具体的に言うと米沢という町の観光をしっかりしたいと思いますので、ちょっとその話ができればいいかなというふうに思っております。大体ね、10時くらいに宿をチェックアウトしたとしましょう。前日は道の駅からタクシーで来たんですけれども、実はね、徒歩圏内にJRの駅もあるんですね。
本数がなかなか噛み合わないのと、道の駅からもう一回米沢駅に戻ってとかやってると結構大変なので、もうタクシーで前日は来ちゃいました。10時宿をチェックアウトして徒歩15分ほど行ったところに大分という駅があります。これね、大分と同じ字なんですけど、駅名は大分なんですね。僕も初めて知りました、この駅って。ずっと大分って読んでました。
方言とかなのかな。 ちょっと詳しくわかんないんですけど、とにかく大分駅です。大分駅でもって10時16分に来るはずの山形線米沢駅に乗ってください。米沢に5分ほどで一駅なのですぐに着きます。10時21分に米沢駅に着きました。
というところで米沢の観光に入るわけですが、ワインとか大量に買ってるかもしれませんので、ここで一旦荷物預けた方がいいと思います。帰りはやはりここから新幹線に乗りますので。米沢の観光なんですけれども、またここも城下町ですから駅前にはあんまり観光スポットとか繁華街なくて、駅から離れたところに町並みがあります。
そこまで移動する必要がありますので、時刻表で言うと10時43分に米沢駅前バス停を出る米沢市市街地循環路線右回りっていう、もう本当に地元の米沢市をくるくる回っているミニバスみたいなのがあるんですけれども、それに乗ってください。
それで12分ほど行ったところに上杉神社前、上杉城支援バス停というものがあります。ここがいわゆる米沢城の近くになりますので、昔からの米沢の中心部にあたるわけですね。いつもらしくやはり歴史の本に入っていくわけですけれども、この10時55分にバス停に着きましたら、そこから徒歩3分ほどで行きたいのが米沢市上杉博物館です。
米沢市上杉博物館なんですけれども、簡単にまず概要を話しておくとですね、ちょっと恐ろしい復習タイムにも入るわけですけれども、 うわーやだなー
米沢という町は、そういうわけで米沢藩というものが江戸時代を治めていました。米沢藩を治めていたのは上杉家です。これはもう江戸時代の最初から幕末まで一度も変わりませんでした。上杉家って何でしたっけ?
何でしたっけ? どういうものでしたっけ?フォトキャストで何回か出てきてる。多分一番多く出てきてるんじゃないかな?武家という意味で言うと。
まあ確かに。何を言えばいいんだ。 どの間に出てきたか覚えてますか?フォトキャストの。
それは川中島の上杉謙信の話はもういっぱいありましたね。 そうですよね。上杉謙信がまず出てきましたよね。上杉謙信はどこの国の人でしたっけ?
越後ですね。 フォトキャスト 上杉家というのはそもそもは越後の国の守護大としていたわけで、もともとは長尾タメカゲとか長尾カゲトラとか言ってたんだけれども、それが結局上杉家っていう関東関連の家を継いで上杉になったと。
うんうん。 で、謙信は越後長谷山城上越市ですね。本当に北陸に巨大な勢力を築いて、最初は偽のためと言いつつ断れないと言いつつブランディングをして他国へ侵略しなかった偽の武将としてやってたんだけれども、最後の方は侵略者としてなって、北陸へ勢力を拡大していよいよお題を攻め込もうという時に休止してしまった。その後はどうなりましたっけ?
その後は、あれうまくいかなかったんじゃなかったっけ? そうです。謙信は急使したんですよね。率中的に。そのために何が起こったか。
うん。だから次がうまくいかなくて、あれ飛ばされた?
はい。いろいろ飛躍すると飛ばされたりもなるんですけれども、一応言っておくと、謙信は急使しました。急使したことに何が起こったかというと、ちゃんとした後継者を指名しないまま死んだんですね。
ところが謙信は結婚してなかったので、二人の養子を取っていった。そして後継者問題で、尾立の乱という内戦後期間ですね、上杉は。争ったのは謙信の老いっ子に当たる影勝という人物と、小田原北条氏の出身だった影虎という人物が争って、謙信の死後わずか数週間で内乱が起きました。
結局、上杉影勝の方がいろんな余裕にでもって勝って、上杉家を継いだ。上杉家はその後は豊臣秀吉と早い時間から接近したので、豊臣家の後退路としてなって、すごく政権でおもんじられたんですね。
ところが越後の国に代々いたんだけれども、ちょうど豊臣家の支配体制が全国まで天下統一できましたとなったときに、欧州の抑えとなってほしいということを頼まれて、上杉影勝は越後から藍津若松へ移動したんですよ。
藍津若松に入って鶴賀城というものに入りました。入ったはいいんだけれども、その時両国どんな感じだったかというと、もう藍津地方一帯、越後の国とか佐渡の国もちょっとだけ持ってたりする。そして、上杉影勝の一番の重心であった直江山代の神金粒という人物は米沢に入りました。
つまり上杉はこの時点から米沢を持ってたんですね。だけど影勝、本家の影勝は藍津にいて、加郎が米沢を治めていたという状態になっていた。そしてこの米沢若松の間っていうのが重要になってきたから、間に栄えたのが北方だったわけです。が上杉の両国だった。
ところが上杉影勝はこの後秀吉が死んだあたりから家康が大統領してきますよね。関ヶ原の戦いの前に。という時に影勝は豊臣家の石田三成側についていて、鶴賀城、藍津若松城ですね。本拠だったんだけれども、それを遥かにしのぐ規模の城を築こうとした。それが藍津若松の平野に今幻となってしまっている甲座市場というものだった。
この甲座市場っていう若松城の完成したら2倍の規模があったと言われているこの幻の城を築くためにとんでもない軍事動員とかをしてやってたら、徳川家康がそれ無本の疑いがあるんじゃないかと言い始めて藍津政治が起こるんですね。その時に直江山城の神は徳川家康に喧嘩売るようなとんでもない手紙を書いて、打ち切れた家康が江戸へ下って若松まで攻めようとする。京都がガラ空きになる。
しかしそれは直江山城と石田三成の示し合わせ策謀であって、ガラ空きになった大阪京都で石田三成が居併する。それを聞いた徳川家康が藍津政治を中止して若松までたどり着く前に急遽西へ取って返して落ち合ったところが美濃の国だった。そして関原が起こった。
ということで上杉勝勝は藍津と米沢を治めてたんだけれども関原の戦いの首謀者の一人となってしまった。しかも負けたわけですね石田三成。なので当然上杉独立ではどうにもなんないのでその後降参をしました。その結果が藍津米沢の120万国と言われて超巨大大名だったんですけれども負けてしまって、米沢30万国の中に上杉は全部治められたんです。
これが米沢藩の起こりです。 そっからが始まりみたいな感じなのか。まあその本家が米沢に入った。 そう。直江金次が治めていた米沢に上杉の本家が入ってきた。直江はもちろんまだいるんですけど。っていうのが米沢藩の起こり。つまり負けてここに来たんです。
というのが米沢藩でした。この米沢藩は上杉家なので負けたとはいえまあすごいんですよ。 名家ってことでしょ。 名家。特にその上杉謙信っていう絶対的なカリスマのね。カリスマというブランディングというか話はしましたけれども。
ある意味深刻化されたちょっと特殊な家だったんですね。プライドもすごかったし。ただやっぱり上杉は酒田と違って滅びませんでしたから。負けたとはいえ。だからお宝物とかもすごいたくさん残ってるんです。そのためこの上杉博物館に行くと本当に謙信の時代から大切に大切に受け継がれている上杉家のお宝が一堂にここに返しています。
特に有名なところで言うとこの博物館の代名詞とも言われるものなんですが国宝上杉本落中落外図屏風。これなんだかわかりますかね。 これ町の屏風絵っていうことですか。 そうですそうです。単純そういうことですね。落中落外っていうのは要は京都のことです。
京都の町の光景を描いたっていう金の屏風なんですがこれがめちゃくちゃ価値のあるものなんですよ。どうしてかというとこれを描いたのは加納英徳という人物です。加納英徳って教科書に載ってますよね。なんか見た気がする。
あの唐寿志図屏風とかを描いたいわゆる桃山文化の第一人者も担い手として大活躍した絵師で秀吉だったり信長だったりそういった人にも重宝された人です。その人がこのただ単純に絵を描いたんじゃなくてこの京都っていうすごいものをいろんな角度から構図を編み出して独特の視点で描いた屏風で画期的な絵なんですね。すごい画法が使われてるんですよ。そして完成させたっていうね。
屏風絵の最大傑作と言ってもいいでしょう。なのでこの国宝になってます。この絵自体。でこの完成したんだけれどもこれなんでじゃあ米沢にあるのかと言うとですね、これはね当時京都を治めて加納英徳も雇っていた織田信長が上杉謙信が攻めてきたらやばいんですよマジで。武田信玄が死んだら一番の取り合いは上杉なんですよね。信長にとって。なので賄賂として送ったんですね。
上杉と吉見を通じるためにこの素晴らしい日を分けるほど私はあなたに対してリスペクトをしている。だから上杉と織田は仲良くやりましょうということでプレゼントをしたんです。それが謙信の手元に届いたものがまだ残ってるんですね。
いやーだから後の国宝を送ったって思うとすごいね。 そうですそうです。謙信もやっぱりそれを大切に取っておいたんですね。そして上杉家滅びなかったためにずっと残った。そして上杉の大事なところは滅びなくても城が落とされたりすると物ってなくなっちゃうんですよ。大友総理が延岡とかにめちゃくちゃに仕立てた話とかもありましたけど。
焼けちゃったりとかするよね。 焼けちゃったりとか。だけど上杉はね、越後とか若松とか米沢とか戦争には負けてるんだけれども一度も城を落とされたりしてないんですね。時の威勢者の都合によって威風されちゃったりするだけであって、本拠地は燃えたりしないんですよ全然。
一番やばかったのはある意味内戦が起こった尾立殿の時なんですけれども、それをくぐり抜けてきた者たちは滅びる様子がないんです。大相撲だから。だからこんなものが残ってるんですね。教科書絶対載ってます。この落宗落会図。日本史の修行集とかで必ず載るものです。で覚えさせられます。の本物はここにあるんです。
これはね、国宝なのでそんなにずっとはないんですけれども、連年だと春と秋に特別公開があります。今回は春しかなかったようなんですけれども今年はね。
春は4月19日から5月18日の1ヶ月間あったということで、本物を見たい方はこの時期に合わせていっていただくのがいいかと思いますが、本物僕も実は見たことなくて、この時期に行かなくてもすごい高性能なレプリカがあってそれはまじまじと見られますので、ぜひ教科書で見たことあるこの一品を見てほしいと思います。
これがねやはり上杉博物館のすごい大きな見どころと言えるでしょう。
そしてこの施設があるのは、殿国の森という文化施設の中の一角が博物館になってる。それでもすごいボリュームなのでこれ相当時間かかるんですけど、この殿国の森っていうのをちょっと見てほしいんですね。
かっこいいなー。 かっこいいっすよねこれ。
洗練されたというか無駄なものがない感じがする。 いいっすね。
そぎ落としてそぎ落としてこうなった感じがするな。
そうなんです。この殿国の森の中に博物館があり、あとは農部隊とか市民ホールとかっていう市民の方が使う文化施設も一緒に入っていますので、その文化複合施設的なのがこの殿国の森なんですね。
この殿国の森っていう名前なんですけれども、ここに実は米沢のプライドというかすごいところが見えるんですね。
もう先日以来何度も話に出ているんですけれども、この殿国の森の殿国というのは米沢藩の名君として知られる植杉陽山の言葉に殿国の字っていうすごい有名な教訓があるんです。
手紙なんですけど、これが名前の裏になってる。
なのでちょっとここで深割りをしておきたいのは植杉陽山口の話をちゃんとしたいというふうに思います。
そういうわけで植杉陽山については、これ本当に市内行くと陽山口なんですよ。
マジで。なのでちょっと今回略称にしちゃうんですけど、植杉陽山の話なんですが、高辺藩の秋月家に生まれたわけですね。
ところが自分は次男だったので家族はお兄ちゃんの種茂がついて、これも高辺の名君として知られた人物。
母方の先祖をたどっていくと植杉家に実はつながってるんですね。植杉家と縁組みをしてその孫が陽山だったりするんですよ。
ですから米沢藩はその時後取りがいないみたいな問題が起こっていたので植杉の家もちゃんとついでるということもあって、かつすごく賢い子供だっていう評判が高かった。
ので米沢藩、明家植杉に迎える養子として白花屋を建てられたわけなんですね。
本当に小学生とか中学生くらいの時代に米沢に入って養子になったんですよ。
ところが当時の米沢藩っていうのは大問題があったんですね。
これは本当にあった話らしいんですが、この陽山の前の藩主は幕府に領地を返上しようと思ってたっていうんですよ。
どうしてか、もう財政破綻しちゃったんです。実質的に。
どうにもなんなくなっちゃったの。お金がなさすぎて。
もう家賃を養っていけない。土地のためを養っていけないから、すっごく屈辱的なんだけど、もう明家を倒産しちゃおうと思った。
自己破綻ですね。と思ったくらいのとんでもない状況だったんですよ。
なぜこんなことが米沢に起こっていたのかっていうのは、いろんな要因がかみ合ってるんですが、
一つはもし仮にこれが米沢藩が飢えすぎ家じゃなかったらこうはならなかったんです。
飢えすぎ家だからなってしまった根源的な問題があるんですね。
それは今まででもいくつかあってさ、プライドでしょ。
ちっちゃいから収入はそこまでできないんだけど、明家っていうプライドで色々予想を抱ったものを良くしなきゃいけないからお金がなくなる。
これの典型が森岡藩南武家。あれは津軽と伊達殿の見えない冷戦をやってたわけなんですけれども、それでしくじったって話はありました。
じゃあ飢えすぎはどうだったのか。結果としてみれば同じことなんですけれども、彼らはまた別の要因があったんですね。
何かというと先ほど申し上げたように飢えすぎ家は欧州の超巨大大名だったにも関わらず関ヶ原の戦いで死亡者として目されたので、120万国だった領地を30万国に減っちゃったんです。
若松、藍津地方全部募集されて米沢にだけになっちゃった。
当然のことながらこれ今の企業に置き換えてほしいんですけど、すごい規模の大企業が業績が回らなくなって、規模を縮小します。
ってなったらどういうことをしますか社内では。 リストラ。
そうなりますよね。まずは人員整理じゃないですか。そうしたらやっていけないから。
だけど飢えすぎはそれをしなかったんですね。 無理じゃんそれで。
そういうことです。さなから無理なんです。
つまり120万国のもう日本を代表する大企業の全ての人員を抱えたまま30万国になったんです。
確かに今の企業と比べて大変なのは社員だよね。そのリストラした社員をどうするのかっていうのは、もうそのまんま人生に直結する。
もちろんもちろん。
もうだから命だよね。
そうですそうです。
直結するから。だから今みたいにリストラしてさよならっていうわけにはいかないわけだよね。
でも実際他の政軍に就いた大名とかだいたい人員整理をしてるんです。
もっとひどい取り潰しとかになったらさ。取り潰しとかになったらもう鼻から論外なんですよ。
まあまあそうか。
人員縮小事態に倒産なんですよ。でも飢えすぎ家はそれをしなかったんですね。
これはね、美談としても取れるし、後々の考えるとすごく誤った経営判断でも取れるんで何とも言えないんですけど。
なぜ飢えすぎにこんなことが起こったかっていうと、一つはやっぱり我らはあの飢えすぎ権臣と一緒にカリスマとして生きたあの飢えすぎ家。
何を取ってもいくら小さくなっても俺たちは飢えすぎというものにプライドがある。
家臣たちも飢えすぎ家に仕えているっていうプライドがどんな苦情だって乗り越えられる。
っていうぐらい飢えすぎというものへの執着プライド愛情がすごかった。
なるほど。 国だかの問題ではないです。飢えすぎにいるかどうかが問題だ。
なるほどね。 っていうぐらいにまで権臣がブランディングしたそれの横が残ってるんです。権臣はとっくに死んでるんですけど。
あとは影勝という後継者も権臣のブランディングを踏襲したんですね。
だからこそもうゴタゴタが収まらない、家臣が言うことを聞かないところが始まって、仕方なくブランディングをやってたのに、それがいつの間にかもう飢えすぎというものに密着しちゃったんですね。
そのためその権臣を知らない若手家臣たちも飢えすぎはそういう家だと思い込んじゃってる。っていうのがまずだった。
そして影勝と名上金次はある意味これは権臣の流派を踏襲して断れなかったんです。やっぱりここでも。
なるほどね。 飢えすぎ家はそういう家だっていう風になっちゃってるんで、頼ってきたものを断れないんです。この人たちは絶対。
それ良い意味で捉えればもう飢えすぎと言えば一度しくじった。正直言って名上山代のせいでしくじりましたよ。
でも過労死で家は残った。じゃあ今後飢えすぎ家ってただの負けた家として終わっていいのか。ただの伊達最上みたいなわけわかんない奴らの方が領地でかくなっちゃって屈辱なんですよ。
それはやっぱ飢えすぎのアイデンティティとして世に何か問うべきものがあるとしたら領地なんて伊達最上の方がそれはでかいよ。
あの頼みはでかいけど、けどお前らにはないものが飢えすぎにはあるんだよ。わかってんのかと。それがやっぱ飢えすぎ家の義の精神なんだと。
名上山代の神はリストロスしなかったんですね。
いやーすごいんだけどね。それだけやっぱり獣神の影響力があったっていうのはすごいし、それに憧れて従っている家臣たち子孫たちもすごいんだけど、でも無理だよね。
そうです。はなから無理なんです。で名上山代とかの時代はまだ飢えすぎ家の蓄えていたものだったっていうのは取ってあったからまあまあなんとかここをおしのいでいた。
しかし江戸時代に経って100年とか経ってくると当然破綻するわけですよね。それの時期がこの養山が入った頃だったの。
次が回ってきた頃なんだ。ですからこの時の梅沢藩というのはとにかく社員が多い。社員が多いのに収入は少ない。
もうゴリ押しでそこは若手に寄与をして改革を進める。
若手たちはそういうわけでまずは出るものをなくさなきゃいけない。
この無駄に払ってる給料とか。
だけどプライドとして上杉でリストラはできないんですね。
そもそも米沢藩の家風としてそもそも。
ですから陽山はまずさっき言った通り南部と同じで藩主は派手な生活をしてたんですよ。
意地張って。
そういうのはもうプライドは捨てた。
要は米沢は貧乏ですっていうのを正直に言った。
どうしようもない貧乏な家です。
だけれどもリストラしないみんなついてくるのはだから義の精神があるという逆の発想で話をし始めた。
なるほど。
その苦境でもついてくるぐらいのまとまりとか憧れがあるんだ。
でもうまいのちょうだね。
それでも結局米沢はみんなついてくるんですよ。
だからそれまでの藩主の過微な生活とかを改めて、
陽山はもう食事もお粥とか一週一切みたいな。
殿様がですよ。
だったら家臣が酒飲んで暴れるわけいかないじゃないですか。
普通に考えて。
だからみんな質素奸役。
陽山もめんの服しか着なかったと言われてる。
殿様なのに。
普段はね。
失礼になるときはもちろんちゃんとしたでしょうけど。
っていうことをやって徹底的にまずコストカット。
リストラ以外のコストカットをした。
女中の数とかも減らした。
つまり米沢藩から織り出すはしないけど、
米沢に仕えてる本社勤務の人をどんどん減らした。
みたいなこともあった。
あとはもう一つ問題として、
森岡藩が徹底的にしくじった問題は何だったか覚えてますか。
徹底的にしくじった。
このとき東北地方に何が起こったか。
基金。
基金です。
特に天命の大基金とかって言われてるものが起こるんですけれども、
森岡藩はしくじったのは、森岡だけじゃないんだけどね。
東北の諸藩がしくじったのは、
もともと冷養な気候で、
当時は品種改良もないで育ちづらかったところに、
徹底的な全く米が育たない都市が出てきてしまって、
備蓄量も全部放出してしまって、
農民たち、庶民たちをどんどん飢え死にしてしまって、
それはもう語ることもできない、すごい精算な光景が生まれてしまった。
っていうのが起こって、それは社会問題になったわけです。
米沢ももちろんその類は間抜かれませんでした。
だけれども、なんでこんなことが起こってしまったのかっていうのを冷静に考えたんですね。
それはウイスリーのプライド問題になぜ農民たちは宅配がなくて死んでしまうのか。
それは、まず一つは考えたのは、
農民たちは頑張って耕作して育ててるんだけど、
お米を育てること、年貢はなっちゃうから、それみんながんばって育てるんだけど、
食べ物って考えると、別にお米だけじゃなくて言って生きていけるわけじゃないですか。
茄子だってもちろんあるし、お芋だってあったりするでしょ。
ただ、実は身近にあるいっぱい食材と投げるものを、
知らないままこれ食べれないと思ったまま、
食材に転用できなくて死んだ人がいっぱいいたんじゃないかというふうに思ったんですね。
その時に思い描いたのは、
ふるさと高鍋のお兄さんの姿。
彼は何をしたかというと、
繁校において身分を問わずに農民たちにも勉強することが大切だって怒って、
学問をさせた。
それで農民たちはいろんな知識を持って自活できるようになっていった。
ヨウザもそれをやろうとしたんです。
これ今も高校に残ってるわけですけれども、
工場館というものはもともとあったのが一回閉じちゃってたんだけど、
それを再興してすごい有名な学者を招いて、
まずは藩主に徹底的に教育させる。
そして工場館も身分制度問わずに、
当時の身分の下の人たちも入学がOKだった。
この知識さえみんな農民が持っていれば、
もっと死ぬ人が少なくて済んだんじゃないかと思って、
自分でマニュアルみたいなのを作ったんです。
つまり身近にある食べられる百科全書みたいなものを作って、
それを農村に配布したんですね。
だから農民たちにとにかく、
自分たちで生きる術を自活するっていうことの大切さと、
それが可能なんだとやり方によって、
科学の力を持ってすればってことを、
ちゃんと説いて回った。
っていうのがまず一つ大きなコースです。
つまり、四日沢の経済なんてもう終わってますから、
藩がこれから米を買って金を得るなんて、
今はすぐできないから、
まずは農民たちの底上げをしなきゃいけないと思った。
とりあえず生きる方法を広めた。
そう、当然農民たちが生きていけないと、
ただでさえ苦しい四日沢の経済は、
もっと米が取れなくなって終わっちゃいますから、
それが何よりも大事だと思う。
そしてヨウさんの有名なエピソードとして、
彼は本当に現実に立った四日沢の農民たちっていうのは、
どうして苦しい生活の中で、
何を守ってみんなが生きてるのかっていうことを、
知りたかったそうなんです。
ですから、よく水戸口門とかがドラマでさ、
お忍びでさ、どう見ても忍んでない感じでお忍びでさ、
ウイロー、あれを持ってさ、
陰牢がね、持ってこの門どころが目に入らぬかと、
言った時に、あ、口門様だったのかつって、
悪大官たちがひるよくじゃないですか。
あれは日本は完全懲悪の物語でね、
水戸口にという人物が名人だったっていうことで、
由来した創作なわけですけども、
ところがね、ヨウさんの場合これがマジだったんですね。
四日沢市には一通の手紙が残ってるんです。
それは何かというと、当時の四日沢の山の方にいた、
小さな名もなき村のおばあちゃんが、
娘だか孫だかに残した手紙なんですけど、
何が書いてあるかというと、
リーダー、この時の江戸時代の藩主というもの、国を治める者というのは、
全てこの藩、国のため、民のために存在する行動するものが藩主なのであって、
君主のために、そのためにやるのが国民とかではない。
つまりあくまでも領民とかこの藩というもののために、
自分が一番努力をしなければならないこれが藩主なんだと。
この3箇所だけを言った。
天命5年、2月7日、春の日。
これはヨンさんの本名ですけれども。
できた人だな。
そうなんですよ。
すごいなんかこう、不感というか、
いい意味で自分を捨ててる感じがすごくあるね。
いい意味で自分を出さないんです。
でも本当にその国とか、領民のために、
とにかく自分は無きものにしろ。
そう、私利私欲ではないんですよ。
これはまあね、いろんなことを考えられるんですけど、
僕が思うにだけど、
彼はやっぱり上杉に生まれてないからこれ言えると思うんですよ。
というか要はすごく客観的な、ある意味コンサル的な立場でも、
の視点を持てた人だと思うんですよ。
そろそろ養子から入ってきてる。
そして上杉っていうとんでもない家じゃないですか。
いい意味でもね。
日本に唯一の名家じゃないですか。
それを潰すわけに絶対にいかないじゃないですか。
よそ者として入ってきて。
そうだよね、よそから入ってきて潰したらだいぶ悪く言われるからこれね。
だし本当に潰れちゃいけないし。
だからこそ自分はあくまでも、
上杉家のつなりのパーツになっただけの存在だっていう自覚がすごく強かった。
後世にはまあ嫌いの命訓となったけれども、
あくまでも上杉と米沢派の存続のためのパーツとして一時的に入って、
これを継承することだけが自分の人生だと思う。
そしてそれをできた。
そもそもその役割としてきて、
実際にそれをやって、
これが大事なんだっていうのは多分、
どんどんどんどん自分の中で強固になっていったんだろうなという感じがするね。
これが言える殿様ってなかなかいないと思いますよ。
今の民主主義じゃないですから。
家に生まれれば殿様になれる時代ですよ。
そうだよね。
だからいくらでもそういうことをやっちゃう殿様がいるわけですよ。
自分のために財を継ぎ出す。
そうならないようにってことを言ったんです。
すげえな。
ある意味民主主義的なところがあるんですよ、この人。
ある意味で言えばね。
っていうので有名な話ですけど、
このことってやっぱり後世、
陽山は最後江戸時代、別に病気で亡くなるんですけれども、
その後幕末維新となっていって明治に入っていって、
いろんな人が歴史を振り返る、
歴史学というものがいろいろ起こってきた時に、
例えば内村勘蔵という有名なキリスト教の北海道大学の人がいますけれども、
ああいう人も、とかいろんな人が
上杉陽山という人の思想というのは素晴らしいものだ。
今の明治っていう近代で平等になった異性者たち、
選挙で選ばれる異性者たちにとってもこれは絶対に必要なものだしっていうことを、
ちゃんと今こそ陽山のことを振り返らなきゃいけないんじゃないかって記録したんです。
それがある時、海外の方にも伝わっていったんです。
その結果何が起こったかというと、
アメリカの大統領のジョン・F・ケネディさんっていますよね。
彼は日本に来日した時に日本のことを聞かれて言ったのが、
自分が尊敬している日本人が一人いる。
それが上杉陽山だって言ったんです。
ケネディは自分が政治家としてのお手本は、
この上杉陽山だっていうふうに言ったんです。
へー。
すごい。ケネディが知っていることもすごいし。
そうです。
言ってたことを見ると、本当に時代問わず大事な信念だなっていうのがわかるしね。
今の日本の政治家、政治家だけじゃなくてね。
我々ような素人にでも組織に属している。
あと下に部下とかいるのであればね、っていうのもあるでしょうけど。
上杉陽山に社長を上司にしたっていう。
通じる精神だよね。
へー、すごいね。
ですからケネディ大統領はね、日本ともすごく親日家でもあった人だった。
リップサービスというのももちろんあったと思いますよ。
日本に来たってところもあってね。
だけど知ってたのは事実なんです。
ですからケネディ大統領はね、その後暗殺されてしまって、
何年か前にキャロライン・ケネディさん、娘さんがね、
日本の大使になりました。中日大使になりましたよね。
その時彼女はヨネザーを訪れて、そこにね石碑、ケネディ大統領の石碑も建ってます。
ヨネザーの陽山の下にね。
それが民主主義とかそういった政治の誰もが尊敬する世界のお手本なんだ。
上杉陽山っていう石碑が今は建ってたりします。
あとはまあね、この名言はね、聞いたことあるんじゃないでしょうか。下の方ね。
なせばなる、なさねばならぬ、何事も。
ならぬは人の、なさぬなりけり。
これはね、知ってる人も多いんじゃないかと思います。
この言葉はね、みんな聞いたことあるんじゃないかな。
これも陽山がね、伝えた言葉ですね、名言の一つですね。
俺割とこれ好きなんだよな。
何かを成し遂げるためにはまずやらなきゃいけないよっていうことですよね。
そうですよね。
いやでもそれは本当ね、そうだなって。
まあね、それができるかどうかっていうのがまた、できてない気がするけど。
でもそれはなさぬのかもわかんないけどね。
しかも成らないってことは人が成してない。
だからチャレンジとか行動とか何かをしないとならないのはありえないわけですよ。
そうだよね。
だからやっぱり陽山のこの殿国の字にしろ人生にしろこの名言にしろ、無駄なものがないんですよ。
一言で言うとすごくシャープなんですよね。感性と頭脳が。
必要なことを粛々と行動していくっていうね。
必要なものを必要な方法で必要なタイミングでやれば成すんですよ。
それをできない代名が多すぎるから日本はおかしくなってるのであってっていうのを米沢藩姿もそうだったと。
それが一般的な陽山公のすごいところである一方で、これはちょっとうがった見方であんまりかもしれないんだけれども、
上杉というものに養子に入っていくっていうこの圧倒的不利な条件のことを思うとね、
彼は自分で言ってるんですけれども、どうも高辺藩から養子に出される時に、高辺藩というのはやっぱりすごい藩でしたから、
その高辺のある家臣、養育している家老みたいな人が、上杉家というものはあなたが思っている以上に本当に素晴らしいところであり難しいところなんだと。
だからこそ参考にしなければならないことがある。
それ何かといってその高辺の家臣が渡したものが直江山代の神の伝記だったというんです。
直江山代の神というのは、つまり関ヶ原の戦いの時の、金勝を家族につけた上杉家の名がろう、戦国時代の。
この人のことをちゃんと学びなさいって言ったという。
そして養藩は、実際に直江金次の事跡というものを今風にアップデートした結果が今のことなのであって、
自分が考えたことでは大してないんだってことを言ったという。
これは一方では本当にすごかったかもしれない。
そして僕が思うにやはり養藩というのは賢い人でしたから、上杉家の昔からの家臣たちに対するポーズだったとも思います。
つまり要してよそ者で入ってきた、なんだあんな山行きの奴は、高辺なんだよ高辺はって言ってたのに、
いやいやあの人は実はすごくちゃんと学んでるよ子供だけど。
なぜかって言ったら、あの我らが直江山代神様のあれをちゃんと勉強してそのことを知ってて、
それに乗っとってやってるって言ってる。
やるじゃん。上杉の分かってんじゃんちょっとはみたいな。
になったんじゃないかなってちょっと僕は想像もした。
両方ありそうな活躍があるよね。
名君だな。
名君ですね。
すごいな。
ですからもうちょっとちょくちょく挟んでますけど、本当に米沢の人は養山こうって必ず言います。
養山って言わないです。
表現してなんかできない。
できない。
で僕らも気をつけなきゃいけないところです。
今回はちょっとポッドキャストをこうっていう値にする人いっぱいいますから、
それでもこれまで全部ね、失礼ながら予備戦してましたのでもうこのまましちゃいますけれども、
それぐらい本当に米沢というところに、
そして日本世界にも政治家のお手本として見られたぐらいのすごい人なんです。
当然教科書に載ってる人物です。
ということでね、この辺の話もちゃんと知った上で、
次の目的にちょっと行ったわけなんですけれども、
植杉博物館から徒歩3分ぐらいのところにあるのが植杉伯爵邸です。
綺麗な立派なお庭とお家と、あれお食事所?
そうです。
さもね、歴史スポットだけに紹介したんですけど、実はレストランです。
建物だけでもすごいし。
すごいです。
ただこの名前がします通りなんですけれども、
この植杉博物館というものは、旧米沢藩主植杉家の近代の住処だったところです。
米沢藩は幕末維新の時には応越列般同盟側についてしまっているので、
母親戦争で負けましたというところになっちゃったんですけれども、
結局植杉家は残りまして、大正時代に建てられたものがこの植杉博物館で、
ここに植杉家の徒歩主がずっと住んでいたということですね。
それが建物が残っているわけです。
ちょうどこれ1925年にできていますので、今年で100年になるものですね。
これが今はお食事所としてレストランになっておりまして、
素晴らしい風格の建物の中で食事をとれるわけです。
いやーちょっとこれはシャンとするというかね、ピリッとするね。
何が食べられるのかと、おこんだてですからね。
これですね、健全料理と言いまして、植杉伝統の料理という。
お殿様に食べていただきたいという最上級の料理ということで、
おもてなし料理なわけですね。
このお膳を献上するわけね。
そういうことです。
それで健全料理ね。
9つのお椀だったりとか、お鉢が入っているわけですけれども、
これが何なのかというと、それぞれ米沢の郷土料理なんですね。
節月下というふうにランクでいろいろあるわけなんですけれども、
例えば一番リーズナブルな雪の膳ということで言うと、
鯉のことことに、これ米沢鯉有名なんですね。
ですとか、おかひじき、これぜひ思い出してほしいんですが、
道の駅米沢の沖玉伝統野菜の中におかひじきちゃんと入ってましたね。
そして米沢牛の芋煮とかね、いろいろありますけれども、
お水漬けっていうのも有名ですね。
というもう本当に米沢エッセンスをね、詰め込んだものになっている。
それがちょっと月間の方にお金も伸びていくと、
これに米沢牛のローストビーフが付いたりとか、
米沢牛のステーキが付いたりとか、
ということになっていくわけです。
で、僕はね、大変かぶんながらね、
なんと大学生のときに手待ちして、
雪の膳しかもちろん食べれないんですけれども、
すごいちょっと奮発して食べましたね。
おいしかったですね、すごくね。
ただね、今お金があったらと思うのはね、下行っていただくとね、
すごいもの出てきますね。
米沢牛全、そして米沢牛おもてなし料理ということでね。
すき焼きもあるじゃん。
そうです。
これが一応ね、バーテンダーさんの見解に倣えば、
米沢牛は焼きよりも煮るほうがいいということなので、
すき焼きもあるんですね。
まあまあすき焼きはね、8800円ですね。
さすがにすごい値段ですね。
まあただこの風格とね、
伝統のこの上杉系で食べれるというところも含めてですね。
いやすごいな。
すごいな。
それがちゃんと大切に守られてるのもね。
そうですね。
どれだけ柱だったかっていう感じですね。
そういうことですね。
やっぱりこのプライドがあるからこそどんだけ苦しくても、
米沢の人たちは米沢派に使えることを誇りに思ってたんだと思います。
普通だったら自分から離れてっちゃうもんね。
いやそう思いますよ。
こんな無理っていうね。
すごいっすね。
でこの当然山道の中にはね、上杉謙信の像もありますけれども、
洋山口のね、上杉洋山の一番有名な銅像も建っているので、
こういった上杉の本当に聖地としてなっている。
そしてこの社殿ね、この宝物でもそうだし、社殿もすごく綺麗なんですけれども、
これは米沢が生んだ偉人の一人である伊藤忠太さんというね、建築家です。
明治時代に生きた日本の建築の木工家にね、すごい活躍した建築家で、
有名なところで言うとね、東京の靖国神社、明治神宮、築地本願寺、
あの辺りを全部建てた人です。
すごい。
特に社寺建築の名所としてなった、
もうすごい日本の近代建築史に絶対に名前が出てくる人ですが、
これは米沢藩に生まれた人です。
そして面白いのはね、この伊藤忠太さん、米沢の上杉神社を作るのはまあわかりますよ。
故郷ですからね。
なんだけど、実はね、甲府にある武田神社を作っているのを伊藤忠太さんが作っている。
だからあのね、武田上杉はああいうことになってたわけですけど、
それぞれの神様は共に同じ建築家が神社を作ったという、ちょっと嘘のようなエピソードになっております。
どういう心境なんだろうね。
そうですね。
まあそういうところからしても実は武田上杉はね、通じてたんじゃないかと僕のお話はしましたけど。
というところでね、ここはぜひね、ちょっとあんまり本当にふざけないで、ここはまあ通りです。
本当に米沢の人が大切にしているところなので。
歴史の旅だったらこれが最後になるんですが、今回はね、何をしに来たんですか山形に。
徹底してんな。
そういうことです。
ということで最後もやっぱりお酒を飲んで帰りたいわけですね。
ということで、上杉神社からちょっと城下町の方に行きまして、15分ほど歩いたところにあるのが、酒造資料館東郊の酒蔵さんです。
酒蔵、日本酒で占めるっていうことですね。
そうです。
この東郊、東の光と書くわけですけれども、これは非常に有名なお酒ですね。
なんか見たことある気がする。
あると思います。一度は見たことあるんじゃないかな。
もう米沢がずっとついていて、なんとその創業はね、慶長2年、1597年なので、関ヶ原の戦いの前、戦国時代に、和地桃山時代に結婚。
に米沢で開業したものなんです。
すっごいな。
なので今の会長さんかな、なんと23代目だそうです。小島さんという方なんですけれども。
だので当然、この東郊の酒を飲んだことのある人物として、謙信は飲んでませんね。謙信はそのままに死んでるのでね。
ですが影勝、直上山代の神、そして上杉王山さんも飲んでた可能性は全然あり得るものです。
実際この東郊小島総本店さんなんですけれども、小島家は代々米沢藩の御用酒蔵となっているのでオフィシャルなんですね。米沢藩のね。
じゃあ飲んでるね。
かもしれません。
そういうわけで米沢藩は財政はもうどうにもならない状態でしたから、禁酒令みたいなの出されたこともあるんですよ。
もう贅沢して遊んでる場合じゃない。
でも米沢藩はその時はやっぱり家計として上杉の教授はありますから、例えばじゃあどっかの殿様が米沢の家中に来た時に当然おもてなしをしなきゃいけない。
その時にうちの米沢藩酒ないんですよね、だと示しかつかないんですよ。
そうだね。
なるのでこのオフィシャルになっている東郊だけはいい、醸造しても。
なるほどね。
っていう特許をもらったっていうことも有名な家なんです。
それのおかげで今まで続いてるわけだね。
そういうことです。
ですからこの人たち小島総本店さん、東郊さんについてもただ単純にもちろん美味しいお酒を作るというだけではなくて、そういう米沢の歴史とともに歩んできたという教授がありますから、
この酒造りと米沢の歴史についてもすごく深く見学をしてくれるんです。
この酒蔵の規模は東北地方最大級というふうにあります。
すごいことありますこの酒蔵。僕も今まで行った中で一番大きいですこの酒蔵。
だって東北なんて酒蔵いっぱいあるでしょうね。
そうですね。
その中で一番なんだ。
戦国時代に、要は僧侶時代に使っていたビゼン焼きが残っているところから始まって、ほんとあるんですよ。酒の壺みたいなもんですね。
からもうこれ二人分くらいこんなもう何人で抱えたらいいんだろうってくらいの樽。
これはちょっと見通するのに思い出しました。あの感じです。あの感じがもっと並んでる。
当然昔の江戸時代はキリストがあったりとかしまして。
そしてこの竹で編んだこういうものだったりとか細かな酒造りの手法だったり。
あとは酒の神様である奈良県大宮神社の分礼みたいなのを祀ってたりしたりとか。
あとは小島の皆さんが住んでいた有意所正しい風格あるお家が公開されています。
すごいね。
だからこの間我々水芸の酒蔵見学しましたけど、あれはもう最新のやつだよね。
それの昔バージョンを見れるっていうことですね。
そういうことですよね。
これもちょっと見学したいね。
そうですね。ここは資料館が酒蔵になってるので、それだけなら予約なしで見られますので。
これは普通に資料館として見ることができます。
いやいいな。この建物から何から樽から何からすごい歴史を感じるし、それだけずっとお酒を作ってんだなって思うと。
うん。
次飲む投稿が違って見えるね。
ということでね。
飲みましょう。
飲みましょう。
なんとこの資料館最後のところには木の丸テーブルが遠隔用意されてまして、そこで飲めます。
ヨネザワのこのシチコフィミツが流れてるんですけども、それ飲めるんですね。チェイサム甘美という素晴らしいコーナーがありまして。
そこでまず飲めるのと、資料館見学した後にも行けるし、資料館有料なんですけれども、ショップは外からも入れるショップが別にあって、そこは無料で入れるんです。
その中には初日に行った出羽桜さんと同じように、お酒のシーンコーナーがあります。これも有料なんですけど、コインを買って飲めるお酒があって、
それを飲んで、僕らは3種の飲み比べみたいなのをやっちゃったので、飲んで、結構飲めるんですよ。飲んで、いいねとか言って、
で、資料館に戻って、そのチェイサーを組んで飲んで、またショップに入っていってみたいなリスト運動をしてましたけど。
でもすごく広くてね、いいですね。 そうそう、こうやってスタッフの方がついてくださるんですね。
いいなあ。いっぱい飲み比べができるわけだね。 そうです。
で、ちょっとラインナップを見ていただくとね、本当にいろんなコンクールを取っているのがあるので、本当に味も多彩でね、いろいろ飲めるわけなんですけれども、このお店ならではだなと思うのがですね。
かっこよ。すげえ真っ黒な箱とラベル。
これ何かっていうと、さっき言った通り日本に酒蔵は数あれど、1597年からできてるんですよ。なので、原点回帰。創業時の亀による酒造り。
安土桃山時代に創業し400年以上酒造りを伝えている小島総本店が、岡山ビゼン焼き作家、さっきそのビゼン焼きが残ってる話しましたけれども、その亀仕込み、それによってやってる。
もう今ビゼン焼きでもそんな当時の酒亀なんて巨大なもの作る人なかなかいないそうなんですけれども、その作家さんでもって当時と同じような方法で作ったんです。
っていうすごいチャレンジ作。だから安土桃山なんです。
でこれ値段を見てもらうとね、四合瓶でなんと13,200円。すごいプレミアなんですよ。数量限定。飲めないじゃないかと。飲めるんですねこれが。
試飲できるの?
そうなんですよ。
マジ?
これ試飲できるんです。
すげえ。
すげえ太っ腹ですよ。
えー飲みたいよ。
飲みました。
どうですか?
一言で言うと、すごく抑制された感じです。酒のやっぱり、これが当時のもしかしたら味だったのかもわかんないけど、苦いとかじゃないんだけど、トーンが華やかさとかじゃなくて、酒の味をただ単純にしくいトーンで抑制されたままの旨味を醸してくるっていう感じで、今の日本酒とちょっと違う感じがしますね。
ちょっと前に飲んだカトリ。
はいはいはい。
もうさ、あれは昔の書法で作ったお酒っていうことで、雑談会でも飲むじゃないですか。あれと比べてどういう感じですか?
あれと比べると、よくも悪くも癖がないです。こっちの方が。割とこうね、低いところを単一にガッというか淡い感じですよね。カトリはやっぱりちょっと酸味とかでね、かなり独特の癖があったと思うんですけどね。
癖ありつつガツンとね、甘みもあったし、味が濃いというかね、華やかな感じは確かにあって。
これはそういう感じじゃない、それは逆においしいところもあるんですけども、割と物通りな感じだよね。
へー。
シンプルな抑制されてるもんでしたね。
そうか。じゃあなんか、時代もね、違うんだろうけども、昔の手法だからっていって似た味になるわけでもないんだね。
それはもしくはわかんないですね。当時の味は僕はこれが知らないし、これだって完全再現ではないですけどね。
ああそうか。亀で仕込んでるっていうことなのか。
そう、結果こうなったっていう実験作でもあるわけです。
ああなるほどね。
でもやっぱりここでしか飲めない。そしてあずち桃屋なんて言える酒蔵は日本に何個あるのかって言われてる。
確かに。
はい。
へー、飲みたいな。
うん。なのでここでね、日本酒をしにいただいた上でね、買っていただいてお土産にしていただけるといいかなと思いますし、
やはりさっき言ったようにここは本当に米沢の歴史とか食文化ということにもすごい思い入れの強い会社ですから、
上杉洋産工の展示室もここにあったりするんですよ。酒蔵の中に洋産のコーナーがあったりして、
そこで洋産の実績だったり、どんな医療を成し遂げたかってことの展示室もあったりもします。
この人が自分で作ったものなんですよ。
へー。
と同時にね、ちょっと前に戻っちゃいますけど、米沢流の恩人であるね、チャールズ・ヘンリー・ダラスのコーナーもあったりします。
へー。
ダラスと米沢流の歴史を語っているコーナーもあったりしますので、
やっぱり米沢の食文化のある意味も元締めというか、
確かにね。
ということでね、すごい丁寧にね、いろんなことを教えてくれる資料館になってますね。
へー。
ここでね、もうゆっくり飲んだりしていると、相当な時間になっていると思います。
歴史旅であれば、上杉家廟所とかね、他の資料館にも、要は献身の墓が、洋産の墓があるところとかも行ってきたんですけど、
今回はちょっとね、何をしに来たんだと言われたらね、酒を飲みに来たわけですから、
さすがに上杉神社の前はやめたんですけども、こういうことで最後、重いので荷物もね。
そうね。
日本酒を買って、米沢駅に帰る。ということでね、旅を閉じたいと思いますので、
そこから徒歩5分ほど大町1丁目のバス停に行きまして、米沢市市街地循環路線、今度は左回りですね、に乗りまして10分ほど米沢駅前のバス停でおります。
そこで荷物をピックアップしまして、17時25分米沢駅発の山上新幹線に乗りまして、東京駅へということでこの旅は終了という感じですね。
この番組ではお便りを募集しています。
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そして我々のマイマップ、年表、ノートございますので、それぞれご参考にしてみてください。
最後はなんかちょっとしっかり締めた感じがありますね。
そうですね、さすがにね。
いやー、にしてもやっぱこの旅総括するとお酒が楽しい。
楽しいんだけど、それだけじゃなくて深みにどんどん触れていく感じがありますね。
やっぱりちょっと僕は印象的なのは2日目の昼間、ゆっきー酒店さんといろんなお話を聞いて、その後実際に自分でワインを作る。
ここはやっぱり得難い体験だと思うし、ただ楽しむだけじゃないなっていう感じがありますよね。
そういうことです。もうおっしゃる通りね、飲んでるだけじゃないんですよね。
このお酒というものの魅力だったり、そこにかける人の思いだったり、それを作る人の努力思いもあれば、それを売る人の努力思いもある。
そういったものを得た上で、我々は美味しくお酒をいただいているっていう、改めてその幸せとね、本当に時間というものに敬意を表したいなっていうのも実際思うし、
その一旦でもね、少しワインを一部工程だけでも知ることができて、ただもちろんそれはすごく楽しい作業でもあるので、
実際そのお酒がどうなったのかっていうのは僕もまだわかりませんけれども、そういったものもあるよね。
ただ何をとってもやっぱりね、もう山形というものの豊かな土ですよね。
いやー、なんか本当に豊かだし、それをなんかすごいちゃんとオリジナリティがあるものとして、いろんな方法でね、提供してくれてる感じがするな。
なのでね、ちょっとね、タイトルの改修みたいなところにも入るんですけれども、今回もおよそわかったんじゃないかと思うんですが、
タイトルね、ハンドメイドヴィンテージ、150年目の収穫祭へというところでね、
このハンドメイドヴィンテージのヴィンテージというのはね、要はもうワインの年代もの一言の単語であって、
今はもうそれ以外のものもね、ヴィンテージものなんて言いますけれども、もともとはワインの話ですよね。
今回結構ハンドメイドっていうものにすごいこだわっていたのは、四金園さんでやったもちろんワイン作り、これが典型ではありますけれども、
同時にその2日目の夜のね、こんだてを自分たちでハンドメイドするというのもありますよね。
ですとか、要は我々が作るハンドメイドもあれば、そういうふうにしてお酒を作る、ブドウを作るっていうものもあるし、
こういった冊子を作るハンドメイドだったり、その手作りっていうものの温かさだったりとか大変さだったりっていうものが、
やがてそのヴィンテージ、素晴らしい価値を持つ年代の歴史を作っていったっていうその山形の、
そして今も作られている、現在進行形でね、それがもしかしたらその四金園でいうところの20年後に線を開くね、このものになっているかもしれないし、
そういったヴィンテージ、いろんなところの歴史だったり、ワインだったり日本酒だったりビール、何でもいいんですけれども、
それぞれに歴史的な価値を持っている山形の魅力というものが、みんなそれぞれの人の思いを表した手作りだったっていうところにすごく共感して、
それはやっぱり僕は有機酒店さんにすごくインスピレーションを受けて、これが今回のたたみはびとしてふさわしいテーマなのかなというふうに思った次第でした。
いやー、いいですね。何だろうな、脈々と受け継がれつつ、それぞれが自分の好きなものとかいいものを伝えようとしている感じがすごいあるなって気がしましたね。
あとは後半の150年目の収穫祭のことなんですけれども、これ実は今一切このままで3日間話してこなかったんですが、
これ配信時期の関係で本当に申し訳ないんですけれども、この2025年という年は山形にとって特別な年なんです。
これ何かというと山形でフルーツ栽培が始まってから150年目の年ということで、今山形県に行くとすっごい盛り上がってます。
もう駅のいたるところに150周年記念のポスターが大々的に貼られてるんですよ。ちょっと見てみましょうか。
今年限定のポータルサイトもできてるんですよ。一途に果実、山形フルーツ、150周年。
そう、作り始めがわかってるんだ。
これどういうことかっていうことなんですけれども、何で150年カウントなのかっていうことなんですが、
もちろん江戸時代、資金園さんとかがあったあたりは米沢藩がもうぶどうの栽培とかをしていたそうなので、
それでいうともっと前からあったんですけれども、ただちゃんとフルーツの栽培っていうものを本格的に取り組み始めたのが明治8年、1875年のことなんです。
どうしてこれが始まったかということなんですけれども、この時明治政府は日本の食産工業というものをやろうとしていました。
つまり日本が近代化するにあたって産業としていろんな可能性を模索して育てなければならないと思った。
そこでこのワイン云々というフルーツ、果実栽培というところにも一つ農業の新しい可能性を感じていて、それを実験をしてた時期なんですね。
この時内務省というものがあったんですが、この時内務省からいろんなそのフルーツの苗木っていうものを各都道府県に支給されて、これを育ててみろと。
どこのフードにどの果実が適しているのかっていうのをいろいろ検証していったんですね。