1. 大人になりたい旅がしたい
  2. #103【足利&太田】あの日、渡..
2025-05-15 1:21:35

#103【足利&太田】あの日、渡良瀬川で。Part2

星祭りの神隠し あの日、渡良瀬川で。2日目


群馬県と栃木県の境を成すように流れる渡良瀬川。北関東を代表する清流であるこの川は、古来地域の発展を牽引したばかりでなく、史実にも伝説にも、象徴的な”境”になぞらえられてきました。その好例が、東岸の足利、西岸の太田という2つの都市。そこに生まれた人物の生涯は、川を境に見事なまでのコントラストを成し、それでいてともに鮮烈な輝きを放ちます。今回は渡良瀬川が”天の川”に例えられる夏の時季に流域を訪ね、雄大な時の流れに育まれた数奇な運命を偲びます。


【目次】

〜 朝ドラってやっぱり……

〜 多彩なスープが魅力の穏やかなモーニング 【montemps】

〜 太田ってどんなところ?

〜 “石垣”をイメージしたシャープな歴史館 【史跡金山城跡ガイダンス施設】

〜 ★歴オタ話★ 関東戦国史の“台風の目” 金山城と由良成繁

〜 城郭研究の定説を覆した石垣の名城 【金山城跡】

〜 地域の思い出と共にうどん&そばをすする 【純手打うどんそばしみず】

〜 “創造的太田人”の遺伝子を継ぐコンセプチュアルな文化施設 【太田市美術館・図書館】

〜 “太田金山子育呑龍” 今なお顕彰される呑龍上人の事績 【大光院】

〜 ★歴オタ話★ 徳川家康の先祖!? 日本を二分した新田一族

〜 新田一族の歴史を語り継ぐ本拠地 【新田荘歴史資料館】

〜 ★歴オタ話★ 前代未聞のお殿様の副業 “新田猫絵”とはなにか

〜 新田を聖地化した幕府の本気度 【世良田東照宮・長楽寺】

〜 歴史を変えた“運命の一夜” 新田義貞挙兵の舞台 【生品神社】

〜 1日の振り返り

〜 ★旅の終わりに★ 渡良瀬川を挟んだ永遠のライバル “大いなる力”で明滅した足利・新田の光芒


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サマリー

今回のエピソードでは、足利から大田市へ向かう旅の魅力が語られています。特に渡瀬川に関する歴史的なつながりや地元の名所について深く掘り下げられています。また、大田市の人口や企業の発展に関する興味深い情報も紹介されています。本エピソードでは、金山城の歴史や重要性が詳しく語られています。特に関東三国志におけるその戦略的な役割や、城主である由良成茂の巧妙な立ち回りが取り上げられ、貴重な情報が提供されています。 さらに、大田市の金山城や地元の食文化、大田市美術館図書館の魅力についても詳しく語られています。大田市の歴史や創造的な教育環境がどのように形成されているかが考察され、地域の特色や観光名所が深掘りされています。足利と日田の歴史的な因縁についても言及され、特に渡瀬川を挟んだ両者の対立が生まれた理由が明らかにされています。日田義貞の登場が南北朝時代の幕開けとなり、足利と日田がそれぞれの勢力を築いていく様子が描かれています。 また、徳川家と日田一族の歴史的な関係についても探求されており、特に徳川家が自らを日田の子孫として主張した背景が考察されています。江戸時代に日田の殿様が困難な状況の中で猫の絵を描き、その販売がどのように人気を集めたのかも探られています。このエピソードでは、日田義貞と足利氏の歴史的な出来事が語られ、戦神社や日田一族の重要性についても触れられています。明治政府における南北朝時代の位置づけが日田と足利の運命にどう影響を与えたのかも探求されています。 最後に、足利と日田の宿命のライバル関係、特に渡瀬川を挟んだ二人の運命についても語られています。彼らの信じた神と権力の意味について深く考えさせられる内容が展開されています。

足利からの出発
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな同級生2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデル交渉を紹介していきます。旅のお供はこの2人。
旅が生き甲斐な旅行ガイドブックの編集者、はるやです。 ディープな旅がしたいけど知識がない旅行初心者、内田です。
前回から引き続いて、今日は4月の5日ですけど、アサドラ始まりましたね。そうなんですよ。アンパンマン。
俺も今のところ見てますよ。見てますか? まぁまだね、1週目だからさ。そうね、まだね。あれなんだけど。
俺初めてかも、アサドラちゃんと見てるの。あ、ほんとに?あ、そうか。豪華だね。すごいね。すごいよね。
キャストといい音楽といい。みんないいよね。あののぶちゃんの子めっちゃいいね。すごいね。
あと真島七子がね。やっぱ存在感すごいですよね。綺麗だね。いやまさにでもほんとにね。
結構展開早いけどね。いろいろもう1週目から言われると驚きの感じはありますけど、けどやっぱりかなり僕は楽しみなドラマだなって思いますよ。今回見てて。
いやなんか俺見ててちょっと思うのは、あれちょっと史実とはやっぱり変わってるところはあるわけだよね。多少はね。うん。だからなんか俺あれを史実として思っちゃいそうだなって思いながら。はいはいはい。
だからまぁちょっとそこは気をつけつつ楽しめられたらいいなと思って見てますね。そうだね。お父さんのね、亡くなる時期とかがね、ほんとやっぱちょっと違ったり。あ、違うらしいね。
それはランマンの時もね、図鑑の完成と末小田さんの話とかちょっと前後してたり、やっぱしてたので。だからね、牧野富太郎さんじゃなくて牧野満太郎さんだったり、あくまでモデルにしたフィクションっていうことなのでね。そうだね。
だからまぁちょっとそこはちょっと俺も見ながら気をつけなきゃなとは思ったけど、でも普通にドラマとしてね、楽しみだなって感じだね。だし、都祭行きたくなりませんか?俺やっぱあれを見てると。いやぁね。
まだじゃない? まぁそう、まだこれからだからね、もはやね。いやでも楽しみだわ普通に。
ということで、今回は星祭りの神隠し、あの日渡瀬川での2日目ということで。これもしかしてあの日って七夕のこと?
えっとですね、そう受け取っていただいてもいいですし、ちょっと実はね、これから話すとある歴史上の人物のある一瞬の巡り合いのその日のことを想像しながらちょっと考えたりもしてるんですけど、それぞれ皆さんにとってのこの渡瀬川があってもいいのかなっていう気も少々してますね。
なんかいいね、含みがあって。 含みがあってね。
で、1日目は栃木県の足利を回ったわけですね。で、この2日目ではその渡瀬川を渡りて群馬県の大田市の方に入っていくわけですね。
なのでその足利との違いとか共通点を感じられる2日目ということなので、じゃあその2日目をよろしくお願いします。
大田市への移動
前日ですね、足利駅から大体徒歩10分以内のホテルにとっているという想定でお話を進めたいと思います。
で、今回ね、また巣止まりという想定で朝ごはんはホテルの近く足利の方で食べましょう。
ホテルから大体徒歩5分から10分ほど駅の方に戻ってください。そこにあるのがモンタンさんです。
おー、なんか明るいモダンな感じのカフェですね。
そうなんですよ。ここはもうまたすごいオシャレなんだよね。
色合いがいいんですよ、全体的にすごくね。
なんかいいね、このコンクリートと木と白壁とみたいな。
そうです。で、器がそこに入るわけですよね。
いいね。
このモンタンという店名なんですけれども、フランス語で私の時間というのを意味しているのだそうで、そういったカフェになっておりますので、このカフェでモーニングをいただきたいと思うんですね。
こういうわけですごいハイセンスな内観に驚かされるわけなんですけれども、ちょっとメニューを見ていただいてね。
ここのお家はスーププレートになるわけなんですけれども、なんとスープこれ何種類あるの?8種類の中から選べると。
9種類じゃない?9種類か。
9種類ですね。
へーすご。わーいいな。かぼちゃのポタージュがね、なんかちょっと大きめになってますけども。
季節のおすすめなんですね、この時のね。
なるほどね。ビーツのポタージュとかね。わーマッシュルームのポタージュいいな。クラムチャウィーバーもあるし。
えー8種類豊富ですわ。
いいですよね。これ選べるっていうのも嬉しいですし、ちょっとまあね、おそらく2日酔いでしょうこれは。
前日ね、あの店に行った以上ね、ちょっと1杯で絶対終わってないので、多分日本酒が残ってなければいいんですけれども、ちょっと体をいたわりたいなっていう気分になっているんじゃないかと。
なんでこれ紹介するかっていうと、僕がそうだったからなんですね。
実際ほんとこれね、この銅線僕ほんとまま同じなんで、一切アレンジしてないので、このモンタン様では。
いやーでもいいね。優しそう。私スーププレートだとね、トーストも1枚付いてますね。
そうですね。あのスープとトーストと、あとまあキャロットラップみたいな感じかな。でいただけるというのもあるし、2日酔いなんかなってませんと。
もうちょっとちゃんと食べたいですっていう方は、卵サンドプレートがあったりとか、あるいはフレンチトーストもあったりしますので、スープだけじゃないんだけど、僕はね特にこのスープが印象に残っている気がしますね。
この卵サンドも独特だね。
なんか円形のこうなんていうの?これはパンケーキとは言わないけれども、いわゆるサンドイッチというよりはね。
そうだねー。
マフィンに近い形はね。
形はね。これはあの関西の方なんだっけ?厚焼き卵みたいな。
あーはいはいはいありますね。
あの卵サラダじゃなくて焼いてある卵が挟まってある。
そのパターンですね。でふわふわのね。
おいしそうだな。ヨーグルトもついてるんだね。わーいいねー。爽やかな朝だ。
爽やかなんですよ。あのソファーとかもすごくこだわっていらっしゃって家具もね。一人で行っても全然気兼ねしませんし、本当に朝思い思いの時間を過ごせるなと。
で窓の外はちょうど足かかの市街になっていますので、ちょっとこうぼーっといろいろふけにながらね、体をいたわってあげてもらいたいなと。
わーいいね。
僕はクラムチャーダー頼んだ気がするな確かな。
いやーいいねー。 こんなおしゃれな朝送りたいもんだね。
ぜひね、足かかにいらっしゃった際には送れるわけなんでね。
なので本当に何人かで言ったらね、いろいろ比べてみてもいいかもしれませんしね。
フレンチトーストの方と、あとこのスーププレートの方とでもいいかもしれませんし。
なんかやってみたらこれ結構デートでもいいような気がしてきましたね。
聞いてるとそんな感じするね。
なのでぜひそれぞれの思い思いでね、優雅な朝の時間をね、過ごしていただければいいんじゃないかなということで、このモンタンさんをご紹介しました。
ここからなんですけれども、今日は車に乗ります。
ちょっと大田の方は場所が離れている地席が多いので、レンタカーを借りたいと思うんですね。
レンタカーを借りる場所なんですけれども、東部の足利駅の近くに結構いろいろあるのが一つと、
もし帰り道群馬の方からも直接帰っちゃいたいなって人がいたら、東部の足利駅から電車に乗っていただいて、大田まで移動しちゃえばいいんですね。
大田駅は東部の駅です。JRじゃないんですね。
なので東部の大田駅に行っていただければ、その周りも結構お店ありますので、そのどちらかでレンタカーを借りていただくっていう想定でお願いしたいと思います。
そしてね、例においてなんですけれども、群馬県、そして大田というものも今回初めて出てくるわけなんですが、どうでしょう?群馬県については。
群馬もね、だからやっぱ栃木と同じく微妙な距離感。
まあそうなんだよね。
ただまあやっぱ群馬だと、中山秀さんとかさ、
はいはいはいはい。
井森さんとかもいらっしゃるじゃないですか。
だからなんかそういうので、やっぱあの、こんにゃくパークとかさ。
こんにゃくパークね。
なんかそういう観光の情報とかも結構広くね、知ってるような気もするかな。
群馬ね、最近だと白石舞さんとかもね、群馬のご出身ですね。
栃木は大島優子さんそこですけど。
ああ、そうか。
うーん、かなあ。
でも多分ね、行ったことはないんだと思うんだよなあ。
本当?大田市についてはどうでしょう?
大田市は、あのね、春矢がね、結構印象深いことがあったっていう話でよく聞く。
そうですよね。
僕ね、この大田はね、実は一人じゃなくて何人かで行ったって話したんですけど、
会社の後輩がね、大田出身の子がいて、その子の家に実家に遊びに行かせてもらったことがあって。
すごいよね。会社の後輩の家に行くのすごいなあ。
しかもその時僕は、ちょっと後で話すんですけど、自分一人でお城を見に行こうと思った。
大田にすごい城があって、それ行こうと思ったら、たまたまその時帰省してると、その子も。
なので、どうせなら飲みませんかみたいので、ご実家に連れて行っていただいて、
そしたらその一族中何人かいたかなの方が、足利の方もいたんですけど、足利大田からそろそろ渡瀬川渡ってみんな大田に集まってきて、
みんなでバーベキューをさせてもらったっていうのがあって。
すごいよね。
そのことがね、もう本当に一生忘れられない思い出になっているので、確かにあまりにも感動してね、大田はその話をよくします。
ね、よく聞くんですよ。
やっぱ大田はちょっと。
町としては。
町はどうなんだかわかんないな。
実はね、大田市はね、ちなみに言っとくと、意外って言ったらすごい失礼な話かもしれないんですけど、群馬県では3番目に人口が多いです。
高崎前橋のこの2大都道はありますけれども、この次なんです。
で、小田原よりも人口多いんですよ。
20万人超える大都市です。
足利よりも今こっちの方が大都市なんですね。
なぜこんなことになってるかっていうのは、とあるね有名な自動車メーカーの本拠地がここにあるからなんです。
大田といえばこれっていう人多分結構多いんじゃないかと思います。
あ、そうなの?
うん。スバルですよね。
あー、そうか。
あ、それ大田なんだ。
スバルは大田発祥です。
で、大田に今も本拠地があります。
なので工業都市です、今大田は非常に。
これで人口もすごく多いんですね。
金山城の探索
いやすごいね、それで人口増えるっていうのもまたすごい話だよね。
やっぱり企業城下町という意味合いで駅前もすごく栄えてます。
ただ一方で今回はスバルを巡るわけではなくて、歴史的にも実はこの大田というのはすっごく大事な場所なんですね。
なので2番目の印象としては歴史好きの人はこっちをあげると思うんですけれども、っていうところをちょっと巡っていきたいと思います。
地図を見ながら話しましょうかね。
その足利市近くで渡らせ川も渡ってますけれども、レンタカーを借りていただきましたら、その東部の鉄道に沿って西の方へ移動していきます。
ここが大田です。
自治体としては足利と大田は隣になってます、県境なんだけど。
っていうレベルの距離感なので、仮に足利市近くのレンタカーを借りた場合なんですけれども、
だいたい車で15分ほどから20分ほどかな。
15分から20分ほどで目的地に行けるんですけれども、それがですね、
足利金山城跡ガイダンス施設です。
この金山城、金の山と書いて金山と読むんですけれども、これは多分聞いたことないんじゃないかと思うんですね、おそらくなんですけどね。
これは教科書に載ってるわけじゃなくて、信長の野望とか好きな人は知ってると思うんですけれども。
なぜ知ってるかというと、めちゃくちゃ落とすのがむずい城なんですね。
ゲームとかでも。
つまりすごく硬い堅城と言われた名城なんですね。
金山城っていくつか日本にあるので、区別して新田金山城、あるいは大田金山城とも言われますけど、いずれにしろ金山城です。
この金山城というのは、大田の中心市街地の北側にそびえている山の上にあります。
大田市役所とか大田の駅から金山を見えるくらいのそんな距離にありますので、ある意味中世の城下町として見ても大田はいいかもしれません。
この金山城なんですけれども、ガイダンス施設は車で城になっている山を登るわけですが、その途中にこの駐車場があってそこにガイダンス施設がついてるんですね。
金山城の概要と設計
ここで実際この金山城というものはどういった城だったのか、そこの城主たちはどういった人たちだったのかっていうのを結構新しい博物館でそれを年代に沿って解説してくださっています。
ちなみにこの設計は熊健吾さんの設計だったりしますので、なかなか建築的にもすごいモダンなシャープなデザインで。
へー、かっこいい。
熊健吾さんって木のあれが有名なんですけれども、ここはそうじゃないんですね。
へー、これなんかあれだね、東京五輪のマークみたいだね。
はいはいはいはい、一松模様みたいなやつですよね。
四角がちょっと斜めに組み合わさってる感じの。
へー。
これ何をイメージしてるかわかりますか?
え?難しい質問だな。
いや、もうヒントめっちゃ出てるんですよ。
へー、なんだ?
今組み合わさってるみたいな。で、ここどこにあるんでしたっけそもそも。
金山城?
そう。何かに見えてきませんかこれ。
え?難しい、何それ。
石垣ですね。
あーなるほど、あーそういうことか。
お城の石垣をイメージしてるんですね、ここね。
あーなるほど。
ガイランス施設自体がね。
染めてくるこのシルバーとグレーのね。
あー確かにね。
あー確かにその石垣の陰影にも見えてくるね確かに。
そういうことなんですね。
これでこのガイランス施設というものがあるわけなんですね。
ちょっと意外な感じだね、熊健吾さんって聞いてイメージするのとはやっぱちょっと違うなって感じするね。
なのでそれぞれの土地の特性に合わせたデザインをされてるということですね。
でね、この金山城、正直言うと建物もガイランス施設以外の昔の天守閣とか残ってないですし、
関東三国志における重要性
日本の歴史の教科書に載ってないんだけれども、
なんでこのガイランス施設ができるまで有名なのかっていうとですね、
これはまさに戦国時代の関東における台風の目になった城なんですね。
関東三国志なんていうふうに俗に言いますけれども、
上杉謙信、武田信玄、そして小田原の北条氏康。
この3人が争った話というのは以前ね、武田上杉河中島の回で散々やりました。
そのそれぞれがこの金山城を狙ってもうね、激戦を繰り広げるんです。
この城を取るか取らないかで本当に関東の情勢が一変するぐらいの城だったんです。
っていうぐらいね、価値の高い城だったんですね。
まあでもそうか位置的にも割と中間ぐらいにあるのかな。
そういうことです。
つまり越後の方から上杉が攻めてくると三国峠を越えて、
要は群馬に最初に侵入してくるんですよね、上越からね。
その通り道にあるのがこの金山城なんです。
関東部屋に行こうというその玄関口にあたる。
小田原の北条としては要はここを守っておけば上杉の侵攻を阻めるわけなんですよ。
一方で武田信玄っていうのは川中島を手にした後に、
神戸の群馬県にも侵略してくるんですね。
そうだね。西にどんどんどんどん攻めていって、
行くとこまで行けたから。
そうそうそう。
それで今度東に行こうってなってくるとここになるんだ。
そうそう。
で、これがこの金山城になってるんですね。
なるほど。
なのでこの三社がね、この金山城を巡って本当に台風の目になってて、
そのため実はいろいろコロコロコロコロ持ち主が変わってるんですね、この城。
ところがね、これを逆手に取った不思議な武将がここにいたんですね。
それを由良成茂っていうんですけれども、
由良っていうのは自由の優に良いと書いて、
になるっていうのは成立するのなるに、
茂っていうのは青木茂の茂になるわけなんですけれども、
由良成茂っていう人物がここを持ってて、
こいつがちょっとクセ者でして、
自分の価値をわかってるんですね、要は。
自分が可愛いってことわかってるんですよ、この人は非常に。
なので微妙な立ち回りをしてね、何度も何度も仕組みを変えてるんですよ。
上杉行ったり、北条行ったり、コロコロコロコロ裏切ってるんだけど、
その都度その都度ね、重宝されて絶対に殺されないんですね。
なるほどね。
つまり何としてもこの金山城宗である由良成茂を自分の手元に置きたいっていうのがみんなの願望なんですよ。
成茂はそれをわかりきってるから、
多少の面の顔を厚くしても生きていけたんですね、乱世をね。
すごいな、両当たり上手だな。
両当たり上手、まさにその通りです。
そもそもこの由良成茂って何者だったのかっていうと、
実はこいつはもっとひどいというか、そもそもこの人はこの城主じゃなかったんですね。
実はここには岩松っていう人がいて、もともと。
この岩松一族っていうのがこの金山の城主だったんですけど、
これも家臣にすぎなかったんです。
由良成茂っていう一族ではあったんだけど。
なのにこの岩松を追っ払っちゃって、
自分がこの金山城を乗っ取った上でコロコロコロコロ地区を変えてるんですね。
っていうね、これもある意味一時代の欠物です。
すげえな、よくそんなことできるな。
そうなんですよ。一番すごいのはね、
宝城についてると思ったら、ウエスリーが献身がね、関東関連になるって攻めてきて小田原の方に。
その時にもう真っ先に宝城みんな肉いったらしいから、みんなウエスリーにつくんですよ。
その時、由良もさらっとなんかついちゃって、
で言ったんだけど、ウエスリー献身がこの土地を得ないで帰っていくと、
また一斉に宝城側小田原から出てくると、みんなさーっと宝城側についてってやってた時に、
よかったら私ウエスリーからなんか取り持ちましょうかとか、
言ってくるんですよ、このイラナリ氏が。
ウエスリー献身からしたら、自分売られた直後にやっぱり仲良くしませんかって、
宝城の下になってきたりするっていうね、めちゃくちゃなことをやってるんですよ、こいつはマジで。
だけどね、その都度その都度やっぱり、
この交通の要所であるこの大田、神山っていうものを収められるのはこの人しかいないので、
金山城の遺構と特性
やっぱりね、誰からも殺されなくて、結局ね、ちゃんと最後まで生き残るんですよ。
まあでも、その方が生き残れるのかな、もしかしたらね。
よほどの綱渡りではありますけどね。
だからそこが上手いんだね。
ある意味これもだから自分のことを客観視できている、物の価値をよくわかり切った人だった。
まあ賢い人だったら間違いないでしょう。
っていう人がいたりするので、
ちょっとこういう隠れた戦国武将の面白い人がね、この神山城主だったりして、
そういった話もこのガイダンス施設によく残っています。
のでね、ちょっと歴史好きの方は是非ね、行ってみてほしいなと思ってね。
僕はこの神山城に行きたくてね、その大田にそもそも行ったんですね。
で、ここでガイダンス施設でそのいろんな歴史を学んでいただいた後に、
もう300まで来てるんで、
ここから車で5分ほどさらにその同じ道を上がっていただくと、山城の方に到達します。
そこにまた駐車場がありますので、そこで車を止めてください。
そしていよいよこの神山城の遺構に到達するわけなんですね。
なんか遺構、遺跡みたいな感じだね。
そうですよね。
この石垣だけが残ってるみたいな感じなのかな?
そういうことです。
要は小田原城のように天守閣があるわけでは全然ないんですよ。
ただこの遺跡って感じがすごいですよね。
そう、だから両側に石垣があって、
その道もそんなに整備されてないというか、岩がゴツゴツしてる感じのね。
そうなんですよ。
当時もここを人が通ってたのかなっていう感じの道ですね、これ。
そうですよね。
なのですごく当時の面影を残して人の動きも彷彿とさせるようなすごい城ですよね。
なかなか中世の城郭いっぱいありますけど、
石垣が残ってるところはいろいろあるけど、
ここまで堅牢に覆われてみっちりと復元されてるっていうのは結構珍しくて、
城郭ファンの間ではこの神山城ってめっちゃ有名なんですよ。
もちろん百名城です、ここも。
ちなみにちょっと豆知識的な話をすると、
この実は神山城って城郭研究室の中を城市と覆したっていうすごい城でして、
これ何かっていうとやはりキーワード石垣なんですけれども、
実は今我々が見る小田原城とか熊本城、姫路城ってどれも石垣があって、
その上に建物があるっていうのは皆さん想像がつくと思うんですけれども、
これって近世の大体城であって、
中世の戦国時代の城っていうのは石垣が使われていた城ってそんなにそれがスタンダードではなかったんですね。
特に関東地方においては石垣を使った城は基本的に存在しないっていうのが定説だったんです。
これなぜかっていうと、一つにはまず技術が西の方から発達したからなんですね。
西の方はだから石垣の城が早いからできてきた。
僕が遅かったっていうのがまず一つ。
その遅かった理由としてはそもそも石垣を必要としなかったっていう面があるんですね。
これなぜかというと小田原に来てもらうとですね、
相構えとかっていうのがあって、
要は中世の北条氏の遺構があるんですけれども、
そこで全部土の壁ができてるんですね。
そこにこうバカデカい深い堀を張り巡らしてるんですけど、
この土って、関東地方の土ってとある特色があるっていうのを習ったの覚えてませんか?
理科の授業とか。
関東なんとか層っていう。
関東ローム層。
何でしたっけこれって。
それが何か覚えてないね。
僕の修行マンの将来一般校と同じですね。
関東ローム層っていうのは要は火山灰の堆積した土地ですよね。赤土。
これって理科の授業とかだと野菜が育ちやすい、水はけがいいみたいな話だと思うんですけれども、
逆に水田ができづらいと思う。
城っていう観点で見るとね、粒子がえげつない細かいからめっちゃ滑るんですよ。
つまり敵がこの壁をよじ登ろうとしても、さらさら崩れるばっかりで全然到達できないんですね。
登れないと。
逆にこの石垣とかやっちゃうと足掛かりをむしろ作っちゃうみたいなイメージになるので、
小田原保護城の城っていうのは大体石垣をあえて作んなかったんですね。
確かにね。
多分城の下ぐらいしかないのかな。
かつその石垣って手間もすごいじゃないですか。こんな重たいものを山の上に持ち上げて。
切らないといけないしね。
どっから持っていくんだって話じゃん。こんなのねっていうこともあるので、
基本的に関東の城はその地質を生かして石垣を吹かなかったっていうのが常識だったんですけど、
平成に入ってからこの金山城の移行を調査したところ、石垣がめっちゃあったんですね。
だからこれについては関東ローム層が生かせなかった地形だったのかっていうのがまず一つありますけれども、
同時に西日本でもこの築くのが大変な石垣っていうのを、
戦国時代においてなおこれをやってたっていうのはね、めちゃくちゃ豪雑な城だったんですよ。
関東の中では。
なぜがそれできたのかっていうのを色々推測はできますけれども、
一つにはやはり資金力だと思うんですね。
こんな石を持ってきたりとか。
なんでその資金力があったのか、これは想像ですよ。
言うとやっぱりゆらなりしげ一族の立ち回りの上手さです。
要はお金をもらえるならそっちについてもいいけどみたいなことを僕は発砲に行ってたんじゃないかって気がするんですよ。
なるほどね。
それで色んなところから金出させて、詐欺ですよはっきり言って。
それで持ってこの石垣を作ったんじゃないのかなって僕は思うんですよね。
じゃないとこの理屈が通んないんですよ。
この城だけが石垣になった。
なるほど。
産業的にもそこまで突出して儲けてるっていうわけではないのか。
おそらく。
じゃあその説はありそうだね。
っていうちょっと色んな面白さとドラマを兼ねたすごく、今から見ると遺跡ジャンなんですけど、めちゃくちゃゴージャスな異質な城だったんです。
が今は復元をされててこの石垣も全部復元されてる。
のでこの金山城はぜひ訪れていただきたいと思うわけですね。
金山城の魅力
実際もうすごく多くの方が訪れてますから駐車場も広いですし、
実際の山登りの方も含めてこんな遺跡っぽい城の中ではこんな人いるのかってみんな思うと思います。
ってくらい城郭ファンの間では有名ですここは。
っていう名城ですね。
が大田の一つ歴史を語る上で欠かせないものなんですね。
面白いね。なんかその天守がないのにその名城と言われたり城郭ファンに強い人気っていうのは面白いね。
面白いですよね。
というのがこの金山城でした。
でこれ結構見どころすごいありますので多分1時間以上かかると思いますほぼほぼ。
ガイダンス地図と合わせると。
なのでね金山城から車で山を降りたら大田の市街地に降りるわけなんですけどお昼を食べに行きたいと思うんですね。
金山城跡から大体車で10分ほど大田の駅を南に越えて大田市役所の方まで戻ります。
そこにあるのが純手打ちうどんそば清水さんです。
前日もそばでしたけどね。
こっちはうどんですね。
うどんを食べに行くんですね。
これもある意味交代賞なんですけれども群馬県ってうどん有名なんですよ。
日本最大うどんなんて言われているものが一つ水沢うどんっていうのがありますけれどもこれは群馬県の伊加保というあたりにね温泉として有名ですがこのあたりを発祥とするうどんなので
小麦文化はね埼玉と群馬がすごいんですね。
なのでここでねぜひね群馬に来たら今度はうどんを食べていただければいいのかなと思うわけです。
これも合いがけもできます。
そうだねこのねタブログに載ってる写真もねほぼ合いがけなんだよね。
そうそうだからうどんとそばのそのコシの強さをねそれぞれ確かめてみてもらうのもいいんじゃないかと思います。
そうだねそば同士で食べ比べるのもね。
そうそうそうそう。
でここもやっぱりね天ぷらが美味しかったんですよすごく。
3人で行ったのでそれぞれうどんそば一人で食べた上で天ぷらの盛り合わせみたいなの確か分けたんですけど野菜の天ぷらが美味しくてねすごく良かったんですよね。
いいね。
でもね地元の常連さんがやっぱり多くて。
綺麗な天ぷらだな。
うどんはどういう感じの麺なんですかね。
コシが強いですねかなり。
そうなんだ。
太くはないんだよねここ。
でもコシは強かったイメージがありますけど。
麺はどっちかと言うと細めだったかな。
そうだねこの合いがけの写真見てもちょっとそばより太いかなみたいな感じかな。
そうそうそうでしたね。
でなんでここ行ったかと言うとその後輩がね大田出身のね家の近くっていうのもあるんですけども。
その子の小学校の時に入っていたリトルリーグだったかなのコーチをやってる方なんですよ。
お店の人が。
その子はバイトも確かしてたとかねここで。
そういう個人的な俗人的な思い出に基づいて連れてってもらったんですけど。
でもだから僕らまでねめっちゃ歓迎してもらいました。
まさか会社の人たちを自分の店に連れてくるとはみたいなイメージでね。
なのですごく優しい店主さんでね明るい方でしたね本当にご家族が皆さん。
そういう思い出もあるんだね。
だから多分一般的な観光客ではなかなかたどり着けないかもしれない。
場所はいいってきてね地元の方すごい入ってきましたけど。
地元では多分みんな知ってるお店なんでしょうけど。
そういったその個人的なねその後輩の子の思い出に我々も乗っかる形でねお話もさせていただきましてねすごく美味しかったですね。
肉汁うまそうだな。
うまそうね。
ちょっとまた行きたいねこれまたね。
別のやつも食べたかったんだよね。
ということでね車でも全然駐車場も確か近くにあったはずなので。
こちらのお店でぜひお昼をねそばうどんの食べ比べなんてのね前日合わせてやってもらえればいいのかなと思いますし。
ちなみにねこれ赤城さんもあります。
大田市美術館図書館の役割
赤城さんっていう地酒です。
車なのでちょっと一人だと無理なんですけど僕みたいに後輩を従えてるとかそういった嫌われる覚悟があるならばぜひ飲んでいただいていいんじゃないかと。
飲めるんだったよね。
飲めるんだったよね。
というねお店のご紹介でした。
そしてねちょっとこっからがねまた動きが変わるわけなんですけれども車で北の方に3分ほど戻ります。
お城は駅の北にあって駅を越えて宇都宮に来たんですね南の方に。
けど駅の北側にまた戻ります。
戻った先に何があるかというと大田市美術館図書館です。
なんかかっこいいね。
そうでしょ。
こんな図書館。
美術館と図書館が一緒になってるのか。
すごいな。
現代の大田の観光とかっていうとこれっていう人も多いと思いますし。
僕が尊敬してやまないDデザイントラベル。
いつか富山でやりましたけどね。
あれもやっぱここめっちゃ紹介してました。
いやでも確かにちょっとデザインっぽい感じのねおしゃれな感じにしますよね。
ただこれは観光施設では観光施設も兼ねてはいますけど一般の大田の方が使っている図書館なんですね。
ここすごいんですよちょっと。
特にねこの大田市美術館図書館がなぜできたかっていう話もちょっと注目していただきたいんですけれども。
基本理念創造的大田人。
これかっこいいんですよねなんかね。
どういう理念なんだろうこれ。
これそうなぜかという話ですよね。
ちょっと省略しながら読みますと。
大田市美術館図書館は街に創造性をもたらす地と感性のプラットフォームです。
近代以降大田市はものづくりを中心に発展してきました。
ものづくりを通して培われてきた市民一人一人の栄知は今も大田市の活力の源泉となっています。
ということでねこれでちょっとさっきの話を思い出してほしいんですね。
つまり工業都市大田そしてスバルですよね。
スバルって今でこそ自動車の会社として有名ですけどあれ元々は中島飛行機っていう飛行機を作る会社だったんですよ。
そうなんだ。
そう中島さんっていう人がいるんですけれども大田方なんですけれども
この人が飛行機をこの戦前だったと思うんだけど
自分でこう開発しようとした人なんですよ。
っていうねすごい発明家だったんですよ。
それで大田にその飛行場を作ってっていうところとかがスバルの原型なんですね。
だからこうスバルってこう空を星空に空を飛ぶものなんですよ。
彼らが目指していたものって。
そうなんだ。
だからもう本当にその時代からものづくりをしてきたわけだね。
そう中島さんとスバルと共に歩んできた町で工業地帯として今すごい発展を遂げている町なので
このものづくりの精神っていうのを伝承するためのプラットフォームでもあるというねすごい意気込みのコンセプチュアルなものなんですね。
というのがまず一つでね、このすごいんですよ美術館図書館事業の目的。
大田市に蓄積されてきた創造の遺伝子の収集と調査研究。
すごいよね。
ただ実際ねこれもね本当にすごいところで僕もその例によって後輩と一緒についててもらったわけなんですけど
本当に地元の高校生の子とかがみんなここで勉強して
すごいこうねコンセプチュアルな空間に囲まれながらみんなが集まって勉強したり話し合ったりってことをやっているので
まさにその大田の次世代を担う方々がここに集まってねいろんなコミュニケーションを取っていらっしゃったり
勉学に励んでいらっしゃったりっていうのはねよく見える場所でありましたね。
じゃあこの理念に沿ったような景色が見れるわけだね。
その後輩が子供の時はなかったそうで私はこれを運挙預かってないって話はしてましたけれども
というのがまずこの一つの目的なんですね創造的大田神の遺伝子なんですね。
ただねもう一つ実はこれ重要な役目があってこれね実は建築としてもめちゃくちゃすごい建築として有名なところで
うちども今外観見て何これってなったと思うんですけれども
この5つのね箱みたいなものが立っていてそれをこうスロープみたいなつなぐね
なんか本当におしゃれな商業ビルみたいな感じになっているんですよ。
でこれなんでこんな風になっているかっていうと実はねこの施設自体を一つの街歩きをイメージするものだそうなんですね。
でそれはどうしてかっていうとこのホームページに詳しく書いてあるんですが
大田っていうのはそういうわけですごい大都市であって今も人口20万を超えていると。
なんだけれどもやっぱりどうしても最近のまあ都市開発の流れの影響で
どうしても郊外型の都市になってしまっていて駅前のにぎわいというのが全然もう失われてしまっている。
そういった時にこのままで良いのか要はものづくりの街として栄えてきた大田がただの郊外型の地方都市になってしまっている良いのかっていうのは
そこにすごく問題意識を持った方がいっぱいいたそうでもう一度駅前にこのにぎわいを取り戻したい。
そしてそこで街を郊外型にするんじゃなくてちゃんと街歩きってこういう楽しい出会いがあるよねっていうその疑似体験を子どもたちにしてほしいっていう思いを持ってこの特殊な建築家が生まれたそうなんです。
この文の中にも多くの人々が車中心の生活をし郊外のショッピングモールで買い物をするようになった結果街の血液である歩行者が少なくなり駅前の魅力ある街並みが失われつつあるのですと。
そういうことですね。
街の血液なんだね歩行者。
そうなんですよ。
面白い考えだね。
その街設計中発見中じゃないですけれども空気というかいろんな知恵とかそれこそものづくりの遺伝子も含めてを運んでいくのが人になっている。
それが一つ一つのボックスこれで図書館のところに入った美術館のところに入った子ども向けのところに入ったとかってボックスを渡り歩いていくことでいろんな遺伝子を持った創造的大田人たちがここで交わって育っていくっていう。
そういう一つの街のモデルとしてこの大田市美術館図書館というのがあるそうなんですね。
いい考えだな。
面白いですよね非常にね。
現にそれにこの大田市美術館の成りを見ていると本当に多くの若い創造的大田人たちがここで集まっているのでその目的を達成してるんじゃないかなという気もしますね。
本当に歩きたくなるような施設なんだろうなって感じは。
これが図書館って言われたらびっくりだよね。
なんかこう外階段があったりとか屋上に公園というかお庭みたいな感じなのかな。
そうなんですこの屋上も出られるんですよ。
あったりしてだからやっぱ図書館でねそうやって勉強してちょっと疲れたから外出てお庭で休もうかなとかいうこともできるわけだね。
そうです。
その中で歩いていろんな交流が生まれたらいいねっていう。
そういうことですそういうことです。
大学のキャンパスにありそうな。
確かに確かに。
いい考えだなこれ。
そうなんですよ。
っていうね今すごく注目されている現代建築です。
大田市美術館図書館っていう。
なので建築好きの方とかはこれを目的に群馬に行く方もいても全然不思議はありません。
大光院への訪問
そういったものが大田にあるんです。
ミュージアムショップですとかミュージアムカフェもございますのでタイミング的にお昼を食べた後ですからここで一服していただいてもいいですしお土産を買うんだったらここも一つありかなと思いますので。
美術館の方が企画展をいろいろやってますね。
このコースの中で言うと建物を楽しみつつ美術館だったり図書館歩いてみたりしてその中でもしかしたら交流とかも生まれるかもっていうことね。
そういうことですそういうことです。
という大田市美術館図書館さんのご紹介でした。
そしてここからが第二パートに入っていくわけなんですけれども、
今まで言ってきたものは大田という町のあらましをちょっとなぞったような感じなんですが、
ここからはちょっとディープな話をしていきたいと思います。
次の目的地にまずお話をすると、大田市美術館図書館から車で6分ほど行ったり来たりですいませんが、
さらに金山にまた戻っていただくんですね。
大光院というお寺があります。
大きな光の院と書いて大光院です。
これ何かって言うとですね、金山の山麓にあるお城の本当に下にあるんですけれどもめちゃくちゃ大きな寺院で、
戦国時代の影響
有名なのはどんりゅうしょうにんという飲み干すの飲みなんだよね要はね。
下に口がある、調べていただければいいんですけれども、
龍はドラゴンですね。どんりゅうしょうにんという人がここにいたということで、
この人が海山、初めての住職なんですけれども、
この人がですね、戦国時代から江戸時代にかけての戦乱の時代を生きた人なんですけど、
そういった時代ですから、まさにこの金山は戦いの絶えなかった場所でもありますので、
多くのね、戦災孤児みたいな人が世の中に生まれてしまっていたと。
戦乱の時代だからなんも仕方ないよっていう人が多分大半だったと思うんですけど、
この方はそうは思わなくて、その親を失ってしまった子どもたちをこの大光院に自ら招いて、
自分がこの親代わりになって一定の年齢まで育て上げたっていうね、
そういった事前事業を自前でやっていた人なんです。
個人みたいな感じか。
そういうことだね。
で、その事業っていうのが非常に特に平和な時代になってやっぱりすごい人だったっていうのが忍ばれて、
今ね、群馬県の方多分皆さん言えると思うんですけど、
縄毛カルタというね。
聞いたことあるな。
群馬のご当地カルタ、多分日本で間違いなく一番有名で、多くの人が知っているご当地カルタですけれども。
そうだ、バックナンバーがよく言ってたな。
バックナンバーさんって群馬の方なんだっけ。
だったと思うよ。
あ、そうなんだ。
オールナイトとかでやってた気がする。
そうなんだ。
そうそうそうそう。
面白いねこれ。
そうだそうだ。
あ、そう。
やってたやってた。
じゃあまさにそうかもしれないですね。
うん。
縄毛カルタの尾といえば群馬県の皆さん是非ね、ご承知いただきたいんですけども、
尾田金山子育て鈍流というね。
へー。
っていうぐらい群馬県の中でも偉人として有名な人なんですよ。鈍流松林。
この人がいたお寺というふうに言われているのがこの大公院なんですね。
で、ここまでは大公院の概要なんですけれども、このお寺がなぜ作られたのかってところからちょっと話をしていきたいんですね。
はい。
で、これねちょっと尾田氏さんのホームページを見ているわけなんですけれども、鈍流さんの漫画なんて書いてありますから、
この説明のところにですね、大公院は慶長18年春、徳川家康によって一族の繁栄と師祖、日田義重を追禅供養するために開かれた浄土宗のお寺でとあるんですよ。
日田義貞の活躍
これどういう意味かわかりますか?シンプルに。
家康がこの日田義重を弔うようなことで作らせたということですね。
そこに師祖って書いてますよね。
はいはい。
これつまりね、徳川家康の先祖はこの日田義重という人物だと言われているんです。
これがどういうことかっていう話から、日田一族の話はちょっと今度したいと思うんですね。
はい。
はい。で、まずじゃあこの出てきましたが日田義重という人物、日田というのは新しい田んぼで日田と呼びます。
人物なんですけれども、これ何者だったかということなんですが、これもやはり源氏の一族なんですね。
ほうほうほう。
で、前日ですね、万那寺の万那となっていた足利義金という人物がいたのを覚えてますかね。
この人は何者だったかというと、要は足利一族って源氏の一つ名門であって、
源平合戦の時に頼朝に協力をして、それによってすごく取り立てられた。
で、重きを置いた足利の地層的な人だと。
で、万那だったわけですよね。
で、この足利義金の叔父に当たるのがこの日田義重という人物です。
つまり足利と日田っていうのは元々兄弟だったんですね。
その兄弟が足利家の渡瀬川の北と南で領地を分けたんです。
北にいたのが足利一族。
で、南にいたのが今の太田を領していた日田一族。
で、この日田義重がその日田の祖なんですね。
ところがですね、この日田も源氏の名門ですから、足利というのは同レベル。
しかももっと言うと、実は日田義重は足利義金のお父さんの兄なんです。
つまり日田の方が年上なんですね。
だけれどもですね、日田は源義重が徒兵するってなった時に、
いやあいつはダメだよ、負けるよって言っちゃったんですよ。
足利が言った?お前何やってんだよ、あんな負ける奴のところにって思ってたら、
めっちゃ頼朝が成功してるって言って、後から慌てていったんですね。
でも頼朝からしたらさ、それはどういう気持ちになるかって言ったら、
どっちを対戦するかって言ったらそれはもうね。
それは先に手を挙げてくれた足利の方を大事にするよね。
そりゃそうですよね、絶対。
ということで日田の歴史はここから始まるんですね。
じゃあ若干なんだあいつみたいな。
そうそうそうそう。
ついてきたけど、今更何をみたいな。
そうそうそう。
なので同じ源氏のすごい名門なんだけれども、
鎌倉幕府の中では法上も足利様や足利さんにはいつもまあまあまあって感じだけど、
日田はまあまあまあみたいな扱いになって、
全然そのランクが違っちゃったんですよ、幕府の扱いが。
同じ源氏でも。
日田は別にないがらしで文句言わざるを得ない。
足利はとにかくちゃんとやっとけば。
法上もみんな思って。
非常にないがらしのようにされてた。
ところが足利の時に話しましたけども、
五大の天皇が巨兵するってなって、
足利隆打が行ってたわけですよね、京都の方に行って、
そこで売られちゃうわけなんですけど、
日田はその時、日田義貞っていう人物がいたんですね。
これはもう群馬の英雄、日田義貞という人がいて、
これがその時の日田の党首だったんですけど、
この人が太田のあたりを治めていたわけなんですが、
法上は日田を舐めてますから、
お前金出すよみたいな、貧乏だろうけどお前金よこすみたいな、
わけわかんない使いが鎌倉から来て、
法上も金がないんですよ、軍資金急に必要になったから。
わけわかんない無本が関西に起きてるからね。
日田から取り勝てようとしたんですよ。
でも日田はもう鼻から何がしろにされてる恨みもあるし、
ましてや法上そろそろマジで終わるんじゃないかっていう予感もあったから、
なんと吉田はその場でこの使いを殺してしまうんですね。
ずいぶん思い切った。
幕府の中でも舐められて何がしろにされたちっちゃな日田一族が、
関東において真っ先に法上に反拠を翻したんですよ。
ここで日田は、え?ってみんなびっくりしたの。
吉田さんあんた何してんのこの人殺しちゃって、
やばいよこの人殺しちゃったらって言ったけど、
いやもういい、こうなったからにはやるしかないって言って、
今から日田一族は法上に対して巨兵をする、
今すぐ兵を集めろっていうことで、
急にこの太田において巨兵をして、
埼玉を突っ切ったら鎌倉まで攻め上って、
これが鎌倉を滅ぼしたんですよ。
吉田というのは非常に武勇に長けていた人物だったって言われてる。
なるほど。
だから前日で話してた足利は奈良?
京都だよ。
京都の方で法上を滅ぼした。
で、関東の方で法上を滅ぼしたのがこの日田だと。
そういうことです。
鎌倉攻めっていうね、歴史の浄化者に出てくる鎌倉攻めは、
この日田吉田が対象ですね。
で、最後法上一族は鎌倉で滅亡していく。
なるほど。
要は南北朝時代を切り開いた代行老舎なんですね。
日田吉田っていうのはその前舐められてたんだけど。
ということで後醍醐天皇ももちろんこれはってなるから、
日田吉田はすごい重宝されて、
鎌倉時代に何がしろにされてると思えないくらい後退を受けるんですね。
で、だから日田吉田はそのこともあったから、
鎌倉幕府の初めの時は足利の方が日田より全然上だったんですよ。
けど後醍醐天皇の政権になると、
足利は足利で頑張ったんだけど、
なんかあいつは途中でドタンパになって裏切って、
京都だけとりあえずやっつけたみたいな。
それよりも日田はあの鎌倉本拠地を滅ぼしたっていうんで、
日田の方が行動機が多いんじゃないかみたいな。
なって今度は日田の方が後醍醐天皇にちゃんと取り立てられて、
足利と同列みたいになってくるので。
そうすると足利は面白くないわけなんで。
あんな日田風情がどうしてってことになって、
だから面白くなくなっちゃって、
隙を見て無言をするんだけど。
そうすると日田はどうするかっていうと、
足利は一族ではあるけれども、
もともとそういう因縁があるから、
自分は鎌を引き立ててもらった後醍醐天皇に残りますよね。
だから足利は北朝の大将として別の天皇を擁立してくる。
日田は後醍醐天皇一派をそのままやって南朝の大将になって、
この渡瀬川を挟んだ足利日田っていう、
この近接距離が日本を二分する勢力になったんです。
これが南北朝時代の始まりなんですね。
足利との関係
うわーなんか不思議な因縁というかね。
そうなんですよ。何百年にも渡ってのね。
はぁー。
いやごめん、ちょっとね、
ナルトとサスケを思い出した今。
そうそう、あれね、僕本当にそれ思うんですよ。
あれももともと神様の生まれ変わりという感じで、
ナルトとサスケだったけど。
だからそういう源流がありつつ、
兄弟的な関係であって対立していく。
ナルトは最終的に和解をするけれども、
なんかそんな感じがしたわ今。
そうですよね。本当にそういったストーリーなんですよ。
もちろんこれは史実なんだけどね、全部こっちはね。
それをこの日本を二分した大将は、
この渡瀬川を挟んだ隣り合ってた人たちだったんです。
っていうのがね、この足利と太田の関係なんです。
はぁー。
その後吉田はどうなったかっていうと、
もう知ってる通り歴史の勝者は足利なわけなんですよ。
室町幕府のね。
吉田は刑務の申請で横台岡に就くんだけれども、
徐々に徐々に北朝鮮勢力が強くなって、
吉田はいろんなところに転戦して最後はね、
越前の国で軍勢を立て直して攻めようとしていたところに、
ふとした不意打ちみたいのを受けて、
あっけなく死んじゃったのよ。
越前福井市でね、死んじゃったんですね。
ちょうど阿波羅温泉に途中当たりなんですけど。
でね、なんか打ち取った人もあれ吉田だったのかってぐらいの
あっけなさでね、死んでしまって。
日田一族はね、あっという間に大将を失ってしまった。
その後もただ日田は日田のプライドがあるから、
弟も結構有能なのがいたので、
それらが引き継いで南朝の勢力としてずっと北朝に対抗し続ける。
で、結局ただ北朝が最後は優位な感じで南北朝を統一するので、
室町幕府で足利の転換になりますよね。
で、日田はもう筆底を余儀なくされて、
その後も三発的に無謀みたいなのを起こすんだけど、
歴史の表舞台から切り去っていった。
なんかね、もし世界線が違ったら仲良くもできたのかもしれないけどね。
かもしれないけどね、そうなんです。
ただそれが徳川家康がその日田が育っていったんですね。
はいはいはい。
これどういう意味があるかわかるかな。
これ本当かどうかわかんないです、今回はっきり言って。
家康が辞書をしてるんですよ。
私は日田一門の末裔ですって。
えー。
っていうところからじゃあ、ちょっとその謎を残したまま釣りの場所に行きましょうか。
なんかちょっと気持ち悪いけど、行きましょうか。
で、こっからね、ちょっと車が長くなりますが、
大工員さんから車で25分ほど南西の方に行っていただくと、
日田の正歴史資料館というものがあります。
はい。
この日田の正というのが、日田吉田大一族、日田一族ですね。
が本拠地にしていた領地の跡に建っているもの。
つまり足利における万那寺みたいなね。
そういった意味合いの館があったのがこの日田の正です。
ほうほう。
徳川家と日田一族の関係
で、ここではですね、そういったわけで今話したような日田一門、
特に日田吉田ですよね。
だったりの業績というのがたくさんここに残っていて、
それを展示している資料館になっています。
で、日田一族はですね、そういったわけで歴史の表から消えていったんですよ。
ただ、徳川秀吉がなんか急にそういうことを言い始めたんですよ。
私は日田一族ですっていう。
で、ここの謎にまた帰ってくるわけなんですけど。
歴史の年表を思い出してほしいんですが、室町時代というのは足利家ですよね。
があって、その室町幕府滅ぼしたのは織田信長ですよね。
織田信長は本拠地の辺で死にました。
豊臣秀吉の天下になりました。
で、それが死んだ後関ヶ原が起こって、
徳川一族の天下になって。
足利幕府の次、信長秀吉を挟んで、徳川幕府になるんですよ。
これで徳川は日田の子孫だって言い始めてる。
つまり、いろいろ理由はあるんだけれども、
徳川家っていうのは要は足利に変わるくらいの、
そういった優秀ある家なんだってことを言い始めた。
正位大将軍たるべき足利と同レベルになって、
おかしくない家なんだってことを自称し始めたんです。
そのへの引き合いに出して、足利に変わると言ったら、
日田だろうってことをそもそも言い始める。
だってそもそも日田のが兄貴だったんだ。
っていうことを、イエスを言い始めるんです、徳川家っていうのは。
正式に言うと幕府を立てるから日田って言おうっていうわけじゃなくて、
もっと前からね、そもそも徳川家ですって、
あの回の時やりましたけど、
長崎城主として生まれた時は松平武中ですよね。
それをある時途中から徳川に名乗り始めるんですよ。
でこれなぜ徳川に行ったかっていうと、
その徳川っていうのは何だったかっていうと、
この日田の城の中にある歴史名が徳川なんです。
つまり徳川家っていうものの発祥は群馬県大田市なんです本当は。
じゃあ松平から徳川になったわけで。
そうそうそう。
だからその徳川って名乗り始めた徳川家っていうのは、
この日田のものが始祖というか始まりなわけだね。
そういうことです。
でそもそも本当の徳川家康の先祖は、
これはもうよくわかんないんだけど、
一説にはこの松平ってそもそもじゃあ何で言ってたんだよ、
お前徳川じゃなかったのかって話なんだけど、
松平になったのはよくわかんないね、
お坊さんだったって言うんですよ実は家康の先祖って。
わけわかんないルロのお坊さんが頭の回る人がいて、
それから三河の松平号ってところに
何か磯卸みたいになったんだよ。
でもその容姿に気に入られて、
お前うちの無垢容姿になんねえかって言われて、
じゃあ松平になっちゃいますわ、
僕どうせお坊さんになっても仕方ないし、
って言ったのが本当の先祖だったらしい。
っていうわけわかんない感じだから。
だからこのままじゃやばいと。
足利に代わるってのはさすがに言いづれえっていうのもあったと思うんだけど、
ESは徳川に代わるあたりから厄介になって、
いや俺は何つったって日田一門だからみたいな。
ことを高らかにずっと固執するんですねそこに。
博をつけたかったわけだ。
日田殿様の絵画活動
そう、コンプレックスがある意味だった。
っていうので日田一族は江戸時代になると、
にわかに日の見を浴びるようになるんですよ。
これさっき金山城に岩松と由良って人がいましたけれども、
この岩松っていうのが実は日田一族の、
失足して世に隠れていた日田一族の党首だったんですね。
でもこれは金山城追い越されちゃって、
とんでもない苦難の時代になったんだけども、
家康っていう自ら日田一族だって言い張る将軍が急に出てきたから、
でもお前本当かよってみんな思ってるわけよ。
どうせ嘘だろ日田一族なんだ。
いやうちは本当だから。
だからその証拠に日田一族の子孫たちを探し出して、
俺はその人たちと敬うみたいなことを言い始めて、
もう全然ダメダメだった。
苦難の乗っ取られたりなんだりで、
どうしようもなかった岩松の一族を無理矢理領地みたいなの与えて、
あなたこそ私と同族ですよねみたいな。
本当の日田は岩松なんだけど、
よくぞ会えました私の親戚にみたいなことを徳川が言い始めて、
ああみたいな。
それでもう私は岩松さんとはもう同族ですから、
つって私たち日田一門ですから、
岩松さんそんなルローさせたわけにいかないから、
私の徳川の幕府でもあなたはちゃんとした領地と隠しがありますからっていうんで、
何の力もなかったはずの岩松に、
急に領地とめっちゃでかい感触が降ってきた。
知恵だけはすごい高い人になったの。
岩松っていうのを急に。
それは徳川幕府が自分が日田一門であることを証明するためのフックとしてね。
ところがこうなってみると岩松も困るんですよ。
一見いいことなんだけれども、保護されてね。
廷長にみんなから敬われて、なんだけど、
今度これがかかるんだよね。
お金ね。
ランクばっかり高いから、
衣装はちゃんとしなきゃいけないし、
みなりもしなきゃいけないし、
行列も整えなきゃいけない。
でも土地は狭いし、
本当は部下だって全然いない。
どうすんのってなって、
やむを得ずこの日田の殿様たちは江戸時代の、
複漁を始めるんですよ。
変な複漁を始める。
何をしたかっていうと、
絵を描き始めたんですよ。
ウェブ検索で日田猫絵って検索してもらっていいですか。
この絵を描き始めたの?
そう。
日田一族の殿様は江戸時代あまりにも困ったので、
複漁としてね、
自らこの絵を描く複漁を始めたんですね。
これ見てみると、
日田源道住室って書いてあるでしょ。
本当だ。
これお殿様の直室なんですよ。
これをね、
代々の当主がそれぞれの幸で猫の絵を描きまくったんですよ。
不思議だな。
なんでそれを始めたんだろう。
そう。
じゃあなんでこれにみんな金を払って、
これを求めたかっていうことなんですよ。
しかも買ったのは大名とかじゃなくてね、
一般民衆の間にすごい大人気だった。
特にこの城門、
要は神戸、下助の辺りの民衆たちはこれをね、
みんなお守りのように貼ってたっていうんです。
もちろん日田っていう強度の英雄だったのはあるでしょうけど、
もう一つね、
猫ってどういった意味をこの時に持ってたかわかりますか。
魔除けとして扱われたんですよ、この絵は。
何かが来ないようにしてほしかったの、
その人たちは、
足利の人も日田の人も。
え、ネズミ?
そう。
なぜかというと、
ネズミはカイコを食べちゃうからです。
なるほど。
足利のことを思い出してほしいんですね。
織姫神社なんて作ってるぐらいの人たちですよ。
そうだね。
それはネズミなんかにやられたら大変なことで、
もう壊滅的な産業の根幹を揺るがしますよ。
ていうので、
まして殿様が描いてるらしいぞということで、
足利ではあるんだけれども、
要は神戸、下関、あるいは新州とか甲州とか、
この北関東の辺りとか甲州の辺りの
養産農家の人たちが、
日田猫をみんな求めたっていう。
そのニーズを受けて、
日田の殿様はせっせらせっせら絵を描き続けた。
え、面白い。
これでどうにか福良をやってたって言うんですよ。
面白いなあ。
それで一応個人には稼げてたわけなんだね。
日光との繋がり
そういうことなんですよ。
短写としても明らかに猫なんだけど、
ちょっと独特なね。
イラストっぽいというか。
キャラっぽいですよね、やや。
そうだね。
だから芸術としてのもちろん猫というよりは、
ちょっと神秘性を帯びたキャラクターとしての猫をね、
イラストレーターの福良をやってた殿様がいるっていう。
これを代々みんなやっちゃったんですよ。
その代々続けられるぐらい、
ちゃんと化石があったわけだね。
そうそう。
すごいなあ。
逆に続けててやばかったんだと思う。
まあまあまあ。
追い上げです、いわゆる。
猫への殿様って半ばバカにされてもいたでしょうけれども、
どう考えても僕が本当はニッターじゃなさそうだし。
だからよくわかんない人たちなんだけど、
とにかく猫絵を描くことで何とか命名を積もりでいたと。
なのでこのニッターの小歴史資料館には、
企画展の時だけなんだけれども、
ニッター猫絵展っていうのがたまに開催されて、
僕はこのタイミングで行ったんですね。
猫絵が見たかったの。
っていう不思議な資料館です、ここは。
不思議な歴史だなあ、これ。
そうなんですよ。
で、ちょっとさらに補足をすると、
次の目的地でもあるんですが、
もう本当にこれ駐車場同じところに止めといて、
歩いて5分ぐらいなんですけれども、
セラダ東正宮とか長楽寺っていう神社とかお寺もあるんですね。
で、東正宮って言ったらさ、
これはもうESの回でありましたよね。
日光ね。
そうです、日光だったり、
あと駿河の国の久納山東正宮というのもね、
ありましたけれども、
要は家康自身のことを神様として祀っている神社ですよ。
これをやっぱり建ててるんですよ、幕府がここに。
しかも徳川家光がこれを建てたんですけど、
日光東正宮の建物の一部をここに移築してくるっていうぐらいの手の入れようで、
だからもう徳川としてもこのセラダっていう日太の城の一部ですよ。
要は徳川家発祥の地だけはもうプレミア化しなきゃいけないって言って、
すごいものをね、このちっちゃな村の中に建てたんです。
なんか今からその話聞くと必死だなっていう感じがするけど。
そうです、必死なんですよ。
まあまあ大事なんだろうな。
大事なんですね、当時としてはね。
ブランディングみたいなね。
ブランディングです、そうそう。
セルフブランディング大事だったんですよ。
あとはね、これはもう一節に割っているレベルなので、
偶然かもしれないんだけど、
ちょっと地図を見ていただいていいですかね。
ここが今ピン立ってるの、セラダ東正宮。
つまり日太の城なんですけれども、
ここに静岡があるじゃないですか。
これ何だったかって言うと、要は寸歩ですよね。
家康が亡くなって、久納山東正宮になった町です。
で、寸歩とセラダ東正宮を結びます。
直線でそれぞれ結びますよね。
その先に何があるかって言うと、
ほんとだ。
日光がある。
東正宮のある町なんですよ、日光東正宮。
ほんとだ。
つまり、日光っていうのはもしかしたらね、
なんで家康は日光をわざわざ選んだかっていうのは、
もちろん関東の肝、北東を守るためなんだけれども、
だったら別にさ、
うつの目でもよかったかもしれない。
だけど日光を選んだ理由は、
もしかしたらこれなんじゃないかって言われてるんです。
つまりセラダ、徳川の発祥の地を繋ぐっていうので、
日光に選んだんじゃないか。
だからこの山の上に建てられたんじゃないかって言うんですね。
ちょっと個人的には半々な感じだな。
これはわかんない。
一説にはそういう説がある。
でもちょっと今、日光が見えた瞬間、うわーって思った。
そうなんですよ。
っていうちょっとしたミステリーがね。
それだけ日光の説はわからないけれども、
どれだけ家康というか徳川というか、
日太一門であるということに固執したんです。
そういった歴史を振り返った上で、最後の目的地です。
日太野省の辺りから車で15分ほど北の方に行っていただいたところにあるのが、
戦神社です。
戦神社の歴史
生きる生命の品川の品と書いてね、戦神社。
こここそが1333年5月8日、
日太義貞が倒幕の巨兵をした場所として記録されている神社です。
そう神社に参照したのは150基に過ぎなかった。
これ要は突発的に義貞がキレて殺しちゃったので、
計画的犯行じゃなかったんですよ。
だから150人しかいなかったの最初。
少ないね。
これが何十万という法上の軍勢をなぜ倒せたのかっていう話なんですけど。
確かにね。
戦神社で徒兵したら、もう電撃戦だったんですね。
すぐさまこの150基だろうがなかろうが各地に電霊を飛ばして大旗を振って、
法上を倒しますよっつって。
でも戦法進んでますから、あなたが乗り遅れるとやばいですよ。
っていうふうなことを言ったら、続々と法上に不満を持ってた軍勢が、
シナノとかエチゴの方から集まってきて、いつの間にかとんでもない数が膨らがった。
その旗振り役になった日田義旗が自然と大将に祀り上げられてて、
日田義旗が何十万という軍勢を指揮する大将になって鎌倉を滅ぼしてしまった。
っていう、歴史の不思議と怖さというか。
すげえ恨み買ってたんだ。
そういうことですよ。
法上やりたいことあるから。
っていうのがまだ残ってるんですね、この神社がね。
足利と日田の遺産
なので最後はね、この戦神社行っていただくと、
吉田が実際にこの旗を掲げた、日帯一文の旗を掲げた旗が残っているっていう伝説ですけどね。
があったりとか、もちろんその歴史のあらましを書いた石碑などもありますので、
やはり歴史ファンの方はね、この戦神社っていうのはね、
一連のことを書いた大兵器っていうすごい重要な物語がありますけど、
これの大名場面なのでね、
戦神社の不平というのは誰もが知ってると思います、
歴史的な方は。
でね、三堂のところにね、日帯吉田の銅像も建ってるんですね。
吉田っていうのはもうね、非常に有名なポーズがあって、
剣をね、天に向かって捧げてお辞儀をするっていうのがもう、
あらゆる日帯吉田の有名なポーズなんですよ。
これは鎌倉を攻めるときに、
稲村ヶ崎って江戸田の駅にあると思うんですけど、
あそこから攻めたんですね。
稲村ヶ崎って海に突き出てるじゃないですか。
それ渡れないじゃないですか。
なんだけど、あるタイミングだけそこに潮が引いて、
馬でその海を渡れるようになるっていうタイミングがある。
そのなってくれっていう風に願いを込めて、
太刀をね、下がるように投げたところ、
たちまち潮が引いて、
工場が思いもしなかったの海を渡ってきて、
裏奥から攻め込まれて工場滅んだっていう。
その伝説がもう三堂の人で画像を検索すると、
これ絶対出てきます。
それが再現されている銅像があるんですね。
この銅像、今はすごい本当に等身大くらい大きいんですけど、
もともとは戦前に地元の有志の方が建ててたらしいんだけど、
2010年なので割と最近なんですけど、
盗まれちゃったんですって、銅像が。
バチ当たりの人がいるもんで。
で、なくなっちゃったんだって。
だけどやっぱりこの日帯を従う銅像ってやっぱり、
この辺の人にとっては特別なんで、日帯一族って。
市内外からすごい寄付金が集まって、
当初の盗まれた方のものの2倍くらいの高さで再現されてる。
しかもそれを手掛けたのは、
吉田の弟の和平義介っていう人物、これも有名なんですけど、
この子孫の方がたまたま彫刻家で、
この人が自ら吉田の銅像を今回建てたっていうことですね。
なんだそれ。
すごいね、なんか不思議な歴史ですよね、本当にね。
はあ、不思議な縁だね。
なのでそういったね、本当に不思議な日帯を感じながら、
戌神田神社をね、参拝していただければいいのかなと。
そしてね、もうこれで本当に夕方になっていると思いますので、
帰り道に着きたいと思いますが、
車で25分ほどですね、
足利市の近くで借りた方は足利駅に戻っていただく。
大田駅の近くで借りた方は大田駅に戻っていただいて、
それぞれ大田から戻る場合は東部ですね。
足利市の場合も東部ですけれども、
JRに乗り換える方はJRの駅に戻っていただいて、
JR足利駅からそれぞれのキロに着いていただくということで、
この旅を終わりにしたいと思います。
それでは2日目を振り返っていきましょう。
まず朝は足利のホテルですね。
そこをだいたい8時50分ぐらいに出発します。
そこから徒歩5分ほど、モンタンさんですね。
非常におしゃれなカフェで、
2日酔いの体に優しいモーニングをいただきます。
画像で見たのは9種類でしょうね。
濃スープから選べるメニューだったり、
他にもフレンチトーストとか卵サンドとかがありますね。
そこから徒歩15分ほど、
足利駅近くのレンタカーで車を借ります。
もしくは電車で大田の方に移動してから、
そこでレンタカーを借りるのもいいですね。
足利駅から車で20分ほど、
市籍金山城跡ガイダンス施設。
関東の近郊で取り合いになっていた金山城についての資料がここにあるということで、
建物としてもとても面白いかっこいいような施設になってますので、
そちらも見どころと。
そこから車で5分ほど、金山城跡ですね。
天守はないですけれども、非常に当時の面影なのか、
ここを通ったであろう人たちを想像できるような遺跡になっております。
石垣がすごく残っておりますので、
お城ファンの方はぜひ訪れるべき場所なのかなと思いますね。
そこから車で10分ほど、
前日もお昼にお蕎麦いただきましたけれども、
こちらではうどん、お蕎麦も置いておりますので、
食べ比べとかしてみるといいかもしれませんね。
そこから車で3分ほど、大田市美術館図書館ですね。
創造的大田神というコンセプトを体現したような、
その文化を作り出すような施設になっております。
なのでここに訪れて、美術館を巡ったり、
図書館でちょっと一息ついたり、
あるいはこの施設を歩いてみて、
街の血液になってみるのがいいんじゃないですかね。
そこから車で6分ほど、大公院ですね。
徳川家康がね、自らの祖であると主張した
日田義重を供養するために作った、
徳川家康がね、自らの祖であると主張した
日田義重を供養するために作ったお寺ということで、
ここのね、鈍竜聖人が、
戦争後事たちを引き取って育てたと、
いう逸話もあるお寺ですね。
そこから車で25分ほど、
日田の松歴史資料館ですね。
日田一族の本拠地である、
日田の松の遺跡に立つ資料館ということなので、
この日田一族のね、歴史を知る資料館と、
そしてあと日田猫絵もね、
ちょっとまあ不思議なタッチの猫絵ですので、
ここもちょっと見ると面白いかなと。
そうですね。展示されている期間はね、
限定的だと思うので、
明治政府と南北朝
事前に調べていただいた方がいいと思います。
そこから徒歩5分ほど、
瀬田東正宮長楽寺ですね。
これはまあ別々の場所ですよね。
ただ隣接してます。
ということで、今回はね、
瀬田東正宮のお話をメインでしましたけれども、
東正宮とついている通り、
徳川家康を祀っている神社ということで、
いかに徳川家がこの瀬田とか、
この地域をあるいは日田っていうものを大事にしていたのかと、
いうのを感じられるスポットですね。
そこからくるまで15分ほど、
徳島神社ですね。
日田義貞が巨兵をしたと言われている神社ということなので、
歴史ファンはここに行って思いを馳せると、
ちょっとまあテンション上がるというか、
興奮するようなスポットなのかなというふうに思いますね。
そこから来るまで25分ほど、
足利駅近くのレンタカーで車を返します。
そこから徒歩3分ほど、
足利駅、東武線の方ですね。
の足利駅。
JRの方が都合良い方はそちらからご自宅へということで、
この旅が終了ということですね。
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よろしくお願いします。
なんかすごい不思議な、
なんかこう大いなる力を感じる縁の話があったなあ。
そうなんですよ。
大いなる力っていうのは本当にその通りですよね。
なんか目に見えない不思議ななんか力が働いてそうな話、逸話が多いね。
そうなんですよ。
で、ちなみにこれから余談なんですけど、
その後の足利とニットはどうなったのかっていうことなんですけど、
これ実はですね、徳川幕府ってそういうわけで明治維新で終わっちゃうじゃないですか。
そしたら今まではさ、徳川がニッタの一門だからって言って猫への殿様たちは大事に扱われていたけれども、
幕府がなくなっちゃったらじゃあどうなっちゃうんだって話になるじゃないですか。
もともと全然力はなかったので、どうしようかなってなってたんだけども。
ところが明治政府になってみたら、明治政府は徳川幕府の歴史を押し抜けるのでニッタも押し抜けられちゃうと思ったんだけども、
明治政府はね、いろいろ国の歴史とか神道に基づくいろいろ体系を整えていく中で、
南北朝っていう時代がこれ困った、どう扱おうかってなった時に、
いろんな根拠を持って南朝を政党にしたんです。
つまり今の明治天皇は南朝の子孫であるっていうふうにしたんですね。
そうすると当然南朝型の大将は誰だったのかっていうとニッタだ、吉田だなんですよね。
っていうので徳川の一門であって押し抜けられるはずだったんだけれども、
今度明治政府からはあなたの先祖はあのニッタ、吉田だ。
この南朝今の皇室に連なる明治天皇の先祖を助けたあのニッタ、吉田だの一門は大切しなきゃいけないって言われて、
今度は明治政府から借位を授けられてまた貴族みたいになっていくんです。
一方で足利はもう逆族の逆族ですよ。
その北朝は逆族っていうふうにされちゃったから、
明治政府は足利尊氏ってのは天下非道の極悪人だっていうことになっちゃって、
足利は全然レッテルを張られて大いにけなされていってしまって、
戦前の歴史とか足利尊氏はもう極悪人の象徴みたいになっちゃうっていうふうなことがあって、
歴史の史実の勝者としては尊氏のはずなんですよ。
足利というものはその後ニッタを押し抜けて室町幕府を天下を一回は手にしたわけだから。
けどその大いなる力大いなる時代を見ていくと、果たして歴史って何なんだろうっていうふうにもはや思うようになる。
確かにな。
いやーなんか大田は何か守られてるのかなっていう気になるね。
不思議な金山城下も何か守られてる感じがするし、ニッタも何か守られてる感じがするし。
不思議だなあ。
そうなんですよ。
当然高氏と吉佐田はね、自分の子孫たちがこんなことになってるなんてら守備もしないでしょう。
結果的に日本の歴史の中でこの渡瀬川っていう川一本を挟んだ足利とニッタっていうのは、かくも不思議な因縁とね、
大いなる目に見えない力なのか権力っていうものに常に利用されたり敬われたりっていうので、
いろんな数奇の運命をたどって今に語り継がれている。
足利とニッタの因縁
ただその二人はあくまでも同年代で渡瀬川一本挟んだただ対岸の武士だったんですね。
実際これ1990年代の初頭に真田博之さんが主演で足利高氏なんですけど、
大兵器っていう大河ドラマをやったんですよ。
その時にその最初の場面とかで、やっぱり宿命のライバルにある足利とニッタってことを印象的に描くために、
渡瀬川を渡って足利高氏がニッタ・吉佐田の領地に忍び込む場面があるんですね、子供の高氏が。
そこで何をしに行ったかと言うと、ニッタの領内にあるとある神様が大事な祠があって、
そこにはとんでもない神様がいるんだと、みんな大人が言っていているかも。
けど高氏は絶対嘘に決まってるよみたいなことを言って、その神様見てやろうぜっていういたずらをしに行ったんです、子供の時に。
で、祠を開けてみたら、そこにあったのはただの一枚の木屑だった。
みんな神様神様手を合わせてるゴージャーなものがあると思ったら、ただゴミみたいなものが一本あるだけだった。
それを吉佐田が見つけて、高氏のことを戦って追い討ってして、
なんであの生意気なガキ大将を割ってお互いのことをライバルとして認知するって場面があるんですよ。
高氏は裁判員になって、自分の弟を毒で殺しちゃうのね、目の前で。
これ事態があった話なんですけど。
ただ吉っていう男とか高島正信さんがやってるんですけど、
死ぬ時に高内は自分の入れた毒をただ吉が飲んでいくのを見て、
両親の過酌に耐えられなくなって、めっちゃ涙をこらえながら、
途方まで思い出話をめちゃくちゃにし始めるのね。
その時にその話をするんですよ。
昔に行ったら吉佐田のところに行ったよなみたいな。
あの時の機嫌ってマジでなんだったんだろうねみたいなことを慌てて言い始めるんだけど、
ただ吉はそこに毒でバタって倒れるのね。
それで我々の見たこの人が神様として上回っていたものとか、
権力って一体なんだったんだろう俺たちの人生はってことを語りながら、
ただ吉は涙を流しながら毒を、もう自らわかって毒を飲んでるんで、
死んで高内もなんでこんな弟を殺すような運命にあったのかってことを泣きながら、
やって最終回を迎えるんですよ。
だから、それはドラマの演出ではあるんだけど、
吉佐田はもう特に死んでます。
っていうのを考えて、
あとその日太一族と足利一族のこの因縁と権力のことを考えると、
この神隠しっていうのはある意味そのことをちょっとイメージしてて、
足利と日太がね、たぶんそれぞれの生理と思って信じた家だったり、
主君だったり、天皇とか国とかってものって、
一体歴史って何なんだろうっていうことを、
この二人ほど思い知らされる人はなかなかいないんですね。
この七夕の夜、渡瀬川っていうある意味天の川に連なるようなこんな川の端向かいで、
足利と日太っていうのは永遠のライバルとしてお互い最後は戦って、
吉佐田は死ぬわけなんですけれども、
それぞれの信じた神っていうのは結局いたんだろうかっていう、
そんな気持ちにもさせられる、
歴史って本当なんだろうねっていうところも、
この二人の生涯をね、
渡瀬川ってものが挟みながら、
こう流れていったっていう、
そういったこともあったりします。
運命の話
なんか歴史っていうもの以上に、
なんかこの世界とか、
世界とかね。
なんかそういうものを考えさせられるというか、
そうなんですよ。
で、それに照らし合わせて自分の人生とかをちょっと考えたくなるような、
そうなんですよね。
話だね。
で、この時さっき雑談でも話しましたけど、
僕この戦神社とか行ってた時に、
もう感極まってたんですよ。
その前日、後輩のご家族にもてなしていただいたとかで、
もう半端なくいろんなエモーショナルな気持ちになっていてですね。
で、吉田のこの捧げている像を見ていたら、
ちょうど夕暮れで夜になっていく場面だったんですけど、
このインスタの投稿があるんですが、
これがその時実際撮った写真なんですけど、
真っ青な青空に、
言ってたこの剣を捧げてますね。
これが本当にもう左の方は夜になっていってるんですね、この時。
もう夕方が終わっていって、
遠くに野焼きの煙とか立ってすごいノスタルジックな、
あの秋の夕暮れだったんですけど、
その時この吉田が捧げる剣の先が夜になっていってるわけなんだけど、
そこにこう白い星がね、夜空から急に現れ始めて、
で、一方でそのこっちの昼になっている方は、
そこに星はまだ現れてなかったんですね。
夜の方になったところだけ星が現れているっていうのを見た時に、
そのなんかエモーショルな気持ちになってたのと、
吉田のこの場面と太平地のいろんなことを考えていた時に、
なんかそれが本当にまるでこの歴史のように、
つまりもし星がその吉田と高橋のことなんだとしたら、
昼と夜っていう大いなる力が働くことによって、
その昼の間隠れていたものが急に夜になると現れあたりとか、
っていう大いなる力の働きによって、
なんか照らされているだけのような、
この二人の権力者たちの数奇な悲しい運命を思うとね、
っていうのもあって、すごくなんか個人的に印象深い話で、
インスタにはそんなことをちょっと書いたりもしたんですけど、
っていうのがね、この新瀬川っていう川を挟んで、
運命というものをね、いろいろ感じさせるね、
二人の物語なんですね。
なんかこれも漫画とかになりそうだ。
なんか不思議な話だね。
ということで、次回は雑談会ということで、
前の雑談会はちょっとポッドキャストアワードの話、
あとはマスターアワードの話しましたけど、
実はもう一個イベントに僕行ってたんで、
そうなんですね。
そうなんですよ。
それの話をね、ちょっと次の雑談会はしようかなと思います。
はい。
ということで、今回はこの辺でありがとうございました。
ありがとうございました。
01:21:35

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