1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #42-1【山梨】風林火山興亡記P..
2024-08-29 47:15

#42-1【山梨】風林火山興亡記Part1前編

“捨身飼虎”の組織論 風林火山興亡記1日目前編


「風林火山」の旗の下、戦国最強の軍団として名高い武田家。最盛期の当主信玄は戦国時代の英雄の一人として知られ、その政略、軍略は現代の組織論にも多大な影響を及ぼしています。しかし、彼の人生をつぶさに追ったときに窺えるのは、組織のために身も心も捨てざるを得なかった深い苦悩。今回は、その本拠山梨県の史跡を集中して訪ね、“甲斐の虎”が築いた繁栄と終焉を見届けます。


【目次】

〜 うちだの謝罪

〜 コーステーマの発表

〜 ★はじめに★ パーソナリティが見えない武田信玄

〜 山梨の郷土料理といえば! 農家直営の野菜たっぷりほうとう 【甲州ほうとう 完熟屋 本店】

〜 信玄と“二十四将”の強さを紐解く聖地 【恵林寺・信玄公宝物館】

〜 ★歴オタ話★ 信玄のターニングポイント“信虎追放”の真相

〜 ★さらに歴オタ話★ 情を排して理を貫く“武田信玄”という人格の誕生

〜 まさかの次回予告


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00:03
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな荒沢男性2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介しながら、お話をしていきます。
内田です。 ハリヤです。 ハリヤさん、すみませんでした。 いやね、本当にびっくりでしたよ。
何のことかっていうと、今日のこの収録ね、リスケしてもらってるんですよね。 本当は先週ね、撮るはずだったんですけど、ちょっと僕がコロナになりまして、
ちょっとリスケをね。 本当は、先週予定してたのは、ハリヤの家で撮ろうかと。
まあちょっと、もろもろの理由があってね。 ただまあリスケしてもらった上に、家まで来てもらって、悪いね。
ちょっとね、やっぱこのペースで投記を送るのしんどいんだよね、正直ね。 なかなか2時間くらいかかるね。 電車代もそれなりにかかるので、まあ後で精鋭を見せてくれると、僕は信じているのでいいんです。
まあでも軽症でよかったね、そんなに重くはならなかったみたいな。 そう、コロナはね、わりと熱もそんなに37度がピークぐらい。 2回目だもんね。 そうなんですよ、2回目でね。
ちょっとまあ会社でもらったっぽい。 流行ってるみたいだね。 ちょっと皆さんも気をつけていただいてね。
大変だね、もう熱中症も気をつけないといけないし、コロナも。 体調管理ね、やっていきたいですね。
ということで、 じゃあちょっと今日も聞いてもらったんで、やっていきましょうか。
新しいコースですね。 じゃあ今回のコースのタイトルは何でしょうか。 今回のコースのタイトルは、「写真志向の組織論風鈴火山攻防記」です。
なんて? これはマニアックですね。写真志向というのは、
捨てる身体、体の身ってやつですね。 捨て身ってことね。 捨て身に飼う、飼育するの飼う虎と書いて写真志向というんですね。
仏教のまあちょっと用語というかそういうところなんですけど。
写真志向の組織論風鈴火山攻防記。 風鈴火山ってことは誰だ?
誰だ? これね、我々はあんまり忘れちゃいけないんですよ実は。 嘘?
まあもうバレてるからいいと思うけど、 風鈴火山って大河ドラマあったの覚えてます? あーありましたね。 あれの主演やったの。
あ、誰だ? 俺見てないなそれ。 あら、我々の先輩ですよ。 あ、そうなんですか。 うちの西洋さん。 あら、主演だったんだ。 主演ですよ。
竹田信玄ですよね、風鈴火山といえばね。 なるほどね。
03:01
竹田がどこかも俺はあんまりいまいち分かってないということで、 このコースがどこなのかいまいち分かってないんですけど。
まあそうですね、ちょっと歴史オタクの感じなので。 竹田信玄、風鈴火山ですね。話をちょっとおばしながらなんですけど。
最初に言っておくとこれは山梨県ですね。 竹田信玄というのは山梨県の本拠地にした戦国大名でしたので、山梨県を一泊二日で巡ろうというようなコースになります。
山梨県は本当にすごい魅力的なところなんですけど、 今回はあえて歴史オタクに振り切ったコースにしているので、
いわゆる山梨の王道ではないです、はっきり言って。 歴史好きが巡る山梨県という観点であることをご承知いただきたいなと。
なので本当はこれだけじゃない。山梨県もなのでもう一回、二回できるかなと思うんですけれども、 ちょっと今回はかなりマニアックなところをね、あえてやってみたいというふうに思いました。
じゃあその竹田を追っていくみたいな感じ? そういうことです。風鈴火山の旗の下に栄えた竹田家というのが、どういうふうにして盛り上がって繁栄をして、そして終焉を遂げていったのかっていう、その攻防期を話していこうかと。
なので歴史好きの方はかなり響くのではないかなと期待しているんですけれども、 逆に歴史興味ない方は飛ばしてもらってもいいかもしれません、正直。
回れるスポットはたくさんあるわけでしょ? そうですね。
じゃあやっていきましょうか。
先ほども言いましたけれども、竹田信玄というのは今の山梨県を根拠にした戦国代表。
青年月日で言うと1521年から1573年が竹田信玄の青年月日です。
戦国時代ですね、いわゆる。
織田信長とか豊臣秀吉とかって出てくるのと並び立って、戦国時代の英雄として、多分その名を知らない人はいないのではないかなという気がしますね。
ただ、先ほど内田がそもそも竹田ってなんだっけって話になってたと思うんですけど、竹田信玄って言われて、どういう人か、何をした人かってなんとなくわかりますか?
イメージありますか?
全然ないんですけど、強かったんだろうなってぐらいの。
戦いがね。
そんぐらいの薄いイメージじゃないですよ、僕は。
でもね、これが実は一つ竹田信玄の鍵になると僕は思っているんですよ。
僕こう見えてというか歴史応託なんですけど、
ずっと言ってるけどね。
竹田はですね、本当に付き合いが長いと言いますか。
僕初めて一人で、まあ泊まりはしなかったけど出かけたのは甲府だったりするんですよ。
中1の夏休みかな、庭園が終わった後の。
ってぐらいね、やっぱりこの竹田家っていうのに一時期もう取り憑かれるぐらいハマったことがありまして、
06:02
まさに中学生、中1、中2ぐらいはね、本当にずっと竹田のことを考えてましたね。
甲府にも何度も行きましたし。
なのでちょっと今日結構歴史応託の話なんですけど、
簡単に略歴をじゃあ最初にご紹介しておくと、
この貝の国の守護大名、つまり元々貝の国を治めていた大名の竹田家のプリンスとして生まれた人。
貝は山梨県ですね。
そうそう、貝は山梨県です。
そこでね、竹田家に生まれた恩蔵主として生まれたんですけれども、
お父さんと仲が悪かったんですね。
父の信太郎というのと仲が悪くて、
これは後々話すんですが、
喧嘩してお父さんを追放して自ら家徳を継ぐというところからが実はこの人の人生のスタートなんですね。
っていうちょっとなかなかね、いきなりハードモードなところから始まるんですよ。
で、お父さんを追放して竹田家の当初に自分がなって、
そっからですね、貝の国をどんどん豊かにして、
いろんな政治手腕にも長けていたのでね。
有能な人材を抜擢して、どんどんどんどん外にね、その勢力を拡大していった。
具体的に言うと、山梨県のお隣、長野県ですね。
シナノの国にどんどん攻め込んでいって、
そのシナノをほぼほぼ主中に治めた。
なので、その強大な勢力を築き始める。
ところがそこで、上杉謙信というね、竹田信玄といえば必ずもう一人上杉謙信と出てきますけれども、
それと川中島というところでいろいろ戦ったりもしながら、
そこで戦の名手同士が激闘を繰り広げたというのが有名な話ですね。
その後に、結局上杉とはいろいろ戦ったんだけれども、
その上杉だけではなくて、周辺諸国にどんどん侵略をしていって、
群馬県、静岡県、岐阜県の一部、愛知県の一部というところまでどんどんどんどん拡大して、
要は日本の中部地方の東海側、中央高知側は最盛期にはほとんど竹田家のものになったという、
大帝国を築き上げた。山梨県以降からね。
という英雄で、内田が言った通りね、戦がベラボンに強かったというのがこの竹田の特色ですよね。
ところが静岡とか愛知でいよいよ織田信長と戦うという時になって、
病によって亡くなってしまったというのが竹田信玄ですね。
戦で亡くなったわけでもなくて。
53歳ですかね。病気で最後ね。戦の力交付に帰る途中でね、亡くなったというふうに言われています。
なんかそこまで強かったら戦で燃え尽きてほしい感じはあるけど。
というのが竹田信玄。
竹田家というのはね、その後実はもうわずか10年も経たずしてね、この勝頼という時に滅亡してしまうんですけど、
信玄の息子の代で滅亡しちゃうんですね。
ほぼ一代で終わっちゃうんだね。
まあその最盛期という意味ではね、その大帝国時代はね。
ただその竹田信玄がほぼ一代でその大帝国を築いたというので、
09:04
もう今山梨県の有名人といったらまず100%ほぼこの人が上がるでしょう。
というような強度の英雄で、非常に歴史オタクの中でもね、ファンの多い戦国武将でもありますね。
竹田信玄ってなんとなくね、歴史好きの方とかは肖像画とかを思い浮かべたり、
あるいは大河ドラマとかでもね、たびたび出てきはするので、
ちょっとこうどっしりとした親方というかね、
ちょっとそういったイメージを持っている方もいるかもしれないんですけど、
僕は日本の歴史上、もちろん教科書にも載るような人ですけれども、
の中でここまでパーソナリティが見えない人はね、他にいないと思うんですよ。
あ、そうなの?
うん。竹田信玄。
じゃあ俺のあんまりイメージがないっていうのも、あながち間違いではない。
そうなんです。これは僕の主観ですよ。あくまで自分の感想ですけど、
もちろんね、絵柄とかでもって見えてくるものあると思うんですけど、
なぜそのパーソナリティがこの人は見えてくないのか。
つまり小田信長とかだったら、なんかちょっと激しい言動で、
結構気が短くてみたいなイメージってあったりするんで。
ホトトギスとかね。
そうそうそう。
強調されますよね。
で、一方でホトトギスで言えば、
秀吉はこうちょっと面白い、笑かしてみようみたいな。
そうだね。
ちょっと芸人じゃないけれども、人だらし。
で、家康はこう的という我慢強いちょっと堅実な人。
これがね、ただね、信玄はね、これに相当するものが多分言える人はほとんどいないんじゃないか。
確かにね。
っていうのが、僕は実は武田信玄の本質だと思うんですね。
っていう話をちょっとしていきたいというふうに思います。
なるほど。
というわけで、ちょっと前置き長くなりましたけれども、
この武田信玄、武田家ゆかりの指摘を巡る歴史旅ということで、
今回はちょっと東京の方が主に想定してるんですけれども、
一泊二日で車を使ってその指摘を回っていこうというふうに思っています。
出発点としましては、勝沼インターチェンジ。
勝利の正に沼で、山水の沼で勝沼という山梨県のちょい東寄りの地域ですね。
ここから入っていこうというふうに思います。
この辺はね、俺一人で行ったことあるわ。
そうなんだよね。
専門学生の頃かな。温泉に行きたいなと思って。
近場の温泉どっかないかなって調べたら、伊沢っていうね。
石に和なの。
和風の和だね。
で、伊沢温泉っていうのがあったんで、ちょっと行ってみようかなって言って、
ぷらっと一人で行ったことがある辺りですね。勝沼。
やっぱり山梨県と言えば温泉はね、非常に魅力的ですよね。
伊沢温泉まさにこの近くですし。
和風に行くちょっと手前ぐらいですね。イメージで言うとね。
多分その時は電車で行ったのかな。
そうそうそう。特急なんてやつだったかな。
カイジとかね。
カイジか。そうだそうだ。
だからこれね、車ですけど、電車でも全然行けるところではありますので、
12:02
行けるよね。
その辺は柔軟に対応してもらってもいいかもしれないですね。
じゃあね、勝沼インターチェンジにお昼頃に着いたとして、毎回恒例ですけれども、
最初にランチをいただこうと思いますね。
勝沼インターチェンジから車で10分ほど行ったところに、
甲州宝刀館塾屋本店というお店があります。
宝刀ね。おいしいよね。
食べたことありますかね。
そう、俺一人で行ったときはね、お店で宝刀をいただきましたね。
宝刀というのはね、山梨県の郷土料理の代表格ですけれども、
一言で言うと、うどんに近いものではあるんですけれどもね。
そうだね、煮込みうどんみたいな感じで。
そうそうそう、イメージはそれが間違いないと思います。
ただ麺の形状がね、
ちょっとね、なんていうんだろうね、ワイルドな感じだよね。
そうそうそう。
わしゃわしゃしてて。
そうそう、ちょっと横に長い感じのね、
特殊な麺の形状をしている、それが宝刀ですよね。
味は味噌が基本になるから、味噌煮込みうどんですね。
そうだね。
そういう意味で言うとね、に近い。
で、具材がいっぱいあってね、おいしいんですよ。
そうなんですよ。
やっぱり山梨県って農業も非常に盛んでね、
特にお米というよりはお野菜。
ああ。
畑がね、多い場所ではありますので、
今ね、かんじょく家さんのホームページを見てますけれども、
カボチャ、えんどう豆、椎茸、油揚げかな、
とネギ、白菜というもうね、野菜が本当にたくさん。
うん、具沢山だよね。
うん。
そう、ほうとうのカボチャうまいよな。
うまいね。
俺好きなんだよ。
あの煮込まれててね、味が染みわたってておいしいですよね。
うん。
いいっすね。
うん。
まあやっぱり山梨県にね、来たから2話ということで、
あの早速いただいてみようかなと思うわけですね。
はいはいはい。
で、まあこのほうとうというのも、いろいろ言われているものもあるんですけれども、
その中の一つには、これね、やはりね、武田信玄がこれを人中食として用いてたっていうのを山梨県に根付いたという説もあるんですよ。
はいはいはい。
うん。
確かに、ほうとうってあの鍋で出されるよね。
そう、そう、そう。
うつわでもらわないから、
そう。
確かにその、自分の陣地の中で食っててもおかしくないというか。
そうなんですよね。
うんうんうん。
で、まあ何人かでね、鍋を共有してでもいいでしょうし、包丁もまあ最初に野菜を切れば、あとはもう調味料と火だけあれば何とかなるっていうところがね。
確かに確かに。
うーん、作りやすそうではあるね、確かに。
そうそうそうそう。で、あとはまあお腹にやっぱ溜まるじゃないですか。
はいはいはい。
うどんこというかあのほうとうの麺ってね。
うんうんうん。
で、あのその上こう野菜も豊富で栄養もあるというところで、まあそういった人中食にも使われたんじゃないかとも言われてる。
うんうんうん。
なんか納得できるでしょう。
うんうん、あり得る話だと思います。
ね。
うん。でまあ、あのそもそもやっぱりこの包丁ね、先ほど野菜があって話しましたけれども、
はい。
海の国山梨県というのは平地が少ないんですよね。
うんうんうん。
確かに山のイメージあるね。
そうですよね。
うんうん。
アルプスがあったり、コブシ岳があったりとかって本当に山に囲まれたね。
15:00
はいはい。
あの盆地が基本になっていますから。
山陸からそういった給料地にかけて畑を作るというのが山梨県の基本の農業なわけですよね。
うんうんうん。
なのでこういった野菜も豊富に作られますし、あとはね、後々出てきますけど、フルーツですよね。
うんうんうん。
果物。
はいはいはい。
これはもうね、山梨県といえばというのは有名なところかなと思いますね。
うん。山梨でやっぱり一番最初に出るんじゃない?
うん。
あのブドウもあったり。
そうですよね。もうこの二つはね、ツートップですよね。
そうだよね。
うん。なのでそういった山梨県特有の土壌に根差した郷土料理というところもね、注目してもらいたいなというところになります。
うんうんうん。
でまあね、山梨県内には本当に宝島の名店っていっぱいありますけれども、
はいはい。
この柑橘屋さんについてはですね、農家直営のお店なんですよ。野菜農家直営のお店なんですね。
いいですね。
はい。なのでやはり野菜ですよね。今柑橘屋さんのホームページの柑橘屋とはというところにありますけれども、
山梨県の農業生産法人ホトト農場直営飲食店ですと。
あ、なるほどね。直営なんだ。
あ、そうです。
そうか。やり取りしてるとかじゃなくて。
そう。農家さんが営んでるんですよ。
なるほど。
はい。
へえ。
なのでもう自分たちで作ったお野菜をそのまま持ってきて、それを煮込み始めるというので、
当然生産者さん自らですから、もうその食べごろだったりね、自分の野菜がどうしたらよりおいしく食べてもらえるかっていうのを知り尽くしてるわけですよね。
うん。そりゃうまいでしょ。
で、もちろん鮮度もね、
はいはい。
抜群ですよ。
うん。
それをこうね、口頭としていただけるというのでね、やはりここはおすすめだなというふうに思ってますね。
いいですね。
お店構えもね、なんか素敵だよね。
これね、すごいんですよ。
うん。
あの、120年前の古民家を改装したという雰囲気もすごいです。
うん。なんかね、立派な食べ物っていう感じですよね。
風格ありますよね。
うん。
なのでこういったこの風格ある建物の中に、鍋でね、こう野菜が盛られてきてというところでね、やっぱり山梨県のいいところを本当に集めたようなね。
いやー。
うん。どっすりとした店構えのすごいところですね。
うん。
なんかこの外観から見える中は割とこう、あったかそうな雰囲気がしてますね。
そうですね。うんうん。あの古いというだけではなくて、古きのものを活用する。
まあこのポットジャストによく出てくるパターンなんですけれども、やっぱりすごいデザイン性があって、優れた内観にもなっていますよね。
で、あのまあ今回ね、別に人数の指定はしないんですけど、まあ一人旅もありえるかなと思っているんですよ。
はいはい。
そんなにマニアックなところに行きますので、少なくとも僕はあんまりこういうところに行くのは大体一人でしか行かないのでですね。
あのー一緒についてきてくれるね、いい友達がいればね、それはそれでいい。
あるいは彼氏彼女がついてきてくれるだったらそれはそれでいいと思うんですけど、一人でも想定しているので。
で、この完熟屋さんね、実はカウンター席もあったりしますので、一人でも行きやすいというところにもなっていますね。
18:00
おー。いいっすね。
はい。
あったかいお店で、あったかいほうとうを食べる。
そうですね。
まあ他のね、山梨の郷土料理、川魚だったりとか、もつ煮だったりとか、そういったものもありますので、何人かで言ってお酒が飲める状態ならば間違いなく飲み始めると思います、ここはね。
というのがまあね、まずは山梨県の郷土料理の代表として、甲州ほうとう完熟屋本店さんのご紹介でした。
はい。
でね、山梨といえば甲府市というのがね、ほぼ真ん中にあるんですが、そこが県庁所在地なんですけれども、
竹田県の本局を置かれたのもやはり甲府市なんですね。
なんだけれども、なぜその手前でわざわざ降りたか、というのがですね、今から行く次のスポットに関連しています。
甲州ほうとう完熟屋本店さんから、やはり車で10分ほど山の方に登って行ったところにあるのが、えりん寺というお寺になります。
このえりん寺、恵の林の寺と書いてえりん寺と言いまして、これ簡単に言いますと竹田信玄のお墓がある場所です。
竹田家の御台寺なんですね。
なので竹田信玄の史跡、竹田家の史跡として真っ先に名の上がる一つかなと。
戦国時代とか歴史好きの方は多分名前は知ってる方多いと思いますね。
ちょっとまず竹田信玄という人物の基本をまず抑えたいと思って、ここに行こうと思ってます。
その中でもですね、ちょっと最初に訪れたいのが、このえりん寺広いんですけれども、入っていただいてしばらく歩いて本堂の方に歩いて行っていただくと、
その本堂に行く手前に信玄公宝物館というところがあります。
お寺の中に宝物館があるんだ。
おっしゃる通りですね。
ここで先ほど略歴だけ述べさせてもらった竹田信玄という人物の生涯、そして今回のタイトルに組織論という話をしているんですけれども、
写真志向。
身を捨てて虎を飼う組織論という話をしたと思うんですけれども、
なぜこの竹田信玄と組織論というのを紐づけたのか。
竹田信玄というのは戦国時代が好きな方ならわかると思うんですけど、
竹田信玄というのはもちろん戦国武将としてもすごい力を持った人であるのは間違いないんですけれども、
自ら刀を振るって、刀がべらぼうに強かったとかそういったことでもなかったかもしれない。
竹田家の強さの秘密というのは信玄個人のパーソナリティによるんじゃなくて、
信玄が作り上げた圧倒的な組織力。
これが竹田信玄というのは組織作り、組織経営の達人だったんです。
ビンワン社長みたいなことだ。
そういうことです。
なので竹田信玄というのは今でも本屋さんの新書コーナーとか行くと、
21:01
風鈴火山に学ぶ新しいリーダーの在り方とかね。
今適当に名前言って、これ本当にあるかもしれない。ありそうな話なんですよね。
要はもう組織マネジメント、現代においてもその知恵というのは脈々と受け継がれている。
という日本史上の真っ先に名の上がる一人でしょう。
つまりこの竹田家という組織が、この信玄の強さの秘密なんです。
それを作り上げたことでこの竹田家での大きくなった。
じゃあその一人が、信玄が自ら先陣切って引っ張っていくっていう感じよりかは、
組織で強いっていうことだから、
信玄自体のパーソナリティがどんどん見えなくなってくるっていう繋がりなのか?
結果としてはそうなんですが、戦国武将でそのタイプってなかなかね。
確かにね。
つまり信玄は、僕の推測ですよ。
一応こう見えて竹田信玄のファンというかね、付き合いは長いんですよ。
この人とは結構本当に一方的な片思いの20年ぐらい彼これもう付き合ってますけれども。
僕が思う信玄像というのは、彼はある理由によってあえてその道を取ったと思ってるんですね。
つまり自分のパーソナリティをどんどん消していって、
組織というものに竹田家というものを移行していったっていう、
その道を取った、あえてそうしたと僕は思うんですね。
だから後世にパーソナリティが伝わらないのは、彼にとっては当たり前なんです。
そういう戦略でもってやってきてたってことね。
そうなんですね。
現にそれが成功したわけで、
なんでこの宝物団にカッコつけてそれを言ってるかというと、竹田信玄がもちろん有名なんですが、
同時にですね、戦国時代好きな方はもう真っ先にね、わかると思うんですけども、
竹田二十四将という人たちのことを知っていますかね?
全然わかんない。
これは竹田信玄に仕えた二十四人、あるいは二十三人、
信玄含めて二十四でカウントする場合もあるので、ちょっとそれはまちまちなんですけど、
竹田家の有力武将二十三四人のことを、竹田二十四将と言われた人たちなんですね。
なるほどね。部長の集まりみたいなことか。
簡単に伝えてくるです。部長の集まりです。
例えば、四天皇とか七本槍とかっていう話はね、
戦国武将の異名、あるいは三本の矢、毛利家の三本の矢の話もありますけれども、
二十四将という、
多いんだ。
多いんですよ。
竹田家っていうのは、この信玄一人ももちろんなんですが、
彼らに仕えた武将たちの実像というのもすごくよく伝わっているんです。
それだけこの、戦国の最強軍団と言われたこの竹田家というのを引っ張っていた武将たちが、
いかに有能だったかっていうのは、後世にまで語り継がれていった。
なのでこの二十四将というのは、もう必ず信玄に紐づいて出てくる人物たちです。
24:04
なるほど。
確かにここの福祉というかさ、リーダーに一番近い人たちが多いっていうのは、
それだけ組織力があるっていうイメージにつながるね。
カリスマ瓶は社長っていうやり方はもちろんあると思うんですけど、
信玄はそれを選ばなかった。
自分で考え、自分で動き、自分で城を取って政治もできる超有能なリーダーたちを、
二十四人も作り上げることで、竹田家というのを巨大にしていった。
ということなんですね。
この信玄公宝物館には、この竹田二十四将の肖像が非常に有名なものなんですけれども、
これがすごいのは、二十四将全員を描いた掛け軸みたいなのは、
いろんな人が描いてあって、山梨県内至るところに見てるんですけど、
信玄公宝物館には、この二十四将一人一人を個別で絵に描いた二十四将図が伝わっているんですね。
二十四人全員ではないんですけれども、明治時代の初期の画家松本風子という、
これ有名な人なんですけれども、この人が描いた武将図というのが、
戦国時代の人物と描いた絵としての傑作としても知られている絵の群が、
この信玄公宝物館に奉納されている。
みんなそれぞれ違うポーズで。
そうなんですよ。
鎧着てる人もいれば、軍師なのかなみたいな巻物を読んでる人もいますけど。
まさに今、軍師なのかなといった山本勘助晴之。
これが2007年風鈴火山の主人公ですね。
これ宇智野さんが演じた。
宇智野勢王さんが演じられましたね。
まさに武田家の軍師として有名な人ですね。
じゃあちゃんとパーソナリティーを絵に反映されてるんだね。
そういうことですね。今見ただけでも何となくそれぞれの役割がわかるって感じがします。
要は戦いがベラボンに強かった人もいれば、そういう地略でいろいろやるっていう人もいれば、
刀を見つめてるちょっと詩人っぽい人もいますけれども。
それぞれこの24人で、例えば戦国時代の信長の野望なんてゲームでは、
それぞれ一人一人が能力値の高い人たちで登場するみたいなぐらい知られている。
とにかくこれほどの有能な武将たちを組織したっていうのは、
おそらく武田家というのはやっぱりちょっと特殊なところだったと思います。
この集まってる武塾も面白いね。会議って感じだねこれ。
まさに会議をしている風景。
みんな鎧着てるので、戦いに行く前に会議をしているのかななんていう風に見られますけど。
この24将必ずしも青年学部かかぶってない人もいるわけですね。
信玄の人生の初期の頃に仕えた武将と、最終活用時まで仕えた後半生に活躍した武将もいるんですけれども、
信玄の人生というものに関わった24人の優れた武将ということで。
メンバーもいろいろ説があるんですよ。
27:01
なので入れ替わりも結構あるんですね。
そうか、だから当時24将っていうグループを作ってたわけじゃないっていうことか。
そういうことです。
後からこれ集まってるねっつって24将ってまとめてるだけか。
江戸時代に竹田24将という古将は発生して、この絵も描かれ始めた。
でも江戸時代なんだね。
これは理由があって、竹田信玄というのは竹田家は滅びるんですけれども、信玄が亡くなった後に。
その家臣たち、そしてその教えを最も受け継いだのは徳川家康なんですね。
徳川家康は竹田家というものに古典版にされてるんですよ、一回信玄に。
ほぼほぼ死にかけたぐらいだったんだけど、それだけに竹田家というものがいかに強いかっていうのを一番知ってる人物だ。
だから竹田家が滅んだ後に、その24将自体もいるし、その子孫たちをどんどん徳川家にスカウトしていくんです。
その公衆流軍学とか竹田流っていうのは徳川家に引き継がれるんです。
そして徳川が天下を取ったことで、やはり竹田家というのは徳川の世において圧倒的な人気を誇った。
そのリスペクトを集めていた、もう滅んでるんだけど、っていうのでこういうのが描かれ始めたりするっていう背景もあります。
じゃあ家康が参考にした将軍ってことですね。
そういうことですね。
この信玄公宝物館に行くと、やはりこの竹田24将の絵を筆頭に、あとはいわゆる風鈴火山の旗もここに展示されています。
風鈴火山というのはそもそも孫子という孫の子と書いて孫子という中国のここの文を取ったものなんですね。
早きこと風の如し、静かなること林の如し、侵略すること火の如し、動かざること山の如しという、
戦における竹田家の動き方の行動規範みたいな印だけですね。
迅速に動いて、潜むときは静かに、攻め立てるときは火の如しで、そして何事にも動じない。
この旗を掲げて大帝国を築いたということで、竹田家の象徴的な一つので。
いわゆる行動規範です。多分どの会社にもそういうのあるんじゃないかと思うんですけど。
社足みたいなことですね。
社足です、社足。これが風鈴火山というふうに言われていますね。
この詩はやっぱり俺でも覚えてるもんな。
そうですよね。
おそらく日本でもトップクラスに有名な行動規範だと思います。
これはね。
でもこういうところに真言の見え隠れ住んでる。
確かにね。他の将軍のモットーみたいなの知らないもんね。
そうなんですよ。なかなか有名じゃないと思うんですけど。
これだけはすごい有名な感じがするわ。
つまり真言の下地に動くんじゃなくて、風鈴火山という考え方、もちろんこれだけじゃないんですけど、
武田家というものを良くするための考え方をそれぞれ24章が考えて実践することで、
30:01
それぞれの部隊がいろんなところに出てくるから、あっという間に領土が広がっていったりする。
本当に今の会社みたいな。
そうなんですよ。そういうことなんです。
家康が手本としたのもよくわかるというところですね。
ちょっとここで歴史の深掘りの話に行くんですけれども、
武田信玄という人物を考えるときに最強軍団を作り上げたわけですが、
なぜこういう風な考えに至ったのかというのが、
いくつかのターニングポイントがあったと僕は思うんです。
その一つが、ちょっと武田もさっき反応してましたけど、
父親を追放しているという。
なかなかすごいことですよね。
この事件なんですよ。
これはどういうことだったかというと、
まず通説、今に伝わっている一般的な話で言うと、
武田信玄の父親は武田信虎という人でした。
信じる虎と書いて信虎という人物ですね。
この人は戦が非常に強かった人なんですよ。
この人自体もね。
武田家の身内の争いとか、
山梨県って海の国って信虎が出てくるまでは、
いろんな豪族が全然武田家の言うことを聞かないんで、
勝手に事をやり始めててめちゃくちゃだったんですけど、
これを武力で、戦の強さで持って平定してまとめ上げたっていう、
すごい有能な人物でもあったと言われています。
カリスマっぽい感じ。
カリスマっぽい感じ。
そして、甲府というところに武田家の本土を置いたのも、
この信虎なんですよ。
つまり、甲府市の原型を作ったと言われているのは信虎なんです。
信玄じゃなくて信虎。
信虎の方が実は最初に甲府に開いたのはと言われているので、
甲府駅には最近、甲府が開かれた500周年を記念して、
信虎の像が建てられたりもしています。
っていうね、だから一見強くて、
政治的にも功績があってという人物なんですけれども。
あんま追放する感じしないね。
なんだけど、今伝わっているところによると、
一般的には信虎は残虐だった。
やりすぎちゃうんだ。
そう。家臣をすぐ気に入らないことが起こると殺しちゃうとか、
あるいは病民を気に入らないことがあるといじめるとか、
それで年がら年中戦に明け暮れてて、
生地強いばかり。
で、もうあんなリーダー、戦ばっかり強くてもう疲れたよって言って、
家臣団に愛想をつかされるし、病民も苦しむし、
戦ばっかりしてるから。
かつそれを止めようとしたと言われている、
真っ当な後継者、真言はまともじゃないかと。
家臣のみんなから一目置かれてるのが、
信虎は気に入らないっていうところもあって、
それで息子とも仲悪くなっていくわけなんですよ。
なるほどね。
よくできた息子の方を、家臣はこう、
密かに応援したりというか。
信虎も決して頭が悪いわけではなかったと思うんですよ。
それを悟って、ますます気に食わないやつだなと。
なんかちょっといい子ぶり上がってみたいな感じで、
親子仲も悪くなり、とうとうね、
真言には弟が何人かいて、その弟も非常に有名で、
24章の人にそれぞれ数えられてるぐらいの有能な人なんですけど、
次男の信繁という人物がいたんですが、
33:02
この信繁に家徳を継がせると。
信虎は言い始めた。
真言はもうダメです、下ろしますっていう風に言い始めたとも言われて。
なんかやりすぎだね。
そう。
まあ自分勝手というか。
そういうことです。
まあパワーがあるんだろうけど。
っていうことで、たまりかねた信繁が、
家臣がもうあいつはダメだってことで、
密かにクーデターを起こして追放してしまった。
なるほどね。
そこまで聞くと、なんかすごいことしたっていうよりかは、
よくしようと思ってやったんだね。
というのが通説なんです。
ドラマとかでだいたいこのパターンで描かれるんですが、
本当にそうだったのかっていうのも結構最近では言われ始めた。
ちょっと怪しいんだ。
そう、その暴君伝説みたいのがいろいろあるわけですけど、
中国の古典と非常に似通ったエピソードだったりとか。
つまり何者かがその信虎の残虐性、
信虎は追放されるべき人間だったっていうことを強調するために、
後世そのイメージをくっつけられちゃったんじゃないか。
なるほど。
まあ確かにちょっと疑ってみると、
もしかしたら信玄が父親信虎を追放した後で、
あいつはこれだけひどいやつだったって言いふらしたっていう可能性もなかなかない。
ということなんですよ。
なるほど。
で、この信虎追放の真相というのは何だったのかっていうのを
僕なりにも一応考えてはいるんですけれども、
これはですね、信虎にも問題はあったんだろうけど、
一言で言うと、武田家の外交方針に行き詰ったことが原因だと思ってるんです。
ちょっとね、これすごいオタクの話で難しい話になるので、
ちょっとね、地図を見ながら話をしたいなと思うんですね。
この山梨県、貝の国という竹田家を治めて後払本家がありました。
竹田家には強大なライバルがいくつかいたんですね。
まずその一つが山梨県の南、静岡県静岡市を本拠にしていた
今川義元という人物。駿河の国の国首ですね。
これと竹田は凄い隣国でバチバチだったんです。
近いしね。
そしてもう一つが相模の国、神奈川県小田原市、
小田原城を本拠にしていた北条宇実那という人物。
これも非常に優れた人物で、神奈川県小田原を中心に
関東をだんだん支配を広げていこうとしている信仰勢力だったんです。
この二つがまずあった。
今川と北条というのは元々けらい筋なので、
北条というのは今川のそもそもがすごく仲がいいんですよ。
なので両者で連携して竹田を攻めたりとかして、
これが信太郎は戦い続ける理由なんです。
要は2対1だったんです。
厄介だね。
しかもこの南側で範囲が広いから、ちょっと守りづらい感じはありそうだね。
そうなんですよ。
そこで信太郎も馬鹿じゃないから、これをどうにかしなきゃいけないということで、
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関東を元々支配していた上杉というのに、
埼玉県を本庁にしていた人物なんですけども、
これと組んで北条と戦おうとだったりもするわけですね。
一方で長野県の品野の方には、これは強大な勢力いなかったんですけど、
ちっちゃな豪族たちがいろいろいたんですよ。
大きな国なのでいろんな盆地にいろいろいたんです。
その中の一つとうまく組んだりとか、こっちを逆に攻めたりとかっていうことをやって、
四方八方と戦をしていたっていうのが。
内陸はそういうところはあるだろうね。
辛いところですね。
ただ信太郎もそれが非常に苦しい。
厄介なのは山梨県も実は結構盆地ごとに分かれていたりするので、
南の方の河心は密かに今川と通じていたり。
今の大月とか鶴の方の八王子に近い方はもはや北条人でスパイなんじゃないかみたいな話も起こったりして、
実際に北条に裏切ったりも結構するんです。
北条と今川が直下を出してくることで、国内の統制も乱れ始めたりもする。
盆地はそういうところ難しそうだよね。
そういうことなんですよ。
山越えなきゃいけないっていうのが。
そういうことなんです。
裏切りやすい。
裏切りやすい、そう。
だから信太郎はその閉店に苦労して。
ただそれだったら信太郎は強かったので、なんとかどうにか従わせたりしていた。
ただこれをやってるとやばいと、さすがに。
河心もいつもうちのところに攻め込まれてそれを守るために戦うけど、
なんかもう正直今川でもいいんじゃないの?みたいなふうになっちゃったら、
今川が海の国を治めてもらえば、北条に治めてもらえば戦はなくなんじゃね?っていう話にもなっちゃうじゃないですか。
だってずっと防衛戦だから、得られるものもないし、人が死ぬばっかり。
そこでですね、今川と実は手を組むんですね、とうとうね。
それは河心が。
武田がですね、信太郎がもうやむを得ないと思ってですね、
自分の娘を吉本に訪がせて、武田と今川で同盟を成立させる。
で、一方でシナノの国の方にも諏訪というのがいたんですが、それにも娘を訪がせて、諏訪とも結ぶ。
で、一方で埼玉県のもともと仲良かったところとかはその関係を持続する。
つまり、敵にするのは相模の方丈だけしたんですよ。
っていう風になった時に、つまりね、ここがミスなんですけれども、
信太郎の戦い方というのは、本来は防衛戦だったんですが基本は。
急な本心転換で、今川とも結んだ。埼玉とはもともと仲がいい。
そして長野県とも結び始めた。
なると逆に平和にはなるかもしれないんだけど、攻めるところがなくなったんですね。
法上以外。で、これ一見いいことに思われるんだけれども、ここでが難しいのが、
貝の国の豪族たちは自分たちの農民とか農民とか兵隊を養うためには、
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この山梨県1個の生産力では無理だっていうこともね、うすうつ勘づいてたんです。
なるほど。
それぐらい洪水がひっきなしに起こるし、そもそも平地も少ないし、野菜も頑張って作るけれども、
山梨が多くて作業も大変だし、まだワインなんてないですからね。産業もなかなか。
ワインも別に腹の足しにはならないし。
ならないし、そう。だからむしろ武田家の家臣たちが望んでいたのは、意味のある戦をしてほしかったんですよ。
なるほど。農地として使えそうな平地とかを自分の領地にしてほしい。
そうじゃないと、山梨県1個でこのままやっていくのは辛いというふうな発想があったと思うんですよ。
なるほどね。
今までは防衛戦で仕方なく守って自分の領地守る代も戦ってたけど、
防衛戦なくなった。いよいよ自分たちが相手の領地を奪えるんじゃないかと思ったら、
いろんなところと急に縁組みしちゃったから、じゃあ小田原に攻めるのかと。
でも、あの小田原に攻めるのは難しい。要は北条というのがめっぽん強いし。
しかも北条はその時結構巨大化していたので、北条の領地を一部奪ってもまた逆襲されちゃうという話もあって、
なかなか相模を攻め取るのは無理なんじゃないかっていうことを思っている人たちもいる。
特に北条と接している大月とか鶴の東側の豪族たちは北条攻めやるなら絶対うち戦法じゃんみたいな。
絶対うちやらされんじゃんみたいな。
でも北条と仲良くしといてもいいんだけどなっていうのも思いついた。
むしろ攻めんなら品野だろうと。
なぜかというと、品野はさっき言ったように武田より弱いのがいっぱいいるから、
そこの一個を滅ぼしちゃえば、もうその家滅ぼせるから逆襲されることもあんまないんじゃないか。
じゃあそこの領地は武田家のものになりやすいじゃん。
なのにでも長野と結んじゃったから、じゃあ小田原攻めるのか。
ということでどうすんのこれっていう風になっていた。
そうかそうか。
いう時に、これって信長の外交方針が外交策無策なんじゃないかっていうことで、
気づき始めたのが武田家の家臣であり、あるいは信玄その人だったかもしれない。
なぜこれを思うかというと、武田信玄というのは信長を追放した後に真っ先になったことは何だと思いますか。
その窓を目を切るっていうところ。
そういうところ。誰と切る。
こうなると誰と切るんだろうね。
さっきの話をよくよく思い出してほしいんですね。
豪族を攻めたいんだったら諏訪を切って、そこを攻めちゃった方がいいよね。
まさにその通りのことだったんです。
なるほど。
諏訪からしてみたら、信玄の妹ですよ。諏訪の奥さんは。
なのに攻めたんです。そして殺したんです。
信玄というのはね、結構冷徹なんですね。
父親を追放、殺してはないんですけど、
でも自分の妹の向こうを攻め滅ぼしちゃうんです。
妹の息子も殺しちゃうんですよ。
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妹はそれによって鬱になっちゃって自害したとも言われて。
まさか兄が裏切って攻めてくると。
でもこれで諏訪を滅ぼしたんですね。
それを足掛かりにどんどん信玄の方に攻めていくんですよ。
つまり信玄というのは、武田家全体というのを非常に客観的に見て、
俯瞰してみる力というのがずば抜け出たと思うんです。
まあその親族とかはもうちょっと一旦置いといて、
武田家の領地をどういうふうにやっていくのがいいかということで、
そういうことをしたわけね。
効率的に、いかに効率的に家臣たちの求めることを成し遂げて、
武田の領土を大きくするか。
そのためには今川は強い。北条も強い。
であれば弱い諏訪。妹がいるけど関係ない。
信玄がその信寅を追放してやったことを見ると、絶対僕はそこだったと思うんですね。
外交方針の転換。
けど信寅からはそれは言えない。
可愛い自分の娘が嫁いでるところを滅ぼすのは絶対できない。
まして自分が嫁がせたのに、やっぱり嫌になったから攻めますみたいなことは言えない。
だからその建前として当初が変わりました。
社長が変わったので当社の経営方針変わります。
あなたとは手を切ります。滅ぼします。
これも無茶苦茶ですよ。はっきり言って。
諏訪からしたらひどい目にあったと思います。裏切りですよ。はっきり言って。竹田のね。
なるほど。そのストーリーで考えると、確かに父親を殺してはないから、ビジネスに徹したんだなという感じだね。
信玄はそれを自分で思いついただろうし、それを求められているっていうことを誰よりも分かってたと思います。
自分のやるべきことを分かって、そこは冷徹に遂行した。
つまり自分のわがままとかガチャじゃなくて、組織のための巨大な歯車となるっていう一生のスタートだったんです。
そのために妹も殺してしまった。間接的に。
父親も追った。妹も殺す。
ここが竹田信玄の人生のスタートなんですよ。
なるほどね。でもそういう動きをされると、信浦に鬱憤が溜まってた家臣は信玄様ってなるよね。
こいつは信浦のようなパースの熱情、情熱家とかじゃなくて、ひたすら冷徹に竹だけが良くなるためにしか働かない機械。
そしてこの信玄の竹だけというのはそういう経営方針なんだ。
ただ実際実績がめっちゃ上がったなって。諏訪も収められたし、これ押しなのがどんどんいけんじゃね?ってなってどんどん急拡大していく。
そうか、だからさっき冒頭で話してた信玄の領地の拡大の方向は確かにこの西の方だもんね。
諏訪を足掛かりにいろんなところをどんどん攻めていくんですね。有能な部署を派遣して。
なるほど。
いつの間にか信浦がほとんど竹田のものになっちゃった。わずか10年くらいの話です。
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信浦が何年かかってもなかなか山梨を出られなかったのに。
その間に信玄はやっぱりリアリストなので、今川義元と北条宇二康という小田原ですね。
これとそれぞれ自分の娘と息子を訪がせて、この三国同盟というのを結ぶんですね。
つまり南はみんな親戚、仲間。それぞれ不可侵条約みたいのを結んで、北条は竹田を気にせず埼玉の方をやっつけに行って関東に急拡大して関東の覇者になっていく。
竹田はそういうわけでシナノの方を攻めに行く。南に誰も気遣う必要ないから。
今川は今川で、東と北がもう万弱だから西に行って、そしてたどり着いたのが桶狭間だったんですけども。
っていう風になって、非常に効率的なんですよ。
上手いことやるね。
確かにこの幸福から見ると、南側の今川と北条の方はそれ以降はもう海だから、ここ抑えちゃえばもう気にしなくていいもんね。
絶対安全圏なんですよ。
なるほどね。
頭いいな。
っていうリアリスト。
っていうことをやったんですね。
だからやっぱり目的と手段をちゃんと考えて客観的に見てたと思うんですよ。
信玄というのは。
僕はこの信玄のポイントは客観心できる圧倒的な能力。
なるほど。
自分のことも。
自分は歌詞に対して何を求められているのか。
だから歯車に停止したんです。
これが前半戦の話ですね。
どうも、前回ぶりの編集辞典の内田です。
お聞きいただいた通り、歴史トーク、武田トークが盛り上がりすぎまして、今回はここまでとさせていただきます。
後編はですね、次回の配信とさせていただきます。
なので、9月2日朝8時配信予定となっております。
次回もですね、武田トーク満載でお送りしていきますので、お楽しみに。
ということで、今回はこの辺で。
ありがとうございました。
47:15

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