ということで、4日目ということで、最終日ですね。
3日目の昼くらいに森岡に着いて、そのまま森岡に泊まっているということで、4日目を迎えるわけですね。
じゃあ早速いきますかね。
はい。
お願いします。
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前日、森岡市内中心部の宿に泊まっているという想定でいます。
森岡駅からだいたい森岡城までの間に広がっている大通りっていうようなエリアが一番の繁華街になっています。
森岡駅からだいたい東側に5,6分あるいは10分くらいのところにホテルを通っているのが理想というふうに聞いてください。
その上でビジネスホテルとかだと思うので、ちょっと朝ごはんを食べに行きたいと思うわけですね。
宿からだいたい10分から15分くらいで着くんじゃないかと思うんですけれども、福田パン長田町本店です。
朝ごはんに土地のパン屋に行くって結構やってるね。
僕がそうなんですよね。普段も朝ごはんパン派なので結構行ってるんですけど、これはもう超有名店ですよ。
森岡のソウルフードとして非常に有名なお店です。
ただのパン屋じゃないです。
写真すごいね。ふわふわなのが写真でわかるね。
そうですよね。ちょっと見てみましょうか。
たぶんね、ただのパン屋じゃないのがおのずとわかってくると思うんですね。
見せ構えも素敵だね。かわいらしい。
ちょっとシルバニアっぽいね。
そうですね。まさに赤いお屋根のね。
コッペパンみたいなのの種類がいっぱいある感じなのかな?
そうですね。今タブログでね、写真見てるとコッペパンが非常にいろんなものが出てきますよね。
てかほぼほぼコッペパンだね。
種類がすごいよね。
そうなんです。もうね、今気づいてくれたんですけれども、福田パンといえばまあコッペパンなんですよ。
ところがね、このコッペパンねすごくてね、これわかりますか?何を意味しているか。
すごい種類あるな。ほんとすごいなこれ。
そう、これほんとにすごいなこれ。
トッピングもすごいいっぱいあるしね。
そう。
サブウェイどころじゃないねこれ。
そうそうそうそう。
ほんと甘い系からなんかとんかつとかね。
遊輪中とかもあるのね。
おいしそうだな。
そうこれね、コッペパンのパンの中にもうほんとにほぼオーダーメイドといっても差し支えないくらい、自分で好きな組み合わせもできる。
しかもこれ選ぶだけじゃなくて組み合わせできるよね。
なるほど。
だから組み合わせ人気ランキングなんて書いてありますけれども、アンバター、ピーナッツバター、ジャムバターみたいなね。
こういったイメージで言うとクレープを頼んでるのに僕近いと思ってるんですよ。
はいはいはいはい。
っていうね、要はほんとにありとあらゆるスイーツ系から食事素材系の味わいというのを自分で選んで好きなようにトッピングできるっていうね、超有名なコッペパン屋さんなんです。
しかもこれ165円とかそういうこと?
そうなんです。
安すぎるね。
めっちゃくちゃ安い。
しかもボリュームは結構あるんですよ。
人気のメニューで言うと焼きそばとかもあるわけですよね。
しかもナポリタンっていう謎のものもあるんですけれども、こういうものをパンに詰め込めばなおさらガッツリ朝から食べたいなって人はいけるわけだし。
それを2つぐらい頼みますよね大体ね。
そうだね。
だからお惣菜系で1つとスイーツ系で1つって僕大体やりますね。
一番高いやつでもエビカツとかイビンチとかで545円。
だから全然2個3個とかでいけるよね。
いけますいけます。
4桁になることあんまりないんじゃないかと思いますね。
というねパン屋さんでね、これすごい有名なんですよこのお店。
もう本当にここ何十年も森岡で愛されているお店で、今で言うと50種類以上の組み合わせがあるというのでもう本当に飽きないんですよね。
大通りからはちょっとね10分ぐらい離れた住宅街の中にあるんだけど並びます結構ここ。
この間僕たち秋田行ったじゃないですか去年。
僕だけ森岡に前乗りしてたと思うんですよね。
アルセヌルパンとか行って。
翌日僕らは森岡の駅の改札で待ち合わせたと思うんですよ。
あの時に僕が時間になんかだらだら遅れてしかも走ってハンソルで来たんですね。
あれは福田パンさんで並びすぎて時間がやばくなって慌てて食べてそのまま走ってきたからなんです。
なのでここに行ったんですよ。
いつも行ってるんですけど。
あの時もだからね結構朝早く起きたんだけど30分ぐらい並んだと思いますね。
入るまでに。
そんな並ぶパン屋ないよね。
ないですないですなかなかないですよ。
しかもまぁ一茶なんだけど本当にただの地元のパン屋さんという感じになるんで見た目はね。
ただ中入るとやっぱりすごくて。
かつまぁ並ぶ理由があるとすると迷うんだよね。
これはまぁ自分自身がそうなんですけどね。
種類がすごいからね。
そうそうそう。
で僕なんて当然たまにしか行けないですから。
あのいろんな組み合わせをまだ試してる途中ですけど。
でもやっぱりこの間のが美味しかったからピーナッツにしようかなとかなんとかってそういうことを言い始めるとあーみたいになっちゃって。
っていう感じですね。
なるほどね。
でここはねそのイートインとかはないんですけれども。
なので皆さん結構車で来る人も多いですね。
ただまぁあのお店の前でちょっと食べたりとか。
あとはねあの僕個人的におすすめなのはこの福田パンさんで買ってから森岡駅方面に15分くらい歩くとですね北上川にあたるんですね。
北上川っていうのはテラス席とかもね夕方ビール飲めたりとかって話しましたけれども。
そこの川沿いで食べるのがね僕は個人的に一番おすすめです。
なるほどね。
まぁ夏だと暑いかもしれないけど。
季節とか天気によってはいいんじゃないかなという気がしますね。
いいね。
そしてねこの福田パンさんさっき内田が見た時にシルバニアみたいだねって話したと思うんですよ。
でこれね実はあながち偶然ではなくて。
まぁシルバニアっていうのはちょっとあくまで一つの例えなんだけれども。
どこかちょっとそういったメルヘンチックなね可愛らしいお家じゃないですか。
これね一つ実はこれからの話に関わってくるんですけど。
このね福田パンさんはもう本当に何十年も愛されているわけですが。
その創業者の方福田留吉さん。
まぁ元々及川さんって言ったそうなんですけど。
及川さんっていうのは森岡にめちゃくちゃ多い苗字ですね。
及川福田留吉さんっていう方がいたそうなんですけど。
なんとこの人はね花巻農学校っていうところの出身。
花巻っていうのは今空港がある森岡の南の都市ですね。
で宮沢賢治さんの教え子だった人なんです。
宮沢賢治の話はこれからしっかりするんで今は話しませんけど。
まあ童話作家としてね。
おそらく日本でも本当に一番有名といっても過言じゃないんじゃないか。
多分知らない人いないんじゃないか。
教科書にも載ってましたよね。
あの人は今手のこの花巻の出身で。
今ではやっぱり童話作家として名が残ってるわけなんですけれども。
これから話すんですが実はね彼はもともと作家というよりも理系なんですよね。
だからね農学校つまり農業の先生とかをやってた時代があるんですよ。
その時の教え子がこの福田パンの創業者の方だったんです。
で賢治はねすごく福田さんのことを可愛がってあげたらしくて。
まあすごい進路の相談とかにも熱心に載ってあげたそうなんですね。
で結局その宮沢賢治に色々相談した結果でもって。
花巻の学校から森岡の農林高等学校へ進学をして。
そこで研究したのがイースト菌だったんですね。
イースト菌っていうのはつまりパンの工房を作る上で絶対必要な菌ですから。
それがこのきっかけだったんですパンであった。
つまり宮沢賢治さんと花巻で出会っていなかったら間接的に今我々はこの福田パンは食べられてないかもしれない。
このパン屋さんが開かれることしはなかったかもしれない。
で宮沢賢治の中では童話の世界とかもかなりやっぱり意識しているみたいで。
この創業者の方自身はやっぱり宮沢賢治のことを裁判に至るまですごくリスペクトしていた。
で実際賢治も生涯色々信仰していたので。
宮沢賢治って今画像検索して多分真っ先に出てくる教科書に載ってる写真があると思うんですよ。
ちょっと右斜め下を向いているっていう特徴的な写真で多分見ればあーってなると思うんですけど。
この肖像写真っていうのはなんとね宮沢賢治が福田富吉さんに送った手紙の中に入ってた写真なんです。
それが今教科書に載ってる写真なんです。
そんな個人的な写真が今一番流通してるんだ。
そうそれはなぜかっていうのは宮沢賢治は生きてる間全然無名の人物だからです。
はあそうなんだ。
福田パン永田町本店さんからお城の方にですね
徒歩20分ほど行っていただくところにあるのが森岡歴史文化館です。
例によってね浄化町歴史ある町に来たからには
最初はねまずその浄化町の成り立ちだったり
その治めた藩の歴史っていうものから
町の魅力というのをちょっと探ってみたいと思うわけですね。
でちなみに最初に言っておくと
この森岡歴史文化館が建っているこの場所が森岡城の跡地です。
森岡城はもう建物とか何も残っていません。
今石垣とかはね残っていて公園になっているんですが
その公園の中にこの文化館がありますので
本当に江戸時代の森岡の中心の中心に今この文化館は建っているわけです。
確かに建物もねなんかお城っぽいね。
そうですねやっぱり意識していますよね。
屋根とかがねそんな感じがするね。
でねこの森岡歴史文化館
まあねいろんな歴史館これまでこのポッドジャスト行ってきましたけれども
一つ特徴的なものがあるとするとですね
コンセプトがね森岡城とその浄化町を
一つのフィールドミュージアムという風にして見立ててるっていうのが面白いんですね。
これつまり何かっていうとお城のね
例えばまあ今まで言ったお城いろいろありますけれども
その城の中に入ったその歴史館とか見ていくと
だいたいそのお城がどういう風に築かれた
で誰がこう築いてその人はどういう人だったかっていう話とかっていうの結構メインになると思うんですが
これはあくまでも城と浄化町を一つのフィールドに見立てて
それの解剖をするっていうものなんですよ。
なので面白いのはその森岡藩の殿様これ南部家なわけですけれども
南部家の話はすごくしっかりやるんだけれども
もう一方で森岡っていう町がなぜこういう風になっているかっていう
その町の一般市民の生活とかもすっごい深くやるんだね。
これはね面白い試みだと僕は思っています。
そうだね。
その町さえもその展示の対象にするのは確かにあんまりなかったかもしれないね。
そうですね。
どの博物館も多少はやってるんですけれども
これは特にちょっとねその分量がかなり多いという風に思うと思います。
それはやっぱり森岡の城下、今の森岡市ですよねっていうのが
本当にこの森岡藩の時代からの受け継いでいる伝統的な文化産業っていうのをすごく大切にしてるんですよね。
だからこの城下町今回行けないところもいっぱいあるんですけれども
そこに行っていただくと森岡の工芸品の多さ
例えば南部鉄器とか漆器とかいろいろありますけれども
ああいったものがなんでこうできてるのか。
あるいはお酒ですよね。
我々が恩恵に預かっている南部東寺っていうブランドじゃないですか。
あるいは南部家の南部なわけですから。
そういった人たちがなぜ栄えたのかっていう城下町の社会構造とか
そういったものにも行ってくるので
すごいね歴史興味ない方でもなんかちょっとこう親近感の湧くような。
そういったミュージアムになっているのが面白いところです。
確かに将軍とかの紹介されても歴史の話だなってなっちゃうけど
そういう生活の話になるとより親近感というか想像がしやすい。
そうですそうです。
ということでぜひここに行ってほしいなと思うわけですが
ここからちょっと歴史の話に塗ってしまうんですけれども
この森岡藩の藩主南部家というもののちょっと深掘りをしていきたいと思うんですね。
実は我々以前この南部家の領地に一度行っているんです。
それはいつかっていうと覚えてますかね。
青森の八戸?
そうです正解です。
ちょっと地図を見ていただきましょうか。
今我々は青森県と岩手県のグーグルマップをだいたい見ているわけなんですけれども
前に言った八戸というのは青森のいわば東京から考えると玄関口的にあたるね
太平洋側の最大の都市です青森県のね。
発色センターなんてありましたけれども非常に海産物もおいしいし都市としてもすごく発展している街になっています。
青森県というのは江戸時代ざっくり2つに分かれていて
それがこの八戸を中心とする東側と弘前を中心とする西側だったんですね。
かつては江戸時代とかここがすごく仲が悪かったって話をしたと思うんですよ。
それ何でだか覚えてますかね。
裏切りじゃないけどそういう人的な居酒屋があったよね。
そうですそうです。そういうことですざっくり言うと。
これね何かっていうと実は南部家っていうのはもともとこの弘前の方も含めて南部家の領地だったんですよ。
ところが南部のその家臣であった津軽民信っていうこれ弘前派の藩属ですけれども
この人がいろんな作法でもってこの津軽地方で独立しちゃったんだよね戦国時代に。
しかもこのタメノブというのは偉く頭が良かったからその時の数勢をちゃんと見ていて
豊臣秀吉に就いたり徳川家康に就いたりっていう風に権力者に巧みに接近したことによって
本来であれば南部の一部だったはずなのに津軽はさっさと秀吉とか家康にもうお前の場所にしていいよっていう風に独立を認めてもらったと。
そっからすると要は南部からすると盗っと同然だとしかも家臣のくせに裏切り上がって勝手にみたいな。
っていうのでこの南部と津軽っていうのは非常にいろんな因縁が深かった。
本当に昭和とかそれくらいまではマジでインターハイとかでもいろいろなんか問題があったっていう話がエピソードがありますけれども
というとにかくいろいろ居栄えが絶えなかったわけなんですね。
ちょっと話が遡ってしまうんですけれどもそもそも南部っていうのはめちゃくちゃ領土が広かったのがわかると思うんですよ。
だって岩手も治めてたし青森も治めてたしみたいな話ですからね。
何者なんだってことなんですけれども実はこの南部一族というのは元々は源氏の一族です。
出身はなんと山梨県なんです。
これ今でも山梨県には南部っていう町があります。
これ山梨は当然武田信玄の話で以前やりましたけれども武田信玄の武田家っていうのも
貝の国の源氏である貝源氏っていうものの着陸にあたるわけなんですけれどもそれと同族なんです。
つまり武田の親戚なんですこれある意味。
もっと信玄より前々前の鎌倉時代の時とかは一応分けた兄弟だったんですね南部と武田っていうのは。
ところが鎌倉時代に源頼朝に従っていろいろ戦功を立ててたわけなんですけど
その時に最初になった南部光之っていうのがいたんですけれどもこの人は平泉を攻めた時
奥州藤原氏平泉を攻めましたよね頼朝はね。
この時にすごく戦功を立てたことによって奥州藤原氏が治めていた領地の一部を頼朝からプレゼントされたんですね。
そして山梨からその与えられた領地である東北に移ってきたっていうのがそもそもの始まりなんです。
最初は青森県が本拠地でした。
今八戸の話しましたけれどもそのちょっと南側に三戸っていう三つの扉と書いて三戸なわけですけれども
この辺を本拠地にして治めていた大名だったんです。
それが鎌倉時代から始まって南北朝時代でも南部諸行っていうすごい有名な武将が出てきて
すごい勢力を拡大していった。
そして戦国時代に入ってくると南部晴政っていう人物が出てきて
これが信長のやぼうとかやってる人は有名だね。
もう猛将中の猛将。
南部晴政っていうのは結構えげつないこともしてたんだけれども
いろんなことをやって結局津軽の方も全部自分のものにしちゃうし
しかも岩手の盛岡の方はもっと優秀ある奥義さん的な人がいたんですけれども
それもどんどん滅ぼしちゃって南下し始めて
もういよいよ岩手もほぼほぼ征服するみたいなこだわりになって
有名な文句で三日月の丸くなるまで南部寮なんていう風に歌われた。
つまりわかりますこれ意味。
三日月っていう月令がまだ日課とかでしょ。
それが満月になるまでは大体10日以上かかりますよね。
それのなるまでずっと歩いてても南部寮だって言いたい。
そういうことか。
10日間歩いてもずっと南部の殿様が治めている領地だと。
こんなところは他になかなかないっていうことを歌われたほど。
広いじゃないですか今見てもね。
そうだね。
めちゃくちゃ。
なので気候条件とかもすごく厳しいところでありましたけれども
南部っていうのはそういうわけでもう欧州の超巨大大名として
日本の北の王者として君臨した大名だったんですね。
ところが春馬さんが死んでいろいろごたごたやってるうちに津軽ためんどもに裏切られてとかっていう風になって
だんだん領土がその最盛期に比べると縮小していってしまう。
南部はその後南部信直っていうのが春馬さんと継ぐんですけれども
この人もすごく有能な人物でうまく津軽とのごちゃごちゃを解消しながら
なんとか徳川にちゃんと寄り添って南部藩というのは
森岡を本拠地に続くことができました。
ところがですね南部というのはそれで一旦すごくいい大名に思えるんだけれども
この知性は非常に難しくてかつ評価がまったく分かるっていうのが有名な大名です。
これ何かっていうと一つまずプラスの面をちゃんとお話をしておくと
南部信直これが森岡藩初代なわけですけれども
すごく外交内政ともにすごい優れた人物だったっていう風に言われていて
実際今の森岡という町を作ったのは間違いなくこの人の功績です。
要は元々青森が本拠地だったので森岡はわりと新しいんですよ南部の本拠地としてはね。
だからそこを一からこう開発し始めて川の中に森岡城っていう工事も大難航したんですけれども
すごいところを築いてかつ城下町の発展を計画都市でねゼロからちゃんと作っていった。
その時に南部はこの東北の一番北の方にいたわけなんだけれども
すごくねやっぱり京都とか江戸とかね日本の都会の文化をどんどん巻き込んでいくことが大事だっていう先見の目を持った人で
いろんなところからその部門のスペシャリストを呼んでくるんですね。
例えば大阪の方そこで日本酒造りの職人たちのなんか団体みたいな組み合いみたいなのがいると。
それをうちの米使ってやりませんかつって持ってきたんですね。
誘致したんです。
そして大阪から移ってきて森岡藩南部家にお召し掛かりになった彼らが南部当時の始まりなんですよ。
だから日本酒造りもこの南部家が始めたんです。この岩手のね。
まあ引き抜きみたいなことでした。 引き抜き引き抜きそうあらゆるところが引き抜いてくるんですよ。
逆に今度じゃあ商業を発展させよう。これからちゃんとお金を儲けなきゃって言うんで。
大見、大見というのは今の滋賀県ですけれども。
大見商人っていうのがね当時はすごい商売にありての流通経済のプロフェッショナルみたいなのがいたんですけれども。
これを持ってきて今度は。
彼らに森岡城の近くに住まわせて城下町のその商業経済の担当させたんです。
だから今でも大見から入ってきた一族っていうのは森岡には多いんですよ。
大見商人たちが機内でねもうもまれて培ってきたすごいプロの経済感覚でもって森岡の町の経済を発展させていく。
実際その子孫とかその起こした会社とかが今の岩手県の近現代の会社にもすごくその流派が残ってます。
なので本当に今の岩手の発展とかそして人材を生んだ背景っていうのは南部の実績がすごく大きい。
そして後は元々南部の一族がね生まれた貝の国は鉱山とかをいっぱい持っていたわけなので。
金物師とかそういうのがいたんですねプロフェッションで武田信玄もそれを重宝してた。
彼らをまあもともとは俺ら親戚みたいなもんじゃないかってことで持ってきたのが南部鉄器の始まりなんです。
それを産業にしようと。でなぜかと言うと平泉思い出してほしいんですけど東北は東北で鉱座に恵まれてる。
それで持って南部オリジナルの鉄製品を作ろうっていうので頑張って鉄器を起こしたんですね。
それでブランドとして確立して江戸時代から今の令和の今に至るまでね盛岡といえばっていうところがずっとあるわけです。
ただ連れてくるだけじゃなくて能力を発揮できる環境がありますよっていう。
そうですねそういうところもねやっぱりこの歴史文化がすごく開設してます。
今単純に盛岡のものって思われてるものが実はある意味盛岡からすれば外来文化だったんだけど今言ったようにそういうのを発揮させてあげる環境だったりとか
保護してあげる政策だったりとかそして今でもそのルーツがねまだちゃんと盛岡に残ってるっていうのがすごいところです。
いいように聞こえるね今の。 そうですそうです。
なのでこれは本当に真面目なくいいことなんですけどもところが盛岡藩というのが難しかったのは
日本でも本当に南京かしかない鎌倉時代からずっと同じ場所を収め続けているっていうすごいところなんですよ。
これちゃんと江戸時代の藩見てもらうとわかるんですけど我らが小田原法上だって戦国時代に国を乗っ取って勝手になってきてるし
武田信玄は武田勝裕が滅びてしまったので江戸時代まで残んなかったよね。
ウエスディはエチゴだったけれども米沢に国が入りになりましたよね。なので700年間同じではないですよ。
ってなってくると鎌倉時代から江戸時代の最後まで同じ場所を収め続けて大名って本当に何個かしかいないんです。日本の中でも。
それだけ長く収められてるってことは上手くやってんだろうなと思っちゃうけど。
だけどその分プライドも非常に高かった。特に許せなかったのは津軽なんですよ。
そしてもう一つ許せなかったのは南になり上がってきて東北の大部分もしかも人気も掠めとっていった大名がいますよね江戸時代に。
伊達か。
東北の今我々が戦国大名でどうしても伊達政宗ね。
勝手にかっこいいイメージについちゃってるもんね。
ヒーローでカリスマ性ありますよね。原理伊達は元々米沢の大名ですけれども東北地方最大の大名日本でも有数の大名を仙台藩として南部よりもいつもより上になっちゃったみたいな。
黒鷹が。っていうんだけどこの南部と伊達もまあいろいろあったんですよ戦国時代から。
つまり南部藩っていうのは両国がめっちゃ広いんだけど西に津軽っていうもう絶対に許せない宿敵が裏切り者がいますよね。
南は南で東のを越えて水槽に入ると伊達っていうこれもまあなんかちょっと名前的なやつがいているというんでこれらとのライバル関係がもう拭いきれないんですよ。
そのために何が起こったかっていうとある時津軽が将軍に取り入って家の核がちょっとなんかランクアップしたみたいになると南部は許せないんですよ。
津軽が俺らより上行かないって絶対に許せないこれだったらいけないっていうんでなんとか資金を調達してワイロとかを送って津軽よりは絶対に上にしてくるということで自分もその何もにかまわず上げてもらおうとする。
けど別に領地が広がっているわけではないですからその時にあくまでも核なんですよね南部が問題視したの。
でだからそれって要は実際の収益とかっていうものはとちぶ広がってないから上がってもないんだけれども出ていくものが多くなっていくわけですよ。
要は行列も整えなくてなんかあれ南部ってあそこ何々核のくせになんか大したみなりもしてねーななんかおしゃれじゃないしダサくねってかそもそも津軽のかっこいいもんとか言われたら終わりなわけですよ。
江戸庶民にそうなってやるともう達成がないんでだから無理をしててもお金を出費してても核を保ちそうとしてこういうことを起こり始めるんですよね。
でそういうことやってるとつまりどんどん出ていくものが増えていく一方になって財政難に陥るんですよ。
でかつきつかったのはこれは南部だけの問題じゃないんですけれども江戸時代は森横半路をはじめとする東北地方は本当に基金に襲われた。
特に天明大基金っていうまあ日本の中でも類を見ないぐらいの大基金がちょうど今の大河ドラマの時代に起こるんですけどもこの時本当に森横半路はお米が全く取れない。
寒冷でもう気候が上がらなくて作物が全部育たなかったんですよ。
で備蓄もあんまりうまくできてなかった関係もあって本当に寮内で多くの飢え死人をしてしまった人が続出してしまってすっごく悲惨な状況だった。
でこの負の記憶っていうのは実は東の物語の恩恵とかにも結構描かれたりしてるんですけれども東北一円ですごい大ダメージを受けてるんですが特に南部半寮はすごかった。
ひどかったと言われてる影響が。
本当なんか外観は東京駅かなってぐらいの感じですね。
これすごいですねやっぱそう思わせるんですね。
これ東京駅と同じ設計者です。やっぱりそうなんですよ。
いやでも似た雰囲気やっぱあるもんね。
ありますよね。
赤レンガで屋根がねどうなのかな緑っぽくなってきてね。
だからなんか似た雰囲気やっぱありますよ。
やっぱりね分かる通りで。
最初に出た話をしちゃうとこの岩手銀行赤レンガ館作ったのは辰野金吾という人です。
辰野金吾は知ってますかね。
いやー。
機度ないですかね。
この人東京駅を作ったということで非常に有名な人なわけなんですけれども。
それだけじゃなくてね日本の本当に近代建築の父と呼ばれてる非常に優れた建築家で教科書にも載るレベルの人ですこれは。
この人の出身は佐賀県の唐津市です。
これは大人ですねすごく。
日本の建築界を変えた本当に大きな足跡を残した人です。
ただね辰野金吾さんはねこれ作ったと言ったんですけれども一人で作ったわけではなくて辰野金吾さんとその共同作業者だった加西万次という人がいたんですけれども。
この人の共同設計でできた建物です。
できたのは1911年ですから明治44年。
明治の最後の終わりの方ですね。
森岡銀行っていう銀行の本店として建てられたものになっています。
この加西万次さんもやはり森岡の出身です。
地元の人が作ってるんですね。
でもね特徴で言ったら今内田が本当言った通りで赤レンガのねこの美しい緻密でねそこに白い線が入ったデザイン線もある建築の美しい雰囲気と
あとやっぱりドーム状のねこれが東京駅にまさに見えるわけですけど。
しかもこれあのちょっと写真じゃ伝わりづらいかもしれないんですけど道路の角にあるんですよ。
角に斜めな感じで立ってるのでねすごい存在感なんですよね。
でまぁねこの森岡銀行の本店として使われていましたので今ね外科の話ばかりしましたけれども中へ行っていただくと資料館みたいになってて
当時のね銀行の使われていた盗取室とかあるいは金庫の跡とかあるいは今は撤去されちゃってますけど窓口のカウンターとかねそういったものも趣がね残っているわけです。
住房感がやっぱすごいね。
やっぱり銀行っていうならではのね住房感と折り目正しさというかありますよね。
特にこの森岡銀行は本当に地銀としてすごい重きをなした銀行でしたのでやっぱりねそれだけのいい森岡城のすぐ近くですからこれもねもう一頭地に立っているわけです。
であとはやっぱりこの笠井万次さんも森岡の出身というのもありますけれどもこれね赤レンガではあるんですが素材はね岩手県の素材とか東北の素材を使ってるんですね。
レンガは岩手県産のレンガを使ってそして内装ね木材いろいろありましたけれどもあれは青森県のね木材を使ったということでね。
そういうある意味地産地消的なねそういったものを先駆けにもなったという非常に意義のある建築なんですね。
レンガにまでこだわるの結構すごいね。
すごいですねやっぱりこれはね一概には言えないかもしれないけど森岡の人たち森岡の歴史を見たときに訪れるやっぱその未来への投資というか。
やっぱり地元のものとか地元の人に対する投資っていう惜しまないところはねやっぱここにもすごく現れるなという気がしますね。
実はこれね1911年に建てられたんだけどなんとね2012年まで現役の銀行だったんですね。
だから我々が生まれて高校生とかちょうど我々がねあの部活やってるときぐらいこれ銀行だったんですよ現役の。
100年ぐらい使ってるってことですね。
101年間ですか。
すごいね。
森岡銀行はいろいろ合併とか繰り返して最後はね岩手銀行中野橋支店ということでねあの建物が使われてたんですね。
それでまあその岩手銀行今もありますけれどもその支店は役目を終えた後に達野金吾が作ったっていう本当にすごい文化財ですから。
今はその森岡の経済史だったり達野金吾と笠井万次さんの建築の魅力を伝えるミュージアムになっているので。
なんかね言っていただくとまあその歴史文化館で学んだ江戸時代の森岡から近代に入ってマイナスからのスターだった森岡なんですけれども
どういうふうに経済発展をね成し遂げていったかっていうことのね力強い歴史が語られています。
その建物で実際に見れるのはなんか臨場感がすごいですね。
臨場感ありますねドラマチックですね非常にね。
なので写真としてもすごく映えますしいいんじゃないかと思います。
そしてねさらになんですけれどもこの岩手銀行赤レンガ館から2分ほど行っていただいたところにあるのが森岡卓木賢寺千春館です。
ついに賢寺が出てきたね。
建物をちょっと見ていただきたいんですけれどもこれはどうですか?
これもセットみたいなすごい素敵な歴史ありそうな建物ですよね。
おっしゃる通りなんですね。
さっきのね岩手銀行赤レンガ館が最初は森岡銀行として創業したわけなんですけれども
遡ること1年つまり1910年に建てられた建物でして
これはね第90銀行っていう別の地銀のね本店だったんですね。
これ本当に2分のところにあるんですけれども
第90銀行と森岡銀行の本店がねほぼほぼ同時期に建てられてるっていうそれがどっちも残ってるんですね。
これを作った横浜勤さんっていう建築家もやはり森岡の出身の人です。
岩手銀行赤レンガ館の方がねいわゆる東京駅のような赤レンガのね華やかなものなのに対して
こっちはねドイツ風のね結構シックなねロマネスク様式っていうちょっとね独特のデザインをね用いたものになっていて。
まあ確かにねちょっと色味は少ないけれどもその形状とかねこの窓の上のね丸とかが多分そういう形式なんだろうね。
はいまさにここが特徴ですね。
このまああの扉の玄関のところにもありますけれどもちょっとこのお日様が昇ってくるようなかまぼこ型といいますか。
こういったものの様式が随所に現れていてちょっとねさっきのものと比べると全然まあ趣の違うね銀行になるわけなんですけれども内装もやはり綺麗ですよね。
そうね。
なんか可愛らしさと貴品とみたいなそういう印象かな。
うんうんまさにそんな感じしますよね。
これらの名建築が一同に関しているのがこの森岡になるわけですね。
でまあね今はこの第九十銀行もうなくなっちゃってるんですけれども先ほど言ったように森岡ゆかりのあるね二大文豪と言ってもいいでしょう石川卓卜と宮沢賢治の業績を紹介する記念館になっています。
どうですか石川卓卜というのは。
なんか俺読んだことあんのかなわかんないな。
まあ教科書とかに載ってるだろうものは一躍の砂とかっていうまああの森岡出身なんですけれども北海道とかに行ってねその北の厳しい環境の中でね主に詩を読んだっていうね。
でまあ溶接してしまったっていうね人なんですけどもこの人やっぱり森岡の出身なんですね。
なのでまあいろいろとね話はあるんですけれどもこの一躍の砂に至るまでのその石川卓卜という人が森岡でどういったね生まれとバックグラウンドを持っていたかっていうことを詳しく紹介してんじゃないかなというふうに思うわけですね。
ちょっと今回はねあんまりそこまで詳しくは語らないんですけれどもとにかくこの石川卓卜の実際のその詩集の初版の本だったりとかあるいは彼のまあ家族構成だったりとかっていうバックグラウンドすごく丁寧に解説してあるのでそういったファンの方はすごく楽しいと思います。
で石川卓卜は森岡の出身なんですけれども宮沢賢治は森岡の出身ではないんですね。
宮沢賢治はさっきからちょっとたべたべ出てるんですけど花巻というね森岡の南の方にある都市の出身です。
だけど森岡中学っていうところにまあこれ今でいう高校ぐらいなんですけど年代。
旧姓の森岡中学ですねに学んだそしてこれは石川卓卜と賢治はなので先輩後輩の間だからですね。
どちらも森岡中学の出身なんですね。
なのでその森岡中学に学んだ二人を同時に紹介しているというふうになっているわけです。
で石川卓卜の方がそういった詩集とかそういったものね原点を置いている文学家のものに対して