大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行と酒が好きな同級生2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介していきます。旅のお供はこの2人。
旅が生き甲斐な旅行ガイドブックの編集者、はるやです。 ディープな旅がしたいけど、知識がない旅行初心者、内田です。
はい、今回2コースを連続で撮ってるんで、もう話すことはないっす。
なんと!
まあまあちょっと今日は多分これが最後になると思いますので、最後ね。ちょっと頑張っていきましょう。
今回は演奏の合図、幻視と想像の史跡めぐりの2日目。 一泊のコースなので、これが最終日になるということですね。
前日は合図版、主に江戸時代の後期ですかね。 幕末ですね。
今回の2日目は結構それより前の歴史を遡る形で、また別の合図の歴史を学んでいくと。
ということで2日目をよろしくお願いします。
前日ですね、東山温泉のくつろぎ宿千代滝さんに泊まっているという前提になっています。
千代滝さんはね、そういうわけですごい食事にこだわっていらっしゃるお宿でもありますので、やはり夜朝共にこちらで食べていただいた方がいいんじゃないかなと思いますので、朝はもうお宿で済ませるという前提で今回お話を進めたいと思います。
今日こそ車が生きてくる感じなんですね。 前日は乗っても5分くらいのことばっかりやっていたので、あんまり車にする意味も正直ないんですけれども、2日目は車で行かないとちょっと厳しいので、ここで進化が生きてくるかなという感じです。
2日目から車を借りるだとちょっと面倒くさくなるのかな。
それでもいいんだけれども、1日目の工程をバスで考えたときにやっぱりちょっとタイムラグが結構生じたりして、
待たなきゃいけないんですよね。
とかってなってくると、実質お昼からの観光だと少し回るのはきついかなと思ったので、ならば1日目から借りちゃおうと思いましたが、
でも全然1日目のコースちょっと1つ2つ省いたりすれば全然バスで行けます。
なんで今回車で行かなきゃいけないかっていうことなんですけれども、
前日はあくまでも藍津若松駅から東山温泉、その間にお城があるわけなんですけれども、
そのいわゆる若松の城下町だけをほぼ一周した4分の3周ぐらいしたのかなっていう感じで今温泉に泊まってるんですけど、
今回はその藍津若松の周りを取り囲む郊外を回っていきたいですね。
なので今回は車移動がマストになってくるところです。
ということで最初に行きたいのが、東山温泉から車で25分ほど行ったところにある史跡エニチ寺跡です。
エニチ寺というのがまず聞き慣れない名前かなと思うんですけれども、
これは何と言えばいいかな、佐藤寺とかっていう名前の方はこれでいますけれども、
何だろうね。
佐藤寺という字なんですけども、調べていただくのはいいかな。
日本の日にお寺でエニチ寺と読むんですね。
これ奇妙だと思いませんか。
エニチ寺跡って書いてあるんですね。
そうだね、お寺の跡なんだね。
そう、つまりもう今は亡くなってしまったお寺の話をしてるんですけど、
こういうケースってあんまりないと思うんですけども。
まあお城の跡はいっぱいあるけども、お寺の跡って確かにそんなにないですよね。
じゃあ何でわざわざここに行くのかということなんですけれども、
このエニチ寺というのが一つ愛図の歴史を語る象徴的な存在なんですね。
徳逸という人を知っているとは思わないんですけれども、
これは教科書にも載っているかどうか怪しいぐらいのレベルなので、
大学受験でも多分やらないくらいの人なので、
多分多くの方がご存じないんじゃないかなと思うんですけれども、
徳川家康の徳に関数字の1で徳逸と読むお坊さんの名前なんですね。
生きていたのは平安時代の始めだというふうに言われています。
つまり800何年とかそのぐらいの時代ですね。
実は今日この2日目のテーマとして取り上げたいのは、
愛図というのは仏陀というふうに通称されるくらいお寺の多い町なんですね。
仏陀というのは仏の都です。
あ、都ね。
と称されるくらいの仏教王国なんですね、ここって。
あ、そうなんだ。
どうしてもやっぱりアクセス面のこととか、
あるいは一般的な現代の知名度を考えても、
愛図派の歴史というのが愛図の歴史と思われがちなんですけど、
それ以前に城下町ではなくてもっと広いスケールで愛図を唱えた、
音痴としてこれを唱えると、
実は仏教国としての何か一つ特殊な意味合いを帯びてくるんですね、ここっていうのは実は。
そのきっかけを作ったのがこの徳逸という人なんですね。
徳逸ってのは何者だったかというと、
発祥宗という奈良仏教、有名なところでいうと奈良の幸福寺というお寺があるんですけれども、
これが発祥宗なんですね。
法律の方に相手の愛というものですね。
日宗派として発祥宗という、
いわゆる今の日本ではあんまりメジャーじゃないかもしれないんだけど、
奈良仏教、奈良に都があった時にはもう最大勢力と言っていいくらいの奈良の仏教なんです。
これが徳逸さんが属していたものなんです。
ところが奈良の都が長岡京平安京というふうに移っていって、
要は平安時代に入っていくわけなんですよ。
つまり発祥宗が栄えた奈良の都から都が移ってしまって、
新しい時代が仏教化に向いて巻き起こってくる。
そこで出てきたのが西朝と空海ですよね。
空海はこの間香川の回でね、生まれ故郷の禅通事の話をやりましたけど、
新厳宗を開いて、高野山今後無事だったり、京都の東寺だったり、
あるいは奈良の長寺も信号宗なんですけど、この辺りを開いた人ですね。
西朝は比叡山遠慮寺を開いて天台宗を開いた人。
っていうのと同年代に生きた旧勢力の代表者がこの徳逸みたいなのがあるんですね。
日本史の教科書上とかで出てくる理由があるとすれば、
これは天台宗を開いた西朝と激論を交わしたっていうことで有名な人なんですね。
つまり仏教のあり方をめぐって、
西朝は新しい天台宗こそが正しい仏教なのだと言った。
徳逸はそれに対して、いやそんなのはにわかもんであって、
古くから日本に信じられたこの舗装宗とか、
なんと奈良ですね、の仏教こそが正しいんだっていうので、
激論を交わしたっていうので有名な人なんですね。
なんか並行線になりそうだね。
申し上げた通り並行線です。
もちろんそれぞれの信じるものはあるのでね。
ただ徳逸さんというのはね、この人も謎大きい人で不思議なんですけれども、
一節には藤原氏、有名な藤原氏いますよね。
あれの家系に生まれたとも言われてる、
後期の出だったとも言われてるんですけれども、
お坊さんになって、その後になぜか自ら奈良の都を去って、
この藍津の地にやってきた人だって言うんですね。
当時はまだ全然朝廷の支配もあんまり及んでいなかったこの東北のあたりの、
福島県のいわきの方から藍津の方にかけて巡回して、
そこに多くのお寺をどんどんどんどん築いていった人っていうね、
東北に仏教を広めた人っていうふうな人で言われてるんです。
なぜ彼がわざわざ藍津に来たかとかその後の理由はね、
もうこの人の遺跡はほとんど残ってないのでわかりません。
実際この人が何をしたかわかっているのも、
最澄がブチギレてるんですね、徳逸に対して。
最澄というのはね、ちょっと性格が激しい人で、
徳逸ってどうしても許せなかったみたいで、
自分の著作みたいのをね、もうメタメタに言ってるんです。
徳逸がこういうことを言いましたっていうリプライみたいなのを鬼リプライされてる。
そのリプライする大元の文章が残ってるから、
徳逸が何を言ったかがね、間接的にわかってるっていうレベルの人なんですよ。
ただ、そこにあって京都とか奈良から見るとそういうふうに思われがちなんだけど、
藍津においてはむしろこの徳逸さんの方が、
この藍津に仏教根付かせる大功労者として敬われている。
そしてこのえにち寺というのがその拠点だったとも言われているんですよ。
なのでね、実はこっから見ていくのは徳逸という人が築いたお寺というのがね、
どんどんどんどん合図に残っているよというものを見ていきたいと思います。
えにち寺の話をすると、
そういうわけでね、このえにち寺は平安時代、
徳逸さんが生きていた頃にはとんでもない規模のがらんを誇っていたと言うんですね。
尊平の人みたいにたくさんいて、
実際、原兵合戦にはこれが軍隊と出動したりしてるんですよ。
えにち寺軍みたいなのが。
っていうレベルのものなんですけれども、
その後いろいろ戦国時代とかにね、
伊達正宗とかに責められたり、いろんなことがあって、
燃やされてしまったりして、どんどん衰えていってしまう。
そしてね、明治時代になると、
これ何度か出てきていますが、
廃仏希釈というものがあってね、
仏様は仏教がダメだと、
神道、神社の方がいいんですというふうな明治政府の政策によって、
壊滅的な打撃を受けてしまって、
とうとう廃寺になってしまったんですね。
なので、後なんです、もう。
なんかもったいないね。
せっかく広まった本拠地だったのに、
それがなくなってしまうんだね。
なので、おそらくこれは推測でしか言いませんが、
この戦国時代とかに衰えていくまでの間には、
おそらくこの督逸の著作とかも残ってたんじゃないかと思うんですね。
その今の立派なものとかじゃなくて、ちゃんとしたものがね。
ただ今はもはやもうそれは残っていない。
ただ、それではあまりにもこの打撃と廃寺としてももったいないということもあってですね、
近年徐々にこの戌日寺というのを復興しようという動きがありまして、
現在金の堂と書いて金堂だったり、
この督逸さんのお墓とかはちゃんと建物が建てられていて、
そこには今参拝できるようになっているんですね。
あとは、これ4月10日から11月30日の間しか開かないらしいんですけれども、
この戌日寺の境内の資料館も建っていまして、
そこに行くと督逸さんの教席だったり、
藍津が仏教の都だったっていう知られざる歴史が浮き彫りになってくるんですよ。
これ何でこの期間なんだろう?
これ単純に誘致とかだと思います。
そういうことか、そういうことね。
これ結構山のほうなんですよ。
そうか、だから来てもらっちゃ危険だよってことね。
ただ山登りとかではなくて、
お館くらいの容量なんですけれども、
行くまでにちょっと地図見てもらえばいいかな。
ちょっと若松の城下町からかなり離れている。
が、この若松のちょうどね、また面白いのがね、
これ方角を見てみると、どこの方角かわかると思うんですけど、
藍津若松から見るとね。
北東ですね。
北東っていうのは何かわかりますかね?
北東は鬼門です。
つまり鬼の門。
災いが降ってくるとされる方角なんです。
そして、この位置かけを見てください。
藍津若松の真っ白がここになりますよね。
ここに似縄白虎がありますよね。
そして京都の方に地図をお手伝いしてもらっていいですか。
京都の五省がこの辺にあるわけです。
そしてね、ちょっと早いんですけれども、
結構縁日時資料館とかまで見てると、
結構1時間くらいいると思います。
ので、少し移動したらお昼を食べに行きたいと思うんですね。
縁日時から北西の方角に、
車で30分くらいかな、行ったところにあるのが、
源来県です。
はい、そっか。北方ラーメンがあるんですね。
そうですそうです。
北方というのは厳密に言うと藍津若松市ではありませんで、
北方市という別の行政区分になります。
これですね。
藍津若松のちょっと北に大体30分くらいのところにあるというのが、
この北方市というところなんですね。
で、北方といえばおそらく真っ先に出てくるのが、
そういうわけで北方ラーメンですよね。
どうですよか、北方ラーメンは。
北方ラーメン、いやでもなんかそんなに癖なくてね、
澄んだ醤油のスープで、
ちょっとね、チャーシューは多めな感じのイメージですかね。
そうですね。
まあ本当に癖がないといった、
昔ながらの中華そばっていうイメージがあると思うんですよね。
で、北方っていうのはいろいろ合併して変わってしまったようなんですけど、
一時期もうちょっと行政区分として小さかった時は、
人口一人あたりに占めるラーメン屋さんの割合が日本一だった時期もあるそうでして、
それぐらいね、実際言っていただくとね、
この原来圏さんだけじゃなくて、
北方の中心部にラーメン屋が今でもめちゃくちゃあります。
ラーメン好きの方はね、
食べ比べなんてもやっちゃうぐらいなんじゃないかなという気がします。
なぜその中であえてこの原来圏さんを選んだかというと、
これこそがですね、北方ラーメン発祥の店なんですね。
ということでね、北方ラーメンの歴史っていうのをちょっと簡単におさらいをしておきたいと思うんですが、
北方ラーメンというのはですね、もともと大正時代の末期、
これ政暦に直すとだいたい1926年が大正15年の最後の年になっていますので、
今からだいたい100年ほど前になります。
中国の石膏匠出身のバン・キンセイさんという方が日本へ出稼ぎに来ていて、
それでどういう言われかわからないんだけれども、
このバンさんという方が北方でしなそば、自分の郷土料理のしなそばというのを屋台で始めた。
これが北方ラーメンの最初だったって言うんですね。
じゃあやっぱりオソドックスなしなそば、中華そばっていう感じなんだね。
なのでもちろん中国の高春料とかもどこまで手に入ったか、
多分あまり手に入らなかったでしょう正直。
だけど一方で北方は昔からこの後行くんですけど、
醤油とか味噌とかの醸造文化がすごい栄えた町だったんですね。
なので今も醸造所がいっぱいあるんですけど、
こういったところも影響してやはり醤油ベースのラーメンとかは作りやすかったんじゃないかなという推測ができると思います。
あとはやっぱり気候の問題。
寒いわけですよ、北方。
特に若松よりさらに北なのでね。
なのでやっぱり温まる、こういった昔ながらのしなそば、
今ではればれでさえ美味しいわけですから。
これを始めたところを大当たりしたそうなんです。
なのでこの昔ながらのシンプルなしなそばっていうのを代々守り伝えてきてる。
で、このバン・キンセイさんに始まって、
この人からどんどん技術がいろんなところ北方中に広まっていく形で、
いろんなラーメン屋さんが起こってきて、
これで北方ラーメンという風になっていったそうなんですね。
あれ、じゃあその屋台が元祖なんじゃないの?
あ、で、この屋台を起源とするお店こそがこの源来健さんなんです。
この屋台は今はもうなくなってるんですけど、
それが要は店舗になったんですね、ちゃんと当たったのでね。
その店舗になったバージョンが源来健さん。
ただやっぱりその昔ながらのこのバン・キンセイさん以来のね、
本当にシンプルな醤油をベースに鶏ガラだったりを混ぜて、
結構ね、僕がこれ食べた感想としては、
普通の北方ラーメンって言っちゃ早いんですけど、
よりもね、結構ね、割とどっしりしてる印象があったんですよね。
すっきり、あっさりと言うよりね、
結構コクも感じられるね、強めのスープだった印象があったんです。
ただそこにやっぱり絡んでくるのがちじれ麺ですよね。
これがやっぱ美味しかったですね、コシが強くてね。
じゃあちょっと食べ応えある感じなんですかね。
食べ応えありますね、結構ね。
えーいいね。
あとやっぱりこの中国由来というところもあって、
餃子とかも美味しかったですね。
なのでこれ会社の同事で行ったので何人かで行ったんですけど、
餃子を分けたりしながらね、それぞれラーメンいただくみたいな感じのことをやりました。
餃子も美味そうだったな、写真が。
いやいいね。
やっぱこれ昔ながらの中国の餃子って感じがしますね。
結構ね、皮が厚めでもっちりしたね。
あーいいね。
なのでせっかく来たからにはね、来た方ラーメン、ガンそれ食べていただく。
たくさん有名なお店ありますけど、ここ意外と箱が大きいんですよ。
なので並ばずにそんなに住むかもしれない。
他は結構やっぱりガンガン並んじゃうんですけど。
ただ美味しいですのでね、ご紹介をしました。
で、来た方にせっかく来ましたので、簡単にちょっと観光施設に寄りたいと思います。
源来県さんから車で3分ほど行ったところに、
来た方蔵野里というところがありますね。
ここで話しておきたいのが、来た方という町の成り立ちと発展の仕方なんですけれども、
これはですね、実は非常に必然的なことなんですが、
ちょっと地図を見ていただきますとですね、
合図若松からこの国道を通って来た方に行くわけですね。
ちなみに電車で行くと番越再生も通っていますので、
車ない方でも来た方ラーメンは食べに行けます、若松からね。
ではこの国道を上がっていった先に、どこに行くのかということなんですね。
この若松から上がっていくと。
121号線ですかね。
そうですね。
米沢?
はい。
米沢というのはまだね、このポッドキャッツラーって紹介はしないんですけれども、
山形県です、もうこれ。
山形県の一番南の方にある米沢ですね。
これね、なんとなくうっすらチラッと1秒くらい言ってるんですけど。
米沢?
なんかあったっけ?
歴史上の話なんですけどね。
これね、何かと言うと、
昨日ね、藍津若松の城下町に元王子太郎が入ってきたけれども、
死んでしまって、上杉賭かつがね、越後から入ってきたという話をしました。
でね、上杉寮っていうのは元々越後のあの上杉ですから、
当然それに見合うだけの対価を東北で払わなきゃいけないわけですよね。
というのでね、藍津だけじゃなくて山形県の方も治めてたんですね、一部を。
藍津若松に上杉賭かつの本拠地があったんですけれども、
一番信頼できる下郎の直江山代の神に米沢を治めさせたんですね。
つまり米沢も上杉寮なんです、そもそも、征服時代から。
なので、直江家の米沢と上杉の本家の若松を結ぶ街道というのが、
上杉の領地の生命線なんですね。
これが通ってるのが北方なんですよ。
ああ、そうだね。
これ今でも同じです、全く条件は。
なので、上杉の入ってきたあたりから、
やっぱり米沢若松の交通というのは大動脈としてここが大いに栄えた。
これが非常に重要なポイントになりました。
その後、藍津若松を治めていた上杉は、
直江の領地だった米沢に押し込められて、
米沢藩として上杉は江戸時代を生き抜くんですけれども、
それ以降、米沢というのも強い力を持っている藩ですので、
この藍津若松との交通はやっぱり重視されました。
それで来た方は相変わらず栄えていったということなんですね。
この藍津から国道をどんどん北に行くと、
山になる手前のところが北方なんだね。
だからここは栄えやすい場所なんだろうね。
そういうことですね。
なので物資の集散地として栄えたわけです。
そのため、蔵をみんな建てるわけですね。
特にさっきラーメンの話もおっしゃいましたけれども、
醤油だったり味噌だったりという醸造文化が栄えて、
そういうのを手掛ける商人とかがいっぱいいたそうで、
その人たちの蔵をここに移築している。
というのがこの蔵の里になるわけです。
やっぱ寒いところは醸造文化は発達しますよね。
我々も角の立てで実際、安藤醸造さん見てきましたけども、
ああいうことですよね。
あとはやっぱり若松っていう、
当時の東日本、北日本で唯一の都会がありますから、目の前に。
大消費地に面しているっていうのも一つ大きなポイントだったと思います。
ここに行くと4,500平方メートルというすごい敷地の中に、
いろんな蔵が移築されているわけですが、
デザインの豊かさに驚くわけですね。
蔵って一つプロトタイプみたいな思いがちなんですけれども、
実はすごい多彩なデザインをこの人たちは手掛けていまして、
それがいろいろ見られるんですよ。
中には蔵っぽいこの白壁とちょっと高い位置に窓が開いているような、
いわゆる蔵っぽいところもあれば、
ちょっと茶色、赤レンガではないんだけど、
なんかそんなような色合いのやつがあったり、
高い窓の下のところに屋根が、日差しっていうんですかね、
が出てるやつもあったり、確かにちょっとそれぞれ趣が違いますね。
これは実際こちらに行って教えていただいたんですけれども、
北方というのはもちろんそういった地理的条件によって発展をしたわけなんですけれども、
同時にこの蔵を建てるっていうことが、
ひとつホマレみたいなところがあったんですって。
これが集まってる施設だから、
建物見えるだけでも面白いね。
そういうことです。
というのも北方蔵の里でした。
北方はこんな感じでランチメインで訪ねたわけですけれども、
そこからさらに大掛かりなドライブをしたいと思います。
北方蔵の里から南西方面、つまりもうちょっと若松に戻ってくるですね。
車で40分ほど行ったところにあるのが、鳥酔観音如宝寺です。
鳥酔観音っていうのも聞き慣れないですよね。
なかなか渋いお寺なんですけども、
これもやはり徳一さんが建てたお寺なんですね。
なるほど。
今鳥酔観音ってなんだって話なんですけれども、
これね、徳一さんというのは奈良時代の終わりから平安時代の初めに生きた方なんですけれども、
それより前に奈良時代の中盤に生きたお坊さんで有名なのが、
行記という人がいます。
これは教科書に載ってます。
行うもとと書いて行記ですね。
これは奈良の東大寺の大仏を作るのにもすごい貢献したとか、
あるいは民衆からの支持が圧倒的だったっていうのにも一目置かれる存在なわけで、
今でも奈良ではすごい崇拝されてるし、
いろんなところに行記さんが見つけた何かみたいなね、
この人何人いたんだって影分身だったのかってくらいね、
いろんなところに足跡が残ってるんですよ。
ちなみに言うとあいつの東山温泉、千代滝のね、
もうこの行記さんが見つけた温泉だっていう伝承が残ってます。
そこまで行くと本当かって思っちゃうけどね。
こんな影分身の行記さんと崇拝さんくらいですかね。
さすがにすごすぎるだと思うんですけど。
この行記はなぜかやっぱり合図にもすごい足跡を残していまして、
この鳥酔観音というもの自体もですね、
すごい仏教の信心を扱ったこの奈良時代の住民が、
長寿の被害によって困っていたと。
やっぱり山が近いのでね、作物を食い荒らされたりして。
困っていたところに行記が来て、
かわいそうに思った行記が観音様を1個授けてあげたと。
そうすると見る見るうちにその長寿の害というのはなくなって、
で無事に合図にこの作物が育つようになったというふうな言われがあるんですね。
なので長寿の懲を追い払った観音様ということで、
鳥酔観音っていう通称になったと。
そんな上手くいくもんかね。
まあそうですね。
ただね、やはりこうすごい厚く山荒れてる。
つまり行記さんの方が先なんです、徳一さんよりね。
50年くらい先の人なんですよ。
なので行記が観音様を預けたお堂というのを知ってか知らずか、
徳一さんはこれを拡大してお寺に起こしたんです。
このお堂はだいぶ渋い感じの、あんまり色味のない、チックなお寺って感じですね。
そうですね、蓄実豪賢な。
ただね、これね、写真で例えばお堂を見てるだけだとね、
ああそうかというだけなんですけれども、
一つ重大な特色があるんですね。
それが何かというと、方角の問題なんです。
これちょっと地図を見ていただいていいですか。
ここにあるんですね。
ちょっと先ほどね、もうちょっと広く撮っていただくと、
先ほど言ったえにち寺というのがどこにあったかっていうのを覚えてますかね。
ここら辺だったね。
その辺です。
で、今取り置い館はどこにあったかっていうと、
ここら辺ね。
そう。
これつまりね、東のえにち寺と西の如宝寺、
ということでね、やっぱりね、
壮大なスケールの構想があったように思うんですね。
徳一さんの一緒相互というのがね。
なあ、なるほどね。
確かにね、この東西にね、
同じ角度ぐらいのところにね、あるんですよね。
そうなんですよ。
で、これがね、やっぱりね、京都にも似てるんですね。
この辺にあるのはね、あたご山という山なんですけれども、
あと佐賀嵐山、我々もぼってりやつでやりましたけどね、
北西の方角にあたるので、
この辺がやっぱり守護すべき場所の一つでもあって、
京都でもやっぱり今でもお寺が集まっているところになった。
いうのでね、ここに如宝寺を置いたんですね。
さらに言うと、この如宝寺の特色というのは何かというとですね、
普通お寺って、もちろん全部が全部なわけじゃないんですけれども、
南に面していることとかが多いんですね。
ところが、この如宝寺はね、西に面しているんですね。
面しているとはちょっとふさわしくないんだけれども、
実際行っていただくと、
このお堂にはね、東の方角から入っていって、
実際に中に仏さんを拝んで、
西に一歩ずつ出ることしかできないんです。
で、なぜかというと、
これ古文の授業とかで思い出してほしいんですけど、
古文の授業で西って言うと何か思い浮かぶことありませんか?
うわー、覚えてないなー。
昔の日本人は西に何があると思っていた?
えー、なんだ?
西方浄土なんていうことをね、あったと思うんですけれども、
つまり浄土、仏様がいるその尊い世界ですね。
これは日本から見て西にあると思われていたんです。
インドとかは多分意識してたと思うんですけど、
つまり仏教において西ってのは非常に尊い方角なんですね。
この西方浄土に行き着く場としておそらく意識したと思うんですけど、
鳥取観音はね、東に生えて西に仏様を拝むと西へ出れるっていうね、
そういった位置関係にあるんですね。
実際どうもそういう作りになってるんですね、珍しく。
だし、その合図から行ったら西に向かったら仁法寺があるわけだもんね。
そういうことです。
つまり、こっから考えられることはすごく当たり前のことなんですけど、
仁法寺の位置ってもちろん世界の最果ての西じゃないじゃないですか。
あくまでも合図から見たら西にあたるわけでしょ。
合図若松の人から見たらもちろんそういう方角になりますけど、
じゃあこれが越後の人から見たら逆なわけですよ。
西から東に行くわけですよね。
ってなると、やっぱり徳一さんが意識していたっていうのは、
この合図盆地というものを都に見立てていたと思うんですね、間違いなくね。
合図を都として考えたときに、一番西にあるのがこの仁法寺だっていう構想だったんじゃないかって。
そういうことです。
なのでこの位置において、合図盆地から見て西方浄土に行けるよっていうのを体現したんですよ。
っていうのがこの人の思想だったと思うんですよ。
いやだからそこまで考えてお寺が建てられてるとは思ってなかったよね。
つまり日本がまだ聖徳太子とかがいたと言われてるあの時代です。
仏教が初めて起こってきたっていうレベルの時代なんですよ。
仏教の伝来というのは538年あるいは552年と言われてるんですね。
なので6世紀はまさにそこですよね。
だから日本に仏教が起こってきて、
まだ全然奈良の大仏が建つ前の話ですよ。
この英雄寺っていうのは、
陵という当時中国南部を治めていた王朝から逃げてきたのか、
亡命してきたのかわかんないですけど、
とあるお坊さんがこの山の中に囲織を結んで、
それが起源だったっていう伝説があるんです。
これ極めて不思議なことで、
この言ってしまえば失礼ですけど、
藍津の山奥になんで中国の南の人が逃げてきたのかっていうことなんですよ。
そういうふうに逃げてきた人だったら、
やっぱり都とか栄えてる場所を向かっていきそうだけど、
ましてや奈良とかからめちゃめちゃ遠いわけだし、
どういうルートでここにたどり着いたんだろうって感じだよね。
これはもう全く推測です。
なので全くあんまり信じなくていいんですけど、
地図を見ていただくと、
もし本当にこの場所にいわゆる虎井寺みたいなのが来たんだとしたらここですよね。
ここに来る理由があるとしたら、これなんです。
阿賀川。川を伝ってきた。
この川どこへ行くのか。
新潟なんですね。
つまり日本海に続いてるんですこれ。
寮から逃げてきたら本当なのだとしたら中国大陸ですから、
そっから要は船に乗って、
それでもなんでこっちに来たんだって話なんですけども、
あるいは寮に出身の人がこっちの朝鮮半島から逃げてきた可能性はありますけどね。
朝鮮半島の寮から南朝から逃げてきたと言うんですけれども、
合図にたどり着いたって言うんですね。
ただもうここに行く理由があるとしたらもう川しかないと思います。
新潟の港に着いて何らかの理由で。
そっから川伝いに、川伝いに行ったらここにいい場所があった。
ここに密かに寄りを結んだって言うんですね。
ただもう真意は全くわかりません。
ただこれはもはや特逸行事っていうレベルからさらに前の人ですから、
もしかしたらこの辺りに何か合図に特殊な風土が生まれた理由がある気がするんですね。
つまり話を思い返していただくと、
特逸さんというのは元々奈良の人で、
しかも後期の生まれだったかもしれないと言われてる。
なんでその人が好んで合図というところに行ったのかは謎なんですね。
はっきり言って。
そしてなんでこんな壮大なスケールで持ってお寺を建てて行ったのか。
もしかしたら想像をたくましくするなら、
日本海から流れてきた何かしらの文化的な系譜によって、
この合図っていうのは僕らが想像している以上に、
当時から仏教というものを信じる人が多かったんじゃないかって思うんですね。
特逸はそこに目をつけて、
奈良仏教が今この水帯を間抜かれないと、
都も移っちゃって、西朝とか出てきちゃったし。
っていうので、本当の仏教の神殿地というものを北に求めていって、
自らそこに行って、
自分の理想とする仏教国を築こうとしたんじゃないかって思うんですね。
その舞台になったのがこの合図だったんです。
だからその仏教を信じる下地みたいなのがここにあると睨んで、
ここを都としようっていうことで、
いろんなお寺を作っていったんじゃないかってことね。
そして図らずもなぜか京都と地形がすごく似てる。
琵琶湖みたいのもあるし、
桂川みたいなの流れてるし。
これ本当京都後で見てもらうと、
ここで丹波の山の方から穂津川ですよ。
ここに佐川嵐山からのこれ全く同じな地理条件が。
なんか不思議な繋がりがありそうだね。
そういうことですそういうことです。
まあ分かりませんね。
分かりませんけれども、
もしかしたらそうだったんじゃないかというふうに思わせてくれるロマンを書き立てる場所ではありますね。
ただいずれにせよ今行くと、とにかくこの仏さんがすごいです。
これね本当に仏像好きの方行った方がいいと思います。
これ結構衝撃を受けますよここ行くと。
いや私さ、戻るけどさ、
これが一本作りなのすげえなと思うんですよ。
そうですよね。
この元の木もちょっと見てみたいよね。
そうですよね。
だからもしかしたらあるいは、
いろいろもう分かんないよこれ想像ってだけですけれども、
やっぱり仏教をやってきたこの寮の名もなき亡命者たちは、
要は自分で仏教を起こそうと思った時に、
仏教があるところってやっぱり豊富な木材資源があるところっていうのに気づいたかもしれないですね。
でもそうじゃないとお寺も建てられないし。
そうだね。
全ての資材ですからね。
お寺自体もそうだし仏像もね、
作るんだったら需要の木は必要だよね。
そうそう。
で新潟の港に着いたけれども、
新潟は今も分かる通り平野ですから、
あんまり木はないと。
でじゃあでも新潟にはどんどんどんどん木が流れてきてる。
これじゃあいってどっから流れてきてるんですかって言った時に、
合図にたどり着いたんじゃないかと思うんですね。
合図は見ての通り盆地で木はいくらでもありますから。
ここならば自分の理想とする仏教の暮らし、
仏教を信じて人々に伝える暮らしができると思った亡命者がいたのかもしれない。
そして徳一もそれにやっぱり分かっていたんじゃないかと思うんですね。
本当にいろんな条件が良かったのかもしれないね。
かもしれない。
もう想像ですよ、こんなの当たり前に。
というね合図の不思議な歴史をね、
ちょっとここでおぼろけながら見えてきた。
ところでもう時間が迫ってきたんですね。
しかしながらですね、
最後に一つ合図のもう一つの幻の魅力というものをね、
考える一つのきっかけがあるんですね。
これが龍二さんからですね、
車で20分ほど若松の方に戻っていただきます。
そこにあるのが鴻座寺城跡というものです。
ここに来てお城の跡なんですね。
鴻座寺城、これはほとんどの人は名前も聞いたことないんじゃないかと思います。
神の指札、指ですね。
城の跡、鴻座寺城というものなんですね。
これ何かと言いますと、
上杉陰数、さっきからチラチラ出てきてますよね。
我々は前のポッドキャストでもお馴染みの人です。
が、気づこうとした幻の城の跡なんです。
あ、なるほどね。
もともとあったお城の跡ではなく、完成してないんだ。
そう、未完の城跡っていうね、
かなりマニアックで不思議な場所なんですね。
すげー、そんな場所があるんだね。
まあ、あるか。
ただ大きないろんな謎がありますよね。
まず、なぜこの城をわざわざ作ろうとしたのか。
そしてなぜ未完のまま捨てられてしまったのかっていうことなんですけど。
まず場所をちょっと見てみましょう。
今の藍津若松城との位置関係を見ていただくとですね。
鶴賀城から北西方面に移った平野。
藍津若松城をさらに越えた辺りなんですけれども。
この今は何にもないように見える田畑の中にね、
こんな城を築こうとしたって言うんですね、植えする光が。
なんでだろう。
だってもともと我望宇治里は鶴賀城を築いてるんだで、
もうある程度骨格はあったはずなんですよ。
だからそれをもともと使うのが当たり前じゃないですか。
けど手間をかけてもね、
なんでこんな今田んぼしかないところにね、
これを作ろうとしたのかっていうことなんですね。
えー、全然わからんの。
ただじゃあ、あえてこの場所を選ぶ理由としたら、
何がありますか?
このいま高座朱城跡の周りにあるものって。
赤川ですね。
はい。
やはりこれなんです。
もう植え過ぎ影勝があえてここに築こうとした理由があるとすれば、
もうこの川以外はあり得ないと思うんですね。
つまり、これはいろんな研究の成果にもよるんですけれども、
影勝はね、どうも鶴賀城に入ったはいいけれども、
周りがぼんちなのを見て嘆いたって言うんですね。
つまり、いま我望のおかげで一般の城は建っているけれども、
これなら自分が思うほどの大きな広がりの町にはならないというふうに言ったって言うんですよね。
あー、だから発展していっても山に阻まれてしまうと。
そうそうそう。
それよりもむしろもっと広い広くなっち、
そして経済発展を見込むための場所に城はあるべきだ。
新しい城ってのはそういうものなんだっていうことを考えたって言うんですね。
うーん。
そうか、それで川なのね。
そしてこの阿賀川というのはさっき言ったとおりどこに繋がっているかというと、
新潟まで続いて日本海に注いでるわけですね。
越後の国なんですよ。
つまり上杉影勝はもともとふるさとですから、この越後というのがね。
上杉家というものはそもそもね。
こことの接続もかなり意識したんじゃないかと思います。
なるほどね。
つまり不本意のある形で上杉はあいつに移動させてしまったんですけど、
この後ね、実は関ヶ原の戦いの時とかも実は起こってるんですけど、
上杉と直江はね、どうもやっぱり越後を狙っていたっていう感があるんですね、僕ね。
どうもその間接的な証拠を見ると。
何かことがあればね、いつでも越後に押し出そうとしたんじゃないかっていう気がするんです。
越後の人たちも上杉の方がやっぱりシンパシー感じてて、
その後に堀って代名が越後に入ってるんですけど、
なんかやっぱり上杉に比べるとスケールが全然ちっちゃいんですよ。
だから実際にね、この後堀に対する反論とかも続発してるんですね。
これがやっぱ直江が裏でやってたんじゃないかと思うんですけど。
ていうことと、あとはそもそもやっぱり経済発展のことを考えると、
この川、大河が流れているので、ここにいろいろ物流倉庫みたいなのを大量に置けば、
ここから日本海にすぐに流れていって、文化の満ちたのできてくる。
こういったものを目指したんじゃないかっていうんです。
そうだね。
わざわざ鶴賀城があるのに、こんな近い場所に移すっていうのはそうかもしれないね。
そのためにこの巨大な上杉領海で10万人とか集めて、これを急ピッチで作り始めたんですよ。
ところがね、なんでそれが完成しなかったのかってことなんですけど、
これね、鴻座市場を作っていることが、軍備を整えてるっていうふうに言われたんですね。
なんで勝手に合図に戻って軍備を整え始めてるの、あなた。
なんか反乱って起こす気なの?
越後になんか攻めようとしてるなんて、もしかしてっていうふうに言ってきたのが鶴賀城なんですね。
で、それに対して直江金次が叩きつけたのが直江城だったんですよ。
鴻座市場はあくまでも軍備、てか軍備を整えるのは武士として当たり前だから、
何気抜けたことを言ってるの、あなたっていうふうに言ったんですよ。
裏切られすぎてどうかしたったのかと言って、まあそれは言ってませんけれども。
っていう喧嘩越しで言ったんですね。
でも許せないと。
こんな鴻座市場みたいな物騒なもの作ってるし、
なんかよくわかんないって手紙を送りつけてくるって言うんで、もう上杉は許せないって言って、合図戦略をやります。
っていうのがこの鴻座市場なんです。
つまりこの城っていうのがもはや廃墟になってるんですけど、
これが関ヶ原の戦いで本当の原因の一つなんです。
え〜。
え〜、それ教科書とかには載ってないんだね。
載ってないです。
はい。
へ〜。
実際この鴻座市場だと、今何もないと言えば何もないんですけど、
行っていただくと看板とかあるんですけどね。
阿賀の川、これ新潟に行くと阿賀の川って言うんですね。
阿賀川というのは。
阿賀川の水流が今でもこの見ての通り目の前にありますので、
とうとうと水が流れていく。
これを見るとやっぱり狩猟活の人というのはもう当たり前のように見えてくるわけですね。
そうするとやっぱり物騒なものとして捉えるんであれば、
防衛機能としては鶴賀城の方が優れていたと思いますけれども、
やっぱりウェスリーは新しい帝国をここに築こうとした。
そのためにこの川というものを生かすってしかない。
そして何かあれば越後を狙おうと思ったと僕は思うんですね。
う〜ん、そうね。
そういう色々な目論みがはまる場所なんだね。
そうなんです。
そしてこれは一説によればなんですけれども、
この鴻座市場がもし完成していたら、
なんと今残っている広寿の遺跡みたいなのから推測するに、
なんと鶴賀城の2倍の規模を誇る偶然の巨城が生まれるはずだったそうなんです。
へえ〜。
だからそれをやるためにそれだけたくさんの人を集めたんだね。
そういうことです。
鶴賀城っていう今で見ても巨大な城郭なのに、
これの2倍の規模の城をこの田んぼの中で作ろうとしたっていうのが。
すごいことを考えてたんだね。
そこまでこだわった理由ってのはやっぱりただではないと思うんですよ。
っていう幻の城があるんです。
ただこれが歴史を変えた幻の城って非常に数奇の運命をたどった城なんですね。
ていうのがだから、
もしかしたらこの鴻座市場が完成していたら、
今の藍沢框の街っていうのは全く違う光景だったかもしれない。
ああそうかもね。
そこから来るまで20分ほど、光座寺城跡ですね。
上杉景勝が鶴賀城から移そうとした幻の城の跡ですね。
ここを拠点に、どんどんどんどん藍津の勢力を強めていこうとしていたんじゃないかという幻の城の跡ですね。
そこから来るまで15分ほど、藍津若松駅に戻りまして、
車を返却しご自宅へということで、このコースが終了というわけですね。
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いやー、前日は割と幕末を中心に歴史を見てきたわけですけど、
この2日目はそれよりもっと前。
平安とか奈良時代とか、もっとその前にまで遡って、この合図の歴史を見てきたわけですね。
なんか不思議な縁があるというかね。
いろいろと条件が良かったんだなっていう感じがしますね。
それに見せられていろんな人がいろんな構想を立てていって、
けどなんかそれが達成されなかったっていうのが続いていたんだなっていうのがわかりましたね。
タイトルの話で言いますと、今回は演奏、これ演っていうのは日本演の演ですよね。
で、相手の愛で演奏の合図、原始と創造の史跡巡りとさせてもらったんですけど、
この演奏っていうのは仏教用語なんですね。
つまり悟りの境地みたいな意味なんですよ。
丸っていう尖りがない、すべてを収める、
これ前週のやつなので今回のお寺とはちょっと関係ないんですけども、の合図。
で、原始と創造の史跡巡りっていう割とストレートの話なんですけど、
演奏というのはつまり縁なんですけど、
今回のコースをね、実はGoogleマップやっぱりこれ見ながらコース聞いてほしいんですけども、
初日は若松の城下町を縁みたいに回ったんです。
で、それが内堀りだとしたら、
2日目はその合図盆地っていうものを縁のように回っていくと、
また別の姿が見えてくるって二重の縁を描いたように回っていったつもりなので、
これでちょっと仏教の話をかけてみたと。
あとは原始と創造の史跡巡りっていうのは、
まあそういうわけでもうね、今回幻の城とかさ、
寺の跡っていう創造を働かせるしかないようなね、
頭の中のお遊びみたいな要素も結構入っているんですけど、
一方でこの原始というのはね、百個体の悲劇でもあるわけですよね。
つまり彼らはもしかしたらその若松の落城を誤認してしまった、
幻として見てしまったっていうのが悲劇だったかもしれないというのもかけてですね、
藍津若松というものを巡る非常にミステニアスな何かね、
この原始の系譜と言いますか、
こういったものが我々の今に何をもたらすのか。
こういうちょっとなので、
みんなで楽しむというよりも大人がじっくりね、
歴史的に大人が考えるためのコースになってくれてればいいかなと。
そういったときに、1日割とスタンダードのとこ回ってるんですけど、
2日目のほうに行っておくと、
幻の北の仏教都市、北の都となり得たかもしれなかった藍津若松の姿というのがね、
おぼろげながら地図に重ね合わされてくるんじゃないかな、というのがポイントになるかなと思います。
なんかだいぶ渋い2日目ですね、これ。
かなりこれは歴史収束というか、かなり渋いですね。
これはまあ大人のデートとか言ってたけど、
これなかなかちょっとハードかもしれないですね。
これに付き合ってくれるのはなかなかいいですね。
これを回れる2人はだいぶ強い絆ですね。
僕、現にエニチジとかね、鳥取観音はちょっと何人か行ったんですけど、
だいたい1人で行ってますので。
神戸市場はね、岡野にもついてきてもらったんですよね。
岡野もだいぶ歴史が好きだからね。
かなり知的創造を楽しむね、歴史収束のためのコースというふうになりました。
ということで、次回は雑談会をお届けしたいと思います。
ということで、今回はこの辺で。
ありがとうございました。
ありがとうございました。