1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #88【会津】幻視と想像の史跡..
2025-03-03 1:17:18

#88【会津】幻視と想像の史跡めぐりPart1

円相の会津 幻視と想像の史跡めぐり1日目

蒼然たる山嶺と深い雪道に囲まれた会津。この盆地に育まれた歴史は、多くの悲話を伴いながら深々と語り継がれてきました。一方、時代が下るにつれて科学的な解像度は高まり、“継承の系譜”は転換点を迎えようとしています。今回はそれらの歴史を慎重に分析、想像しつつ盆地を一周します。

【目次】

〜 最近ひげ剃りを代えまして……

〜 コーステーマの発表

〜 福島県と会津をおさらい

〜 ここだけの味!? 元祖煮込みソースカツ丼 【なかじま】

〜 DJブース併設の異色の酒屋で地酒ショッピング 【植木屋商店】

〜 5層の天守が聳える会津のシンボル 【鶴ヶ城】

〜 ★歴オタ話★ 会津藩の運命を定めた“家訓”と“覚悟”

〜 ★さらに歴オタ話★ 幕末の会津藩と会津戦争の悲劇

〜 豪壮な武家屋敷の中で会津の歴史と文化を体感 【会津武家屋敷】

〜 白虎隊の悲話を伝える私設資料館 【白虎隊記念館】

〜 ★歴オタ話★ 白虎隊自刃の“真説”は何か? 唯一の生き残りの証言をもとに

〜 世界唯一の二重螺旋木造建築 【さざえ堂】

〜 白虎隊と飯沼貞吉の心情を偲んで 【白虎隊十九士の墓】

〜 会津の奥座敷の名旅館 湯めぐり・馬刺し・地酒を堪能 【くつろぎ宿 千代滝】

〜 1日の振り返り

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音楽:BGMer(⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠http://bgmer.net)

サマリー

今回のエピソードでは、福島県の会津を舞台に、歴史と文化、そして美味しいグルメを楽しむ大人向けの旅が紹介されています。会津若松市の魅力や交通手段、名物のソースカツ丼に関する詳細が語られ、特に煮込みソースカツ丼が名物であることが示されています。また、藩地方の歴史ある酒屋である植木屋商店のユニークな特徴や、音楽と酒の融合についても触れています。エピソードでは、鶴賀城の歴史とその重要性が語られ、藩主の我毛宇治里と上杉謙信との関連について深く掘り下げられています。さらに、藩の支配と政権の変遷、幕末の藩の役割についても言及されています。会津の歴史、特に藩政時代の重要な出来事に焦点を当て、藩とその戦争、白虎隊の悲劇、藩士たちの日常生活や文化についての魅力的な考察が展開されています。会津の白虎隊の悲劇やその真相、歴史の深掘りが行われ、飯森山にあるサザエ堂の独特な構造や由来についても考察されています。会津地方の歴史や名所を巡る旅が描かれ、白虎隊の悲劇や観光名所である鶴賀城、合図武家屋敷の魅力が語られています。また、おすすめの宿泊施設や地元の食材を使った料理についても触れられています。会津の歴史と文化を探訪するプログラムが紹介され、百戸隊記念館や笹江堂、飯森山百戸隊史墓所など重要な史跡が説明されています。加えて、合図の幻視と想像の史跡の旅についても言及されています。

大人向けの旅行プラン
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな同級生2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介していきます。旅のお供はこの2人。
旅が生き甲斐な旅行ガイドブックの編集者、はるやです。 ディープな旅がしたいけど知識がない旅行初心者、内田です。
最近、髭剃り変えまして。 急にまた。
俺、今までTGを使ってたんですよ。 手でね、髪剃りで剃ってたんですけど、電動をね、一緒にしたんだね。
まぁちょっとね、慣れないね。 そうでしょうね。なかなか勝手が違うでしょ。
あれいつかな、中学生とか高校生ぐらいの時に初めて髭剃り買ってもらって、その時は電動だったんですけど、大学ぐらいだったかな、にそのTGの試強品みたいなのがね、家に届いて、そっからずっと俺TG使ってたんですよ。
あれね、歯変えれば無限に使えるから、ずっと使ってたんですけど、やっぱちょっと切れるんですよ、腹が。 なるほどね。
それでね、割と肌がニキビとかできたりとかしてたんで、ちょっとまぁ、そろそろ肌も綺麗にしたいなっていうのがあって、電動にし始めて、ちょっと今慣れている途中というかね。
でもそこで逆にこう切れたりとかしないんですか? 今のところね、そんなヒリヒリしたりとかもしてなくて、まぁこのままやってればちょっと綺麗になったりするかなーっていう期待をしてると思うんですね。
確かにね、結構割れますもんね、歯抜がね、どっち歯っていうのはね結構。 っていうのはまぁ、どうでもいいっすね。
さて、今回からまた新しいコースということで、早速ね、今回からのコースのタイトルは何でしょうか?
今回のコースのタイトルは演奏の合図、原始と創造の史跡巡りです。
合図ね、福島県ってことですね。 そうですね。
合図ね、我々行ったことあるんですよね。 行きましたね。
めちゃめちゃ雪だったね。 そう、忘れもしない旅行ですよ、あれはちょっと衝撃でしたね、いろいろね。
すごい雪だったからね。 夜ね、温泉とか入りましたけど、露天入ってるとね、もう髪がパリパリになってる。
氷結するっていう、まさかの事態。
あと何したっけ、あんこ鍋とか食べたんですよね。
そう、あれはね、我々二泊したんですよね。
相州若松に一泊して、翌日晩一再戦、東戦っていう風に経由して、いわきまで行ったんですよね。
いわきでだからあんこ鍋いただきましたからね。 あれは相州ではなかったのか。
っていうね、だからもう俺は相州はもうほんと雪の印象がめちゃめちゃ強いですよね。
何年かに一度っていう豪雪の日に行っちゃったんですよね、間違えてね。
あれひどかったもんね。
だからあんまり観光的な思い出っていうのはあんまりないかもしれないですね、もしかしたらね。
逆に雪景色を楽しめたのはあったけどね。
それはありましたね。
あれ当時小野は北海道に行ったんですよね、大学生だったからね。
で、小野はあれはどこから来たんだっけ?
戸間古前から仙台まで船で来たんだと思う。
船で来たんですよね。
でも大嵐の日で大しけだったらしくてね、船の最中ずっと横たわってたらしいですね。
それでそこまでして船で来るっていうのはよっぽど船好きなんだねっていうふうにタクシーの人に言われて、
それが我々の後でパワーワードで船好きの小野みたいな。
もしかして船好きですかっていう。
断ることにいじってますけど、そんな印象がすごくある合図なんですが。
それの史跡を巡ると。
そうですね。今回は渋いと言ってあれなんですけれども、結構大人向けの歴史好きの方にね。
この間の淡路島がわりと爽やかな若者向けみたいな感じだとしたら、
こっちはわりと大人向けの大人のデートっていうしっぽりと系かもしれないですね。
一人旅でも全然いいんですけど、実は我々も行った温泉にも後で行こうと思っているので、
そうすると一人よりも二人とか少人数とかなので、
大人のご夫婦とかそういった形でもいいかもしれませんね。
いいね。コントラストがついていいですね。
ちょっと触れ幅を地域的にも定番に持たせながら。
楽しみですね。
じゃあ早速1日目よろしくお願いします。
福島県の地域性
ということで合図もそうなんですけれども、
そもそも福島県というもの自体が今回出てくるのがこのポッドキャストで初めてだと思うんですね。
福島県というとどうでしょうかね。
これなかなか難しい質問かもしれません。
そうね。
でももう今は福島って聞くとやっぱり地震の影響がイメージはあるかね。
多分もうだいぶ復興はされてるんだと思うんですけど。
あとはなんですかね。
だからやっぱり行ったのも含めると、
あんこは印象強いですし。
桃とかかな。
ああ有名ですね桃ね。
赤べこもその時買ったんだったかな。
うち玄関に置いてるんですよ赤べこ。
当時買ったやつを。
赤べこの間のまさに合図の共同玩具になりますけど。
なぜ福島がどうかと言われた時に皆さんが困るかというと、
福島県って広すぎて、
そもそも全然地域性が違うんですね。
場所によって。
これ基本的な話で言うと、
だいたい福島は3つに分かれると言われています。
一番東側浜通りと言われていて、
これがいわきですよね。
いわきとか相馬とかの辺りなんですけども、
海沿いですね。
あとは中通りと呼ばれている、
場所で言うと郡山とか、
あるいは県庁所在地の福島市とかもこの辺に位置するんですけれども、
その間に浜通りからちょっと入った山のあたり、
東北新幹線が通っているのがこの中通りですね。
そして一番西が藍津なんですね。
この浜通り、中通り、藍津でだいたい分かれる。
というのが一般的な地域分になって、
それぞれで全然歴史も違うし、自然条件も違うので、
おそらく福島県というふうにくくること自体がまず無理があるという気がするんですよ。
なので今回もあくまで藍津だけの話をしたいと思います。
始めに言っておくと今回は一泊です。
藍津・若松市を中心に、
藍津・盆地をめぐる一泊のコースになりますので、
割とお手軽な感じで話をできたらなというふうに思います。
やっぱり全部を行こうとするのは無理なんですね。
福島を全部200日とかは。
大変だろうね。
地域ごとで200ずつぐらいにしないと、
ちょっと魅力も損なわれてしまうと思います。
そういったイメージでいただければいいかなと思います。
藍津若松のグルメ
じゃあ藍津というとどうですか?
今言った雪の話がやっぱり主になりますかね。
そうだね。
街並みがすごく素敵だった印象はあるんですよね。
屋敷が並んでたりとかして、
昔の情緒が残ってるような感じだった印象はありますね。
そうですよね。
日本史的に言うと藍津というのは、
特に幕末において必ず出てくる存在で、
歴史好きの人で知らない人はいないと思います。
これはやはり藍津藩という藩があって、
これは幕末で最後の最後まで幕府側について、
そのせいで五十年戦争の時には、
藍津戦争というかなり大規模な戦争が起こってしまって、
藍津の街は非常な被害を受けたっていう、
ちょっとそういった悲しい歴史もあるんですけれども、
とはやっぱり城下町としての骨格と凛とした佇まいとプライド、
この辺りってのはやっぱり若松の街にも今すごく流れ継がれているものと思いますので、
そういったのは実際現地に行っていただくとよくわかると思います。
ただ一方でね、やっぱりグルメもすごく美味しかったりしますので、
そういったのを含めてね、
やっぱり藍津というものの文化をね、
しっぽりゆっくり味わうという大人な旅をしたいなというふうに気がしますね。
ということで旅の出発点ですけれども、
今回は藍津若松駅に設定をしました。
藍津若松駅はですね、JRの万越再線というものが通っていて、
これね、良いことかというと地図見てもらった方がいいかな。
これ我々も同じルートで行ってるんですけれども、
仮に東京から行こうとしたらどうすればいいのかということなんですが、
電車で行こうとした場合は、東京駅から東北新幹線に乗っていただいて、
郡山という駅まで行っていただきます。
これ福島県中通りの中心都市ですね。
ここに行っていただくと、この郡山という駅が、
いわば浜通りのいわきの方面に行く万越東線というものと、
藍津の方へ行く万越再線というのが分岐点になっているんですね。
なので、この郡山にまず着いていただいて、
西に行く万越再線に乗り換えていただく。
そうすると稲葉城湖という有名な湖がありますけれども、
これの北をへめぐるような形で若松の方に入っていきます。
だいたい1時間ちょいかかるかな、もっとかかるかな。
結構ゆったりとしたローカルな旅でね、行っていただければと思います。
我々もこのルートで行ってね、結構お酒なんかもこの段階から飲んでいることはありますけれども。
そんな感じです。
ただ一方でね、僕実は藍沢貨松には4回か5回行ってるんですけれども、
電車で行ったらあの1回きりです。
実はその後に岡野とも一緒に行ってるんですけれども、
ドライブで行ってるんですよ。
これ結構ね、ロングドライブになると思われがちで、
実際そうなんですけど、
途中途中でね、パーキングアイテムとか挟んでいくと、
だいたい朝出たらちょうど昼過ぎくらいに着くって、
程よい距離感でね、ずっと高速道路で行けるのでね。
そんなもんなんだね。
ちょっとそれは道路状況にもちろんよるし、
昼過ぎっていうのも2時とか3時に多分なっちゃうと思うんですけど、
そんなに実は無理ではない。
ドライブが得意な方はそれで行くのも全然いいと思いますし、
その後会社同期でも何人かで行ったんですけど、
それも東京からみんなで車で行きました。
だったりするのでね、その度に使い分けていただければいいかなと思います。
ただ新幹線が一応一般的かなと思うので、今回は駅に設定をしました。
ということで万越再生の藍洲若松駅に、
11時半頃に着いたとしましょう。
今回これ非常に迷ったんですけれども、
1日目は実は若松の城下町を基本回るので、
バス、ハイカラさんとかっていうバスが我々も使ったんですけど、
周遊バスみたいなのが通ってて、
これを使えばだいたい行けるんですけれども、
ちょっと時間がやや足りないなというのと、
2日目に結構郊外まで行くので、
ちょっと最初から車を借りちゃいたいと思います。
ただ藍洲若松はそういうわけで結構交通も発達していますので、
ちょっと車の運転はなとか、お酒飲みたいなとか、
あと若松の城下町だけでいいやっていう方は、
バスを最初から使っていただいていいと思っています。
ただ今回はなんかレンタカーを借りたとしましょう。
若松駅も全然いろいろありますので、ここは迷わなくて大丈夫です。
車で城下町の方、南側の方に6分ほど行っていただいたところに、
中島さんという食堂があるんですね。
いただくのがですね、元祖煮込みソースカツ丼というものになります。
ソースカツ丼はあるんですね。
福井でも出てきましたね。
福井のヨーロッパ県さんで紹介もしましたけれども、
あのヨーロッパ県さんのソースカツ丼どんなのか覚えてますか?
あれは揚げたとんかつをソースにくぐらすというかね、
かけるのかなっていうソースカツ丼でしたよね。
これ煮込みって書いてるね。
そうなんです。
あの時のソースカツ丼で一番特徴的なのは、
我々がイメージしているカツ丼と一番違うのは、
卵とじじゃなかったっていうことが一つ大きなポイントだったの覚えてますかね。
これねところがね、こちらの中島さんのソースカツ丼見ていただくとですね、
これね卵とじになってるんですね。
本当だ。
閉じた上でソースをかけてるってこと?
はい。
ソースカツ丼の魅力
謎が多いと思うんですね。
本当これ何なんだって話なんですけれども、
結論を言ってしまうと、
ソース味の卵とじを作ってその上をかけるっていうね、
新しいタイプのカツ丼なんですね。
ちょっと想像つかないね。
普通に卵とじってやっぱり和風だしとかを使ってね、
カツ丼とかそういった昆布だしとかそういうもので作ると思うんですけれども、
ソースだしの卵とじを作るっていう逆転の発想というかなんていうか。
不思議。
ただねこれがね、なんかねありそうでなかったもので絶妙に美味しいんですよ。
うまいだろうなって感じはするけど、
でもなんとなく取り合わせのイメージがあんまり結びつかない感じがあるな。
ただねやっぱり実際食べていただくと、
どっちかっていうとやっぱりだから越前のね、
福井のヨーロッパ県さんよりも割と我々のイメージしてるカツ丼に近いんですよ。
ただやっぱり卵の旨味がね、
ちょっと酸味を伴ってカツに染み込んでいるので、
すごくお肉にまで味が到達しているっていう、
面白い味わいがします非常に。
でも美味しいですよこれ。
結構僕はこれ好きなんですよね。
ちょっと食べ比べてみたいね。
そういうことですね。
食べ比べるためにキャベツソースカツ丼っていうのも別メニューであって、
これは要はヨーロッパ県さんたちとちょっと似てるパターンですよね。
卵とじじゃなくて、キャベツはついていますけれども、
いわゆるカツ丼にソースをかけてそれを丼にしているというものなので、
ちょっとその2つがね、割と看板というかね。
ただこの煮込みソースカツ丼っていう発明をしたのはこの中島さんなので、
ここが元祖と名乗ってるわけですね。
ちょっと気になる。
はい。
なので実はね、相州若松というのは1つね、
このソースカツ丼がね名物グルメなんですね。
なので実は街の中にこのソースカツ丼を出す店というのはたくさんあります。
ですが、この煮込みソースカツ丼を出すのはここだけなんですね。
なのでね、やっぱりその中でもちょっと際立った存在であるということでね、
せっかく行ったということでね、こちら食べていただければいいと思いますが、
結構普通に僕美味しいのでもっと広まってもいいなって思うんですよね。
その他のお店のソースカツ丼はソースがかかってるだけ?
どっちかというとあの福井のヨーロッパ県さんに近い感じもしますね。
じゃあここ行くならやっぱり煮込みを食べたいね。
そんな気がしますね。
あとはさっきからソースの話ばっかりしてしまってるんですけれども、
こちらね豚肉にもすごくこだわりを持っていらっしゃって、
福島県さんのブランドの豚を使っているんですけれども、
これがね麦とかタピオカで育ったっていうね、
面白い飼育方法をしているものだそうで、
そのためにね柔らかい肉質と弾力が出るのかちょっとわからないんですけど、
そういったお肉にまずこだわって染み込ませる相手先にもね、
非常にこのソースを染み込ませる相手先にもこだわってね、
作っていらっしゃるというかなりこだわりのカツ丼を食べられるお店。
創業も戦後まもなくということで、
植木屋商店の紹介
もう70年、まもなく80年弱になるわけなんですけれども、
ちょっとやっぱりそれだけ長く愛される理由はあるなという気がしますね。
タピオカがすごい気になっちゃうねこれ。
でもね結構あるらしいですよ、タピオカって割とね、
修行にするところもね。
まあ元は芋だしね。
我々がスイーツのばっかねイメージになっちゃってるからね。
なのでここでねちょっと多分朝出てくるのもこの分だと多分結構早いと思いますので、
東京からとかだと。
なので結構ヘビーだけどがっつりメニューでね、
ここで食べていただくのも全然いいんじゃないかなという気がしていますね。
ということでこの中島さんでした。
でね、実はこの中島さんがあるあたりというのが、
藍鶴若松の中心部になりまして、
鶴賀城っていうのが藍鶴若松城なんですけれども、
藍鶴若松盛期から鶴賀城までだいたい歩くとね、
20分から30分かかるんですよ。
でその間にその一番栄えている市役所とかもあるエリアなんですけれども、
このあたりが昔の城下町であり今の繁華街がね、
同じままなってるっていうので、
さっき内田が街並みの話あげてくれましたけれども、
昔のその古民家とかが今のもう繁華街にずっと残ってるっていうね、
城下町の中でも特にその風情を濃厚に残しているなっていう印象がある町ですね。
でその最たる例というのがですね、
中島さんからも本当に歩いてもすぐのところなんですけれども、
一応今回車なのでね、迷惑かかるといけないので車をまた移動させる想定でいますが、
車で1分くらいのところにあるね、植木屋商店さんです。
お酒じゃないですか?
飲んでいいのかと。
大人のデートならいいのか?
いいんです。
いいのか。
もうそのお互いの性質と分かり合ってると信じたいので、
喧嘩にはならないでしょう恐らく。
あとまあ一応真面目な話をしておくと、
今日ね温泉旅館に泊まるんですね。
ですので温泉旅館でもちろんお酒もいただけると思うんですけれども、
その後で部屋で飲むようなお酒とかを買っていただくのもアリなんじゃないかなと思うので、
寄っておきました。
ちょっと納得しましたよ。
そうですね、よかったですね。
我々よくやりますからね。
飲みもしますけどね。
ということでね、この植木屋商店、植木屋さんの植木屋なんですけれども、
なんですけどこれ酒屋さんです。
特にこのね、愛知地方って日本酒のメッカですからこの辺りは。
そうね。
本当に想像たるね、この辺を見ても見たことあるんでいっぱいあると思うんですけれどもね。
愛知地方の日本酒実酒を取り扱い販売されているお店になっています。
そういうわけで愛知には若松の街の中には結構酒屋さんっていくつもあって、
僕もここ以外のお店もいくつか行ったことあるんですけれども、
ここ特にちょっとピックアップしたいのは、
一つにはまず中島さんから近いということもあるんですけれども、
もう一つね、これね実はすごいお店でして、写真が出てこないかな。
これちょっと見てもらっていいですか。
おお、すげえ。量がすごいね。
確かにこのモニュメントとかオブジェがすごいですよね。
ちょっと異色の取り合わせ取り合わせ。
なんか酒屋っぽくないネオンとかね、使ってる植木屋っていうオブジェがありますけれども。
ちょっと不思議ですよねこれね。
壁を見ていただくとまずこの酒の量にね、酒瓶の量に圧倒されますよね。
すごいわ。
ずーっと日本酒の瓶が並んでいて、冷蔵ケースも右側にありますので、
なんですけど中になんか不思議なエキセントリックなオブジェがあると。
あとこちらの写真ちょっと見ていただきましょうか。
え、なに?DJしてるよ。
どゆこと?
ここのお店ちょっと面白くてですね。
こちらのすごいキメてらっしゃいご当主なんですけれども。
あ、ご当主なんですね。
なんとね、この方ね、もともと渋谷でDJをやってた方なんですね。
お店にDJブースがあるの?
そうなんです。酒屋の中にDJブースがあるっていうすごい店なんですよ。
結構笑えますこれちょっと。
ちょっと真面目な話も一応しておくとですね。
この植木屋商店さんちょっとこのエキセントリックなのが目立つかもしれないんですけど。
なんとね、創業は1694年あるいは1805年。
このあたりはもうちょっとわからないそうなんですけれども。
少なくともこの植木屋商店さんは現当主で18代目。
ご先祖は藍津藩に仕えた庭師だったんじゃないかというふうなお話なんですね。
なので野郷が植木屋さんになったんだと。
普通に考えて酒屋さんでなんで植木屋なんだって話になりますからね。
どうもこの若松の今回行かないんですけど有名なお庭があるんですが。
そこのお庭の設計に携わったんじゃないかみたいな痕跡もあるらしくて。
ご先祖は庭師植木屋さんだったというふうに思われると。
ただどこかのタイミングでこの酒屋さんに転換して今この酒屋さんとしてずっと続いていらっしゃるというすごい歴史あるお店なんですね。
だからさっきちょっと画像に出てきましたけど。
外観を見ていただくともう本当に江戸時代の昭和がそのままタイムスリップしてきたかのような。
音楽と酒の融合
この野郷の土管という看板がすごいですよね。
貫禄があってね。
迫力あるね。
ありますよね。
こういうのが当たり前のように中心半壁にあるっていうのがやっぱ若松の凄みだなとは思いますね。
ところがそういうわけでこちらの今のご当主なんですけれども。
こちらのお家のご出身なんですけれども。
大学のときなのかな。ちょっとこれ分かんないですけど上京されて渋谷でDJをやっていた。
音楽がすごい好きだそうなんですね。
そのDJをやっていた後にご実家の方に戻られてこのお家を継がれたそうなんですけれども。
そこでただやっぱり東京にいらっしゃった時代にね。
すごい集めたレコードとかもありましたので。
それを置いておくの忍びないということで店内にDJブースを作り。
先ほどのライブをやっているような不思議なクラブみたいな名本を作って。
実際にその集められたね。
ジャズとかレゲエとかのレコードがずらーってどっちが多いんだろうってぐらい並んでるわけなんですね。
裏手の方にはね。
さっきの写真にもすごい量のレコードありますよ。
実際にこのDJブースとかね。
もちろんお仕事がありますのでDJされてない時でもこういったレコードがBGMで流っていたりする。
この外観の重厚な感じとその歴史と。
この店内に入った時の音響とBGMってなんか不思議な取り合わせのお店なんですね。
面白いね。
ただねやっぱりお酒のプロフェッショナルですので大前提として。
僕らも会社の同期で行った時にここにおって。
僕らもその温泉に同じところに行ってるんですけれども。
その宅飲みは盛り上がりましたね。
こちらで美味しいお酒いただいてね。
いやいいな。
よく戻ってきたね。
本当ですよね。
だけど一層自分のオリジナルのDJブースを持てたっていう。
確かにね。
響きもいいらしいんですよ。やっぱりこの昔の蔵でね。
面白いお店。
なんかねこの辺りどうもね僕の好みなのかもしれないんですけど。
今までこのポッドジャストで紹介している酒屋さんとかって音楽にまつわるところが多いんですよね。
確かにね。
都座の西岡酒店ブルースというところもすごいアンプがかかっていたり。
音楽がすごい好きなロックだったと思うんですけどね。
もうあれば三好き区のお話も最初にさせてもらった時ありますけど。
あの方も元々音楽が好きでね。
ワイルドサイドオアルケを導入したわけですので。
なんかそういうロックな魂とか音楽の愛するソウルとね。
結構酒というものと何か相性がいいんですかね。
でも酒飲みながら音楽聴くとかって。
やっぱりね今多分誰でもやるじゃない。
だからそこら辺の相性とかいいんだろうねきっとね。
そうでしょうね。
というお店でね。
ぜひちょっとこの店主の方にももしタイミングがあればお話できると思いますので。
そういったお話聞ければいいなと思うので。
ここでねお土産なのか。
あるいは今夜のねお部屋のお酒なのかを購入いただくという植木屋商店さんでした。
そしてここからですね観光の方に入っていきますが。
鶴賀城の歴史
車で5分ほど南に行ったところにあるのが鶴賀城です。
これはね我々もね大行きながら行きましたね。
いやごめん。
雪の印象がやっぱね強いんだよ。
ちょっとあれは尋常じゃないって。
あいつの人もびっくりしてましたからね。
こんなん何年に一度って言っちゃったんで。
いやでもなんかこれでねドローンで撮ってるのがいいのかもしれないけどすごいいいですよね。
かっこいいなあ。
やっぱこれが街にあるっていうのは自慢になりますよね。
これ天守何重になってんだろうね。
これはね5層の天守ですね。
すごいいい感じの二等辺錯角形のような感じでね。
造形が綺麗ですよね非常にね。
重厚感があるね。
ということでねこの鶴賀城という城なんですけれども。
若松のねシンボルといっても過言ではないでしょう。
でこの天守閣の内部は5層になっていて。
でその中にね藍津若松の歴史だったり。
あるいは特にこの江戸時代の藍津藩というね。
藩の歴史だったり戦争の悲劇だったりというところをね。
すごいしっかりと解説をされています。
一方でその重苦しくなくて結構ビジュアルも混ぜてくださっていますので。
歴史が初心者の方。
例えば旦那さんは長歴書だけど奥さんはそんなに興味ないっていう方でもね。
全然うまく入り込めるんじゃないかなというようないいバランスのね展示になってるという気がしますね。
何よりやっぱりこの天守閣のね。
この白い面持ちとこの瓦のね。
すごい重厚感っていうのがやっぱり唯一無二だなと思いますよね。
これねいろいろ諸説はありますけれども。
今ここに立っているのは後世に復元されたものですので。
いわゆる原尊十二天宗ではありません。
が1590年代の最後の方にですね。
この鶴賀城というのを我毛宇治里という人物が築いたんですね。
これは何者かというと実は一瞬だけ出てきていて。
伊勢の国松坂を治めていたね。
戦国武将で松坂城とかを作ったのもその人。
すごく信長とか秀吉から可愛がられたね。
将来有望な若手のね。
すごいマルチな多才な武将だったんですけど。
それの期待もあってこの若松というねすごい要所を任せられた。
でこの鶴賀城を築いたんですね。
それがどうもね東日本における初めての本格的な天守閣だったとも言われています。
小田原城とかはね実は今こそ天守閣がありますけど。
江戸時代のものなんですあれは。
なのでね戦国時代の北条氏の時は天守閣が多分なかっただろうというふうに言われています。
どちらかというとやっぱり西の方からこの築城のね天守閣を築くっていうムーブが始まっているので。
この東北に入ってきてやったのはこの我毛宇治里の鶴賀城が最初だったとも言われています。
っていうわけなんですけれども。
ちょっとここでその藍津の歴史というのを簡単におさらいをしておけばいいかなというふうに思うわけですね。
藍津藩というのは関ヶ原の戦いの前にはこの我毛宇治里という人物が入っていたんですけれども。
この人はね関ヶ原の前にね若くして病気で死んでしまったんですね。
なので空白になってしまったんですよこの城をせっかく作ったんだけど。
でもこの藍津若松っていわば東北と関東を結ぶ結節点にあるような東北の玄関口であり。
上杉と藩の変遷
周り見てもらったら分かる通り盆地なんですよね。
だからすごく守りやすい城。
一つのこれもある意味独立国みたいな要素なんですけど。
古来この藍津っていうのはすっごく重要な土地だっていうのはもう明白だったんですよ。
生半可な人には任せられないと思った秀吉は誰をここに封じたか。
これ覚えてませんかね。
一瞬だけ話したことあるんですこの話。
藍津若松に封じられた人の話。
我望の後に。
いやわからん。
ヒント言うと隣から引っ越してきたんですよ。
新潟から引っ越してきたんですよ。
全然出てこないな。
新潟、越後の国の戦国大名といえば上杉ですよね。
あの上杉です。
上杉謙信の志望、上杉影勝という人物がお立ての乱を経て継いだという話はあったと思うんですね。
影勝は本能寺の変が起こらなければ滅亡してたんですけれども、変が起こったことで、
その先の豊臣秀吉の天下をいちゃいちゃ見据えて手を結んで豊臣政権と共に歩んできた。
豊臣秀吉の中では御太郎と呼ばれる徳川家康、前田利恵というレベルのその5人のうちの人に数えられるくらい信頼されてた巨大な大名になってるんです。
その上杉影勝は我望おじさとが藍津で死んだ後、越後からの国が命じられて、藍津若松と山形県の一部を治める大名として若松に入ってきました。
なるほど。そうか、そうなったか。
そうなんですね。
ここで上杉が治めてやるんですけれども、その直後に関ヶ原の戦いが起こってしまって、上杉はそもそも関ヶ原の戦いを起こした張本人の一人だって話を覚えていますかね。
過労の直江山城の神というのがいて、これが家康に喧嘩を打って直江城っていう手紙を叩きつけて、それで家康がブチギレて藍津政罰をするっていうのがそもそも関ヶ原の発端なんですよ。
それでみんな東へ行って若松に攻めてくるんですよ。
その途中で、突如ぐらいまで来たところに、京都大阪で石田三成が拒否している。
直江上杉と石田三成が示し合わせて、ある意味上杉が囮になって引きつけてる間に、三成が京都で撃棄するっていうこのシナリオだったわけですよね。
それの舞台になった。
ただ、もちろん皆さんご存知の通り、石田三成は負けますから、上杉も先パンになるわけなんですよね。
ということで、上杉はその後山形県の米沢というところに押し込められてしまって、合図は募集されました。
合図はその後、我毛の子孫だったり、あと別の加藤さんっていう家康に信頼された大名が来るんですけれども、それもいろんな事情があって、丹明政権で終わってしまって。
倉庫をしているうちに、いい加減ちょっとここ安定させなきゃいけないと。
なって封じられたのが、星名正幸という人物だったんですね。
これは初めて出てきます。
この星名正幸、星名ってなんだよって話になると思うんですけど。
これ正体を明かすと、二代将軍徳川秀忠の実の息子です。
へえ、星名っていう苗字なんだね。
これはいろんな事情があるんですけど、今風に言ってしまうと隠し子だったんですね。
秀忠は奥さんが鬼怖かった人なんですよ。
で、浮気とかがバレたらやばいということで隠してたんですね。
この人界促出の間にできた子。
その星名とか言ってカモフラージュさせて、結局バレてるんですけど、そういう人だったんですね。
けどやっぱり将軍の子供ですから。
しかもこの星名正幸はすごく優秀な人物だったっていうんで、彼こそがやっぱり合図を任せるにふさわしいだろうと。
戸様大名じゃ不安だし、伊達とか上杉とくっついて反乱でも起こされたら終わりだし、東北はね。
っていうんでね、この星名、つまり将軍の息子がここに入ってきたんですね。
これが合図派の始まりと言ってもいいでしょう。
星名正幸はすごく学者としても有名な人だったので、合図の今いろいろ短命政権でコロコロ変わって安定しない姿勢だったのをさっとリセットして、
ちゃんと農地の開発だったり、あるいは文教政策、すごい教育に力を入れたりして有名な学者を何にも招いて、文化を起こして非常に暮らしやすい世の中を作ったと言われている江戸時代を代表する名君の一人として、教科書にも載る人です。
江戸時代の名君で載るんですね、この人はね。
っていうぐらいの人だったんですね。
なので地元から、あるいは子孫や家臣からもすごくリスペクトされていて、この星名正幸っていうのは今でも崇められてるんですが、
幕末の藩の役割
この人は15箇所の架空みたいなのを残していたというわけなんですけれども、
それが第一条、大君の義一心大切に忠謹を尊すべく、
中略をして、もし二心二心を抱かば、すなわち我が子孫にあらず、というふうに言ったんです。
これどういうことかっていうと、大君ってのは大きな君と書くんですが、これ将軍のことです。
将軍に対して一心不乱に忠義を尽くしなさい。
万が一にも双心、裏切るような心を抱いたならば、それはもう私の子孫ではない、っていうのを架空にしたんです。
これが第一条。
あとは武具をちゃんと整理しなさいとか、ちゃんとお兄さんを謝って弟を可愛がってあげなさい。
あとは法をちゃんと守りなさい。家中で風景を乱すな。賄賂をもらうなとか当たり前の書いてあるんですけど、
第一条がそれなんですよ。
もう何よりもまず裏切るんじゃないと。
何よりもまず徳川のために働け。これが星野正之の遺訓なんです。
これを忠実に守るんですよ。この合図版紙は。
星野っていう名前はまた将軍の親戚に復帰しますので、松平になるんですね、例のね。
家康の回でこれ話しました。
なので松平家っていうふうに代々幕末で行くんですけど、とにかく幕府を支えなきゃいけないっていう強烈な使命感に駆られて代々治めていく。
ところが幕末になってくるといよいよちょっと情勢が危うくなって幕府も揺らいでいると。
ここで後の将軍横篠部が京都に入って、京都で変な村上老舗が暴れているからこれをもう正さなきゃいけないと。
自ら京都に乗り込んでいって、そして幕府の臨時の養殖みたいな、臨時内閣みたいな訴覚しなさいっていうふうになって、
呼ばれたのがまず一人目が政治総裁職として隠善たる影響力を持っていた越前福井藩の松平春岳。
あの写真オタクだった人です。
あれが政治総裁職できた。この話は以前にしました。
もう一つ、政治はだから春岳が見る、越前が見る。
でも村上派の老子たちは天柱とか言って人を暗殺しまくる、テロみたいなのを起こしまくってるんですね。
これを何度もしなきゃいけないってことになって、
誰か幕府のために命を投げ打って、この警察治安維持機能になってくれる人はいないのかと。
越前はノラリクラリして受けなかったりするんですよ。
ってなった時に、そういえばそういう時の蹴り札がいたじゃないかっていうことで呼ばれたのが藍津藩だったんです。
だって彼らは幕府第一っていうのがもう骨身にまで染み渡ってる人だから、どんな辛い役目でも幕府のためなら受けてくれるだろう。
原理受けたんですね。
つまりこんな遠くからですよ。
しかも越前なら隣だからいいけど、福島からわざわざ京都まで南前に上がってきて、
その血玉臭い京都に、しかもそれで村上派の老子を捕らえるっていう危ない役目にわざわざ来なきゃいけなくて、京都守護職とか行って来るんですよ。
それで新選組をお雇いみたいにして使うんですけど藍津藩。
新選組ってのは藍津藩のお雇い組織なので。
っていうことをやるんですね。
京都の血の意地にバリバリ活躍するんですけれども、時代はその後いろいろ変遷して、ご存知の通りむしろ薩長の方が主流になっていってしまう。
ということで薩長が誰よりも憎んだのが藍津なんですよ。
特に長州藩というのはテロとか起こしまくってたんですけれども、藍津藩のせいあるいは新選組のせいで何人もの命が失われてるんですよ、有名な人たちの。
藍津だけは許せないと。
あいつらがいるから俺たちの仲間は何人も殺されて、そもそも幕府はあんな変なことやってるし。
っていうので目の敵にされて、それで戦争が起こって藍津も味方した幕府がどんどん負けていって。
そうこうしたうち吉野部は江戸無血会場とかやっちゃって、江戸幕府自体がほぼなくなってるようなもん。
藍津はじゃあどうするんだというふうになるわけですよね。
ただ藍津としては彼らも別に戦争をしたいわけではないので、平和にしたいので探眼をしたんです。
要はもうこれまでのことをちゃんと変えてみますから平和解決をしたいですっていうふうに。
それを藍津がさすがにかわいそうだって言って仙台伊達ですよね。
米沢これ上杉ですよね。
藩の同盟と悲劇的な戦争
その辺りがみんなバックアップしてあげて東北の藩が。
藍津許してあげてくんないかと。いい加減そろそろ。
で、奥江津列般同盟っていう東北と越後の藩で、奥、奥州、奥州、つまり今の東北地方と越後ですね。
奥江津の藩がみんなで協力して藍津を助けてやってくれっていう同盟を組むんですね。
ところがそういう同盟とか組んでること自体が危険分子だと明治維新からした。
ましてこの藍津だけは絶対に許せない。
っていうんでそれを受け付けず東北の戦争が始まってしまうんですね。
なので藍津はもうある意味その母親戦争の幕府側のボスみたいなものなんですよ。
ある意味かつ被害者でもあったんですけど。
っていうことをやってるうちに秋田の佐竹が裏切ったりして、あれ裏切るんですけど。
いろいろ揉めてるうちに結局明治政府側に負けてしまって、藍津若松はもうすごい悲劇が起こってしまう。
薩長はもうここを攻め滅ぼすために必死なので。
城下町でもすごい悲惨な戦闘が行われて。
有名なところだと女性もね、ふるさと守るために自ら刀を取って多くの人が死んでいってしまった。
あとは有名なところだと少年、今の高校生ぐらいに組織された白虎隊というものがあって、これが若くしてその命を散らしていってしまった。
そういった悲劇が起こった末に、この藍津若松城で牢城戦をするんですけど、結局降伏をして藍津派の歴史は終焉を遂げる。
っていうかなり悲劇が起こった場所ではありますね。
藩士の生活と文化
なんかね、愚直に上司のために働いてきたのに、急に社長変わったからあいつはもうダメだみたいな。
かわいそうね。
なのでやっぱり藍津というのは今でもね、かなりやっぱり悲劇、同情的な立場で語られることが多くて、もちろん薩長には薩長の言い分はあったと思うんですけれども、
やっぱりこれは今においても藍津若松の歴史とか、人の心にすごく大きく降り積もっている歴史の重みだと思いますね。
有名なところで言うと西田俊幸さん、先日亡くなられましたけれども、福島のご出身。
彼は藍津ではないんですけれども、以前ね、「飛ぶが如く」という大河ドラマで、最後に高森を演じることになったという時に、
やっぱり地元の方からすごくやっぱりそれをね、懸疑したそうなんですね。
当時はまだ今よりもまだ時代が近かったですから、爆発と。
福島の人間が薩津の最後をやるなんて。
でもその時に本当かどうか知りませんけど言われたのは、薩摩はいい、長州は絶対やるなって言われたっていうふうな話も残ってるくらいで、
いろいろその辺はやっぱり歴史のしこりは当時はあったようなエピソードはあります。
今はね、あれですけど。
でももうそのすぐ近い過去にそういう言葉はあったわけですね。
だからやっぱりちょっと今でもこの辺の話したり、我々が考えるようになったら、結構やっぱり注意を払うべき一つの歴史だなという。
珍しくちょっと国内ではこういったパターンはね、そんなに多くはないと思うんですけど、結構ここはね、今でもそういったのが残ってる気分がありますね。
人によってはちょっとセンシティブになると思いますので、そのあたりは注意しておいたほうがいいと思います。
というのも藍津藩の歴史でした。
そういうのを若松城の、鶴賀城のところで学んでいただいてということになりますが、
今日はね、そういうわけで藍津藩の歴史というのの史跡をちょっと巡っていきたいと思うんですね。
鶴賀城から車で6分ほど東の方に行っていただくと、藍津武家屋敷というところがあります。
これね、確かですけど我々も行ってると思うんですよ。
武家屋敷のあたりの街を歩いたりとか、なんか飼料館的な施設に行ったのは覚えてて、それがここだったっけなーと思いながら今見てたんだけど。
おそらくここですね。
これも大市の中に行ったと思うんですけれども。
藍津武家敷というのはですね、若松の城から東側の方にある七仙坪の敷地の中に、藍津藩の武家敷とかを復元しているものになるんですね。
なのでその当時からあったものというよりは、新しく作っているものではあるんですけれども、江戸時代の藍津藩の時代の武家敷を忠実に再現している。
特にね、幕末の家老としての高いね、最後を頼もっていう人がいたんです。
これ藍津藩の人ですね、最後なんですけれども。
この方も非常に有名なんですが、この人のね、邸宅とかも復元されているんですね。
最後を頼もうというのは、彼自身は戦争を生き抜くんですけれども、
藍津戦争の時にね、奥様だったり娘さんだったりっていう家に残っていた方々が全員自陣をしてしまうっていうね、すごい悲劇的なエピソードとして今でも語られる。
必ずドラマとかでも取り上げられるものでね。
以前ね、2013年の大河ドラマでね、綾瀬遥香さんが八重の桜というね、
新島八重っていう藍津戦争でやっぱり女性ながら参加した藍津藩の娘のね、実在した人物。
同志者を作る新島嬢さんの奥さんになるっていう人なんですけれども、
この人のことを演じた時に、最後を頼もう演じたのがやはり西田俊幸さんでした。
これはふるさとだからもう絶対ということでね、やられましたね。
へー。
なのでそういった悲劇が起こった邸宅とかも再現されている。
藍津というのはそのわけで、ちょっとその家訓の差なしが象徴的なんですけど、
かなり哲学的思想的にね、結構強い藩だったんですね。
貴族とかが。
なので教育が激しく厳しいところでもありました。
のでそういった当時の武士たち、藩士たちの生活だったり思想っていうのを目の当たりにできるかなという気がいたします。
あとはね、これ我々はやりませんでしたけれども、
やはり藍津といえば赤べこ、あとはおきらがぎこぼしっていうのもありますけれども、
見たらこれかってなると思うんですね。
こういったものの工芸文化を実際に体験できる、つまり赤べこの絵付けができたりとかいうプログラムもありますので、
ちょっと我々はあれはどこで買ったのかちょっと忘れちゃいましたけれども。
そうね、なんかお土産屋さんみたいなところにあった気がするんだよな。
じゃあもしかしたらここかもしれないですね。
たぶん作っては買ったんですけれども、これを自分で作ることもできますので、
藍津島では香り袋のワークショップなんて組み込みましたけど、
このちょっと絵付けをするなんて体験プログラムもありますので、ぜひお記念にやっていただいてもいいのかなという気はいたしますね。
どうですか赤べこ、やっぱり家にあって。
なんかね、やっぱり玄関置いてるとね、かわいいのよ。
そうですよね。
あれ自体が災いを知り解けたりしてくれるものですから、
やっぱり玄関に置いておくのがいいかなって思って玄関に置いてるんですけど。
そうですね。
特に内田の家の玄関白いわけなので、そこに朱色の赤べこを入れるとちょっと目立ちますよね。
初めて来た人は何かと思うかもしれないけど、でもかわいいしいいですよね。
そういった合図の文化自体にも触れることができるよというところになっていますので、
やはり今回の歴史旅というところを考える上では、
白虎隊の悲劇と記念館
お城を見た後にその家臣たちの屋敷も見れるということで、
合図版の上下というものをいろいろと考えることができるんじゃないかなと思います。
そこから車で4分ほど、ちょっと北の方に行きますが、
市営飯盛山観光客専用駐車場という駐車場に一回行っていただきます。
ここで車を置きましょう。
そしてここから山に登るので、ある時になります。
徒歩5分ほど行っていただいたところにあるのが、
白虎隊記念館です。
さっきちょっと出てきたね。
改めて、この白虎隊というのを聞いたことはありますかね?
名前はなんかで見た気がするけど、その内容は全然わかんないですね。
白い虎の隊と書いて白虎隊と読むんですけど、
これはちょっと先ほど話しましたが、
愛知戦争が起こった時にかき集められた予備兵力の一つです。
つまり実際の現役バリバリの武士たちは、
もっと稲葉城の方とか、
あと栃木方面もいろいろ出張しなきゃいけなかったりして、
いろんなことがあって、若松が意外と手薄ったんですね。
その今日疲れたんですよ、愛知戦争っていうのは。
なので意外とやばいってことが急にわかって、
城下町からやばいこれ意外とみんなが出払ってるうちに
これ攻められてんじゃんってなって、
ちょっと急遽集めますと人を。
っていうので普段全然兵隊として集められないような
予備兵力を急遽動員したんですね、藩主がね。
これ一つが白虎隊でした。
実は白虎隊以外にもいくつか同じようなものはあったんですけれども、
なぜこの白虎隊だけが記念館を設けられていたり、
あるいは映画とかの題材になったりっていうので有名かっていうと、
とても悲しい最後を白虎隊だとげだっていうんで非常に有名になってしまったんですね。
まずそもそもの話として、
白虎隊っていうのは予備兵力でしたので、
先ほど言ったように若いね、本当に15歳とか16歳とかね、
そういった人たちが集められてしまったんですよ。
なのでまだ前頭の若者がたくさん集められてしまった。
勘違いされてる方も結構いるんですけれども、
白虎隊自体は大体300人くらい確かいたはずで、
その中の一部の隊、地中2番隊というものなんですけれども、
の隊の一部が戦争で負けたときに、
この飯森山っていう若松の城下を東から見下ろす形になる山なんですけれども、
ここに逃れてきたと。
で、逃れてきたはいいものどうしようかってなっているときに、
ふと山からね、城は大丈夫だろうかと見たら、
城にもうもうと煙が上がっている、火がついている。
とうとう城が落ちてしまった。
つまりもう負けてしまったんだな、藍津藩は。
ということで、前頭を悲観した彼らは、
その飯森山で自ら差し違えたりしてしまって、
悲劇的な最後を遂げてしまった。
という悲劇が非常に有名なエピソードとして語り継がれていってしまったんです。
白虎隊記念館というのもそういうわけで、
この白虎隊の悲劇だったり、彼らの生き様というものを、
もちろん実際の資料とかを展示しながら紹介してくださっているわけなんですけれども、
同時に今話した通説というのが、
そうじゃなかったんじゃないかという話が最近になってわかり始めているんです。
そのこともちゃんと紹介をしてくれています。
どういうことかというと、
実は白虎隊で飯森山に自陣したのは、
大体人数も定かじゃなくて、
7、8人だったとも20人くらいだとも言われているんですけれども、
一般的には19人の方が亡くなったと言われているんですが、
たった1人だけ生き残った人がいたんですね。
それが井沼貞吉さんという方なんですけれども、
この人自身も刃を自らに突き立てたんですけど、
当たりどころの問題だったのが、
過労死で命が助かって、周りの人に解放されて、
1人だけ生き残られたという方がいて、
ただこの人もやっぱり同僚たちがね、
そして自分も死ぬべき立場だったんじゃないかって、
やっぱり介護の念もあったようで、
ずっとそのお年寄りになるまでそのことを話さなかったと、
思い口を閉ざしていたらしいんですけれども、
それはやっぱり密かに何人かには話していて、ことの真相を。
それが最近になって徐々に明るみになってきたんです。
それによると、そもそも若松城が落ちたと誤認していたっていうのが通説だったんですよ。
これどういうことかっていうと、
これさっきに話せばよかったんですけど、
白虎隊が辞任したのは1868年、これ明治元年です。
旧暦8月23日のことなんですね。
ところが実は若松城の牢城戦というのはここから始まったんです。
落ちたのは9月なんですね。
白虎隊の悲劇と真相
つまり白虎隊の人たちは山の方から遠望していたら、
城に燃え上がっていると思ったその火は実はそうじゃなくて、
城の前を遮っている浄化鉢の建物に火がついているのを、
城が落ちたのを勘違いしたっていうんですよ。
っていうのが通説だったんです。
これでみんなが、
これで藍津藩負けてしまったんだって思って悲観したっていうんですけど、
井沼貞吉さんの証言だと実はそうじゃなかった。
これは誤認なんかは全然していなくて、
むしろ敵に捕らわれるくらいならばっていう、
藍津藩が負けたっていうことを、
負けるかもしれないと思ってたと思いますけど、
そうじゃなくて、敵に捕らわれて恥ずかしみを受けるよりは、
今ここで命を絶った方が美しい死に様だろうっていう、
そういった議論で、
しかも自治にするまでのいろんな議論が、
すごい激論が交わされたと言うんですよ。
死ぬべきじゃないや死ぬべきだとか、
藍州松平片森さんっていう人なんですけども、
その人の恩に報いないかどうかっていうことが、
いろいろ言われたんだけど、
その果てに自治を選んだって言うんですね。
というふうな証言がある。
その誤認説というのは確かに、
よくよく慎重に紐解いていくと、
実は藍津藩の悲劇が起こってから、
しばらく経ってから急に出てきた話らしくて、
それがただあまりにもドラマチックである。
そして幕大の悲劇を強調する。
要は死ぬべきじゃなかったのに、
誤認してしまったっていう。
っていうので、ストーリー的に、
悲劇が強調されるから言われてるんじゃないかと、
いうような話もあるようでして、
この辺りは今でもいろいろ解明が待たれるところでもあります。
でも真意は本人たちのみぞ知るっていう気がするけど、
どうなんだろうね。
やっぱり今から考えると、
今の常識からすると、
やっぱりなかなか理解できないというのも正直あると思うんですけど。
でも何にせよ忠誠とその覚悟の末に、
自陣をしたんだろうなっていう感じですよね。
そうですね。
なので真相は正直わかりませんけれども、
いずれにせよこういった悲劇が起こっていることというのを、
やっぱり藍津の人はこの白虎隊に始まるように、
要はやっぱり身近なところに悲劇の戦争があったっていうのをね、
すごく感じていた。
今の世の中で言うと太平洋戦争のことは、
今でもやっぱりいろいろありますけれども、
ある意味母親戦争というものの悲劇を、
一番やっぱり体感していた人たちでもあると思うので、
その歴史をちゃんと伝えていかなきゃいけないというモチベーションが、
非常に高いんですね今でも。
実際この白虎隊記念館も、
1956年に地元の弁護士の方が、
自ら資材を投げ打ってこれを設立したと。
いう公共のものじゃないんですこれ。
つまり個人記念館なんですよあくまでも。
だからこの言い間に絶対これを残さなきゃいけないと思ったそうなんです。
そしてところがなんか水害とかがあって、
壊れちゃったりしたらしいんですけど、
そういう時にやっぱり全国にいた、
その白虎隊の悲劇を知っている方から支援があって、
再興ができているということらしいんですね。
なので結論はその白虎隊の通説をまず学んでいただいた上で、
実はそうじゃなかった。
彼らの本当の真理というのは何だったのかというのを、
いろいろと考えたきっかけにもなるという意味で貴重な記念館になっています。
なんかちょっと気が重くなるというか、
その白虎隊の人たちの思いを想像すると、
なんとも悲しい気持ちにはなるね。
そうですね。
だからやっぱりなかなか観光でハッピーにという場所ではやっぱりないのは事実だと思うんですけれども、
やっぱりその上で歴史を考えるでここは外せないと思いますので、
ただ歴史的な方にはやっぱりこれが白虎隊のあれなのかとか、
あるいはそれ以外にも実は愛知戦争には、
諸国の幕府派の人たち、砂漠派と言われた人たちの最後の拠り所みたいになっているんですよ、愛知派というのは。
なので美都派の抗争に敗れた人がここに来ている。
あるいは新選組の生き残りもここに来ているとかあるので、
そういったいろんな砂漠派の人たちの遺物がここにあったりもします。
見方によってはやっぱり自分の故郷のために命を燃やしていった人たちなわけだから、
そういう見方をすればかっこいい人たちなんだろうなっていう気もするしね。
そうですね。
というのがこの白虎隊記念館になります。
サザエ堂の独特な構造
飯森山というとやはり歴史好きの方はこの白虎隊の話があまりにも有名なので、
ちょっともうこの印象が強いと思うんですけど、
実はもう一つすごいものがあるんですね。
これ白虎隊記念館からさらに徒歩で3分ほど山の上に登っていったあたりにあるんですけど、
サザエ堂というものがあります。
なんだ。
なるほど。これは確かにサザエっぽいね。
わかりますかね。
お堂なんだけど、
螺旋状にね、多分中を通路、階段かなが登っていく感じですよね。
結構急なんじゃないのこれ。
急です。
これは何の建物なんですかこれ。
この飯森山はね、そもそも白虎隊運転の前にですね、
正洲王寺、正しい宗派の宗の寺、正洲王寺というお寺があった場所なんですね。
ここの住職の幾道っていう人がいたらしいんですけれども、
この人によって考案された建物、仏陶の一つなんですね。
なんでこんな建物建てたんだって話なんですけれども、
ここの中によく見ると一つ一つ仏さんが入ってるんですね。
この建物の中、螺旋状に階段になってるんですけど、
その中心にね、一個一個部屋があって、そこに仏様が収まってるっていう感じですね。
これがね、西国三十三カ所霊場の仏様をここにお招きしているということになって、
西国三十三カ所というのはだいたい今の岐阜県から兵庫県あたりの、今は機内金国ですよね。
あそこに作られている今も現役の霊場。
このポートキャストでいうとね、長谷寺なんてのがその一つなんですけども、
冷静に考えてやっぱり合図からね、あそこまで行くのってのはなかなかしんどいわけですよ、正直なことを。
ただ、じゃあその人たちには救えられないのかっていうのはあまりにも可哀想だということで、
このサザエ堂にちゃんと登って参拝をすれば、この三十三カ所をハイブリッドに回ったのと同じご利益が得られると。
そういうことでこの堂を建てたそうなんですね。
それだからちょっと過酷な感じの急な感じにしてるのかな。
そうかもしれないですね。
ただ、とはいえさ、それも実は同じようなパターンっていくつかあるんですよ、各所にね。
でもそれも例えばこうだね、四角い部屋を作って、そこに三十三の仏さんを置くとかでもいいはずなのに、
なんでこんなものを作ったのかっていうのは非常に不思議なんですね、これね。
これはある意味ね、奇想の系譜としてこれも語られてるんです。
この幾堂という人物が何者だったのかというのは実はあまりわかっていないんですね、正直。
この住職だってこれを考案したと言われてるのは間違いないんですけど、
ただこれ世界で唯一二重の螺旋構造を持つ木造建築なんです。
これ二重なんだ。
そう、これがちょっとわかりやすいかな。
これめちゃくちゃ上手くできていて、上りのルートと下りのルートは別物なんですね。
なるほどね。
そう。
だから一方通行でこう上って下れるんだ。
そう。
すごいね。
つまり上下に合わないんです、一方。
だからこうくるくる回ってそのスロープの中に被らないように見えないように別のルートが裏に仕組まれてるっていうイメージなんです。
なので非常に複雑な立体構造を持ったね。
これを江戸時代、18世紀の人間がこれを考えたって言うんですよ。
面白いね。
世界史上類を見ない建造物なので、国の重要文化財にも指定されているすごい貴重な建物です。
これ実際中にも入れます。
この旧旬な坂道を登りながらお堂の中行って実際帰ってみると、つまり1回転半、1回転半することになるんですね。
3回転これをするっていう構造になっているっていうのは現役で使われてるんです。
面白いな。
日本の建築士に特質される存在を持った不思議な奇想の建物なんです。
なんでこんなことを思いついたのかっていうのはもう分からないんですよ、はっきり言って。
ただ、幾道さんという人が自分で言うには夢の移りがあったみたいなことを言っているわけなんですけれども、
本当にそれが本当にそうなったかはもう分からない。
あとはティッシュでくるくるくるってやるとこよりっていうものがあって、
あれで細いものを書き出したりとかって昔の人がやってたそうなんですけど、
あれを見た時に思いついたと言う話もある。
一方で、本人の証言じゃなくて現代科学の話でもってすると、
一つの可能性として示されているのが、これ1796年に混流されてるんですけれども、
この数年前に確かダ・フィンチか何かが考えた特殊な建造物というのを、
とある人物がスケッチをしていて、そのスケッチを見たんじゃないかっていう説があるんです。
何らかの理由で。
じゃあそのスケッチをした人物はなぜ、誰がそんなことをしたのか。
これは自分のこれから書く絵の参考にしようとした人がいたんですね。
分かりますか?この年代こういうことをした人、実は一人もいるはずなんです、ポッドキャストに。
名前があれなんですけど、秋田蘭花の話の。
もう全然覚えられないのよ、名前は。
そうなんです。これが本当かどうか分かりませんが、秋田蘭花をやって、
多分思い出そうとしたのは織田の直竹っていう絵師なんですけれども、
彼をお召し掛かりみたいにして、彼のことを保護してあげた殿様。
自分自身も秋田蘭花の画家だったっていう佐竹諸山っていう当時の秋田藩主。
この人のスケッチ帳に極めて似たスケッチが記されている。
諸山はもう96年のうちに亡くなってるんですね。
10年数年前に亡くなってるんですよ。
なので、あり得るとしたら佐竹諸山あるいは秋田蘭花の画家の誰かが、
これを何らかの方法で要所からスケッチをして、それが合図に伝わってたんじゃないかっていう説もあるんですよね。
なるほどね。
それまでの日本にない発想を得るためには、そういう外国のスケッチっていうのは確かに発想の元にはなりそうだよね。
これは分かりません。本当に全く分からないです。
あくまで一つの説としてそういうのもある。
というのがサザエ堂。
飯森山の白虎大師墓所
ただ本当になぜこれを思いついたのか非常に不思議なくらい。
今でもなかなかこんな構造物があったらびっくりですよ。
それこそ富士山世界遺産センターに出るわけなんですけれども。
というのもこれぜひ上がってみてほしいんですね。
これを体験できるっていうのが面白いですね。
そうですね。
このサザエ堂を見終わっていただいた後には、
最後の飯森山を開けた場所にあるのが、先ほど言った飯森山の白虎大師墓所になりますね。
ここでは19人の方が自決をした、自陣したというふうな伝承に基づいて、
その19人の墓がここに建っている。
そして一人だけ生き残った飯沼貞吉さんの墓も、
ちょっと離れた場所なんですけれども、同じ仲間とともに眠っているというものになっています。
最後には揃って良かったのかなという感じがするね。
この飯沼さんの心情もいろいろ考えると非常に複雑なものがあると思うんですね。
この人自身は結局その後、伝心義士とかになって活躍をして、
陸軍とかにもいろいろやったりしたそうなんですけれども、
白虎隊の悲劇
最後は仙台で亡くなって、合図には戻らなかったんですけれども、
やっぱり白虎大のことというのは非常に強烈な印象として、
一人だけ残ってしまったということもあったんでしょうけれども、
その心情を汲んだ方々がお墓を建ててあげたということなんですね。
ドラマチックではあるよねとは思うけど、
本人の心情を考えると、なかなかどういう思いでその後生きていったのか、
ちょっと想像が及ばないところですけどね。
いろいろ飯沼さんのエピソードもあるんですけれども、
そのどれもが本当にこの飯沼さんが言ったのかなというのは、
徐々にどれも一つずつがわからないなというようなところもあまりにも、
やっぱり白虎大の悲劇というものは、
あまりにも有名になってしまっているので、
やっぱりこれは慎重に読み解かなきゃいけない歴史の一つだなと思います。
宿泊施設の紹介
ただ事実として、十九死の墓があるところからですね、
西側を見ていただくと鶴賀城、合図若松城が見えます。
なので仮に誤認したっていうのがもし本当だったとしても、
それなりの理由はあったのかなというよりも一方でやっぱりします。
地理的条件から見ると確かに街並みの先に若松城がうっすらと見えてて、
これにむしろ煙が立っていたら悪いわとは思ったかもしれない。
そういう実感も得られるってことね。
そういうことですね。
なので今でも本当に地元の方によってこれは大切に守られているお墓になって、
もちろん観光地の一つではあるんですけれども、
そういった気持ちで手を合わせていただければいいのかなという気はいたしますね。
おそらくもこの飯森山に行っていただいた後には、
もう結構夕方になっていると思います。
徒歩10分ほどで最初の山のふもとにある観光駐車場に戻ります。
ちなみにこの間エスカレーターとかもありますので、
きつい方はそちらでも大丈夫ですが、下る分にはいいと思います。
駐車場で車をピックアップしたら、
車で10分ほど南東の方角に行っていただいたところに、
くつろぎ宿、千代滝という宿があります。
思い出の展望風呂が出てきましたが。
そうだね。
髪を凍らせた宿の温泉ですね。
こちらはどんな印象を他にありますか?覚えてますかね?
やっぱり雪なんだよな。
ここが確かね、階段を登って行って、
この宿が確かあったと思うんですよ。
だからそこが雪が積もってて、
階段の足元に灯籠みたいな明かりが置いてあって、
その夜の階段を登って行く景色が結構綺麗だったなって気がしますね。
お食事とか覚えてますか?
お食事…
どんなんだったっけ?
ミオ。
ビュッフェね。
これね、ちょっとわからないことなんですけれども、
おそらく僕らが行ったときはビュッフェじゃなかった。
あるいは半ビュッフェみたいな感じだったと思うんですね。
これね、ページに書いてあると19年の8月8日から、
夕食にビュッフェは仲間入りって書いてるんですね。
あれ何年に行ったんだろうね。
あれね、おのと僕で換算すると大学4年の冬なんですよ。
なので2017年の12月だと思います。
じゃあビュッフェになる前なのかな?
おそらくね。
宿の紹介をまずいたしますと、
このくつろぎ宿千代滝さん、千代というのは千代神の仙台と書く千代ですね。
千代滝さんなんですけれども、
この辺りがね、実は東山温泉という合図の奥座敷と言われた昔ながらの温泉地なんですね。
なのでたくさん旅館があるんですけれども、
このうちの一つが千代滝さんになるわけです。
なので合図若松がいいところはね、
城下町散策を終えたらすぐ温泉に入れるんですね。
でもそのまますぐ宿になるっていうね。
これはやっぱり恵まれた年ですよね、非常にね。
この千代滝さんはお勧めする理由なんですけれども、
まず一つがやっぱりね、このお料理なんですね。
当時はビュッフェじゃなかったかもしれませんが、忘れられないのがですね、
バサシがめちゃくちゃ美味しかったんですよ。
ああ、食べたわ。
多分ね、ちょっとオプションでつけたんだよね、あれ。
ああ、そうかもね。
バサシって合図の名物なんですね、非常に。
ただですね、他にバサシの名物なところで言うと、
僕はやっぱり九州の方がゆかりがあったので、
熊本のバサシというのはよくいただいたんですけれども、
調味料が微妙に違うんですよね、つける調味料がね。
合図はこれが合図流なのか千代滝さん流なのかはちょっと置いといたとしても、
お味噌でいただくんですよね、合図のバサシってね。
ああ、そうだっけ。
これがやっぱり我々生姜醤油に慣れていた九州のね、
気候を知っているものからすると非常に新鮮でもあったんですが、
この味噌のバサシ、マジでおいしかった。
すっごい覚えてます、これの話。
ああ、ほんと。
感動しましたね。ちょっとね、同じものを食べたはずなんですけど。
ああ。
そうか。
これ、彼氏彼女だったらやばいしね。
いや、だって17年でしょ。
なのでまあ、8年前。
17年も8年前じゃないですかね。
そんな前か。
恥ずかしいな。
でまあ、ちょっとビュッフェなので今どれぐらいあれなのかわからないところはあるんですけれども、
ここはとにかくね、お料にすごく気を払っている、
グルメな料理旅館みたいなところもありますので、
合図の強度料理、合図の素材を使ったものっていうのに非常にこだわっていらっしゃいますね。
これほら、合図は桜肉、馬肉が有名です。
握りはニンニク味噌と醤油とれどうぞということで、
やっぱり味噌なんですよ。ニンニク味噌って書いてありますけどね。
このメニューの一例でね、その馬刺しを握りでいただくっていうね。
美味しそうっすね、これ。
綺麗な写真だわ、これ。
ああ、そうっすか。
まあ、合図の強度料理以外にもね、お子さんとかが食べられるものもいっぱいあるんですけれども、
やっぱりこの合図のね、特に僕は馬刺しがやっぱりいいなと思いましたけどね、非常にね。
本当にいろいろと取り揃えている感じですね。
そしてね、左の写真っていただくとね、これですよ。
これも飲み放題なのかな?
飲み放題ではないと思います。
さすがに違うよね。
ただですね、お酒好きの方に朗報なんですけれども、地酒の館。
東海の自慢の一つ地酒の館は、合図地酒をお楽しみいただける日本酒バーです。
合図地方の地酒、常時30種類以上取り揃えております。
おチョコいっぱいからお気軽にご利用いただけます。
ラストは20×20ということでね、いいですね。
いいね。
こういうのが施設内にあるから、出ていかなくていいし、
お風呂上がりとかでもいいしね。
そうなんですよ。
これいいね。
これ我々もお風呂上がり行ったと思います、確か。
行ったっけ?
行ったと思いますね。
会津の魅力と観光
お風呂上がりこれ行けるの最高ですからね、マジで。
そうだね。
やっぱりビジホとかにはない意味で言うと、このバーがホテルの中にあるっていうのは結構憧れますね。
というのもあったりね。
あとはやっぱり、我々も大雪でしたけれども、
そもそもね、東山温泉という昔から代表する合図の名湯ですので、
それでゆっくりと寒かったとしてもね、体を温めていただけるんじゃないかなと思いますのでね。
そう、温泉に入ってるんで、紙は凍ったけど別に温まったんですよ、普通に。
そうですよね。
全然寒くはなかったんで、
本当にゆっくりと温まれるんじゃないかなと思いますね。
そうですよね。
あとはね、これ実は千代滝さんが今回泊まるんですけれども、
僕ね、会社の同期で行ったときは、これの姉妹館の新滝ってものに泊まってるんですね。
こちらに会社の同期がみんなで泊まったんですけれども、
ここもここでやっぱり良くてね、
こっちはよりね、卓球の屋根とかもあったりしてね、
わりとみんなでワイワイ楽しむのに向いてたかなという気がいたします。
いずれにせよ言いたいのはですね、千代滝に泊まるにしろ新滝に泊まるにしろですね、
同じ系列の旅館になりますので湯めぐりができるというわけなんですね。
これはこの間のホテルニュー味グループさんと同じですね。
あの島花さんですね。
川端でちょっと東西だったと思うんですけれども、
全然歩ける距離ですので、
この新滝、千代滝、それぞれ温泉の向きは異なります。
新滝はね、川沿いにありますので、
ちょっと展望ではないんだけれども、川のせせらぎを間近にしながら、
ちょっと洞窟っぽいところもあったりしてね、そういう楽しみができる。
千代滝は一方でやはり我々の言った展望の露天風呂で、
温泉が見渡しながらね、浸かれるという良さがありますので、
その後の住み分けもやっぱりうまいなと思うんですね。
いいですね。
新滝さんの方は露天付きの客室もあるんですよね。
そのようですね。
ちょっとこれは僕も泊まってないんでわかんないんですけど、いいっすねこれ。
これはね、大人のデートはいいんじゃない?
いいと思いますよ。
わ、良さそうこれ。
いいじゃないですか。
そうなんです。
なのでね、どちらも行っていただくと、とりあえず内田は千代滝には行っていますので、
今度は新滝に行っていただいてもいいかもしれませんし、
あいつもやっぱりね、流石に雪の思い出で終わるには惜しい場所ですからね。
そうなんでね、あの日はしょうがないんだけどね。
ということでね、この東山温泉の千代滝さんに今回は泊まるということで、
是非ね、馬刺し地酒を堪能いただいて、
そしてね、部屋に戻られたら植木屋商店さんで買った地酒をまたさらに楽しんでいただくということでね、
大人のお酒好きデートでいかがでしょうかということになります。
ということで1日目を振り返っていきましょう。
まず11時半頃に藍津若松駅をスタートします。
そこでレンタカーを借りまして、車で6分ほど。
中島さんですね。
藍津若松名物ソースカツ丼。
というかもう中島名物なんですかね。
の煮込みソースカツ丼。
煮込みはそうだね。
あ、そうね。
ソース味なんだけど卵とじされてるカツ丼ということで。
で、豚もね、こだわっていらっしゃるということで、
ここ名物の煮込みソースカツ丼をお昼にいただきます。
そこから車で1分ほど。
植木屋商店さんですね。
もう本当に老舗の酒屋さんなんですけど、
今の当初の方はDJをされていたということで、
DJブースがある酒屋さんっていうね、
ちょっと珍しい取り合わせではありますが、
本当にたくさんの日本酒が置いていらっしゃいますので、
この日の夜のお酒をここで買っておくのはいいんじゃないでしょうか。
そこから車で5分ほど。
鶴賀城ですね。
合図版のシンボルというかお城ですね。
ここは当初がいろいろ入れ替わったりとかして、
最終的には松平になるわけですね。
最後まで幕府に忠誠を誓って幕府のために動いた合図版のお城ということで。
なのでここで合図の歴史を歴史館で学ぶことができると。
そして合図本地を一望することもできる。
そこから車で6分ほど、
合図武家屋敷ですね。
ここでさらに合図版の歴史を学んだりとか、
武家屋敷の中を散策して、
会津の歴史探訪
その当時の屋敷を感じることができる。
あとは赤べ子とか沖上小布市の工芸体験プログラムもありますので、
興味のある方はぜひと。
そこから車で4分ほど、
市営飯盛山観光客専用駐車場に車を停めます。
ここから徒歩5分ほど、百戸隊記念館ですね。
合図戦争の悲しい歴史の象徴と言っていいんですかね。
百戸隊の歴史を展示している資料館と。
なのでここで通設的な百戸隊の歴史を学ぶこともできるし、
ちょっと違うんじゃないのっていう展示もされているということで、
百戸隊の実像に少し迫れるような資料館になっていると思います。
そこから徒歩3分ほど、笹江堂ですね。
世にも珍しい木造の二重螺旋の仏塔ということで、
ここを登って降りると三十三観音が祀られていると。
この不思議な構造の建物を実際に中を体験することができるので、
その不思議さと、あとはその仏像たちを見ていただくといいのかなと。
そこから徒歩3分ほど、飯森山百戸隊史墓所ですね。
百戸隊記念館で学んだ百戸隊の方々のお墓がこちらに集まっているということで、
ちょっと百戸隊のその悲しい出来事に思いを馳せながら、お墓参りをしていただければと思います。
そこから徒歩10分ほど、師江飯森山観光客専用駐車場に戻りまして、
そこから来るまで10分ほど、屈郎宮戸千代滝山ですね。
ここは温泉と料理、あとはお酒を存分に楽しむことができる旅館ですね。
姉妹館の慎滝さんの湯めぐりもすることができるということなので、
宿自体ね、慎滝さんの方にもし興味があればそちらに泊まっていただいてもいいですし。
慎滝もめっちゃ良かったです。
どちらもね、料理と温泉、日本酒をすごく楽しめるお宿になっております。
こちらで1日目は終了ということですね。
合図の幻視と想像
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アイズの歴史を振り返りましたけども、
何も悪くないのに悲しい歴史っていうなんとも言い難い、悲しい感じがしますね。
そうですね。もちろんそれぞれの歴史っていうのは立場があって、
まして戦争まで起こっている立場なので、言い分はお互いにあるのは自明の国なんですけどね。
ただその中で若松に実際行ってみると、
この白古代にしろ何にしろ、アイズ戦争の悲劇というのはどういうふうに語り継ぐ必要があるのかっていうことを、
やっぱりすごく内省かもしれませんが、
自分たちで考えられた果ての今の観光資源というものに、
慎重にそれを受け継いでいかれたんだなっていうのはすごく感じる、
日本でもなかなか珍しい場所だなという気もしているんですね。
なのでそこはやっぱり我々としても慎重にいろいろ考えながら回ることで、
より歴史の深みだったり、いろいろ思いを満たすことができるんじゃないかなと。
っていうのを考えながら温泉でゆっくり休んでいただくと、
ちょっとやっぱり天島とはだいぶ思う気の違う大人なコースになっていますね。
まあでも、途中でも言ったけど、逆に言えば本当に忠義を尽くした人たちというか、
藩ですからね。それは本当にかっこいいことではあるなっていう気もするんで、
そこから学べることも多分あるんだろうなっていう気がしますね。
このコースは一泊ということでしたので、
次回が2日目で最終日ということになりますね。
歴史は結構1日目で学べたので、2日目なんだろうっていう感じですね。
実は2日目も今回は歴史なんです。
ただ今回のタイトルにもあるんですけれども、
合図の歴史って、実は合図版が目立ちがちなんですけれども、さっきの白虎大使館にね。
演奏の合図、原始と創造の史跡巡りとあって、
合図のもう一つの姿っていうのをね、これからたどっていきたいんですね。
合図若松が栄える前に、なぜ合図というものがこういう文化に含まれていたんだろうね。
不思議な現象がいくつか実は起こっていて、
この遺跡もね、さらにディープで渋い感じになっています。
なので原始、幻を見ると書くんですけれども、
その経緯はどういうものだったのかっていうのをね、ちょっとたどっていきたいと思う。
まだちょっと違う見方の歴史になるか。
時代が遡ることになります。
どういうことがあって、先ほどの合図版の話に繋がるのかっていうところですね。
ということで今回はこの辺でありがとうございました。
ありがとうございました。
01:17:18

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