。
つまり遠略寺がダメだって出ていったやつが、
中国から戻ってきて、
はっきり言ってアンチなわけですよ。
反遠略寺みたいな。
そうかそうか。
なんなんだあいつらってことになって、
追い出されちゃうんです。
京都で乱暴を受けるんですよ。
寺壊されちゃったりとか。
遠略寺によって。
結構なことするね。
遠略寺って結構うげつないんですよ。
プライドがやっぱあったんでしょ。
その時に、
京都で活動の場を奪われてしまったんです。
時に、手を差し伸べた、
そして行ったのが、
越前なんですよ。
なるほど。
ここもそうなんだ。
越前の武士に、
旗の義重という人物がいて、
この人がね、
道元の教えに感銘を受けて、
この人はすごい人だと。
武士なんですけど、
座禅というもの、
死覚多々の精神がすごく庄にあったらしくて、
道元のために私が寺を作りたい。
私のところに逃げてきませんか。
ちょうどいいのが、
私は越前に領地を持ってるので、
そこに逃げてくればいいと思うんですよ。
って進めて、
道元は越前に来るんです。
なるほど。
これが、
今越前の永平寺が建っているのが、
旗の義重が管理していた荘園の跡なんです。
ここにお寺を建てて、
それで永平寺を開くんです。
道元はね、
その後もずっと言い続けるのは、
この人はとうとう、
ほとんど永寺にこもって、
ずっと著作とか座禅に専念するんですけど、
仏教、
特にその禅の道を求める人たちっていうのは、
絶対にやってはいけないことがある。
それは、
権力に近づくこと。
これだけは絶対にやってはいけない。
っていうのが厳しすぎたんです。
遠略寺の天台宗も、
永済がなくなった後の臨済宗も、
鎌倉幕府とすごい密着したりしてて、
戦力に近づいていると、
おのれの本当に求める道っていうのは、
失われてしまう。
だから、
我々は、
あえて越前にいなきゃいけないんです。
つまり、
京都からすぐ来れる。
多くの人が集まって、
来てほしいんだけれども、
我々から、
権力にすり寄ることは絶対にしてはいけない。
っていう距離感を保たなきゃいけないからこそ、
自分には越前なんだっていうと言うんですね。
その場所にも理由があるんだね。
そう。
旗の吉重の用地だったっていうのは、
まず前提なんですけど、
この人がスポンサーなので言わない。
っていうことなんですよ。
ただここまで聞くと、
そもそも最初の出発点だった、
なぜ人は狩猟しなければならないのか、
仏性が備わっているのか、
1:09:00
っていうことに対するアンサーが、
よくわからないと思うんですよ。
確かにね。
今、
四巻多座っていうのは、
それをして、
その答えを求める途中だからね。
ただ、
これはね、
僕も本当にごめんなさい、
生き方の事情も受けてましたし、
だから僕ね、
僕も高校生の時、
そんなに真面目じゃなかったんですけど、
大人になってからね、
道元さんってものを考えると、
やっぱりこの人すごい人だったと思うんです、
実は今。
元折のりんなんかがね、
伊勢の会でやって、
日本で思想家で言えば10人に入るんじゃないかって、
話をちらっとしたんですけど、
僕、道元も入ると思います。
やっぱ日本の思想哲学上で、
もう絶対的な存在だと思うんですね、
この人はね。
今だから僕このすごさがわかります。
で、何かって言うとね、
ちょっとこれ話それるんですけど、
道元さんの教えってのはすごくて、
めちゃくちゃ難しい。
本当に。
わからない、正直言ってよく。
なので、いろんな解釈ができるし、
僕の解釈が合ってるとも思わないんですけど、
ただ一つ言えることは、
この人の精神っていうのは、
この人亡くなった後も
代々こうやって受け継がれていくわけですけど、
すごい刺さる人がやっぱいるんですよね。
で、有名どころで言うと、
Appleの創業者、
スティーブ・ジョブズさんは、
相当前、
この道元さんの教えというものに、
すっごく親切にしたんだ。
それは結構有名ですよね。
ジョブズさんはね、
もう亡くなられてしまいましたけど、
相当州の僧侶である方に、
エチゴの方なんですけど、
僧侶の方にアメリカで知り合って、
その人から道元、
相当州の話を聞いて、
相当前というものに、
自分の生きる道を本当に見出したような人で、
ずっとその前というものを頭に置いて、
本当に世界を変えたね、
人になったということなんですけど、
なぜじゃあ、僕不思議なんですね。
なんでその国籍もさ、
言葉も違う、
アップルのスティーブ・ジョブズさんが、
なんで道元に惹かれたっていうか、
ここにね、僕は何か一つヒントがあるんじゃないかと、
思うんですけれども、
結局道元が言いたかったことって、
じゃあ何なんだろうって思うんですけど、
道元はね、
そのシカンタザンによって、
ひたすらただ打ち込んでいくだけで、
余計な雑念をすべて取り払う。
その雑念っていうのは、
まず一つの権力、
外部の欲みたいなものを払う。
あとは自分が答えを求めようという、
その求めようという精神すらも払う。
つまり、
自分という人生とか気持ちが持っている、
あらゆる取り払えるもの、
あらゆるものをカットしていって、
どんどんどんどん小さくしていく、
自分というもの。
自我というものをどんどんどんどんなくしていって、
そのためにもう、
その座禅をした間に、
ただ座っているという行為だけをする、
もう物体になっていく。
そういったものにまで、
己を結晶化させていった先に、
本当の仏性が見えてくるっていう風に言うんですね。
で、
すごい難しい話ではあるんですけど、
思う意味なんだけど、
今、社会人になって、
いろいろなこうやってますよ。
こうやって好きなことばっかりやってますけど、
たぶん仕事とかいろんな皆さんされてると、
自分がやりたかったこととか、
あるいは自分の人生がどういうものにしたかったかって、
1:12:01
たぶん内発的な何かモチベーションに基づいてやってるんだけど、
そこに地位とか名誉とか、
あるいはお金とか、
いろんなことがかみ合わさって、
ままならなくなるときもたぶんあると思うんですよね。
そういうことって。
で、
もしかしたらなんだけど、
道元は、
自らみんなが仏性が備わっていて、
お釈迦様が言ったっていうのは、
要は、
まずはじめに、
自分の人生の核になっているコアの部分を、
認めてあげるところからが、
出発点じゃないかと思ったんです。
つまり、自分は悪者じゃない。
つまり、
今はままならなくてどうかわかんないけれども、
原点っていうものは、
人間がすべて一様に、
その人しか持ってない仏性っていう、
仏になれるくらいの魅力を持ってるっていうのは、
道元が信じた道なんですよ。最初から。
でも、
じゃあなんでそのみんなが魅力を持ってるはずなのに、
修行しなきゃいけないのかって、
彼のそもそも疑問だったわけなんだけど、
それは、
おそらく鎌倉時代においても、
そういったいろんなものが妙利とか、
どんどんどんどん回せこまれていってしまって、
みんなが等しく持っているこの魅力の仏性っていうものが、
どんどんどんどんかけ消されていってしまう。
だからこそ、
そういうものすべて取り払って、
座禅というものを打ち込む、
そのツールによって打ち込むことによって、
今まで人生で纏ってきてしまった余計なものを、
どんどんどんどん剃り落としていったときに、
このコアの仏性をもう一度見直せるべきだっていう風に
言ったんじゃないかと思うんですよ。
うん。
なるほどね。
うん。
それは、そうね。
追妻が合うというかね。
うん。
なるほどっていう納得感があるね。
うんうん。
だからスティーブ・ジョブズさん、
もちろん僕も話したことがわかんないですけれども、
あの人の人生もすごいじゃないですか。
映画とか見てる。
そうね。
で、やっぱり迷ったときにね、
この宗徒宗のお坊さんに相談してるんですって。
うんうん。
で、要はもう、
あの時は本当に日本に渡って、
宗徒宗の雲水になりたいとかね。
それぐらい悩んでた時もあるんだけど、
それを進めなかったんですって、
そのお坊さんが。
なりたいって言ってくれてんだよ。
普通ならさ、
そんなに今までやるなら、
私が迎えてあげましょうだと思うんだけど、
やめなさいって言ったんだって。
ほうほうほう。
で、なぜかというと、
道元の言ったことっていうのは、
首相を一乳だって、
雲水になればいいってものなんじゃないんだと。
ああ、なるほど。
あなたが今在族で、
AppleというIT企業を運営しているけれども、
その行動の一つ一つに、
あなたの仏性は宿っていて、
それを見つめ直すことというのは、
雲水であればそうだが関係ないんだと。
全てのあなたの行動、思考というものが、
首相を一乳なんですよと。
それこそが善の道なんですよっていう風に言って、
あなたはこのままであるべきですっていう宗教を断ったんです。
いい話だね、それ。
それで彼はそれで胸を打たれて、
お坊さんにならずに、
Appleを立ち直していったっていうことなんですけど。
なるほどね。
そうなんですよ。
じゃあお寺で修行するし、
お坊さんっていう立場もあるけど、
そんなのだけじゃなく、
普通に我々生きている中で、
生活も全て修行であり、
その中で仏性を見つけなさいと。
1:15:01
取り戻しなさいのが正確なのかも。
見失いつつあるものを取り戻す。
そのために、
一回全ての妙理とか、
まとっている余計なものを取り戻すための時間を、
シカンダザによって、
シカンダザは途中期間なんですよね。
だから極端な話をすると、
なぜそこまでひたすらに座るかっていうと、
それは明日の自分が立って歩いていくために座るんですよ。
そういうために僕は道元というのは、
行ったんじゃないかと思うんですね。
だからこの人はすごく厳しいし、
難しいんだけど、
僕はすごく優しい人だったと思うんです。
人間というものの見方が。
人にはみんなそれぞれに違っていい魅力があって、
それは絶対誰にも侵されない自分だけのもので、
要は自分の機会を自分で取るってことなんですけど、
そういった本来の自分を取り戻した先に、
必ずその道があるのに、
それを見失っている人たちのために、
シカンダザがあるっていうふうに見出した。
マイナスからゼロにするっていうものが主力なんだと。
だって人間が真っ当に生きていれば、
ゼロから1に、2にってなっていくっていうのが、
この人の根本の人間の見方だと思うんですよ。
っていうのは、
僕は道元という人の本質だったと思うんです。
なるほどね。
これ今聞いてて、
同級生のあいつにも聞いてみたくなったね。
そうね。
本当のお坊さんに。
分かんないけどね。
これ僕の悪夢の俗物の僕の説なので、
もしかしたら英語じゃもっとちゃんと教えたかもしれないけどね。
だから結構我々はね、
座禅とかね、
授業とかね、
あるいは道元さんとかって、
なかなかそういった不思議な付き合い方をこの場にしてきましたけれども、
本当に道元さんというのを見ると、
すごく僕はね、
そういった魅力にぼんだ人だったと思うんですね。
この人の言葉と生き方というのはね。
だからスティーブ・ジョブズだったりとか、
鎌倉氏以上に激動の時代で、
いろんなことに悩まされるような、
世の中だからこそこれに惹かれる、
そういう悩まされる立場の人だからこそ、
惹かれたんじゃないかなと。
実際ね、戦国武将とかでも、
武田信玄も上杉謙氏も曹洞宗から出発ですからね。
エリン寺もね、
越後の方もね。
そうかしら。
隣泉寺も曹洞宗の寺ですから。
悩める人こそ、
道元の道に触れたいと思ったのかもしれません。
なるほどね。
それで聞いて、
見つめ直しなさいよって言われて、
ああそうだっていう。
鼓動ね。
鋭利を正す感じでね。
本来の自分に戻ればいいだけなんですよ。
本来の自分を否定しないのが、
道元さんだったんじゃないかなと思うんですよ。
なるほど。
なんかすごくね、
負に落ちる感じがありますね。
だからある意味これは、
自分の精神の上、
自分の人生のキャスティングボートなんですよ。
本当の自分を取り戻すためのね、
装置だったと思うんですよ。
そのために道元というのはね、
生きた人生だったんじゃないかとね。
ということでね、
ちょっと話が長くなりましたが、
そういった教えをね、
再観するためにね、
これ事前申し込みが必ず必要です。
そうですね。
結構前から申し込み必要のようなので、
ちょっとホームページで、
エイヘイジさんのホームページで見てください。
1:18:01
申し込みをしたら、
この一泊二日の体験ができます。
まず我々がやったように、
サムだったりとか、
座禅だったりとか、
あとは精神療養をいただいたりとかね、
できます。
それとは一方、
止まるほどのことはないかなと思った方は、
日帰り三禅体験をやっていると。
10時、
13時半、
15時半の3回やっているようで、
およそ50分。
これは事前予約が不要だそうです。
受付に行って、
枠が空いていればね、
やらせてもらえるそうなので、
これをやってもらうだけでもね、
せっかくなので貴重な体験なんじゃないかと。
座禅はね、
普通にしてたらしないですから。
ぜひね、
一回やってみてほしいな。
ただ宿泊するとね、
何がいいかっていうと、
やっぱりエイヘイジって、
主要主要、
かなり主要に話しましたけど、
見どころとしても、
そもそもすごいんですよね。
観光地としても。
江戸時代の王道が主なんですけれども、
規模といい、
この長い廊下のね、
階段を渡っていくところとかって、
壮観ですよ。
そうだね。
あれを、
一般の観光客が要は来る前に、
見られるわけですよ。
ちゃんと見学のターンも取ってくださってるので。
これはやっぱ貴重ですよ。
うん。
俺らはね、
あんま見学の時間とかなかった。
あったあった。
あったあった。
あった。
ありましたよ。
僕覚えてるもん。
全然覚えてない。
そう。
だから結構僕、
エイジ胸打たれました。
眠かったけど。
まあそうね。
ありましたあります。
あったか。
うん。
なので実際、
道元さんの祀られてる
城陽伝っていうお廟だったりとか、
道元がお墓があったりとかするのでね、
そういった本当に、
エイジ時代の見どころも、
今は貸し切りみたいな感じで見られるので、
そのボーナスはかなり大きいと思いますね。
もうね、
今撮ってんの11月24日ですけど、
12月の予約はもういっぱいになってますね。
そうですね。
やっぱ人気みたいですね。
月に4回か5回ぐらいでなのかな。
みたいだね。
5、6回か。
やってるみたいだけれども、
もう来月の全部もう埋まってるみたいなので、
やっぱり前もって予約を、
余裕もってされることをお勧めします。
そうですね。
でね、ただまあね、
これは今日はモデルコース1日はこれで終わりわけですけど、
一応プログラムを話しておくとですね、
そうですね。
3時半から座禅があって、
入浴、夕食、
夕食は精進料理ですね、薬席ですなので、
法話、法話みたいなのがあるわけですね。
夕食にも座禅をすると。
はいはい。
で、9時就寝。
はい。
夜のですよ、9時に就寝。
そして翌朝はね、朝4時に、覚えてますかね、これ。
鈴がね。
鈴がガーってウンスが鳴らすんですよ。
はいはい。
で、起床です。
うん。
4時起き。
はい。
公式で4時起きなんですよ。
そうですね。
ということで、
大変、すごいモデルコースになるのでですね、
ちょっと、さすがにここまではという方は、
日帰り座禅体験。
うん。
あるいは普通にそうじゃなくてもね、
永平寺自体は楽しんでいただいて、
そうだね。
で、ただ注意していただきたいのは、
そういったわけでここは修行道場なので、
僕もね何度か言ってるんですけど、
実際あったのは、日によって道元さんの明日とか、
1:21:00
例えばね、そういう時に行っちゃうと、
雲水の方々がそもそも修行をされなきゃいけないので、
観光客の方が途中のところから礼儀禁止になっちゃったりとか、
たまにするようなので、
それはもちろんやっぱり本来修行道場なので、
わがままを通さずね、
あくまでも雲水の方々を優先になるということで、
そうですね。
はい、ご了承いただければと思います。
うん。
すごいね。
前回までの長崎と全然違います。
違います。
九時寝、四時起き。
一番早く寝たんじゃないですか、このポッドキャスト上。
そうだね。
はい。
じゃあもうこれで終わりってことで。
そうです。1日目は終わりです。
じゃあ1日目を振り返っていきましょう。
まずスタートはJR福井駅ですね。
ここに12時、これがスタートです。
そこから徒歩12分ほど、ヨーロッパ県総本店。
100年以上の歴史があるお店で、名物はソースカツ丼ということで、
ソースカツ丼をまずいただくのがいいんじゃないですかね。
夜はお肉食べれないですね。
そうなんです。僕そこも実は考えたんです、一緒よ。
そうだね。
そこから徒歩10分ほど、福井駅に戻る形ですね。
そうです。
その福井駅の近くで車を借ります。
そこから来るまで15分ほど、福井県立市城谷浅倉市遺跡博物館。
内藤博士さんね。設計のすごく洗練された。
そして木の昔の建物が再現されているというすごく面白そうな、なかなかボリューミーな感じがしそうですね。
そうですね。結構時間取ると思います、ここは。
そこから来るまで3分ほど、市城谷浅倉市遺跡ですね。
さっきの博物館はこの遺跡から出土されたものとかが展示されていると。
それの実際の遺跡を見に行くということですね。
この約170万点中の2343点が国の重要文化財ですよ。
すごいな。
尋常だね。
その遺跡に昔の街並みが再現されているということで、遺跡を体験するってなかなかできない体験ができるんじゃないかと。
思います。
そこから来るまで15分ほど大本山永平寺ですね。
総統宗の一番偉いお寺と。
そうですね。
ということですね。
ここでコースとしては1泊2日の修行体験をするということで、15時に着いて15時半に座禅。
そしてその後、入浴、約席、食事ですね。
そして講和、視聴覚研修があって、もう1回座禅。
そして9時に寝るということで、なかなか不思議なコースになってますが。
1日目がここで終了ということですね。
この番組ではお便りを募集しています。
番組の感想、質問、リクエスト、旅の情報、普通だなど何でも結構です。
番組概要欄に記載しているお便りフォームのURLから投稿をお願いします。
1:24:03
また各プラットフォームのフォロー、レビュー、コメント、それから我々の関連SNSアカウントのフォローなどよろしくお願いいたします。
そして感想を呟く際はぜひハッシュタグおとたびポッドキャストをつけて投稿していただけると大変励みになります。
よろしくお願いします。
さてここで皆さんにお願いがございます。
ジャパンポッドキャストアワードというのが今年も開催されることが発表されました。
このジャパンポッドキャストアワードというのは日本最大のポッドキャストのアワードということで今年は第6回ということになります。
今年もやるんだったら我々もエントリーしようかなというふうに思ってたんですが、
今年エントリーの方法が変わりまして、今年のエントリーの方法はですね、リスナー投票で上位20番組に選ばれたらノミネートということになりまして、
この20番組というのはプロアマ問わずでございます。
なので我々としては大変厳しい状況に、我々みたいな今年始めたばかりの番組には大変厳しい状況にはなっているんですが、
一度は発表があったときはちょっともう無理だなと厳しいなと思って、この投票をお願いするのもやめとこうかなということも考えたんですが、
でもやっぱり自分としてもこの番組はいい番組だと思っているので、これはやっぱり広まってほしいという思いもあって、
ちょっと足掻いてみようかということでこのお願いを今話しているわけです。
ということで皆さんへのお願いというのは投票をぜひお願いをしたい。
それは本当にお願いだね。
このノミネートされれば、された後は我々の実力なんですけど、ノミネートをされるには皆さんのお力が必要だと言うことなんですよ。
なのでぜひ投票をお願いしたい。
それは本当そうだね。
ということで詳細をお話ししますと、
12月2日から1月10日、2024年の12月2日から2025年の1月10日までが投票期間となっております。
ここでぜひ大人になりたい、旅がしたいを投票していただけると嬉しいなと。
1:27:04
投票をぜひ今聞いていただいている方もぜひ投票をお願いしたいんですが、
それと同時に皆さんの身の回りの方にも広めていただきたいと。
やっぱり我々は新人ですので、そんなにリスナーは多くないので、
ぜひこの期間に皆さんに広めていただきたい。
そしてもしよければ投票もその方にお願いをしていただけると大変嬉しいと思いますので、
ぜひこのジャパンポッドキャストアワードのホームページから大人になりたい、旅がしたいに投票をお願いしますと。
これは投票は誰でもできるんですか?
誰でもできます。
なのでぜひ投票ページから投票をいただけると嬉しいなと思います。
それは嬉しいですね。
でも投票は大するからね。
まず聞いていただいた上でね、初めて聞く方はね。
これなら投票してもいいかなって投票していただいていい?
本当そう。別に無理に投票してもらいたいとまでは言わないので、
ぜひ面白いなと思っていただけたら投票をいただければ嬉しいなと思います。
ということでぜひよろしくお願いします。
ぜひよろしくお願いします。
いや面白いな。
俺個人的にはね、やっぱりエヘイジはね、すごい旅として行くんだっていう感じがね、すごく面白い感じがしますけど。
これでもね、やっぱね、尾本岡田とイズイ行ったんですけど、
あの二人もね、ちゃんと来たらやっぱ凄いっていう話になりました。
やっぱりちゃんと今見たらこの寺は凄いわって。
まあね、我々中3なんてね、生意気盛りですから。
それでまあね、修学旅行で楽しいはずなのに寺に行かされるっていう、
まあそういうちょっとマイナスな気持ちで行ってるから。
そうなんですよね。
大人になってね、自分で行くとね、また違った発見があるんだろうなって感じがします。
必ずあると思います。
そして遺跡でね、昔の人の生活が見えるっていう、
これもなかなかここだけの体験っていう感じですよね。
あとちなみにね、ちょっと余談なんですけど、
階段じゃないんだけど、これはね、続説なので本当かどうか分からないですよ。
永井寺止まるじゃないですか。
絶対やっちゃいけないんですよ。
これやっちゃダメですよ。
やっちゃダメなんですけど。
振ってんのそれ?
振っちゃう。
これダチョウじゃなくて本当にやったら怒られます。
まあ僕責任取りません。
これをやったとしても。
24時になると道元さんのね、お墓のある廟があるんですけど、
この扉はね、実は永井寺雲水さんが、
普通閉めるじゃないですか扉って。
だけどね、あえて半開きにしておくんですよ。
これ必ず今も。
なぜかっていうと、道元に仕えた幸運永生、
これもね授業って言ってます。
1:30:00
永生禅師って永井寺二代目の人ですね。
この人も僕すごい人だと思ってるんですけど、
永生禅師は道元さんの後をついで二世になって、
永井寺のね、果てに尽くすわけなんですけど、
その方がね、今でも12時になると、
道元さんのお墓を見回りに来るんですって。
だから永生禅師のその見回りを邪魔しないために、
扉は半開きになってるんです。
夜中も。
っていう話があるらしいので。
絶対見ちゃダメだよね。
絶対見ちゃダメです。
本当にこれフリじゃないです。
ただまあそういうぐらいね、
やっぱりこの道元、そして永生さんの話も僕はね、
本当はしたかったんですけど、
まあこれはいずれまた別の機会。
っていうまあ是非ね、大人になったからこそこの、
道元の凄さわかる気がします。
ちょっとなんか学び直しになる感じだね。
ということで、次回はじゃあ4時起きからスタートと。
合計18時間くらい旅行してるんじゃないですか。
翌日は朝4時から机で飲むので夜は。
体力つけておいてくださいよ本当に。
ちゃんと9時に寝とかないといけないね。
寝とかないと絶対失敗。
ということで次回もお楽しみに。
今回はこの辺で。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
01:31:24

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