こんなんですよ。
手が定規1個分。
これがね、津餃子なんですね。
の揚げ餃子。
やることが津餃子の条件。
ボリューミーだね。
これどうしてこの餃子が生まれたかってわかりますかね。
ボリューミーというのがですね、とある理由なんですね。
実は発祥がちょっと特殊なんです、このグルメはかなり。
その津の歴史とかの、そこら辺のイメージではなくて。
でもね、あんまりそこは考えなくてもいいかもしれません。
むしろ揚げ餃子1個で、中に当然お肉もあって野菜もあってってあるわけですけれども、
栄養価が高いじゃないですか、餃子ってそもそもね。
完全食っていうセットもありますしね。
そうですそうです。
それをこのボリューミーに食べる人ってどういう人だかっていうと。
力仕事の人とか。
若者。
学生とかね。
そう、それなんです。
津餃子っていうのは給食のメニューだったんです。
これね、どうもね1980年代にこの津の市内で考案された小学校の給食のメニューだった。
それは当然やっぱり子供たちにね、栄養たっぷりの給食で満足感も与えられる。
かつ作るのも結構効率的なんですよ。
3つも4つも餃子を包むよりも1個の餃子を包んでしまえば、
給食だから皆さんに行き届かさなければならないので、
皆さん忙しいじゃないですか、給食作る調理師の方々もね。
ってなった時に1個包んじゃえば完成する餃子。
それを何個も何個も手で1個1個やってたら、
あかたら一口餃子ちっちゃいあれ大変じゃないですか。
っていうことになっちゃうので、
1個で栄養価高くてボリューミーな餃子を作ったっていうのがそもそもだったらしいんですね。
へえ、それで美食グルーメにまで行くんだ。
そう、要はそれを召し上がった津の方々が大人になっていくわけですよね。
その後20年30年となってね。
もう人気ナンバーワンの給食メニューだったそうなので、
ご当地グルメになるんじゃねっていうことで、
2008年とある津のお祭りでですね、
この津餃子を販売してみた。
ところ2日間で何か400個以上売れたっていうね、すごい記録を受立して、
これやっぱり津の方々は懐かしいあの給食のメニューだっていうのはもちろんよかったでしょうし、
県外からね、来た方であってもすごいなっていうふうにね。
目を引く感じだよね。
そうですそうです。
っていうのがきっかけで、これはやっぱ津の誇るべきグルメなんだっていうことが分かり、
それ以来ね、津もしっかりとねブランディングをしていってると。
えーでもなんかその発祥だったら全国にありそうなもんだけどね。
そうなんですよ。
まあもしかしたら津餃子に似たものはあったのかもしれないけれども、
それをちゃんとご当地グルメとしてやろうって目をつけたところが、
先駆の目があったというところかもしれませんね。
でもまあそういう餃子だって俺食った覚えないもん、給食で。
僕もないですね。
不思議だね、そこでなんで生まれたんだろうっていうのがちょっと気になるけどね。
確かにこれ気になりますね。
もしかしたらなんかだから、どうなんだろうね、ちょっと僕もここまでは正直分からないんですけれども。
でもやっぱり調理したの手作りだったそういう人なんですね。
まあでもそうね、手間を考えるとね、大きい一個の方が楽だよね。
そういうことですね。
それでね、ブランディングをしていく中で、
寿司の方もね、市内の飲食店に是非この津餃子をどんどんオリジナル作ってほしいということでですね、
寿司内はね、津餃子を食べられるお店というのがたくさんあるんですね。
ラーメン屋さんに行ってももちろんありますし。
今回はちょっとこの後にね、そのドライブを続けなきゃいけないということもありますので、
まずこの道の駅でね、津餃子をいただこうと思うわけですね。
特にただね、この道の駅津川上さんについては、
津餃子をさらに進化させてまして、これですね。
これはパンで挟んでるんですか?これは。
そうです。
津餃子ドッグというね、お惣菜パンがあるんですね。
なんかもうどんどんボリューミーに進んでる感じだね。
代わり小麦で包むという、なかなかすごいボリューミーなものなんですけど、
まあ美味しいんですね、これ非常に。
まあそうだね。
絶対こう皮がパリッとしてるだろうしね。
で、まあホットドッグみたいな量ですので、
ドライブとかの途中にもね、手軽に食べられるということもありますし、
手握りはもちろんできますので。
で、やっぱりそのパリパリっとした揚げ餃子と、
ふわっとしたねパンのね、これの単位比もすごく面白くてですね。
それで言ってやっぱり具はね、ボリューミーなのにしっかり詰まってますので、
ちょっとまあその津のね、あーとか三重の伊勢島のね、
グルメ旅の入り口としてね、こちらちょっとでご提案したという次第ですね。
いいですね、意外なB級グルメというか、知らなかったわ。
そうですね。
というのがこの道の駅2川上さんでした。
で、こっからですね、どんどんどんどん島の国の方、
もう一番最南部の方にガンガン進みます。
とにかく1日目行くところまで行っちゃいます。
で、向かうのがですね、
道の駅2川上さんから車で1時間半ほど、
ちょっと長距離ドライブになりますが、
もう本当に三重県のね、一番南の方にありますが、
カツオの天白というね、工場なんですねこれね、に行きたいと思います。
これがですね、カツオの天白というのはその名の通りなんですけれども、
もう本当に古からカツオ節を作っている会社であり工場なんですね。
実はですね、曜日限定なので結構日にちが限定されちゃうんですけれども、
事前予約をすることで、この実際のイブシ小屋を見学できるんですね。
カツオ節を作っている現場をね、見学させてもらえることができるんです。
これがね、非常に興味深いんですよ。
確かにね、普通見れないというか。
見られないと思いますこれ。
言われたら気になる。
そもそもね、このカツオの天白さんとね、伊勢志摩のね、カツオのことなんですけれども、
このカツオの天白さんがあるのは、波に切る節団の節と書いて、
ナキリというね地域なんですね。
あ、地域の名前なんだ。
これ地名です、ナキリ。
このナキリというのはただね、非常にね古い地名でして、
奈良時代の木管、木管というのは要は昔の紙代わりに使っていたものです。
そこにナキリという地名が既にあるんですよ。
ナキリの地はどういうところなんだっていうと、
同時に書いてあったのが、カタウゴって書いてあったんですね。
カタイ魚。
と書いてあるのが、島の国ナキリから届くということが書いてあるんですって。
このカタウゴって何だっていう話なんですけれども、
これカツオというのがね、そもそも魚へんにカタイと書きますが、
カタウゴというのはおそらく、これがカツオブシのことなんじゃないかな。
まあね、あんな固い魚ないよね。
そうそう。
カツオブシってね、我々が口に入れるときもふわふわになって、
苔になっている固いブシをね、削ってね、それでかけるわけですけれども、
そもそもこれ保存食なわけですよね、つまり。
当然カツオ生魚なんですが、それをいぶして、香りをつけて風味を閉じ込めて、
固形にしてカチカチにして、それを遠くまで運んで、
それを再度削ってやることで出汁を取るみたいな。
これをやっぱり奈良時代の時からすでにやってたと。
そんなに長いんだね。
このナキリブシというものがあったわけですね。
だからやっぱりこれ三毛作りのね、三毛作りに至るゆえんですよね。
ここで生産した、作ったカツオブシを都に献上していたんだろうと。
というのがすでに奈良時代の記録に残っている。
というぐらい非常に歴史の古いカツオブシになるわけですね。
このカツオの天白さんにおいては、手火山製法、手の火の山と書いて、
手火山製法という、つまりカツオの生魚の状態を見極めて、
その油の乗り具合とか、鮮度とかを見極めて、
絶妙にこう手動で持って火の入れ加減を変えて、いぶしていくっていう、
本当に昔ながら、江戸時代から続いているような伝統製法を今も継承している、
すごい貴重な工房なんですね。
それだけにカツオにおけるオーダーメイドみたいになりますから、
それぞれの状態に応じてなので、最高品質のカツオを今も作っていらっしゃる。
というのがこのカツオの天白さんになります。
ここは見学をメインで行く感じですかね。
そうですね。
見学をすると、昔ながらのいぶし小屋、
煙がもももと風味とともにやっているいぶし小屋を間近で見学させていただいて、
真珠というのはつまりその貝、アコヤガイとかの貝ですけども、そういった貝の中で本来は自然発生的にできる石と言いますかね、玉みたいなもので、三木本広吉さんがやるまでの天然の真珠の場合は、これ三木本さんのホームページの中で書いてあることを言うと、1000個の中に1個あるかないか。
まあでもそうだよね。実際取って開けてみないとあるかどうかわかんないしね。
そうそうそう。宝探しですよ、もはやこんなので。だからこそみんなすごいってね、真珠っていうのは豪華なものとしてね。
希少ってことだよね。
輝いてますしね。というのがね、そもそもの真珠というものなんですね。
で、これをですね、この三木本広吉さん、この人はね、そもそもうどん屋さんだったんですよ。
えっ?
そう。全然違うんです、この人。
とばにあるね、うどん屋さんなんです、この人。
えっ?でも実家が?
うん。この人はうどん屋さんに生まれてるんですね。
ああはいはいはい。
そうなんですよ。
ええ、そこからどうやっていくんだ?
うん。96年なのでね、これもちょっとまたいろいろ話していくときがないんですけども、
お父さんもね、かなりね、うどん屋さんの商売ももちろんやってるんだけど、それ以上にこう、新しい事業みたいのをやろうとした、結構やり手の人だったようで、
そういった商売の才能というのはお父さん譲りだったんじゃないかと僕は思うんですけども、
ただね、やっぱり三木本幸吉さん自身もですね、うどん屋ではなくて、三重には大量に良い食材がありますから、
それをどんどん売り込んで、要は食料というもので事業を拡大しようという風なのがそもそもだったんですね。
ただ、この時ってちょうど明治維新があって、海外との攻撃というのが日本全国で盛んになり始めている。
それが自由化されていくわけですよね、結局ね。
で、そうなった時に世界の、特にイギリスとかフランスとかヨーロッパの方では、
その真珠っていうのがいかに価値のあるものか、王公貴族がつけるような宝石としてすごい価値がある。
で、大金をみんな与えてまでそれを海の果てから取ってこようとしている。
っていうぐらいの価値だということを、その時この三木本幸吉さんも知るんですね。
世界のいろんな人から話を聞いて。
で、そういう時に自分の住んでいるこの島の地域にはそういえば真珠はある。
要は千個、二個かもしれないけれども、その貝はそもそも住んでいるから、
自分のところでも何かうまくやれば、っていうところで研究を始めたらしいんですよ。
だから、はっきり言えば純粋にお金になると見たっていうのは間違いないんですけれども、
そっからの苦労がすごかった。
まずどうやって真珠ができてるのかを知らないといけないもんね。
そういうことなんです。
そもそもこのアコヤガイという貝自体がかなり絶滅の危機に瀕していたほどの、
やっぱりみんな真珠が欲しいので、
とにかくとにかくって。